さよならはいらない
ホームルームのさなかに書き進めていた日直日誌は、残すところ反省の欄を埋めるのみとなった。前の頁も、さらに前の頁も。この数行の空欄を真面目に記入しているクラスメイトは居ないように見える。購買の季節限定商品が美味しいですよ、とただの報告じみたそれの傍に、担任の確認印が押されていた。
黒板の掃除と戸締り確認と、時折教科担任から頼まれる雑用等の仕事に、反省すべき点などあるわけがない。来週は最寄駅近くの大きな施設で他ユニットと共にライブを行う予定であるから、その宣伝でもしておくべきだろうか。担任に告知したところで、大した効果もなさそうだが。
「そういえばおれ、結構前に免許取ったんだけど」
かさかさと、紙が擦れる音が聞こえる。放課後の教室に居るのはとなりのクラスであるはずのれおくんと俺のふたりだけだった。一緒に帰ろう、とホームルーム終了と同時にこちらへやって来たこいつは、それからずっと俺の前の席に腰掛けては実のない会話を繰り広げている。靴を履いたままの右脚を椅子に乗せて、すっかり我が物顔である。明日守沢に会ったらひと言謝っておこうと決めた。
「車?」
「そう。いいだろ!」
こいつに運転免許を交付してしまうだなんて、警察は恐れというものを知らなさすぎる。追試さえ苦戦しているはずのこいつが、試験に合格などできるはずがない。思わず怪訝な表情をしてしまった俺だが、れおくんは気付くことなく何かの用紙を折りながら言った。
「このあいだそれでルカと買い物行ったから、セナも今度どっか行こ」
グラウンドから、部活動に勤しんでいる生徒の声が聞こえてくる。今日は部活に参加しているらしいなるくんの声も、きっとこの喧騒のなかに混ざっている
しかし随分投げやりな提案だ、と思う。頷いたとしても、成し遂げる機会を作れないまま結局曖昧になってしまう類のそれだ。頻繁に約束をすっぽかすくせに、よく言ってくれる。その部分に関してあいつをまるで信用していない俺は、故に三年間で一度もあいつと休日にどこかへ出かけるようなことをしなかった。
そもそも、どうしてこいつは突然一緒に帰ろうだなんて言い出したのだろう。こいつは徒歩で、俺はバイクで通学しているのだから、普段だって肩を並べて帰ることはしない。余程天気が悪い場合は別だが、最近は積もっていた雪をすべて溶かしきるほど陽射しのあたたかな日が続いている。意図して帰宅を合わせるという行為は、俺たちの常には存在しないことだった。
「まだ死にたくないんだけど」
「失礼だな! わりとうまいんだぞ、ブレーキとか」
ルカだって褒めてた、とれおくんは誇らしげな様子で語る。まだ運転の良し悪しも分からない子の評価なんてねえ。俺もバイクの免許を取るときに道路交通法についてはひと通り学んだけれど、あいつと俺の理解したそれが同じものだとは到底思えなかった。赤信号も青信号も、黄信号も。こいつはすべて気まぐれで通過してしまいそうな気さえある。
「いつ取ったの」
馬鹿だと思っていたやつが、知らないあいだに運転免許を取っていて驚きました。まさかこんなくだらないこと、日誌に書くわけにはいかない。
「夏ぐらい? みけじママが運転してていいなーって思ってさあ」
学校に来ないと思っていたら、こいつは裏でそんなことに時間を費やしていたらしい。ふうん、と相槌を打ちながら、俺はシャープペンシルを走らせた。今日は欠席者が目立っていたので、来週のライブを無事に終えられるよう体調に気を付けたい。しっかりと句点まで付けて、書き漏れがないかを確認する。閉じた表紙は随分草臥れていて、表紙と裏表紙を繋ぐ黒い紐も枯れた蔦のように萎びていた。あとは戸締りの確認をして、日誌を職員室に返せば役割は終わる。
「ていうか俺バイクで来てるから、一緒には帰れないよ」
既に磨かれた黒板は、どうしても外せない仕事があると足早に帰宅したもうひとりの日直の手腕によるものだ。六時間目の終了直後に丁寧に拭かれたそこは、もう乾ききっていつもの深緑色を取り戻している。端には明日の日付と日直の名前が力強い筆跡で記されていた。
