さよならはいらない
とん、と床を蹴る二足。右へ左へと揺れる動きに合わせて、上半身が波を打つ。ワンエン、ツーエン。声と手拍子に合わせて、振りは表情を変えていく。きゅ、とフローリングが鳴った。ぐんと引き寄せた脚に、短い髪が揺れる。表情が硬い。左にいるそいつの眼を、鏡越しに見て思った。片や右のもうひとりはまったく涼しげな顔をして、複雑な腕の動きを解いている。響く手拍子の隙間から聞こえてくる鼻歌が、あいつの余裕を物語っていると言えた。
ワンエン、ツーエン。
振りはまだ終わらない。左右の立ち位置が入れ替わったその瞬間、鏡のなかのそいつと、れおくんと目が合った。あ、とそこに映る俺を指さして、ぱちりと片方の目を閉じて笑う。唐突に異なる動きを組み込んだあいつにかさくんは一時まごついたけれど、れおくんは気にも留めない。変わらずに好き放題跳ねながら、一度見ただけだったはずの振りをこなしていく。
きっと、ライブに来てくれたお姫さまたちなら喜んでくれたんだろうね。ああいうのは。残念なことに俺はあいつと同じくパフォーマンスをおくる側なものだから、癖のように眉を顰めて不快を露わにするふりをした。
スオ~、表情硬いなあ。そっちこそ、勝手に振りを変えないで下さい。飛び交う声を聞きながら、黒い丸を五つ浮かべたノートに視線を落とす。本来の仕事を忘れてしまうところだった。どこまで考えていたか、とシャープペンシルの尻で顎をつつく。
そして冷えた何かが唐突に右耳を塞いだものだから、ちいさく悲鳴を上げてしまった。見上げれば、そこには両手にペットボトルを持ったくまくんが立っていた。水滴のついた耳介を右手で拭う。驚きすぎ、とそいつは俺の前に二本を掲げてみせる。
「どっちがいい?」
「俺が炭酸なんて飲むわけないでしょお」
ふたつの無色透明の液体。ラベルを見れば、違いはすぐに分かる。左手にさがる一本を取ると、くまくんはせいかーい、とまこと気のない声を上げた。正解もクソもないし。となりからは勢いよく空気の漏れる音が聞こえた。一拍遅れて、俺も蓋を捻る。
「あれ、もう休憩終わりだっけ」
フローリングの上に置かれたペットボトル。しゅわしゅわ、と上る泡が弾けていくさまを見た。炭酸の何が美味しいというのか。健康面でもそうだけれど、同じ無味であるならば、比べるまでもなく俺は水の方を選ぶ。
「休み明けに試験なんだってさあ。かさくん」
「へえ。大変だねえ」
頑張れー、とくまくんは左手を拡声器の形にして、ふたたび踊り始めたかさくんに声援を送る。そのちいさな声は、なるくんの手拍子とカウントに容易に掻き消されていた。ワンエン、ツーエン、スリーエン。いいな、あの動き。歌うことに支障はなさそうに見えるから、振りと振りの繋ぎに用いてみるのも良さそうだ。となりで躍動するれおくんを見ながら、修正が必要な構成部分を浚う。
だん、と踏み込む足が、床をかすかに揺らす。振動を受けて水の表面が波紋を描いた。
『王さま』、楽しそう。くまくんは鏡の前で踊るあいつを見ながら呟く。垂れ下がるパーカーの紐を捩った。楽しくなければ、あんな風に笑ったりはしない。
「ちゃんと起きてるとか珍しいじゃん」
寝ぼけた眼も、寝癖も。今日のくまくんはどこかへ置いてきてしまったらしい。反射する照明が艶やかな黒髪に光の輪を作っていた。髪型も相俟ってか、やたらに丸こい形をした頭だ。ためしに手を添えてみたくなるような。くまくんの頭はいつだってつるりとしていて、そのなだらかな曲線は目を惹きやすい。
「偉いでしょ。最近の俺は真面目なの」
真っ赤な瞳を細めて、甘えたような声を出すところはしかし、変わっていない。
刻一刻と、スマートフォンの画面に映し出された時間は減っていく。八分一四秒。三、二、一。休憩終了のアラームが誰にでも届くように、音量ボタンを最大まで押し込んだ。
五つの黒丸のうちのひとつを、ぐるりぐるり、とシャープペンシルでさらに塗り潰す。『王さま』さあ。キャップに人さし指を乗せて、ペットボトルを躍らせながらくまくんは言った。
「いつのまにピアス開けたんだね」
