さよならはいらない
お姫さまの反対語って、なんだと思う。
れおくんが唐突にそう問うたものだから、俺はグラフの点と点を繋いでいた手を止める。両端を引かれてくるりと回った飴の包み。なかから現れたのは鮮やかな黄色の飴玉だった。それを指先で摘んで吟味したあと、れおくんは口に放り込む。
そばのマグカップからは湯気が薄らと上っていた。その中身をいかにも苦々しそうな焦げ茶色の液体が満たしている。ころりころり、と飴玉を転がすたびに動くあいつの口元をすこしのあいだ観察していた。
するとれおくんは催促するようにじ、とこちらを見つめてくるものだから、とうに考えついていた答えを口にする。
「王子さまでしょ」
かちん。俺は繰り出した芯で右上がりの急激なグラフを完成させた。おうじさま。目前に広げた真っ新なノートに視線を落としながら、れおくんは呟く。
「うーん、合ってるんだろうけど」
なんか違うんだよな。あいつはそう言いながらノートの罫線に沿って線を引いていった。まだ見慣れない紺色のパーカー。黒色のネクタイ。その奇妙な着こなしは、学院でいっとうに目を惹く。
「あんたねえ。さっきの問題終わってないでしょ」
「え、終わった終わった。エックス二乗の、」
ぱらり、と頁を戻した端。そこにはおよそ高校三年生とは思えないような乱れた文字で答えが記されていた。途中式という概念がまるで失われたノートだ。あちこちに散るひっ算。イコールで繋がれていない式と式。一だか七だか、見分けのつかない算用数字。中学の頃、数学の教師がたびたびセンス、という単語を口にしていた。数学のセンスがないというのは、きっとこういうやつのことを指す。
「合ってるけどさあ。途中式とかちゃんと書けないわけ」
言えばれおくんは珈琲を啜ったのちに、合ってるならいいじゃん、と余所事のように口にしてみせた。来週の追試の勉強を見てほしい。そう頼んできたのはこいつなのに。今年度中の卒業が真剣に危ぶまれるな、と俺はおのれの課題に向き直る。
「王子さまだと被るだろ。おまえとか。あとリッツもか」
問二。以下のグラフが示す数式をそれぞれ答えなさい。ちいさな桝目に、四本の曲線が犇めいている。一、とノートに書いた算用数字を丸で囲んだ。ワイイコール、ログの。
「なんの話してんの」
お姫さまの反対語。そういえば、最初にファンのことをお姫さまと呼び出したのは誰だったか。発端は目の前のこいつだったようにも思うし、姫になった、と拡散されたファンのある呟きからだったようにも思う。
んー。ころころと、口のなかで飴玉を転がしながら声を漏らす。こいつさっき珈琲も飲んでたよね。押し寄せる苦味と酸味で、舌が馬鹿になっていないといいけれど。
「このあいだのライブ、男のファンが結構いたなーって」
あー、と返答を引き伸ばしながら、俺は先日のライブの光景を思い出していた。照明を浴びた客席。天井に反射して揺れる青の光。背の低い並びのなかで抜きん出たひとりというのは、舞台から見下ろしていても目に付きやすい。男性アイドルだからといって、ファンが皆女性だとは限らないのだ。
れおくんの問いかけの真意を、俺はようやく理解することができた。お姫さま。の、反対語。なるほど、いざ考えてみれば難しい問題だった。こいつは女性を表す言葉を、同性のファンにも用いることの是非ついて思案している。
「王子さまねえ」
「んんー。だから王子は却下!」
二、と書いた数字を丸で囲む。机の上には細々とした菓子が散らばっていた。先日のハロウィンイベントで余らせたお菓子を、こいつが何処からかくすねてきたのだ。さして日は経っていないのというのに、それらは異様な速さで減っていた。作曲に糖分は不可欠だから、とこいつはポケットに詰め込んでは、まだハロウィンの気分が抜けていないのか、そこらじゅうの人間に配り歩いたりもしているらしい。ただの不審者に間違われそうな行為だ。それとも本当に不審者として捉えられた方が、こいつの浮浪癖は直るのかもしれない。
グラフに書き込んだ数字に消しゴムをかける。その箇所だけ妙に印刷がうすくなってしまったから、シャープペンシルでなぞって誤魔化した。
「じゃあ騎士は」
ふ、と吐いた息で、用紙の上を消し滓が流れていく。
「同志ってことか! わはは、面白いなそれ」
数字ではないもので続々と埋まっていくあいつのノート。追試合格する気あるのかなあ、こいつ。授業は好かない、と常々口にしているけれど、卒業を盾に取られている以上はどうしようもないのだ。あいつの展開する理論を端から否定するつもりはないが、しかしなんの力もない子どもの俺たちは、まだ規律の上を歩いていないと蔓延る悪意に簡単に足を掬われてしまう。既に大人と肩を並べて活動しているはずのこいつが、そのことに気付いていないはずがないのに。駄々をこねる姿はまるで本当に子どものようで、常々呆れを抱いてしまう。
