さよならはいらない
イヤホンの片方を唐突に引き抜かれて、スタジオには俺の情けない声が響いた。反対側からは絶えず音が流れていて、歌声に被さる歓声が鼓膜を突く。
「なに見てんの」
パソコンの画面を覗き込むれおくんの眼には、揺れるサイリウムの光が反射していた。会場全体を真っ赤に染めるそれは、俺たちではない別のユニットによるものだ。
あいつは奪った片方をおのれの左耳に挿す。引き抜いたのは右耳側なのだが、細かいことは気にしていないようだった。
「この前のライブ」
広報用に映像まとめたいんだってさあ。すっかり炬燵の温度に染まった足指が暖かい。つい丸くなってしまう背中を伸ばす。
「ていうか、蓮巳があんたのこと探してたよ」
「お? なんか言ってた?」
「なんかじゃないし。あんたの代わりに俺がこれ受け取ったんだからねえ」
規定は無いが、こういった作業はユニットの長に一任されている場合が多い。れおくんは確かに俺たちの長だけれど、期限などにうるさい仕事は向いていないと蓮巳も理解しているのだろう。一応探したがいなかった、と嘘か本当か分からないような理由を付けて回って来るそれらは、もはや俺のこなすべき役割として認識されている。特別苦に感じてはいないから、毎度引き受けてしまうのだが。
当のこいつといえば、それは悪いことをしたなあ、と言葉とは裏腹な表情で言う。そもそもこいつが神妙な顔で謝罪などしてきた日には、ここら一帯が猛烈な吹雪に襲われるに違いない。仕事の締切とかどうしてるんだろうね、こいつ。依頼先を泣かせていないといいけれど。
「ほかの三人は?」
流れ続ける映像に視線を逸らすことなく、れおくんは俺に問う。こいつはこのユニットを見るとき、いつも同じ目をしている。まるで定めるような、もしくは闘争心をその奥で密かに燃やしているような。本番の日、舞台袖でステージモニターを確認しているときもこんな目をしていた。ここのユニットの長とは仲が良いのか悪いのか、日頃おのれたちの信じる感性をぶつけ合っている姿をよく見かける。宿敵の動向を見落とすまいと、まばたきさえも忘れてあいつは画面に食いついていた。
「何言ってんの。今日練習ない日じゃん」
「わはは、そうだっけ。曜日感覚がないんだよなあ、おれ」
よいしょ、と完全に腰を下ろしたれおくんは、俺のとなりに入り込もうと炬燵を捲る。四方にそれぞれひとりずつ入れるよう作られているこれにふたりで入ろうだなんて、無謀なことを考えるものだ。腿が机の足にわずかに食い込む。パソコンもちょうど分け合うように移動させて、あいつは俺にぴたりと身を寄せた。
「ちょっとお。そっち行ってよ」
「えー。おれも見たいし」
言いながら机の上に積まれた蜜柑に手を伸ばす。迷うことなく一番上の橙を手に取って、逆さまにした中央に親指を突き入れた。親戚の家から送られてきたから、となるくんがお裾分けしてくれた蜜柑だ。大ぶりで、皮が薄いのが特徴であるらしい。
そうしているうちに、客席の色が一気に青に変わった。ほとんど悲鳴に近い歓声に迎えられて、舞台には俺たちが現れる。ば、と一瞬照った光が、そういえばとても眩しかったことを思い出した。
パソコンの横に放られた蜜柑の皮。れおくんはそこに剥がした白皮を乗せながら、静かに舞台の始まりを見つめている。
こうして客観的に見ると、やはり粗が目につきやすい。視覚的に言えば立ち位置のずれが特に顕著で、聴覚的に言えば歌だ。前回挙がった反省を生かしたつもりでいても、また同じだけの反省点が次のライブで出てきてしまう。完璧を目指そうとするほど、完璧からは遠ざかる。その一方で完璧とは死だ、とある科学者は言っていた。アイドルも一緒なのだと思う。完璧な舞台には意味がなく、完璧を求めることに意味がある。
「歌うまくなったよなあ、セナ」
蜜柑をひと粒ほおばりながら、れおくんは言った。映像のなかのこいつは今ちょうど客席を指差して、右目をぱちりと閉じたところだった。あいつはいつもここで同じ仕草をするから、既にお姫さまたちは分かっていたのだ。それでも上がる大きな歓声に、となりのこいつは微動だにしない。
「どうもねえ」
「ひひ。スオ~緊張してる」
「れおくんだって最初はそうだったじゃん」
自ら言っておきながら、そうだっただろうかと探る二年前の記憶に、舞台袖で震えているようなあいつはいなかった。こいつはずっと、誰よりもアイドルであることを楽しんでいる。アイドルになるためには、アイドルでいるためには、必要不可欠な要素だ。才能じみたそれを、こいつは最初から持っている。
そうだったかなあ、ととぼけるような声に、俺は頷くことをしなかった。
「セナも食べる?」
「いらない」
「はい、あーん」
閉じた俺のくちびるに、冷たくやわらかな実が触れていた。仕方なしにすこしだけ開けば、あいつはそれを遠慮することなく口内に押し込んで手を引く。酸っぱいような甘いような。咀嚼して舌先に触れた果汁は、俺が好ましいと思う蜜柑の味をしていた。
おー、すごい声。舞台上に設置されたモニターに、客席へウインクを投げる俺が大写しになっていた。れおくんはまるで他人事のようにそう言って、手元の蜜柑をひと粒毟る。ふたたび食べるか、と問われたので、俺は口をかたく閉じたまま首を振った。
「でもそんなセナくんは、おれにあーんされて喜んでるようなアイドルだもんなあ」
「はあ? 喜んでないから」
炬燵のなかでその脚を蹴る。がたん、と机ごとパソコンが揺れて、積まれた蜜柑の山が崩れた。ひどい、と俺の腕に頭突きをしてくるものだから、今度は両手でその頭をぐちゃぐちゃに乱してやった。舞台に立っているこいつはこんなにも輝いているのに。泣き真似をしながら髪を整えるこの男と、まさか同一人物であるとは。同じユニットに属する人間から見ても、少々信じがたいものがあった。
会場にはうっちゅー、と機嫌よく挨拶をするあいつの声が響く。思わず顔を苦くすると、画面の向こうにいる俺もまったく同じ表情をしてれおくんのとなりに並んでいた。