れおくんはふふん、と鼻を鳴らすように笑う。
「約束。忘れたとは言わせないぞ」
立ち上がったあいつの手には、一機の紙飛行機が収まっていた。たったそれだけの手荷物しかないという身軽さで、椅子も仕舞わずに扉まで歩いていく。
約束って、なんだっけ。鞄を片手に。日誌を脇に。身に覚えのないその言葉について思案しながら戸締りを確認していく。あいつは待ちきれないといった様子で俺を呼んだ。
「うるさいなあ。ちょっと待ってよ」
振り向いた俺の目前に迫る白い機体。思わず避けると、窓にぶつかったそれは床に落ちて裏返しになった。なにこれ。ただの紙飛行機じゃん。拾い上げたついでに、引かれたままの椅子を仕舞う。先端がひしゃげてしまったそれには、赤い丸がいくつもついていた。先ほどのあいつは答案用紙を折っていたらしい。
わはは、と廊下から響く笑い声を、紙飛行機の折り目を解きながら聞いた。第五回追認試験英語。三年B組一四番、月永レオ。あらわになっていく文字はどこか歪で、それなのに筆記体だけは手慣れているかのように流暢に綴られていた。
早く、と急かす声は徐々にちいさくなっていく。すっかり元の姿に戻された皺まみれのコピー用紙。右上には百、という赤文字がひたすらに強調されていてやかましい。
×××
「あんた、カンニングとかしてないよねえ」
駐輪場へ赴くさなかにそう問えば、れおくんは失礼なセナだな、と言って顔を顰めた。重たげなブーツがアスファルトをぼこぼこと打つ。噴水から流れ出る水が、今日の寒さを視覚的に助長していた。
「喋れるんだから書けないわけないだろ」
「だったらもっと早く満点取ってきなよ」
右手に収めていたバイクの鍵を宙に放る。巻きつけたマフラーの隙間から寒風が入り込み、ついフリンジ握り締めた。
賢いのか馬鹿なのか、まったくよく分からない回答だ。しかし分からないからと言ってこいつを後者だと思い込むのは、見当違いのようにも思えてならない。学校という堅苦しい組織の規則は、生徒を凡人に矯正するためにあるのだから。そんな枠組みから逸した人間を笑う俺たちのほうが愚かで、それに染まろうとしないあいつの方が実は正しく、賢いのかもしれない。馬鹿という方が馬鹿だと、れおくんはよく言う。そんな子どもじみた挑発の真理を、今更になって考えてしまう。
「簡単に言うなよな。おれだって湧き上がる霊感と戦いながらやってるんだからさあ」
並んで歩いていたというのに、気付けば俺はれおくんの背中を見ている。背は俺の方が高いのに、歩幅はこいつの方が広いのだ。セナのバイクはどれだ、と並ぶ二輪車のあいだをうろうろしながら進んでいく姿に、俺はあることを思い出す。
「れおくん」
「んー」
「ヘルメットひとつしかないんだった」
俺のバイクはいつだってふたりで乗れる設計をしているけれど、ふたりで乗れる装備は整えていない。予め言っておいてくれれば、以前使っていたものを家から持ってきてやったのに。
それを聞いたれおくんは、一瞬しまった、と大仰に一歩引いてみせたのちに何かを思いついたのか、ちょっと待ってて、と言い残して校舎へと戻ってしまった。俺が先に帰ってしまうことを疑ってもいないらしい。その約束をしてしまったのは俺だから、反故にするつもりもないのだが。
バイクは駐輪場入口の端に停めてある。向かえばもちろん黒い車体はそこに居て、自転車ばかりの空間でひときわ存在を示していた。ハンドルに引っかけておいたヘルメットを取り、あいつが座れるよう後ろに括りつけた荷物用のベルトを外す。鞄はあいつに抱えてもらえばいい。手荷物が少なくて良かった、と思う。外観を重視してリアボックスを取り付けていないから、このバイクには収納がないのだ。
夕日に照らされた横顔がほのかにあたたかい。タンクには焼けた空の色が落ちているけれど、触れてみればよそよそしく、ぬくもりを分け与えてくれることはなかった。
そのうちにあいつはどこから持ってきたのかヘルメットを小脇に抱えて現れた。じゃーん、と掲げられたそれはこのバイクと同じく黒色をしていて、割れもへこみも見当たらない綺麗なものだった。
「どこから持ってきたの」