ひと回り分だけ面積を増やした黒丸。ぐるり、ぐるり。フローリングの上を回る透明容器を横目に、俺はああ、と相槌を返した。
「別に、珍しくもないでしょ」
あいつが身体を翻すたびに髪が靡いて、飾りの埋まった耳朶があらわになる。小指の爪先ほどの、ちいさな金色の飾りだ。別に珍しくもない。ピアスを開けるという行為も。今月の初旬から付け放しの簡素なあのピアスも。両耳の穴を作ったのは俺だけれど、敢えて口にすることでもないように思えた。
くまくんはふうん、と息を吐くついでのような声を落とす。だらりと伸ばし切った脚。爪先と爪先が一定の間隔でもって合わさる。
「さすが。気付くの早い」
「あんたが遅すぎるの」
一旦休憩ー。告げながら鏡の前から退いたあいつに、ずるいですよ、とかさくんは食い下がっていた。休むときは休んでくれないと、本当は困るんだけど。残り七分にも満たない休憩時間なんて、休憩とは呼べない。
不満を隠さないかさくんを諌めたのは、意外にも気だるげに身体を投げていたくまくんだった。唐突に立ち上がったそいつは、じゃあ俺が受けて立とうかなあ、と語尾を浮つかせる。目の前を気泡の混ざる液体が通り過ぎていった。入れ替わるようにやって来たれおくんは、喉乾いた、と練習着のシャツを煽る。
「これ飲んでいいよ」
「おお! セナが優しい!」
じゃあ遠慮なく貰う。そしてあいつの手が、すこしだけ中身の減ったペットボトルを浚っていった。俺はいつだって、誰にだってやさしいつもりだけど。れおくんは水をひと口分だけ煽ってから、礼とともに手渡しでそれを返してくれた。
「なにこれ。何やってんだ」
履き潰された黒いスニーカーが目に入る。練習履きとしてよく見かけるその靴は、室内でのみ用いられているおかげか汚れは少ない。一方で歪にすり減った靴底は、あいつが踊ることを楽しんでいるという証明だ。靴を壊して、仕方なく上履きで踊っている姿を見かけることもある。
れおくんは俺の正面に胡坐をかいて腰掛けた。髪ゴムを引き抜いて、結わいていた髪を解く。まとめ直そうと指で梳くたび、金色の粒がちらちらと覗いた。
「振りの構成考え直してた」
「へー。どの部分?」
「最後の間奏のとこから」
俺の頭のなかにはずっと、曲が流れている。ついこのあいだれおくんが作ってくれた曲だ。出来たばかりだと披露してくれたピアノの旋律ではなく、打ち込みで作られた新しい命。あの日聞いた音のひとつひとつを、もう正確には思い出せないことが惜しい。愛おしく鍵盤に触れるあいつの姿なら、鮮明に浮かべることができるのに。
ただ握っていただけのシャープペンシルが引き抜かれて、れおくんの左手に収まる。こいつのペンの持ち方はすこし奇妙だ。だから薬指にできるはずのない胼胝ができる。ノートの余白に伸ばされていく直線。既に知り尽くしたその仕草に、俺は決められたように小言を零す。
「ちょっとお。落書きしないでくれる」
れおくんはおのれの鼻歌に身体を揺らしながら、引いた五本の線の上にちいさな音符を置き始めた。これがただの落書きではないということを、俺が一番よく知っている。それでもやはり、悪戯と間違われても仕方のないちいさな殴り書きだ。腿の上に頬杖をつきながら、端の皮が剥けたあいつの親指を見つめる。
「おまえのおかげで、また名曲が生まれたぞ」
「あ、そお。どんな?」
「セナにファンサービス無視されて悲しいの曲ー」
わはは、と走らせるペン先は止まらない。狭い空白にぎゅうぎゅうに詰め込まれた音が、その窮屈さを訴えるようにはみ出ては踊っていた。スタッカートの符号がひたすらに与えられたそれらには、あいつが口にしたような悲しみは窺えないように見える。どちらかと言えば喜んでいるようにも思えるし、音の言語を操る方が得意なこいつの場合、譜面に落とされた感情の方がきっと正しい。この学院の誰よりこいつとは長く居る自負はあるけれど、それとこいつに対する理解の度合いはまったくもって比例しない。何故こいつが嬉々としているのかなんて、俺には知る由もなかった。
