短編(CPなし)



1年B組のヒメミヤトウリくん。至急生徒会室まで来てください。繰り返します。1年B組――。
俺の意識をまどろみの海から引き上げたのは、まだ短い人生で親より誰より、兄者よりも聞いたま~くんの声だった。うすく開いた眼の先には皺のついたシーツがあって、すこし持ち上げた視線はただの白い壁とぶつかった。
ぷつり、と音を立てて校内放送は途切れる。直後、強く床を打つ音が響いた。何が落ちたのだろうか。誰が転んだのだろうか。緩慢な動作で振り返った背後には、ただ踊っている男がいた。だん、と白いスニーカーが、磨かれた床を踏みつける。そこには、見たこともない振りで身体を揺らすセッちゃんがいた。額に汗を浮かべて。鏡の前に立てられたスマートフォンからは同じく聞いたこともない音楽が流れており、セッちゃんはその一定の調子に合わせて踊っていた。
体を起こして、目を擦る。身体を丸めて眠っていたせいか、どうにも節々が凝っていてぎこちない。ぐ、と腕を天に突き上げて背を反らせば、身体のどこかからぱき、と気味の良い音が聞こえた。同時にこみ上げる欠伸を噛み殺していたとき、セッちゃんは俺の存在に気が付いたようだった。ああ、起きたの、と言わんばかりのまなざしで俺を一瞥したのちに、床に畳み置いたタオルを拾い上げる。

「なにその振り。俺も覚えるやつ?」
「違うし。俺がただ踊ってるだけ」

一年B組の、ヒメミヤトウリくん。校内の電波に乗せられたま~くんの声は、普段よりもどこか高かったように思う。機械を通した人の声というのは、あらかじめ用意された声のパターンと似たものに変換されて相手に届くのだと聞いたことがある。例えば電話のように。どうやらこの世には、ま~くんの声にぴたりと当てはまるものはないらしい。もしかすれば、ただ余所行きの声をマイクに吹き込んだだけなのかもしれないけれど。
床にどさりと座り込んだセッちゃんは、手に収めたスマートフォンを眺めている。画面に指を這わせるわけでもなく、そのなかで動く誰かたちをじっと見ていた。寝床を抜け出し、ひたりひたりと四つん這いで近づく。背後から覗き込んだその画面には、先ほどのセッちゃんが踊っていたものと同じ動きをしている女の子たちが映っていた。額に前髪を張りつけた誰かたち。括らない長い髪の毛が、動きに伴ってひらひらと靡いている。まるでそれさえも振りの一部であるかのように。

「なにこれ。誰?」

どん、か、どん、か、どん、か、か。ただの拍子を打つだけの短い音のなかに、複雑な動きがいくつも散りばめられている。び、と最後に指を差した、誰かの睨みつける眼。ただ踊っているだけ、と言っていたセッちゃんの言葉は、嘘ではないのだろう。これを踊っていたら、きっと歌が疎かになってしまう。それは俺たちにとって、致命的な欠陥となるに違いなかった。

「昨日テレビでやってたやつ。気になったから踊ってんの」

くまくんには難しいかもねえ。そんな些細な雑言を聞き流しつつ、俺は腕を伸ばして、動画のシークバーを開始位置に戻した。この手の振りなら多分、ま~くんの方が得意な気がする。俺はダンスを苦手としているわけではないのだが、だからと言って特技に書き連ねるほどでもなかった。知らない曲は一度聞けばそれなりに弾きこなせるけれど、どれだけ集中したところで振り入れには半日かかってしまうのが現状だ。そんなものを得意とは、特技とは言えない。

「あ。俺、今の子好き」
「はあ?」

画面のなかで汗水を垂らしているこの子たちは、恐らく俺と同じアイドルなのだろう。何十人と並んだそのなかで、一瞬映り込んだ女の子。前髪を後ろに留めて、ちいさな顔を火照らせて。オーバーサイズの白いシャツに、黒のハーフパンツ。一瞬宙を蹴る動作に、ま~くんの面影を見たような気がした。

