短編(CPなし)
ちいさな再生ボタンを押し込めば、イヤホンから一拍遅れて音が流れ始めた。それは歌の入っていない、数日前に聞いたばかりのあの曲だった。
午前八時二十五分。クラスメイトがホームルームを待つ教室で、私はひとりその音の流れに耳を傾ける。教壇を囲むように集まって、会話をする生徒。机に伏して眠る生徒。黒板横の掲示物は昨日と変わらず、雑多なままだ。水色。黄色。白。さまざまな色の用紙が、味気ないコルクボードを彩っている。いつもの光景だ、と思う。今日も、昨日と同じく平穏に始まるのだろう。そして、何事もなく終えられればいい。
右の指先で、曲の調子に合わせるように机をつつく。緩やかな三拍子の音の波。揺らしてしまいそうになる身体を意識的に留めて、私はポケットのなかに収めていたカードを取り出した。今朝、このプレイヤーとともに下駄箱に入っていたものだ。MDプレイヤーなんて、ずいぶん昔に触って以来だったけれど、その単純な使用方法は忘れていない。
色々助かった!
手にしたそこには、ただの一行だけが勢いよく記されてる。これを用意した人物には既にあたりが付いていた。先ほど廊下の壁に消し残された音符のかけらを見て、ふと思い至ったのだ。
あとでお礼を会いに行こうと思ったものの、あの先輩が素直に教室の椅子に座っているとは思えない。私ひとりの力で、校内の何処かにいるであろう先輩を探し出せるとも思っていない。それなら、そのとなりの教室にいるはずの先輩に託けてみようかと考えたとき、誰かが私の肩を叩いた。
右を見れば、不安げな顔をした明星くんが立っていたものだから、私は何かしらの予感を得て、両耳を塞いでいたイヤホンを取る。おはよう、と先ほど交わしたばかりの彼も、昨日と変わらない笑顔であったはずなのに。
「どうしたの?」
「あ、ごめんね。なんか、ワカメさんがあんずのこと呼んでるんだけどさあ」
ワカメさん。ひそめられたその声も、表情と同じ色をしているように思えた。噂をすれば影とは、きっとこのことだ。名を声に出していたわけではないけれど。
中途半端に開いた前方の扉を見る。そして明星くんを超えて後方の扉を見やれば、そこには確かに、その人が立っていた。月永先輩のとなりの教室にいる、その人。
「なんだろう。なんかあったらすぐ呼んでね」
「ありがとう。でも、大丈夫だと思うよ」
先輩のユニットにはこの数週間、依頼したライブの件で随分世話になった。大丈夫、と言っておきながら、頭のなかでそのさなかに発生したいくつかの不具合を浚う。ライブ自体は恙無く終える事ができたけれど、改善点を挙げればきりがない。
おそらく何かしらの指摘を受けるのだろうと伺いながら近づいたものの、予想に反してその顔は落ち着き払っているように見えた。そこかしこが青で埋まった空間で、先輩の緑色のネクタイは些細な違和感となってこの目に留まる。
「おはよ。あんずさあ」
おはようございます、か、すいませんか。そのどちらかで切り出すか一瞬迷った私に、先輩は呆気なく前者を告げた。これから聞かされる用件は、きっと悪い知らせではないのだろうという予感を伴う、ゆっくりとした声で。
「あ、おはようございます」
「うん。今日の昼休みなんだけど、」
この人を前にすると、自然と腰が立って背筋が伸びる。会うたびに姿勢が悪いと指摘されてきたせいだろう。見定めるような眼差しが、あの頃はすこし怖くて。
その綺麗なまなこを見返せるようになったのは、この人の見えにくいやさしさというものに幾度も触れたからなのかもしれない。あとは単純に、うつくしい瞳がずっと眺めていたいくらいにうつくしいからという、ただそれだけの理由もあった。
「何? じっと見て」
「なんでもないです。昼休みですか?」
「そう。昼休みさあ」
空いてるか、と尋ねる声の傍で、私はす、と通った鼻筋を辿っていた。
今のところ、昼休みはただご飯を食べることしか予定がない。企画書を眺めるでもなく、廊下を歩きながらでもなく。針を動かしながら舐める飴でもなく。明星くんたちに連れられて食べるはずのお弁当は今日、鞄のなかに入れてきた。蜜をふんだんに蓄えた林檎の赤が脳裏を過ぎる。
「今のところは。何かありましたか?」
きん、こん、と流れ出した予鈴が、ホームルームの開始をちらつかせる。だからといって喧騒がちいさくなる様子も、その気配もないのだが。
この人は今、私のどこを見ているのだろう。髪は跳ねていないだろうか。ブレザーに皺は付いていないだろうか。スカートの襞は揃っているだろうか。先輩と向かい合っていると、そういった細かなことが気にかかって、どうにも落ち着かなくなる。
お茶。ぽんと放り出されたその短い単語を聞き取ることができずに、私はえ、と一度聞き返してしまう。だから先輩はゆっくりと、先ほどよりも確かな大きさで、お茶、と言った。
「誘うって言ったの、覚えてる?」
やべえ。俺日直じゃん。後ろで、誰かが慌てたように立ち上がる。早く日誌取りに行けよ。別の声がそう急かす。声の主は、私と先輩の横をするりと抜けて、廊下へと駆け出していった。
その背を見送りながら、そういえば、と思い出す。あんな一瞬の口約束を、先輩は覚えていてくれたらしい。あのとき先輩の目の下にできていた隈はすっかり消えていた。きっと、よく眠れるようになったのだろう。