そういえばさあ。先ほどまとめ直していたはずなのに、れおくんの髪の分け目はいつもでたらめだ。垂れたこうべを見ながら、俺はうん、と言葉の続きを促した。
「『我が主たちよ』、とかどう?」
きり、と目つきを鋭くさせて、芝居がかった口調でこいつは言う。不摂生の権化のような存在なのに、弾力のありそうな真白い肌が俺の眼には憎らしく映る。
「なんの話」
「結構前に一緒に考えただろ。お姫さま以外のファンの呼び方」
スマートフォンの画面に視線を移しながら、そんな話をした気がする、と記憶をすこし遡った。残りは五分を切っている。いつの間にかなるくんのカウントも手拍子も止んでいて、あちらはあちらで固まって談笑をしているらしい。結局この休憩時間で、手元のノートには俺のものではない筆跡の落書きが増えただけだった。そうだ、あの時もあいつは、ノートを五線紙の代わりにして何か曲を書いていた。
「あったねえ。そんなこと」
「そうそう。さっき思い付いたんだよなあ」
後れ毛をぐるぐると指で捻ると、すっかり赤みの引いた耳朶が顔を出す。昼休み。短い演奏会に誘われた日の放課後。結局俺はふたたびおくんに連れられて、立ち入り禁止のはずの音楽室であいつの耳朶に穴を作ってやった。朝に駅前の薬局で買ったのだ、とブレザーのポケットから取り出した未開封のちいさな器具を使って。
意図的に身体へ傷を刻もうとしているというのに、こいつはいつものような飄々とした態度を崩さなかった。大役を押し付けられた俺の手の方が冷えてしまって、そんな些細なことにもこいつは極めて明朗に笑っていたのだ。怖がることも、痛がることもせずに。妹から貰ったというピアスの写真をあまりに嬉しそうに見せびらかすものだから、そんな兄の顔をしたあいつに、俺は良かったねえ、とそれだけを言った。今度のライブで着る衣装によく似合う、青い石のついたピアスだった。
お姫さまの、反対語。王子さま。騎士。同志たち。あとはなんだったっけ。既に挙げられたいくつかの言葉より、れおくんが思い付いたというそれの方がより近しいように思う。けれどあいつはその思い付きに対する特別な反応を期待してはいないらしい。あいつの視線はまだお手製の五線の上を這っている。いまのれおくんにとっては、生まれた名曲とやらをどう締めくくるかのほうが大切なのだろう。
呼び方なんてさあ。俺は穴のないおのれの耳朶を指で撫でた。押して、曲げて。どこまでも柔軟に折れるやわらかな肉の感触を密かに楽しむ。
「なんでもいいんじゃない。全員お姫さまでも」
書き記したひとつの四分音符に、れおくんは襷印を加えた。消しゴム、シャーペンのうしろに付いてるよ。滑りそうになる口を意識的に引き結ぶ。勝手に落書きをするな、と小言を垂れてしまった口だ。世話焼きとしてのおのれのさがが、つい表に現れそうになる。
「そんなもんかあ」
「好きなアイドルが格好良く呼んでくれるなら、呼び方なんて関係ないんでしょ」
ふうん、とこいつは呟いて、ノートから顔を上げた。切れ長の吊り上った瞳に唐突に射抜かれると、呼吸がぐう、と詰まるような感覚を抱く。言動はいっとうに奇妙であるのに、その瞳には普段の気ままなさまとは裏腹な意志を感じるときがある。
れおくんは器用に右目だけを閉じると、お姫さま、と俺に微笑みかけてみせた。まるで星がひと粒零れそうな、艶やかなウインクだった。お姫さまたちは皆、こいつのこの仕草に騙されがちだ。恐らく妹ちゃんも。俺は本性を知っているから、騙されてなんかやらないけれど。
「は?」
「あれ。嬉しくなかった?」
できた、とれおくんはシャープペンシルをノートの谷間に置く。そのときちょうどスマートフォンの画面に零が並んで、レッスン室に休憩終了の合図が響いた。
眉根に皺を寄せると、しかしこいつは満足したようにへらりと笑う。だから、どうしてこいつは俺が怪訝な反応を見せると喜ぶような素振りを見せるのか。俺の好きなアイドルはれおくんだなんて、一度も伝えたことはないのだが。
俺はシャープペンシルを巻き込んだまま、悪戯が施されただけのノートを少々乱雑に閉じた。
まあ別に、嫌いでもないけどさあ。