さよならはいらない
座席に腰掛けながら、運転手に荷物を預けている同級生らを眺めていた。ちいさなキャリーケースやボストンバッグを抱えたそいつらは順々に身軽になり、バスへと乗り込んでいく。エンジンのかかった車内はかすかに、そして絶え間なく振動していて、窓枠に乗せた腕を徐々にむず痒くさせた。
狭い空間は人数が増えたことにより騒がしさを増す。着いたら何処へ行こうだとか。何を食べようだとか。慣れない遠征を前に、どのユニットも浮き足立っているのは明らかだった。
校内に四時を知らせる鐘が響いたとき、どすん、と座席が揺れて、俺はつい空席であったはずのとなりを見る。そこにはれおくんが腰掛けていて、目が合うなりセナ早いんだなあ、と明朗な笑顔を見せながら言った。
「あんたが遅いんでしょお。ていうか、」
なんでわざわざとなりに来るわけ。れおくんはブレザーを腕から引き抜いて、それからいそいそと靴を脱ぎ始める。今日の乗車人数に見合わぬ大きさのこのバスは、ふたり掛けをひとりで使ったとしてもまだ余裕があった。比較的長い移動時間を睡眠に充てようと思っていたから、会話をするために来られたのでは、あまり良い気はしない。
座席の上で膝を抱えたれおくんは、膝掛け代わりのブレザーで脚をすっかり覆う。
「セナのとなり、よく寝れそうじゃん」
車内の人数を数えようと、教員が通路を歩く。三と三と、五。三ユニットでたったの十一人のためにこのバスは貸し切られていた。七、八と俺たちを数える指先。扉が締められたのは、人数の確認が取れたからだろう。先頭の座席から覗く見慣れた金髪が目に入った。列を挟んだとなりには、なるほど、引率の教員が腰掛けている。くまくんは最後列に寝転んでいて、かさくんは前に座っている同級生とお菓子を交換しているようだった。俺たちの前後に人はいない。
「あ、そお。ていうか手ぶらなんだ」
帰宅しようと校門を抜ける生徒たちを車内から見送る。今年の冬は暖かくて、厚手の上着を羽織っている姿がそう多くはない。となりのこいつも異様なほどに寒がりだというのに、今年はあまり嘆く声を聞いていないな、と気付く。
まあ、こいつはいつも手ぶらみたいなものだけれど。れおくんはおのれの前で両手をふらふらと振ってみせる。
「セナも手ぶらだろ」
「紙とペン、要らないの」
「んー。乗り物酔いひどいから」
預けた方に入ってる、と肘置きを超えてそいつは俺の身体にもたれ掛かった。ちょっと、重いんだけど。右肩を揺すったところで、このちいさな頭が退くことはない。ホルダーに収めたペットボトルと、ポケットに入れたスマートフォン。こいつからすればそれらは手荷物のうちには入らないらしい。正真正銘、言葉通りに手ぶらなこいつは、窓の景色が動き始めたのと同時にあ、と声を上げた。
「お菓子買うの忘れてた」
先ほど見たばかりの後姿たちを、バスはあっという間に追い抜いていく。まだ四時を迎えたばかりだというのに、日は随分西に傾いていた。気温が高いせいかいまいち実感が湧かないけれど、何よりも今日の日の短さが冬であることを証明している。この遠征が終われば、すぐにクリスマスがやってくるのだ。公演のセットリストは盛り上がる曲を中心に組んでしまったが、季節を考慮した曲も入れるべきだったのかもしれない。
「サービスエリア寄るって」
「なんだ。じゃあいっか」
「あんた、遠足じゃないんだからさあ。ていうか財布持ってんの?」
あと、酔うなら席変わろうか。揺れる車内に合わせて、ペットボトルのなかの水が傾く。れおくんはふ、と吹き出して、セナってやっぱお母さんみたいだよな、と言った。俺もおのれの対して同じことを思ってしまったから、内心で留めておくつもりだったというのに、つい舌打ちを繰り出してしまう。それを聞いて、こいつは悪びれることもなくわはは、と笑った。その声には、まるで挑発に成功した子どものような無邪気さがあった。
「寝てれば大丈夫だからいい。あと、金はポケットに入ってるよ」
財布、と尋ねたはずなのに、どうしてこいつは剥き身の金銭の話をするのだろう。所持品の紛失が特技となりつつあることをようやく危惧したのか、れおくんはついに所持すること自体を辞めたらしい。スマートフォンは家か学校のロッカーに置き放しで、失くさないようにだけは気を付けていると言っていた。それでは携帯電話としての意味がないことに、こいつは多分気が付いていない。
ふうん、と呟きながら、座席の幾何学模様を目でなぞる。頭上からのあたたかな微風が髪に触れていた。
「うう、今日寒いなあ。今年はあったかくて良かったって思ってたのに」
言う割には防寒に努めることをしないのだから、こいつの寒がりもなかなか自業自得なところがあると思う。座席に腰掛けるとき、上の荷物置にブランケットが畳まれて収納されているのを見た。後ろで寝ているくまくんもそれに包まり、まるでさなぎのような姿できっと今も眠っている。なんとなく、頭上の空調の風向きをれおくんの方へ調節した。
「上にブランケットあったよ」
「え、本当だ。借りとこう」
セナは要る? れおくんは律儀に尋ねてくれたけれど、肯否を考える隙も与えずに濃緑の布を俺の腿に置いた。ふたたび膝を抱えて腰掛け直したこいつは、その身体を濃緑のなかに隠す。いい感じいい感じ、といっとき居なくなったちいさな頭は、すぐに俺の右肩へと帰って来た。頭ってちゃんと重いんだねえ。バスはトンネルの闇に包まれて、それでも速度を落とさずに進んで行く。
「セナ、手え貸して」
鏡のようになった窓を眺めつつ、言われるがまま右手を持ち上げた。ひとつまたひとつと通り過ぎていく壁の照明が、俺の眼に残像となって焼き付く。セナの手あったか。感嘆する声を、あいつの冷たい手の感触を受けながら聞いた。膝の上に左手で掴んだブランケットを広げる。
「あんたが冷たすぎるんでしょ」
「そうか? じゃあありがとう、セナカイロ!」
そしておやすみ! ずるずると濃緑に喰われていく俺の右手。まあいいけどさあ。どうせ俺も寝るだけだし。
ひたひたと、あいつの冷えた指が手の甲を這う感触がする。早く寝ろという意味を込めてその手を一度強く握ると、すぐとなりからひひ、と奇妙な笑い声が聞こえた。