結局私は、先輩の抱えている問題というものが何であるかを知ることはなかった。分かったのは、先輩は先輩を探していたという、ただそれだけだ。私はそれよりも深いところに触れることを、きっと許されていない。これからも許されることはないのだろうと思う。
「もちろん、覚えてます。でも、あの」
「ああ。また今度の方がいいなら、そうするけど」
お茶って時間でもないしねえ。決して断りたいという意図ではなく、ただ先輩を前に食べる昼食とは一体どんな味がするのかと、一瞬考えてしまっただけだ。白米はちゃんと、白米の味がするのだろうか。コロッケにかけたソースは。トマトの実は。林檎はちゃんと、昨日の晩食べたそれと、同じ味がするのだろうか。
先輩を前にすると、背筋が伸びる。それと同時に湧き上がる緊張感を、今も拭えない。しかし私が抱いているそれは否定的なものではなく、一種の憧憬に近いのかもしれない。うつくしいものに対するあこがれにも似た焦心を、瀬名先輩を見るたびに抱いてしまう。
誰かの背に隠れていたいのに、私と先輩のあいだに敷かれた扉のレールはそこにあるだけで、何もしてくれない。明星くんを呼ぶのも不自然で、私はすこし余るカーディガンの袖を握った。
「いえ。嬉しいです。覚えててもらえて」
それはまぎれもない本心であったから、私はへらりと眉尻を下げてみせる。じゃあ、昼休みはテラスにいますね。低い位置で絡ませた指が、いやにあつい。床に、細い銀のクリップが落ちていた。あとで拾ったそれを塵箱に入れるべきか、落し物箱に入れるべきか。そんなくだらないことに、今迷う。
「うん。ていうかさあ。いつも思うんだけど」
ネクタイの結び目を見る。首に、顎に。そうして見上げたまなこは、確かに私の目を捉えていた。背中が熱をもっていくのがわかる。視界の端でつい隠れ場所を探すこれは、私の癖なのだと思う。先輩を前にしたときだけ顔を出す、どうしようもない私の癖だ。
「なあに警戒してんの? こっちは取って食うつもりもないのにさあ」
すべてを見透かしたように、先輩はふ、と笑ってみせた。いつからだろう。誰にでも分かりやすいくらいの笑顔を、先輩が見せるようになったのは。形のいい目を細くして。口元を右手で覆うそれはきっと、先輩の癖に違いない。
そのすがたを目に焼き付けていたいのに。図星を突かれて余裕のない私は、汗の乾かない両手をおのれの前でぶんぶんと振ってみせる。
「え、そんなことないですよ。全然。全く。先輩と話すの、楽しいです」
「あ、そお。まあいいけど」
それだけ。じゃあ、また昼休みに。
言いながらひらりと手を振って、先輩は教室に背を向けた。数歩離れたその後姿に、私は伝えようとしていたことを思い出す。机の上に置いたままのMDプレイヤー。イヤホンの線が、下手に絡まっていないといいけれど。
「瀬名先輩」
慌てて呼び止めれば、先輩はすぐに振り向いてくれる。何、と言いたげな表情だけで十分なのに、加えて声が同じ言葉で続きを促す。
「月永先輩、今日来てますか?」
「あー。さっき見たけど」
あいつが何? 今日の空はやたらに澄んだ色をしていて、視界に入れるだけで心地良い。廊下の奥から、先生がのんびりとした速度で歩いてくるのが見えた。
「お礼言いたくて。月永先輩、曲をくれたんです。瀬名先輩たちがこのあいだ歌ってた曲」
ああ、と思い立ったように、先輩は身体をこちらへと向け直す。一、二、三、四。五つ目の釦は、今日も変わらず、顔を出していない。
「律儀だねえ。あんずが俺たちを手伝ってくれたから、曲はその礼なんでしょ」
しかし先輩はううん、と指先で顎に触れて、考えるような仕草を見せた。すこし伏せられた瞼が、まなこに影を作っている。そのうつくしい光景を、私は先輩の言葉を待つふりをして、ただじっと眺めていた。
「それなら、あいつも呼んどくよ」
それで、自分から伝えれば? 先生が教室に入ったのと同時に、廊下には本鈴が響いた。一、ニ分程度であれば遅刻を見過ごしてくれる先生だけれど、瀬名先輩のクラスの方は知らない。あ、やば。そう呟いて足早に立ち去ろうとするその人へ、すこし声を張って感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます」
「いや、来るかは知らないよ。あいつ」
いくつかの足音と鐘の音に、ふたりぶんの声が混ざる。やがて先輩は階段へ続く角を曲がって、私の視界から消えてしまった。
スピーカーから漏れる鐘の音の名残がじいん、と空間に、この身体に溶けていく。その感触にあの日、あの曲が終わった直後の一瞬を思い出す。
吹き抜けの空間に反射して、降り注いだ音の雨。ぽつぽつと身体に染みたあの音の粒たちは今、波となってこの耳の奥に揺れている。
ひょいとクリップを拾いながら、そういえば、あの曲の題名をちゃんと聞いていないことに気が付いた。あとで先輩に会ったときに尋ねようと決めて、その銀色を簡素な落し物箱に入れる。
ホームルーム始めるぞ、と一日の始まりを告げる声に急かされて、私は自分の席へと踵を返した。
7/7ページ