「軽音部覗いたらレイがくれた」
「なんで朔間?」
「バイク持ってるやつのとこ行って聞いたから」
これがセナ号かあ。引き出したバイクを見つめる眼には期待が滲んでいて、たかがふたり乗り程度のどこにその要素があるのか甚だ疑問だ。後ろに乗るように促せば、れおくんは慣れたように手際よくシートに腰掛けて、脚をふらふらと揺らす。
「だっさい名前つけないでよねえ」
あとちゃんと脚締めて。腰掴まないと落ちるよ。言いながらその胸に鞄を押し付ける。あいつの腕はそれごと俺の身体を抱き込むものだから、上がったままのシールドが背中にぶつかって痛かった。
「セナの背中は良い心地だなあ」
「ちょっと! 事故るってば。卒業前に死にたいの?」
ヘルメット越しにれおくんの頭を叩いて引き剥がす。あいつのシールドを下ろして、その腕を腰に回させた。まるで逆効果とはしゃぐこいつを見ていると、まったく馬鹿らしくなってくる。膝の位置まで指定したというのに、まだふらつく脚でバイクが揺れて落ち着かない。防寒用のグローブを嵌めているとき、れおくんはもう卒業かあ、とため息をひとつ挟んだのちに言った。シールド一枚に阻まれた声はどこか遠い。
「なんか最近、卒業するの惜しくなるんだよなあ」
背中にふたたび硬いヘルメットが触れる。腰の前で組まれた指の先が、寒さで赤みを帯びていた。そこからあいつが今抱いているらしい物寂しさが伝わってくるようで、グローブを嵌める手を思わず止めてしまう。
言葉にすればより現実味を帯びてしまうから、口には出さないようにしていたというのに。俺がそんなことを口走った日には周囲の困惑と不安を誘うに決まっているから、思っていたとしても顔には出さないと決めていた。
言動は理解に苦しむものの、こいつは誰よりもやさしいやつなのだということを知っている。そんなれおくんだからこそ、俺とはすこし違う意味で別れの日を惜しんでしまうのだろう。俺は愛着を抱いて弱くなってしまったし、れおくんは愛着を抱かれて仲間という言葉を覚えてしまった。しかしそれは不為なことではなく、結局人間はひとりでは生きることができないのだという、ただそれだけの話でしかないのだ。
アクセルを右手で握り込む。グローブの革が擦れてちいさく鳴いた。
「卒業したらさあ」
こいつがひとつの区切りを惜しく思っているのなら。その区切りの先にひとつくらい変わらないものを授けてやることが、俺自身へのせめてもの慰めになるのではないかと思う。別れの日まで悔いのないようにと過ごしてはいるけれど、俺の悔いは過去にばかりあって、今更どうすることもできないものが多いから。そのひとつはちょうどれおくんという形をしていて、今も俺の背中に張り付いて離れようとしない。
これがあいつにとって何になるのかは分からない。区切りとは別れではないのだということを、俺はあいつに伝えたいのかもしれない。
「いいよ。あんたの車乗ってあげても」
言えば途端に弾けたような声が上がって、車体が激しく揺れ動く。サイドスタンドを立てていなかったら、きっとバイクごと転倒していた。れおくんのブーツが俺の脹脛を蹴った。
「ほんとか! どこ行く? 宇宙の果て?」
五人で旅行に行くのも悪くないな、と考える俺に、あいつは突拍子もない行き先を被せる。まだ死にたくはないな、と思いながら、俺は鍵を回してキルスイッチを押した。エンジンをかければ、れおくんはようやく大人しくなってステップに足を乗せてくれる。あいつの膝が俺の腰を挟んでいることを確認して、ブレーキレバーを握った。
「俺は海外がいいかなあ」
「それもいいな! まだ行ったことない国に行こう!」
駆動音が響くなかで、機嫌の良さそうに鼻歌を歌うあいつの声が聞こえ始めた。その断片を耳に捉えながら、俺はサイドスタンドを払う。落っこちないでよねえ、と振り返れば、れおくんはおー、と笑いながら拳を突き上げた。
来年の今頃、俺たちはどこにいるのだろう。
天才のこいつが手の届かないところへ行ってしまったとしても。努力の天才である俺が、いつでもどこでも、あいつから見えるところに行けばいい。