さよならはいらない



その日すべきことがどれだけ残っていようと、日付が変わる前には必ず眠りに就かなければならない。それは俺がおのれ自身に与えた規則のひとつだった。
電気を消してもいいかと尋ねれば、聞いているのかいないのか、れおくんはううん、とまこと曖昧な言葉を返した。サイドボードに備えられたメモ用紙とペンを手にして、寝転びながら落書きをする子どものような体勢で何かを書き留めている。つい先ほどまでベッドに仰向けになってぼんやりしていたはずなのに。
仕方なしにテーブルランプを灯した。闇のなかで目を凝らしながら作業を続けるれおくんの姿がありありと浮かんでしまって。なんとなく放っておくことができなかっただけだ。
静かに暖風を吐き続ける空調機器の電源を落とす。電気消すからね、とふたたび断りを入れてから照明を消せば、部屋には淡い薄橙の光だけが残った。

「なんだ? 停電?」
 
れおくんはようやく顔を上げると、周囲を見渡しながら言う。俺の言葉はやはり届いていなかったのだろう。そんなことは日常茶飯事であるから、わざわざ目くじらを立てるほどのことでもない。

「俺、もう寝るから」
 
あんたも早く寝なよ。締め切ったカーテンの下から月の光が漏れている。明日も、今日みたく晴れればいい。思いながらベッドに横たわり、橙に侵食された黒い天井を見上げた。シーツも枕も新品同様に整えられていてどうにも落ち着かないけれど、今日一日の疲労感がそれらを相殺してくれるような気がした。
明日は朝からリハーサルがある。昼夜と分けられた公演が一度ずつ。地元の方で既に何度かこなしているとはいえ、本番では何が起こるか分からない。予測できないことを予測しながら、かつ期待された以上のパフォーマンスを発揮するための集中力が、明日も必ず求められる。
目を閉じる。暗闇の世界を邪魔されたくなくて、俺はテーブルランプに背を向けた。れおくんはちゃんと眠ってくれるだろうか。朝目が覚めたら、ちゃんとこの部屋に居てくれるのだろうか。扉は自動的に施錠される仕組みであるから、鍵を持たずに外へ出たら部屋に戻ることができなくなってしまう。そういった細々とした事項が絶えず囁きかけてくるものだから、部屋はこんなにも静かだというのに喧しくて堪らなかった。
ふたりでいるというのに、まるで俺しか存在していないような気配の無さだ。俺は仰向けになり、つい左のベッドを見てしまう。そこには確かにれおくんが居て、左手だけが音も無く動いていた。その横顔を解いたままの髪が隠す。ドライヤーをしっかり当てた長髪は艶を持っていて、癖がない。

「ねえ」
 
かちん。かちん。あいつの顎に押し当てられたボールペンが、焦れるくらいにゆっくりとした音を立てる。二三時四五分。目覚ましを設定しただろうか、と伏せたスマートフォンの画面を確認すれば、光の蓄えた液晶が現在の時刻を伝えてくれた。
ううん、と唸るようなこいつの声はやはり生返事じみていて、だから俺は釘を指すようにもう一度だけ早く寝なよ、と言うほかなかった。一体誰だ。俺をこいつと同室にしたのは。部屋割を学年ごとにまとめられると、いつもこうなる。安心して眠りに就くこともできやしない。
てっきり、あいつは俺のことなど気にも留めていないと思っていたのに。顔を上げたれおくんはこちらを見る。その双眸にはランプの色が灯っていた。

「え、セナもしかして寂しいの?」
「馬鹿、全然違うから」
 
早く寝ろって言ってんの。ほとんど喚くようにして罵れば、馬鹿って言う方が馬鹿だ、と年齢に不相応な口論が始まりかけて、俺はつい耳を塞いだ。ていうか俺があいつより馬鹿なはずがないんだけどねえ。あいつはむむう、とくちびるを尖らせたけれど、その不満も一度の欠伸ですべて忘れてしまったらしい。表情をけろりと戻したあとに、目が疲れた、と瞼を指で揉んでいた。れおくんのこういうところを俺はやはり馬鹿だなあと思うし、単純で羨ましいとも思う。どちらにしたって好意的な意味ではないのだが。

「うんうん。寝る寝る。ちょうど眠くなってきたし」
 
メモ用紙とボールペンをサイドボードに戻すと、その手でテーブルランプの紐を引く。部屋はすぐに黒一色に染まって、部屋中の輪郭を不明瞭にした。
やがて衣擦れの音が止んで、あいつが収まるべきところに収まったことに安堵する。しかしそれも束の間だった。寒い、とくぐもった声が、ふたたび静寂を破りにくる。

「暖房切ったからねえ」
「つけたら怒る?」
「明日声出なくなったら困るでしょ」

確かに、と同意したあいつは、ほとんど掛け布団と一体化しているのだろう。声がまったく響かず、聞き取り難くて仕方がない。えー、じゃあさあ。掛け布団を持ち上げたのか、次に聞こえてきたのはやたらに鮮明な声だった。

