短編(CPなし)



たまたま点けたテレビ番組で、その人はバンジージャンプ台の先端に立って、死にたくないよって情けなく叫んでた。
そんな馬鹿みたいな映像こそ、あたしがその人を知ることになった一番のきっかけで、その人を好きだと感じた最初の瞬間でもあった。


 ×××


文系と理系、どっちが好きかなんて極端な質問は、高校一年生にするものではないと思う。
あたしは右手の親指でくるんくるんシャーペンを回しながら、先生の話に耳を傾けていた。さっき回されてきたプリントにはクラスと名前だけを書いて、あとはずっと、文系と理系のあいだに挟まれてる黒い丸を見つめている。嘘、先生の話なんて全然聞いてない。あたしの頭のなかではずっと、昨日聞いたあの人の話がこの親指で回ってるシャーペンみたいにずっとくるんくるん回っているんだから。
もうアイドルはしないって、あの人は言ってた。それを聞いて、じゃあそれ以外何すんのって、あたしは思った。それ以外になんかできることあんのって、思ったあたしはちょっとひどいやつなのかもしれない。もうひどいやつでいいよ。だってバンジーできなくて泣いてるあの人を見て、こいつ馬鹿だなーって思って、あの日ちょっと笑っちゃったんだもん。
つん、としかけた鼻を啜るあたしに、また別の一枚のプリントが回ってくる。大きく模試って書いてある紙の束から、一番上のやつを取って後ろに回した。またうるせえのが来たって思ったから、あたしは机の下で大げさに足を組んで、その文字列に威嚇の姿勢を示してやる。それでもひとまずプリントに眼を通そうとするあたしは、どこからどう見ても真面目ちゃんなのである。
模擬試験日程。五月三十一日。あの人が、アイドルでいてくれる最後の日。ど平日で、余韻もろくに味わえやしない運の悪さも、なんかあの人らしくて笑えてしまった。そんなんだから最後のライブは前の週の土日に開催予定で、チケットも大急ぎで受付が始まったところだ。あたしはどっちに行こうかなって思って、そもそも行くかどうかも悩んでいて、行ったらあの人に悪態をついてしまいそうな自分が怖くて、まだサイトの申し込みページにさえ飛べていない。
あの人も昨日の配信で、六月以降どうしよっかなって言ってた。最近将来のことよく考えてるって。なんだ、それあたしとおんなじじゃん。でもそのあと昨日歯医者行った話してけらけら笑ってたから、あたしもそのくらいの気軽さで文系と理系のどっちかに丸つけちゃっていいってことなのかも。かちかちと繰り出したシャーペンの芯。それはなかで折れてたみたいで、五ミリくらい出したらプリントの上にぽとりと落ちてゴミになった。
昨日の配信中、コメントで聞いてみればよかったのかもしれない。文系と理系どっちがいいですかって。そしたらあの人はどっちもできないからアイドルになったって笑うんだと思う。あたしが格別に好きな笑顔で。光を取り込んだ綺麗な瞳をぐっと細めて。それ、大人が子供にしていいアドバイスじゃないから。あの人が本当にそう答えてくれたら、あたしはきっとこんな風にコメントを返すのだろうけれど。
でもあたしは、そんなことが聞きたいんじゃなかった。もっと真っ当なことが聞きたかった。なんでアイドルやってくれないんですかって、考え直す機会を昨日何十回だって与えて、困らせてやるべきだったのかもしれない。他のグループ受ければいいじゃんって、他のグループなんてろくに知りもしないのに、無責任に他人の人生に口出ししてやればよかったのかもしれない。でもあたしみたいに金もない、CDもろくに積めない高校生の言うことなんて、あの人にも、あんなでっかい事務所の偉いひとたちにも届かないことくらい分かってた。分かってるからSNSで繋がってるだけの友達に、ずっと黙りっぱなしの友達に、声を掛けることもできないままただ時間だけが過ぎていく。
