短編



今朝のそれは、ほんの一瞬の出来事だった。
その記憶をぐるりぐるりと繰り返して、擦り切れるほどに繰り返して。それでもなお鮮明なままなのだから、人の記憶というのは厄介なものだと思う。
ぱたり、とノートを閉じたのに、繰り返しは止んでくれない。使い始めの、まだ角も折れていないぴかぴかの青いノート。選んだのに理由はないけれど、数学にはどうしてか青色の印象があった。
ありがとうございました、と声を揃えて礼をしたのち、仕舞うことを忘れた椅子に腰掛ける。スピーカーから漂うチャイムの余韻が薄れていくのを感じながら、そのまま机にうつ伏せた。昼休みの訪れた教室は開け放たれて、駆けていく足音と話し声ですこし騒がしい。
そしてその中に、自分を呼ぶ声があった。

「具合でも悪いのか」

体を起こせば、ユキノジョウが机のすぐそばに立っていた。右手に弁当と呼ぶにはいささか大きすぎる箱を携えて。そうだ。早く購買行かないと。春の陽気というものは、人の行動を鈍らせる。また繰り返された一瞬が、おのれの思考をも鈍らせる。

「んーん。なんでもないよん」

ていうか、なにそれ。ユキノジョウは丁寧に布に包まれたそれを机に置くと、目の前の席の主がいないことを確認して向かい合うように腰掛けた。するり、と布の結び目を解くさまを、自分はブレザーを脱ぎながら眺める。装飾がついているおかげか、この服は肩のところがやや重いのだ。だからと言って脱いでしまうのもまだ肌寒い。しかし窓からの陽射しが、この時間の教室を十分に暖めてくれていた。ユキノジョウのように、明日からはカーディガンを持ってくることにしよう。
現れた二段積みの大きな箱に、自分はもう一度なにこれ、と問うことしか出来ない。

「いつもの弁当なんだが」
「あー、なるほどね。月初めだからね」
「食べるのを手伝ってほしい」
「オッケー。ていうか俺っちもこれから買いに行くとこだったし」

まだ四月で良かった、と思う。もうすこし暖かい時期にこんなものを常温で放置していたら、食後どうなっていたかは想像に容易い。
ユキノジョウは実家から通う日に限って弁当を持参するけれど、月の始めになると稀にひとり用を明確に超えた量の弁当を持ち込む。先月と先々月には無かったから、認識が薄れていたのだ。購買に行く必要はたった今無くなった。余らせてしまうのは勿体ない。
正そうと引いた椅子が、ぎ、と不快な音を立てる。

「また新しい公演始まったんだねえ」
「すまないな。いつも要らないと言ってるんだが」
「いいんじゃない。景気づけってヤツでしょ」

蓋を開ければ中身は想像よりも彩豊かで、白米に埋められた梅干しの赤が眩しかった。これを全て胃に収めたら、きっと午後は眠くなる。後輩の誰かをここに呼ぶべきかもしれない。すぐ上の階にいるであろう、エーデルローズのエース。それかヤンキーか。高校生になったばかりの彼か。
誰か呼ぶ? 聞くとユキノジョウはどちらでも、と言いながら布の端と端を丁寧に合わせて折り畳んでいた。すこし悩んで、胸ポケットからスマートフォンを引き抜く。立ち上げたメッセージアプリの、上からふたつ目。開いたトーク画面には、昨日送ったメッセージに既読が付いたままになっていた。ちょっと、見たなら返事くらいしようよ。思いながら、また新たなメッセージを打ち込んでいく。今すぐ俺っちの教室きて。
一瞬閉じた瞼の裏に、同じ映像が繰り返し浮かぶ。

「今日もあるの?」
「五限で早退する」
「あらら。オツカレだねえ」
「カケルも変わらないだろ」
「んー。まあね」

そんなことはない。そう否定しなかったのは、ユキノジョウも自分も似たような立場にあるということを互いに認識しているからだった。未来が既に決定されているという点。抗えないという点。抗うまでもなく、それが自分のさだめであり人生なのだと納得し、受け入れている点。
ユキノジョウと同じクラスになるのはこれで二度目になる。一年生の時と、今年だ。最初の頃から自分たちは、そういう妙なところで友人だった。一種の悪友と呼んでもいいのかもしれない。寮では語れないような話を、何とはない話に混ぜるように交わす間柄。秘密基地を構えた子供から高揚感を引いたような重さの話を零すには、エーデルローズ寮は眩しすぎる。もちろんエーデルローズの皆も友人であり、ライバルであるのは変わりないと思ってはいても。
あ、箸ない。そう言えば、ある、と間を空けずに差し出された割り箸に、意図せず笑えた。家の人もひとりで消費するとは考えていないのだろう。