「セナんとこ入れて」
「絶対嫌なんだけど」

断固拒否の意味を込めて、おのれの布団を握り締める。こいつはいつだってそうなのだ。俺が仮眠室で横になっているときも。スタジオの炬燵で暖を取っているときも。気が付けばれおくんは、まるで図体のでかい猫のように身を丸めて、俺のすぐそばで寝息を立てている。そのたびに悲鳴を上げることにももう飽きた。
セナのとなりはよく寝れそう。セナのとなりはあったかいから。そんな理由で、そういえば先ほどのバスもこいつはわざわざ俺のとなりに座りに来たのだ。事実こいつは到着までの数時間ずっと眠りこけていて、執着していたように見えたお菓子も、結局は買いに行かないままだった。

「じゃあしりとりしよ」
「しない」
「好きな人の話とか!」
「うるさいなあ」
 
突き放して静かになってくれるような、そんな聞き分けの良い人間であればいいのだが。ていうか何、しりとりって。なんでこんな時間にそんなことしないといけないわけ。思いながら、ふたたびあいつに背を向ける形で寝返りをうつ。焦茶色をしていたはずのカーテンも、今は暗幕のごとく部屋を閉鎖的に仕立てている。
となりの部屋には俺たち以外の三人が居るはずだけれど、物音は何ひとつ聞こえてこなかった。なるくんもかさくんも眠るのは早いだろうし、夜が活動時間帯のくまくんも、今日はそんなふたりに合わせてベッドに潜りこんでいるのかもしれない。
あの三人は、集まったらどのようなことを話すのだろう。明日のライブの話とか。一年生と二年生だから、来年獲得したい後輩の話とか。あとは俺の悪口かなあ、と思ってしまうくらいには、後輩に対して少々理不尽な振る舞いと物言いをしている自覚はあった。まあ、くまくんは同い年なのだが。本人だって同い年であることよりも二年生であることの方を常々主張しているのだから、この場合は後輩として扱ってやるのが正しい。
目を閉じて、やわらかな枕に頬を押し付ける。意識の海へとろとろと身体を浮かべていると、ルカがさあ、と静かに語りかけるようなれおくんの声が聞こえた。それが安眠の導入に一役買ってくれそうな声色だったものだから、俺はただ黙って耳を傾ける。

「先月の地元の方でやったライブ、観にきてたんだってさあ」
 
ふわふわとした長い髪。おどおどと揺れる大きな瞳。最後に妹ちゃんと会話をしたのはいつだったか。春先に見たあの子の涙がひどく印象に残っているから、それ以来会っていないような気もする。妹ちゃんはライブに行くような活発な性格ではないと記憶しているから、その意外な内容に思わず反応してしまう。

「ふうん、珍しい。よかったじゃん」
「よかったのかなあ。でも、まあ。うん」
 
その煮え切らない言い方に、俺は内心首を傾げる。俺の家族や親戚がライブを見に来てくれたことはないけれど、そんな身内の人間に騎士としてファンに奉仕するおのれの姿を見られるのは、確かにすこし気恥ずかしいことのようにも思えた。
しかし、それがあいつの妹ちゃんとなれば話は別だ。あの子がどれだけこいつを心配していたのか、俺は知っている。こいつのために嗚咽する姿を、ずっと忘れることができないくらいには。こいつは日頃妹ちゃんへの愛を叫んでいるが、妹ちゃんだって同じくらいにあいつのことを愛しているのだと思う。そうでなければ、あいつのために泣いたりなんかしない。引っ込み思案のあの子が、赤の他人である俺に泣き顔を晒したりなんかしない。
他者への思いを滾らせて、涙まで流してくれる心根のやさしい人間は稀有だ。それなら俺のために泣いてくれる人間は、この世にどれほどいるのだろう。考えながら手を忍ばせた枕の下は、室温よりもはるかに冷え切っていた。

「明日は来ないの」
「無理だろ。遠いし」
 
まあねえ、とシーツのなかにその呟きを埋もらせる。学生が何度もライブに足を運べるほど、チケットは安くない。関係者として招待すればよかったのに、と言いかけて、れおくんにとっても妹ちゃんにとっても、それは本意ではないと思い留まる。いちファンとしてあいつの姿を見たいと思ったから、妹ちゃんは事後報告のような形でれおくんに観に行ったこと伝えたのだ。
血の繋がりのある兄妹って、いいなあ。そっと吸い込んだ空気に、この胸の奥で動く心臓がすこしだけ忙しくなった。努力や、才能でさえ手に入らないものというのは、世の中には無数に存在している。れおくんがどれだけ音楽の神に愛されていようと、今すぐに背丈が伸びることはないし、俺がどれだけ努力したって、俺と血の繋がりを持った弟や妹はできない。
それを心の底から羨んだり、妬んだりしているわけではないけれど。無いものを強請るなんて、馬鹿馬鹿しいとさえ思うけれど。自分だけに向けられた誰かの愛を知ってみたいと思うのは、俺が偶像ではなく、紛れもない人間であるということの証明であるのかもしれない。

