さよならはいらない
ピアスの開け方を教えてほしい。
こいつがそう切り出したとき、ぽん、とひとつの音が跳ねた。紛れもなくれおくんの人さし指によって起こされたもので、俺はただ椅子に怠惰に腰掛けながらそれを聞いていた。冬の気配に染められた椅子は硬くて冷たい。ささくれや割れをいくつもこさえて、年季を伺わせる風貌をしている。
「なんの音でしょう!」
黒い箱体に向き合いながら、れおくんは声を弾ませる。磨かれたように艶やかなそこに、声色と同じく楽しげな表情が反射していた。一体誰がこのピアノの手入れをしているのだろう。いつだってこの身体には傷も無く、埃ひとつだって落ちていない。
背もたれに肘をついて顎を乗せる。すこし考えるふりをしたのちにファ、と呟けば、れおくんはその十倍ほどの声量でブブー、と軽やかに不正解を告げた。
「惜しい! 正解はソでしたー」
ファはこっち。ぽん、ぽん。まるで子どものような足取りをした音が、静かな部屋を満たしていく。たったひとつの、単調だったはずの音はやがて増えて、新たな曲の一部に生まれ変わった。ピアノに触れているときのれおくんは、動物と戯れているときと同じ横顔をしている。それを端から眺めているのは、嫌いではなかった。
「病院で開けてもらえばいいじゃん」
音楽室はすっかりピアノ教室へと雰囲気を変えた。今あいつが奏でているのは小学生か、もしくはピアノを始めて間もない生徒に与えられた課題のような曲だった。昼下がりのワルツ。題名があるとすれば、きっとそれがふさわしい。もしかすれば同じ題名の曲が世の中にはもうあるかもしれないけれど。
「んー?」
「ピアス。なんで開けんの」
音列のなかに鍵盤をかつん、と弾く爪音が時折混ざる。五時間目が始まるまで、あと一五分ほどだ。ピアノには、背後の壁に掲げられた時計が映り込んでいた。その長針は、ちょうど一を指している。
「ルカたんがピアスくれたから。開けるかなーって」
この学院の制服に関する規則は、他の高校と比較しても格段に緩い。個性を尊重しているのだと解釈すれば聞こえは良いが、そのおかげか素行不良に間違われるような外見をした生徒も少なくない。ピアスのひとつやふたつは些細な変化だ。むしろ開けた方が仕事で着用できる服飾雑貨の種類が増えるから、入学早々開けてしまう生徒は多い。
後れ毛でほとんど隠されたあいつの耳朶を見る。飾りの付いた姿を想像したものの、軟派な印象がより前面に現れてしまうように思えてならない。中身は子どもみたいなやつなのに。それがこいつの魅力であったとしても、俺にはその頼みを承ることにすこし抵抗があった。
「穴開いてるやつに頼みなよ」
楽譜立てには、先ほど完成したばかりであるらしい譜面が置かれていた。新しい曲出来たから聞いて。そんな誘いに連れられた俺は、件の頼みを切り出されるまであいつの指が紡ぐその曲を聞いていた。楽譜に記されているのは簡潔な主旋律だけであるはずなのに、しかしそれでは物足りないと、あいつの十の指はそこにいくつもの音を重ねていった。きっと即興で編曲を加えていたのだ。鼻歌も交えた新曲の発表会は、そうして数分前に幕を閉じた。
繰り返されるごとに、すこしずつ調子が変わっていくワルツ。新曲に対する感想をまだ述べていないというのに、新たな演奏会は気まぐれに、そして突発的に開かれる。しかしこいつは自身で生んだ作品に、いつだって最高の評価を付けて愛でることのできるやつだから。俺が是と言おうが否と言おうが、その評価が揺らぐことはない。
鍵盤を押し込んで上下する手に視線を落としつつ、れおくんはううん、と短く唸る。
「セナがいいなあ」
黒のブーツがマフラーペダルを踏み込んだ。セナの手がいい。跳ね回っていた音たちが一転して水底に沈み、深い青のなかを揺蕩う。
俺は目前に掲げた左手をじ、と見つめた。何の変哲もない手のひらだ。指先からほんの少しだけ顔を出した爪先。蜘蛛の方が余程美しく張り巡らせることができるであろう、でたらめに巡った皺。幼い頃には目立っていたはずの、薬指にある薄茶色の黒子。寒さですこし痩せたようにも見える指。青い血管が手の甲にいくつも浮いていた。
「誰がやっても変わんないでしょお」
「変わりますー」
「失敗してもしらないよ」
「わはは。セナなら許す!」