うーん、でもなあ。あいつはシャープペンシルでマグカップをつついた。中身が入っているせいか、その音は鈍い。
「男だけ同志扱いしたら、お姫さまたちが嫉妬するかもしれないだろ」
「あんたって、たまにすごいこと言うよね」
「え! セナに褒められた」
「ぜーんぜん褒めてないから」
俺に褒められたければ、音符ではなく数字を書いて操るべきだ。丸三番。グラフは右下がりの緩やかな曲線を描いていた。がりがり、とれおくんは飴玉を噛み砕く。
「あんたさあ、卒業する気全然ないでしょお」
机の上を逡巡した右手は、やがてひとつの飴玉を摘んで封を破る。今日のこいつは寝癖ごと無理矢理束ねたような髪型をしていた。ちゃんとしていれば見て呉れだって悪くはないのに。まあ、俺には遠く及ばないけれど。こんな姿、お姫さまたちが見たらどう思うんだろうね。気だるげで格好いいとか、オフの姿は貴重だとか。ファンの反応というのは、まったく予想がつかないときがある。こいつはそんな姿を舞台の上ではおくびにも出したりはしないだろうが。
「ありますー。おれは身長と同じで後から伸びるタイプだから」
「馬鹿。ユニットに留年ふたりとか、ほんと勘弁してよねえ」
こつん、と人さし指と親指でちいさな飴玉を弾いた。思いのほか強く当たって、爪先がじんと痺れる。それはれおくんのノートの小口に当たって弾んだ。あいつはそれを手に取ると、ぐるりと包装の柄を回し見る。子どもの頃に誰もが食べたことのある飴だ。いちごと練乳を合わせたような、うんと甘い味のする桃色の。
丸四番。座標を確かめて、式に当てはめるだけの単純な作業を繰り返す。ノートに答えを書き終えるまでのあいだ、俺は眉間のあたりに強烈な視線を感じていた。何か付いているのかと触れてみたところで、指先は眉毛を撫でるだけだ。痺れを切らして何、と尋ねてみると、あいつはやはりそこをじい、と見つめたまま俺に問うた。
「セナ、まだバイクで学校来てんの?」
猫や子どもだって、時折ある一点を凝視したまま動かなくなるときがある。こいつは恐らく、それと同じだ。曰く彼彼女らはそこに幽霊を見ているなど諸説あるようだが、本当に幽霊なんてものが存在しているのなら、この学院はとうに心霊スポットとして有名になっていなければおかしい。
一度見てしまえば、俺はこいつの瞳は淡さに目を逸らせなくなる。会話の脈絡なんていちいち気にしてはいられない。こいつはほとんど本能で生きているようなやつなのだから。
「来てるけど」
「じゃあ、追試合格したらバイク乗せて」
ぴん、と頭の頂に立つ短い毛が揺れる。そしたらちょっとはやる気になると思うんだよなあ。すっかり端に追いやられた問題集を引き寄せて、あいつはノートを新しいページに捲った。先ほどまで書き連ねていた曲は、そうして過去のものとして堆積していく。どんな題名だったのだろう。しかし問二、と進み始めたシャープペンシルを止める気にはならなかった。
髪が数多飛び出ている頭頂を見る。本音を言えば、あまりバイクの後ろにひとを乗せたくはないのだが。それはひとりの人間の命を預かることと同義であるから、俺はそんなに重たいものを積極的に背負いたいとは思わない。それとこいつの卒業を天秤にかけてみたものの、どちらの皿もぴくりとも動こうとはしなかった。けれどひとつ思い付いた条件を後者に乗せると皿は面白いくらいに沈んでいったものだから、俺はいいよ、と一瞬快諾したふりをしてみせたのである。
「よし! 絶対に忘れるなよ!」
「まあ、満点取れたらだけど」
「はあ? おまえは外道か!」
ごん、とあいつの額がテーブルを打った。マグカップの中身も。飴も。破られた包装も。それらはほんの一時命を得たように震えて、すぐに大人しくなった。テーブルに伏せながらしくしくと泣き真似をするこいつを余所に、あのうんと甘いいちごの飴を集めて、ノートの上に並べていく。だってほら、勉強にも糖分が必須ってよく聞くからさあ。
ほんのちいさな山ができたころ、あいつはくしゃくしゃな前髪とともに顔を上げた。
じっとりとしたその眼は不満に歪んでいて、俺はつい意地の悪い笑みを浮かべてしまう。おのれの性根の悪さを自覚しながら、最後のひとつを山の上に落とした。
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