「あ、あとセナのことかっこよかったって言ってた」
 
それと同じ言葉を、これまでにも数多受け取ってきた。とはいえあの内気な妹ちゃんからの貴重な感想だ。それを一体、どのような表情をしてこの兄に伝えたのだろう。想像すると口元が自然と綻んでしまう。

「そお。また来てねって伝えといて」
 
まあ、れおくんの家に行けばいつだって会えてしまうのだが。こいつの家にも、もう随分行っていない。校内に居場所がなくて、昔は互いの家で迷惑にならない程度に練習していたこともあったのに。いくつかの液晶と、そこから繋がる無数の配線にヘッドホン。それから電子ピアノと書き殴られた譜面たち。それぞれが意思を持ったように絡まっていて、隅でさえ落ち着きのなかったあいつの部屋には、今も同じ景色があるのだろうか。すこしは片付いているといいけれど。

「ルカはやらんからな!」
「そういう話じゃないし」
 
あんただってもっと頑張りなよねえ。掛け布団のなかで脱げかけの靴下を引き上げる。しかし言っておきながら、俺はふと考えてしまう。アイドルとしてのあいつの背中は、どうしてあんなにも大きく見えるのかということを。
ユニットには、負けてもいいと思いながら歌っているやつはいない。想像ではなく、これは確信だ。俺もくまくんも。なるくんも、かさくんも。皆誰にも負けたくないと思っていて、誰にも負けていないと思っている。
それとは別に、あいつという確固たる軸が存在していることに安心を抱いてしまう俺がいることも否定できない。ユニットの長だから。三年生だから。そんなつまらない理由ではなくて。俺たちを照らすのではなく、俺たちを引き寄せる惑星系の中心。
あんなにも破天荒で掴みどころがないというのに、それでもあいつは太陽なのだ。『王さま』という名前のついた、強い光を放つ恒星。俺たちのユニットでは特別に定めてはいないけれど、もしそれがいるとするならば、きっとこいつのようなアイドルがセンターと呼ばれる位置に立つ。そういった存在には努力したってなれるものではないから、俺はまたひとつ、才能でしか手に入らないものを知ってしまう。

「頑張る。明日も頑張るから頼む。おれにぬくもりを分けてくれ」
 
振り向けば、暗闇のなかに掛け布団の白く小高い山ができていた。ほんと、太陽なのに何言ってんだろうね、こいつは。姿は見えずとも、まるで捨てられた子犬のように縮こまっているであろうれおくんを思うと、身体が勝手に動いてしまう。
まったく、おのれの甘さが嫌になる。ひとりで横たわっていても、十分に余裕のあるベッドだ。寝相が悪ければ蹴り飛ばしてしまえばいいという言い訳を用意して、俺はああ、もう、と呆れきったような声を上げた。

「今日だけだからねえ」
 
その途端にれおくんのやった、という声が大きく響いて、ベッドが激しく揺れた。掛けていた布団が剥がされたかと思うと、背中にやたらに質量のある物体が触れる。馬鹿なこいつが飛び移ってきたのだということは容易に想像できたから、俺は早々に寝床へ侵入する許可を出してしまったことを後悔する羽目になった。

「あったか! あー、天国だ。さすがセナ」
「ちょっと、くっつくな! 蹴り落とすよ!」
 
あいつの冷え切った素足が俺の脹脛を掠める。抱き枕にでもするように左腕を抱え込まれたおかげか、自由に寝返りを打つのも困難となった。本当に蹴り飛ばしてしまおうと思ったけれど、俺は善良な人間であるから、髪を強く引かれるだけで済んだことに感謝してほしい。あいつは何事かを喚いていたものの、もう聞いてやる義理はない。
それでいて眠るのはやけに早いんだもんなあ、こいつは。おやすみセナあ。時間前とまったく同じ言葉を残して、喧しい同室の男は台風のごとく去っていった。俺の身体的自由と、余裕のあるぬくまりきったベッドを奪って。もう日付も跨いでしまったに違いない。こいつといると本当にろくなことがないということを、今日も身を持って実感することとなった。
どうしてこんなやつが太陽なのだろう。一方でこいつがいなければ、俺たちが本当の意味でユニットという惑星系にまとまることもなかった。ひとりで生きて、ひとりで強くなると決めていた俺なのに、こうして得てしまった繋がりに縛られるのも悪い気はしないのだ。
こんな風に絆されてしまった俺を、かつての自分は嘲笑うに違いない。いつか別れの日が来たときに、だからやめておけばよかったのだと。そんな意地の悪い声が今からもう聞こえている。最後に辛い思いをすると分かっているのなら、俺にできるのは、残されたこの幸福とも呼べる時間を、悔いなく過ごすことだけなのだと思う。
すっかり静まり返った部屋のなかで、俺はふたたび目を閉じる。すぐそばから立つかすかな寝息を聞きながら、こいつの寝相がひどくないことを祈った。
だって、蹴り飛ばすのはやっぱりちょっと、可哀想だし。



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