短編
目前に降り注ぐ細やかな煌めきを目で追いながら、通話を切った。すこし先で、練習着に身を包んだ仲間が、たった今ショーを終えたばかりの彼の頭を、ぐしゃぐしゃに掻きまわしている。
時間がなかった。今その光景に背を向けるのは惜しいけれど、急ぎ足で自分はステージ裏へと繋がる扉のノブを掴む。それまでもが会場の熱気を移されたようにぬるい。体重を乗せながら押せば扉は容易に開いて、廊下と会場の空気が自分を撒き込むように混ざり合った。
向こうの歓声は、扉が完全に閉まりきればやたらにぼやけて聞こえてくる。廊下を進めば進むほどどんどん小さくなるけれど、一瞬、それが轟きのようにどよめいたのが分かった。得点が出たのだろう。そのどよめきは歓びか、非難か。聞いているだけの自分には分からない。後者だったら嫌だな、と思うが、そんなおのれの予想は的中しているに違いなかった。
階段を下る足がもつれそうになる。震えているのかもしれない。転ばないように、これまでの生涯でいっとう早く、無駄のないように。転べば、立ち上がる分時間の無駄になる。今は一秒が惜しかった。最後の三段を跳ぶように下りる。急な衝撃を吸収した右足が、じん、と痺れて痛かった。蹲っている暇はない。痺れを携えながら、今は足を交互に動かすだけだ。
自分たちの控室には姿を現さなかった。今通路で、すれ違うこともない。どこに居る。どこに行けばいい。
ステージ上の音はもう聞こえない。次のショーは始まっただろうか。まだ始まらないでくれと祈る。
その時だった。廊下からひっそりと続く、薄暗い空間。背もたれのない椅子に、目的の人物は溶け込むように座っていた。まだ着替えてもいない、いつもの練習着のままだ。
目前に掲げた左腕。その人は手首に巻いたプリズムウォッチを眺めている。出番の時間を秒単位で知らせてくれるそれの数字が減っていくのを、ただ眺めているようにも見えた。
「ヒロさん!」
そのひと言を叫ぶために、肺に溜まったすべての酸素を使い尽くした。何度か咳込んで、収まった頃に失ったそれらを取り戻すように呼吸を深く繰り返す。そんな自分を、ヒロさんは驚いたような顔で見ていた。慌てるところを見せるのは、そういえばおのれのキャラクターではないと気付く。
「カケル? 何急いで、」
「大丈夫ですから!」
大丈夫ですから。思いの外、自分の声は通路の中で反響していた。何がだよ。肝心なことを言えていない。時間がなかった。ヒロさんの左腕の、プリズムウォッチを見た。今のショーが終わるまで、あと四分とすこし。時間がない。一分が六十秒だなんて、誰が決めた。だからまるで早送りのように、捲し立てるように、自分は言った。
「大丈夫なんです。もう。曲。ヒロさんの」
エーデルローズが持つ負債の保証が、つい先ほどの電話で確実なものとなったこと。その手続きはすぐさま行われたということ。つまり今、あの曲は持つべき人のところへ返ったのだということ。
事情を事細かに説明する時間はなかったし、つもりもなかった。あと三分半。伝えたいのは、今あの曲を歌えるのは、速水ヒロただひとりなのだと言うことだけだ。
別に、今ヒロさんに言う必要は無かったのに。これは単純に、自分の我儘なのだ。
速水ヒロ。自分が憧れた最高のプリズムスタァ。彼に最高のステージで、最高のショーをして欲しい。たったそれだけの願いだった。
だからこうして息を切らして、目を見開く彼に向かって、すぐにでも駆け出しそうな足を押さえつけて、声を上げている。なんだか泣いてしまいそうだった。それは個人的なただの願いでありながら、目的のための手段でもある。眼の奥が熱くなる。純粋に願うだけでありたかった。こんなものは、ほとんど強制に近いのかもしれない。
「それだけです。すいません。自分、すぐ行かないと」
だからショー、頑張ってください。下げるつもりはなかったのに、自分は自然と頭を垂れていた。勢いで後ろ髪がつむじにかかる。
じぶんはひとつ、やり遂げた。残していることがもうひとつある。先を見据えれば、しかしすべきことは無限だった。こんな初歩的なところで、転ぶわけにはいかない。
パーカーのポケットに詰めたスマートフォンが震えた。すぐにそちらへ行くと言ったのに。まだ到着しない自分を案じての電話だろう。だからそれを合図にヒロさんに背を向け、もう一度駆け出した。通話ボタンに親指を、
「カケル!」
振り向けば、ヒロさんが両手を拡声器のようにして、立っていた。右手が振動を繰り返して、くすぐったい。
「ありがとう」
もしかすればヒロさんは、自分が伝えなくともあの曲を使うつもりだったのかもしれない。失格になると分かっていて、それでもあの曲を。自分が出来る最高のショーをするために。その手助けが出来たのなら、すこしは報われたと言ってもいい。
自分はただ、自分のやりたいことを果たしただけだ。果たしている途中なだけだ。自分の居場所を、守ろうとしているだけだ。
尊敬するプリズムスタァ。そんな彼の感謝の言葉に片手を上げて応えるのは、どうにも違う気がした。だから足を止めて、もう一度深く頭をさげる。
それが出来るのは、今はもう、あなたしかいないんです。
そして自分は、今度こそサーバールームへと駆け出した。もう振り返ることはない。目的をひとつ達成するために。
願いを、叶えるために。
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