「へえ。顔?」
「見た目」
「顔じゃん」

一旦終了したはずの動画が、自動的に再生される。ループの設定にしているのだろう。セッちゃんはそれさらったのちに腰を上げ、先ほどと同じく鏡の前に立った。どん、か、どん、か、どん、か、か。膝を内に外に素早く切り替えて、拳を作った右手を左胸に押し当てる。瞬時に膝の力を抜き頭をさげたかと思えば、次の瞬間、その右手は鏡のなかのおのれを睨みつけながら指差すのだ。たったの十五秒。そのあいだ忙しく身体を動かすセッちゃんを、ずっと見ていた。体幹がしっかりと作られている人間の動きを。蛍光灯の灯りに眼を焼かれながら、床を打つ白いスニーカーを目で追っていた。

「何。踏むよ」

今日のスタジオは静かだった。ただひとりの人間によって起こる靴音以外には。いつもならとうに練習が始まっている時刻だというのに、他のメンバーは何処に行ってしまったのか。

「えー。ひどい」

ていうか、他の三人はどうしたの。ふたたびこみ上げてきた欠伸を、左手で隠す。そうやって身体に残る眠気を出し切ってから、俺は着ていたブレザーを脱いだ。適当に畳んで、前に放る。べしゃりと鏡にぶつかったそれは畳んだ意味を成さないほどに歪んで、落ちた。着たまま眠っていたせいか既に皺が寄っていたし、今更増えようが帰ってアイロンを掛けなければならないことに代わりはない。

「なるくんは仕事。かさくんは家の用事。王さまはあ、」

もう来るんじゃないの。スマートフォンは、音源を繰り返すことをやめない。どん、とどこか太鼓の拍子に似た音が、しきりにスタジオの空気を揺らす。

「ね、俺にも教えてよ」

シャツの袖を二度折って捲り上げる。ローファーは滑りやすいから、靴下ごと脱ぎ去って裸足になった。そういえば練習用のスニーカー、どこやったっけ。左足の親指の爪端が、肉に刺さってすこし痛かった。そろそろ爪も切らないとなあ。準備運動の真似事のように、二度膝を曲げる。髪に寝癖がついていることに気が付いたけれど、今は別に、どうでもよかった。
頭上で交差させた腕を、開きながら下ろす。もう一度頭上に持ち上げて、今度はその形のまま下ろす。開いた足はその動きに合わせて二度屈伸。腕を開いて、左脚で宙を蹴りつける。そうしたら肘を――。ああ、いいや。とりあえず動いてみれば。

「勝手に見て覚えればあ」

先ほどスマートフォンの画面を覗いたときに、動画のタイトルを覚えた。これを、今度ま~くんに見せてみようと思う。身体を動かすのが好きなま~くんはきっと、へえ、ちょっとやってみようぜ、なんて言って立ち上がるに決まっている。そのとき複雑な動きに頭を捻るま~くんに、俺がやさしく指導してあげるのだ。
え。すげえじゃん、凛月。ま~くんが頭のなかでそうやって俺を褒めるから、ついにやついてしまう口元を抑えた。ひとりでに笑う不気味な俺を、鏡は偽ることなく映し出す。そして隣に立つセッちゃんが、そんな俺に訝しげなまなざしを向けているのも。

「なあに企んでんの。怖」
「別にい」

どん、か、どん、か。曲は俺を置きざりにして、何度も何度も繰り返される。その視線も姿勢も、指先の動きまでほぼすべてを身体に叩き込んだセッちゃんが、まだ覚束ない俺を見てあざ笑うさまが何とも憎らしい。
こんな感情でさえきっと、ま~くんの褒め言葉が容易く上書きしてくれるだろうから。
それなら背中にうすく滲みはじめたこの汗も、悪くはないと思えるのだ。



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