大人なのに、大人の事情に従うしかできないあの人に、あたしはちょっとむかついてる。むかついてるから、怒りの感情の矛先を机の脚に向けて放ってやった。ちょっとおおきな音がしたけど、先生はなにも聞こえてないみたいな顔で話を続けている。あとちょっとしたら、学年で講堂に集まってもっと詳しい説明をしてくれるらしい。
ああ。どうせ聞くならあの人の歌がよかったな。どうせ見るなら、あの人の人格が入れ変わったみたいな踊りが見たい。それがあと数ヶ月でこの世から失われてしまうだなんて、とんでもない世界の損失としか言いようがなかった。そう思ってるのはあたしとあの人のファンだけで、当の本人であるあの人はアイドルに未練はないみたいな顔をして、平気で歯医者行った話とかし始めるんでしょ。自分のグループが解散しちゃうのに。別の日に配信してたメンバーで、泣いてる子だって何人かいたのに。あの人は空気を読めないのか、そもそも読もうとしてないのか、アイドルのうちに髪染めてみたいとか、えのきみたいにへらへら身体を揺らして言い出すんでしょ。
あたしはそういう、あの人の周りに流されないところが好きだった。好きだったから、アッシュとか似合うと思うってコメントできちゃうし、いい歳なのに韓国系? って困った感じで笑ってるあの人のスクショ撮ったりしてしまう。いい歳って、あたしと五、六歳しか変わんないのにね。出会った時はお互い未成年だったのにね。時の流れは早いなあって思ってたら、いつの間にかクラスメイトたちが講堂へ移動するために席を立ち始めていた。椅子がぎいぎい鳴るなかで、あたしも適当に折り畳んだプリントとシャーペンを掴んで席を立つ。
ふたつうしろの席。そこに眼をやれば、あたしに話し掛けようとしてたらしい友達と視線が合った。文理どっちにする? あたしが聞く前に尋ねてくるのものだから、迷ってる、だよね分かる、って頷き合いながら、あたしたちは後ろのドアへと歩いていく。
背後のホワイトボードには、多分クラスメイトの誰かが書いた、ドラマの番宣みたいな落書きが残っていた。毎週火曜夜二十二時。その下にでかでかと書かれたドラマのタイトル。となりの吹き出しに添えられている瀬名泉って名前。そこに引かれた赤線が、その人に対する好意をひたすらに強調していて騒がしい。
瀬名泉って、知ってる。あの人の事務所も入ってるでっかいビルで、すっごい人気のグループの人。演技はあの人の方が絶対絶対うまいのに。それでもあの人は一生ドラマにも映画にも出ることができないで、顔だけの瀬名泉が何故かテレビに出てますます有名になるんだろう。あなたは、あんたたちのグループは、あの人がアイドルじゃなくなることも知らずに、あの人が立ったこともないおおきな舞台に、これから何度も何度でも立つことができるんだろう。
アイドルってなんなんだろうね。今日はずっと哲学みたいなこと考えてるから、もしかしたらあたしにはそういうのが向いてるのかもしれない。つまり文系に丸をしろって、神様があたしに言っているような気がしてならない。まああたし、物理とか化学とかよく分からなかったし。眼に見えないものを考えるのって苦手だし。そしたら国語だって苦手じゃんって話になるから、あたしは多分なんにも向いてない。あたしとあの人はひとつもおんなじじゃなくて、同じであるわけがなくて、あの人は誰かの何者かになったけれど、あたしはあの人の何者にもなれないまま終わるのだ。
あたしなんかと違って、演技がうまいあの人は。踊りだって、どこにいても目立つくらいうまいあの人は。そこそこうまい歌だって、練習すればもっともっと良くなるはずだったのに。それらを全て捨て置いてどこかへ行こうとするあの人を、引き止めるためにあたしは今何を選べばいいんだろう。
ホワイトボードの前を通り過ぎながら、あたしは掴んだマーカー消しでその落書きに真っ白な線を引いてやった。ふたつに割れた落書きに込められた感情が、やっぱり今のあたしにはうるさくて。
先を歩く友達の背中を、追いかけるふりをしてそこから逃げた。



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