ていうかなんでこいつ、音楽室の鍵を持ってるんだろう。大方作曲のためにピアノを使いたいからとか、それらしい理由を並べて学校側から許可を取っているのだろうが。そうすることによって学校側にも利があるのだから、合鍵のひとつやふたつくらいの待遇は与えられて当然と言えるのかもしれない。
区切りを迎えたワルツは、余韻を残してしめやかに終わった。新しく出来たばかりだと言ったあの曲を、れおくんはどこへやるのだろう。
セナ、とれおくんは俺を呼ぶ。こんなに近くにいるのに。あいつはわざわざ、俺の名前を声に起こす。
「何」
「座って。ここ」
ピアノと同じく黒色に染まった椅子。人ひとり分開けたそこを、あいつはばふばふ、と叩いた。連弾しよう。言いながら、弾き通しだった指を揉む。パーカーのフードが裏返っていることに気が付いたけれど、手を伸ばしてもわずかに届きそうにない。
「弾けないよ、俺」
「なんか適当に鳴らしてくれればいいから!」
それじゃあ連弾って言わないじゃん。口には出さず、俺は体重を預けきっていた椅子から腰を上げた。鈍く光を蓄えた椅子が俺の重さを受けて軋む。靴の爪先にペダルが触れた。どれがどの用途で用いられるものなのか分かるほど、ピアノには詳しくない。
右手だけを持ち上げて、白い鍵盤に触れる。れおくんが先ほど鳴らしたソの音は、どの鍵盤のものだったか。検討をつけてひとつを押し込むと、響いたそこに俺が生んだものではないふたつの音が続いた。適当。あいつの言葉が、人さし指と親指に音階を下らせていく。ふたたび上って、同じだけまた下る。どれだけ行き来しようとも、確かな意図を持ったあいつの音は、迷いもなく俺を追いかけていた。まるで予め用意していたかのように。俺の右手の行き先を、既に把握しているかのように。
それならと鍵盤をいくつか飛ばして押し込めば、俺の左腕にれおくんの右腕がぶつかった。ふ、と身体ごと笑うようにあいつは揺れて、椅子が窮屈そうに鳴く。
「急に走るのか! 読めないなあ、セナは」
不規則な音のひとつひとつが、明確に名前のない曲の一部として取り込まれていく。それらがまるで、おのれの手によって生み出されているかのような錯覚を起こしてしまう。あいつの右脚がペダルを踏んだ。一度に鳴らす音をどれだけ増やそうとも、れおくんはそこに的確な意味を与えてくれる。
普段は俺を振り回すこいつが、今においては振り回される立場にいることがなんだか面白くて。広げたままの譜面。スタフェス。下線の引かれたその文字を、一枚目の隅に見つけた。今月に入ってから、学院中で見かけるようになった言葉だ。その催しに向けて、今はどこもかしくも忙しなく動いている。
「この新曲さあ」
「んー」
いつの間にか電飾で彩られていた校門付近の木々。スタジオには先週末のクリスマスパーティーの名残が散らかっていて、校内の掲示板にもクリスマスを意識した装飾が施されていた。それとは別に、月の半ばには遠征先で大がかりなライブが行われるおかげか、参加するユニットは日々完全下校時刻まで練習に勤しんでいる。俺たちのユニットも、月頭からは全員の顔を見ない日はないと言っても過言ではなかった。
大げさであればあるほど、どこか嘘くさいように聞こえてしまうから。俺が口にするのはいつだって簡素な言葉だ。俺がどんな賛辞を贈ろうとも、れおくんがこの曲に抱く愛情に適うことはないのだから。俺はそれに、作者であるこいつに対する最大の尊敬を込める。
「いいと思うよ、俺」
意味のある言葉を紡ぎながら、同時に意味のある音を紡ぐ。いい加減に白鍵を押しているだけだというのに、弾きながら言葉を選ぶことの難しさを知った。れおくんは指先で繊細に鍵盤を撫でつつも、だろお、と喜びを露わにしてくれる。
「天才だからなあ。おれは」
背後の時計の長針が、三の位置まで進んでいた。予測不可能な音の流れに、機械的な鐘の音が重なる。次の授業に備えろという合図が校内の隅にまで響き渡った。
聞こえていないのか、無視をしているのか。それなのにあいつは、この連弾とも呼べぬ即興の演奏会を止めようとはしなかった。
「そうだね」
つられて俺も予鈴の余韻が広がる音楽室に音を落とし続ける。三階にあるそれぞれの教室までは、走れば二分とかからないのだから。廊下は走るな、と口やかましい副会長に掴まらなければの話だけれど。
この曲を、早く歌ってみたい。
数週間後の舞台を想いながら、語りかけるこの音色に、拙い指先で答えを編む。