「ミナトっち来ないね」
「午後も理科棟だから、そのままクラスの奴と食べると言ってたな」
「あ、そーお。時間割変わるとわっかんないねえ」

六限のノート、明日見してあげんね。それにユキノジョウはありがとう、と言って出汁の染みた蓮根に箸を突き刺した。六限、何だったっけ。黒板横の掲示に貼られたぴかぴかの時間割を見れば、やや癖のある字が現代文であることを教えてくれた。数学と同じく色に例えれば赤の印象があるから、用意したノートは確か赤だ。自分の頭にはまだ、去年度の時間割の方が馴染んでいる。
左右に力を加えた箸が、耐え切れず乾いた音を立てて割れた。綺麗にふたつにわかれたそれらを揃えて、白米を摘みにかかる。

「眼鏡壊したのか」
「違う違う。新しくしただけ」

口に運ぶと弁当なのに水分が失われておらず、ひと粒ひと粒がしっかりと立っていて美味しい。容器のおかげだろうか。米はどれだけ品質が良くとも冷めればどれも横並びになるのだと、会議の休憩中並んで昼食を摂っていた役員が話していた気がする。真偽のほどは不明だが、米は炊き立ての方が美味しいのは確かだ。

「身体計測でさあ。分かってたけどやっぱ眼鏡合わなくなってて」

だから家にあったやつ持ってきたの。ユキノジョウはあらかじめ買ったらしき紙パックの野菜ジュースに、ストローをぷつり、と刺した。下の自販機で買えるワンコインジュース。男子高校生はコーヒーを飲まない。故にラインナップは微糖ばかりのあの自販機で、自分は無糖を諦めて時折ブルガリアのブルーベリーを買う。何でもブルーベリーは視力回復に良いと聞いた。回復よりもダメージの方が常に大きいのだから、どうしたって快方には向かわないだろうが。

「俺、両目2.0ある」
「うっそー。俺っちと交換しない?」

しないな。だーよね。その時、机に置いたスマートフォンが震えた。先の返事が来たのだろう。三年の教室こえーからいかねえ。その文字の並びに、まるで反射のごとく口元が緩んだ。その感覚は理解できるけれど、いかんせんタイガだ。あの風貌のおかげか、恐らく校舎で一番に目につくと言っても過言ではないのに。ネクタイだけを赤に変えたところで、全身を黒に固めた姿は言葉通り異色だった。
タイガにもまだ可愛いところがあるのだと、ひとり納得しながら返事を打つ。太刀花先輩を助けてあげてー。

「タイガきゅんが三年生の教室こわいよ~、だって」
「大丈夫だろう。誰も見てやしない」
「ねー」

窓枠のほんの端から、太陽が顔を覗かせていた。正確に矯正された視界にその光はあまりにも眩しすぎて。すこしだけ椅子をずらせば、太陽はすぐに壁に隠れて見えなくなる。けれど陽射しは変わらずに柔らかいままだった。

「そういえばさあ」

タイガで思い出したんだけど。紅白に並んだかまぼこの紅を摘む。咀嚼して飲み込むまでの間、ユキノジョウは先を促すような視線で自分を見ていた。
すこし嘘をついたのだ。本当は、今朝から誰かに話したくて仕方がなかった。

「なあんかタイガ、背え伸びてて」

白を美しい箸使いでもって摘み、美しい所作で口に運ぶ。ユキノジョウは食事中、決して音を立てない。がさつにがさつを重ねた男子高校生を詰め込んだ教室の中でも、それは不変だった。

「ああ、確かに」

もう抜かれているんじゃないのか。ユキノジョウの言葉の通りだ。知らぬうちに、タイガに身長を抜かれていた。そのことに気が付いたのは今日の朝、洗面所で歯を磨いているときだった。眼を擦りながら自分のすぐ後ろを通るタイガを鏡越しに眺めていたその瞬間。
今までだって、あってないようなものだったじゃないか。五センチに満たない背丈の差なんて、誤差に等しい。思いながら口内を濯いで、残ったミントがやたら不味かったのを覚えている。

「そうそう。今日朝並んでびっくりっていうか」

あーあ。ユキちゃんになに喋ってんだろ。おのれの口に、摘んだ大ぶりな海老を詰めた。容赦なく食い込ませた歯が、その身に埋まる。欲を言えば、自分ももうすこし身長が欲しかった。百七十センチの前半に留まるか後半に乗るかは、男としての威厳に関わる問題だと思っていたのに。

「ていうかこれ無理くない? 絶対残る」
「だな。やはり人数を増やそう」

そう言って、ユキノジョウは近くにいた数人のひとりに声をかけていた。話しぶりからして、恐らく去年からのクラスメイトなのだろう。貴族の昼飯かと思ったわ、というそいつの軽口に笑うユキノジョウは、傍から見れば普通の男子高校生にしか見えない。自分だって誰かの目にはそう映っているのかもしれないと考えると、無性にむず痒くなる。
結局その後、タイガからメッセージが返ってくることはなかった。もちろん教室に姿を見せることもなく、気が付けば予鈴が昼休みの終わりを告げていた。


 ×××


そういえば、明日は日直当番だった。
仕事終わりにそれを思い出したとき、運転手には自然とエーデルローズ寮にお願いします、と告げていた。実家の方へ帰っても良かったけれど、朝は出来る限り余裕を持って過ごしたい。寮から学校までは徒歩数分なのだから、電車に乗らなければならない実家より寮を選ぶのは必然だろう。いつもよりすこしだけ早く登校しなければいけない明日なんて、なおさらだ。
次から次へと現れる街灯が、窓の端へと消えていく。すこし首を傾ければ、強すぎるくらいの月明かりでもって地上を照らす満月が見えた。星の隠された夜だった。
寮までのおよそ三十分。気を遣っているのか、運転手は時折問いを投げかけてくれる。新学期はどうか。プリズムショーの練習はどうか。もう三年生だなんて、時間が過ぎるのは早い。外の景色に視線をやりながら、そのひとつひとつに当たり障りなく答えていく。明日日直なんです。言えば運転手は学生らしいですね、とハンドルを操作しながら笑っていた。
そうして一瞬、一際目を惹く色の建物の前を横切った。プリズムストーン。店の明かりは落とされているところから、今日はもう閉店したあとなのだろうと分かる。それでも目立つ外観は、原宿の女の子たちからは可愛いと評判だ。
つい数日前プリズムストーンに招待されて、シンとタイガがショーを披露した。初めは誰の目から見ても乗り気ではなかったタイガだけれど、カヅキ先輩に背中を叩かれた途端に瞳の色を変えて。カヅキ先輩は相変わらずタイガを乗せるのが上手い、というのはすこし齟齬がある。あの人だってタイガのショーを楽しみにしているひとりなのだから。
ストリートなんて微塵も知らない。そんな女の子たちが息を切らして盛り上がっていくさまは、見ていて本当に気持ちのいいものがあった。きらきらと散る汗の眩さ。目がつぶれてしまいそうなほどの煌めき。まばたきの出来ない、いや、許さないパフォーマンス。けれど時折顔を覗かせる素のままの表情が、タイガの魅力を何倍にも引き立てていた。まあた女の子のファン増えちゃうじゃんね。本人には決して言わないけれど。
煌めきに煌めきが上書きされて、どんどん白くなって。タイガを前にすると自分はもう、眩しくて何も見えなくなる。二年前からだ。あのプリズムキングカップの日から、ずっとそうだった。いっそ見えないほうがいいのかもしれない。羨望とは糧であり、時に酷だ。タイガにとっては前者でも、自分にとっては後者であるそんなものを受け入れるには、器が足りない。足りていなかったと気がついた。
こんなこと、気が付きたくなかったのに。舌打ちをする代わりに、親指の爪を人さし指に強く食い込ませる。赤信号に阻まれた車が、揺れることもなく静かに止まった。ここを右に曲がれば、すぐに寮へ着く。街灯の減った道の中で、月の光がいやにうるさかった。
タイガはきっと、否、確実に自分をますます追い抜いていく。いや、もう既に抜かれているのか。身長だって。いわずもがなプリズムショーだって。所詮自分は期限付きのプリズムスタァでしかないことを、思い知る。走り出した車の中で、爪を食い込ませた指の先が痛かった。
再度音もなく、車は止まる。人工的な明かりの灯されたエーデルローズ寮。では、また明日。うん、ありがとう。桜の匂いを乗せた風が頬を撫でていくなかで、薄闇に溶けていく車を見送った。
玄関では誰が迎えてくれることもなく、ただいまあ、とひとりでに放った声は広いホールへ消えていく。横を見ればユキノジョウの札だけが裏返ったままだった。まだ帰ってきていないのだろう。今日はもう、ここへは戻ってこないのかもしれない。明日は確か二限に現代文がある。見せると約束したノートは、あとで写真を撮って送ればいい。そもそもガイダンスで終わってしまった授業の板書など、無いに等しい。
帰宅の挨拶のために食堂へ向かう道すがら、開いた練習場の扉から出てくるひとりの姿を捉えた。

「やっほ、シンちゃん」
「あ、カケルさん。おかえりなさい」

今帰ったんですか。首からタオルを下げたその姿から察するに、居残り練習でもしていたのだろう。来週末にはエーデルローズの入学説明会がある。最高学年のミナトと、家の都合で出られない自分とユキノジョウの代わりにシンとタイガ。元より練習が好きな三人だ。設けられた時間は少ないけれど、そのなかで各々の目一杯引き出せるように練習を欠かさない。
取り立ててシンは、どうすれば人を楽しませることが出来るのかを直感で理解し、体現するのが上手い。最初の頃からそうだった。そんなシンだっていつもどこかしらにぶつけた痕を作って、それが消えきらないうちにまたどこかをぶつけて。それでも笑っているのだから、彼は本当にプリズムショーが好きなのだろうと思う。

「そうだよん。シンちゃんもオツカレ」

締めた扉の向こうで、かすかにブレードがリンクを叩く音がした。着地。慣性に従って泳いだのち、また助走。数秒おいて、また着地。

「まだ誰かいるの?」
「はい。あとはタイガくんだけ」

まだ気温の高くない時季とはいえ、激しく体を動かせば当然汗も出る。首筋の汗を拭いながら、シンはそういえば、と言葉を続けた。

「今日のデザート冷蔵庫に入ってるって、ミナトさんが」
「あっは、ほんと。あとで食べるね」

じゃあ、と言って、自分はその消えていく後ろ姿にひらりと手を振った。下ろしたその手をポケットに収める。まったく、みんな優しいんだから。
あーあ、と目を閉じて預けた半身に体重をかければ、扉がゆっくりと開いていく。その隙間を抜けるように、先から続く音が鮮明に聞こえた。体を滑らせるみたく扉を抜ける。やや背中を丸めながら数段の階段を静かに下った、その真下。
ていうか、なんで隠れてんだろ。隠れなくていいじゃん、別に。照明の漏れる踊り場に出て、手すりに肘をついた。ワイシャツとブレザーと、その上に羽織った薄手のジャケットが肘を曲げるのにすこしきつい。

「やっほー。ターイガきゅん」

人の少ない練習場では張らずとも声がよく通る。名を呼ぶと、周回していたタイガはぴたりと動きを止めた。後ろ。右。左。上。彷徨わせた視線はわずかな間を置いて、自分を捉える。

「なんだよ」
「んー? 見に来ただけ」

ただいまあ。その言葉に、ああ、と二文字だけが返ってくることを、自分は既に知っていた。そして無暗に追い返そうとしないことも。見てんじゃねえよ。照れたように顔を背けていたいつかの姿がどうにも懐かしい。

「つーか、なんだよ。昼間のアレ」

左手首に巻いたプリズムウォッチの数字が、たった今ひとつ増えた。
そういえば今日のデザートは何だったのだろう。あとで冷蔵庫を開けて確認するのを忘れてはいけない。そして誰かが食堂に居ればいいけれど。ひとりで食べるデザートは、やや寂しいものがある。明日の朝に回しても大丈夫なものであればいいのだが。

「タイガきゅんこそ何ー? 三年の教室が怖いとか初耳なんですけど」

ひひ、と笑ってみせると、タイガはふん、と顔を背けて滑り出していく。眼鏡を変えたからだろうか。より鮮明に映る背中がやけに大きく見えて、つい目を細めた。眩しい。練習着の白が。輝きを弾くブレードが。香賀美タイガという人間が。鼻を埋めたジャケットから、春のにおいがした。泣きたくなるにおいだった。別に、春は嫌いじゃないのに。
大きくなったなあ。なんて、親でもないのに。笑っちゃうでしょ。

「おい。カズオ」
「え。あ、はい。なに?」

タイガは今度の入学説明会、とそこに続けた。先ほどまでその名前で呼ばれていたせいで訂正する機を逃すと同時に、間の抜けた声を上げてしまった。といっても、タイガに関してはもう訂正すること自体しなくなったのだが。二年と言う月日は、こだわりを曖昧にさせるのには十分すぎた。許容しているとも言えるし、絆されているとも言える。二年で自分も、随分変わってしまったのだろう。自分はすこし、タイガに甘い。

「新しい振り考えた」
「へえ。タイガきゅんやる気満々じゃん」

すごいすごい。あ、怒るかも。ガキ扱いすんじゃねえよって、怒るかも。けれどタイガはそれを受け流して何も言わない。操作しているミュージックプレイヤーに集中しているせいで、聞いていなかっただけかもしれない。
二年でタイガも、随分変わった。とても良い方向に。きっとこれからもっと変わっていく。ずっとそうだった。一日一日変化していく彼を、ずっと横で見てきた。タイガだけではない、他の寮生のことも。ずっと見てきた。

「まだ戻んねえんだろ。見てろよ」
「え、いいの? ウレシーなー」

嫌だった。見たくなかった。本当は、嬉しくなんてなかった。嬉しくなんてないのに。
タイガに置いていかれてしまう。その事実がひたすらに、いつも自分を追いつめる。足元の煉瓦の壁は厚くて硬くて。ちいさく蹴ると、柔らかい爪先がつんと痛んで仕方ない。
きっとこれからも、もっと変わっていく。タイガはもっと変わっていく。努力を積んで才能を磨いて、プリズムスタァとして多くの人から愛される。次の春になれば、自分はプリズムスタァという肩書を捨てる。それでいい。それでいいんだ。
適材適所。理に適った言葉が、こんなに悲しく響くこともない。

「そういや、ミナト先輩が」
「デザートでしょ。知ってる」

壁に埋め込まれた扉を開けて、伸びているコードにプレイヤーを繋ぐ。その後ろ姿にデザートは何だったのかと尋ねれば、すこし丸まった背中はプリンのなんか、わかんねえやつと曖昧に答えた。
でもうまかった。だろうね。こんなもの、分かりきっている会話だった。太陽が東に上り西へ沈むのと同じくらい当たり前のことを、自分たちはあえて言葉に起こす。けれどタイガがひとりを除く誰かを容易に称賛するだなんて、以前は当たり前のことではなかったのだ。

「タイガ、身長伸びたよね」
「あ? 知らねえ」
「伸びたんだって」
「ふーん」

鏡越しのあの姿は、今日一日すこしも擦り切れることはなかった。非対称な寝癖も。寝起きの開ききらない眼も。それを眠たげに擦った姿も。
いつだって数値に囚われないタイガが、羨ましかった。身長も。プリズムショーも。これからの人生も。自分は常に数値を頼りに生きているというのに。生きていくというのに。

「わり。これ、ボタン押して」
「オッケー」

階段を下りて、リンクの脇を歩く。床に放置されたミュージックプレイヤーにはタイガのマイソングが表示されていた。このボタンを一度押し込むだけで、曲は始まる。
んじゃ、いっきまーす。声をかければ、リンクの中央に移動したタイガはおう、と小さく言葉を返してくれた。
自分は、自分の人生を愛している。今までも。大人になって社会に出るこれからも。けれど同じくらいプリズムショーも愛していた。愛している。今までも。これからも。形を変えて、愛していく。そのことに後悔なんてどこにもない。未練だってどこにもない。
プレイヤーのボタンを人さし指で押し込むと、一拍置いて曲が始まった。前を見たまま壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込む。やや凹凸のある壁が背の肉を擦って痛い。
目を開けているのに、うまく見えなかった。白に塗り潰されたタイガが、あまりにも眩しくて。きらめきを前にすると、自分はもう何も見えなくなる。
後悔なんてどこにもない。未練だってどこにもない。そう思っていたのに。そう思っていたいのに。いっそその煌めきで自分の目を潰してくれたら、どれほどいいだろう。それさえ叶わないと分かっていて、しかし目を瞑ることも許されない。

だから、やはり無性に、泣きたくなった。



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