短編(CPなし)
月永くんの肘に押された鉛筆が、ころころと机上を転がって床の上へと落ちていく。僕はその一部始終を、あ、と思いながらもとなりで静かに見守っていた。
深緑色の細長の六角形。薄汚れた床の上で回転を続ける鉛筆は、僕の机の脚にぶつかったのちに動きを止めた。拾い上げたそれをどうしようか悩んだけれど、僕はすこし考えてから、眠っている月永くんの机の上に戻してやることに決めた。
本当はそのまま自分の筆箱のなかに仕舞ってしまおうと思っていたけれど。月永くんが曲を書くすがたを見られなくなってしまうのは、僕だって困るから。そもそも意気地のない僕に、彼にとっての必需品を奪ってしまう勇気もなかった。
それなら、と僕は筆箱のなかから余分に入れておいた消しゴムを取り出して、鉛筆のそばに静かに置いた。だって書くものが必要なら、消すものだって必要だろう。月永くんはいつも、教科書や筆記用具の類を持ってこない。机の上にあるのは大抵皺の付いた五線紙か裏紙と、そこらで拾ってきたような鉛筆やボールペンだけだった。だから僕はいつだって教科書を見せる用意も、筆記用具を貸す用意もできているというのに。月永くんから声を掛けられたことは、これまでに一度もなかった。
そもそも月永くんには授業を受けるという気がないらしい。教室にすがたを現さない日だってある月永くんは、どうして今日は登校することを選んだのだろう。そうして思案する僕の脳裏に嫌なやつのすがたが浮かんできたものだから、誰も見ていないのをいいことに一瞬顔を顰めてしまった。
となりのクラスのあいつだ。瀬名。瀬名泉。きっと今日は、ユニットの練習日なのかもしれない。そうでなければ、こんな風にただ座っているだけの退屈な時間に、月永くんがすがたを現すはずがないのだ。とはいえ月永くんは現在、その時間を睡眠に費やしていて、退屈であるという姿勢をまるで隠そうともしていないのだが。その寝顔がまるで天使のように愛らしくて微笑ましいものだから、板書を写す手は先ほどからぴたりと止まったままだった。
だってこんなの、ただ無防備に眠る女の子のようにしか見えない。うすくちいさく開かれたくちびる。へなりと下げられた穏やかな眉が、まるで平和の象徴のように小作りな月永くんの顔を彩っていて愛らしかった。写真にでも収めてやろうかと画策すること十数度目。撮影したところで逆光になってしまいそうなことに気が付いて、その企みは未だに遂行には至っていない。次の席替えまでのあいだに、狙える機会が訪れればいいのだが。
黒板の上でチョークがかつかつと削られていく音が響く、普段と何ら変わりのない教室。それなのに高鳴り続ける僕の心臓が、先ほどから身体に忙しなさを訴えていて落ち着かなかった。だって月永くんがいけないんだ。月永くんがあの日、僕にあんまりにも眩しい顔をして笑いかけてくれたから。おまえ良いやつだなって、何の取り得もない僕の肩を叩いて褒めてくれたから。思い返しすぎてもはや擦り切れているその記憶を反芻しつつ、僕は長い睫毛に縁取られたうすい瞼をじっと見つめていた。
外から降り注ぐ陽射しが鋭い。その光が月永くんのしろい腕をよりいっそうしろく映えさせていて、僕の眼にはただひたすらに毒だった。月永くんには夏が似合う。夏なんて暑いばかりで、僕はまったく好きではなかったけれど。でも豪快に笑う月永くんの笑顔は、まるで太陽に向かって咲くおおきな向日葵みたいだから。月永くんと出会ってからは夏もそんなに悪いものでもないような気がして、光の溢れる窓の外をつい眼を細めて眺めてしまった。
月永くんのやわらかそうな頬に敷かれた数枚の五線紙。今にも机から滑り落ちてしまいそうな一枚には、乱雑な文字で題名が記されていた。セナのボールペン失くしてごめんなさいの曲。僕は瀬名のことがまったく好きではないから、その文字の並びを読み取った瞬間にふたたびうんと顔を顰めてしまうのであった。
どうして月永くんは、瀬名なんかと仲良くしているのだろう。確かに瀬名は芸能人のなかでも稀に見るくらい綺麗な顔立ちをしていて、この学院でも目立つ存在ではあるけれど。背格好だって今時だし、踊りだって飲み込みが早い上に減り張りがあって、僕なんかとは比べ物にならないくらいに上手いけれど。しかしそれらを無に帰すくらいのあの態度が、こちらの劣等感や焦燥感を絶えず刺激しにきていてやまないのだ。
あんな歪んだ性格のやつなんて、放っておけばいいのに。そもそもああも捻くれた人間と、誰に対してもやさしい月永くんが噛み合うわけがないのだ。自分はなんでもできるからって、できない人間のことを常に見下しているようなやつなんて。できない人間の努力を理解しようともしないやつなんて。いつだって明るくて天使のような月永くんと、どうしたって釣り合うわけがなかった。きっと月永くんのことだから、学年でも孤立している瀬名を見過ごすことができないだけなのだろう。わざわざユニットを組んでまで活動しているのだって、もしかしたら瀬名に何か弱みを握られていて離れることができないだけなのかもしれない。
一体どこまでやさしい子なのだろうか、月永くんは。月永くんの献身性に感嘆している僕を、教壇に立つ教師が唐突に指名した。元々騒がしかった心臓がさらに跳ね上がって、思わず上げた返事が裏返る。次の頁の英文を和訳してみろ、と教師は言った。僕は授業の予習を欠かさないから、その指名に応えることはまったく難しいことではなかったけれど。熱を持った心臓をそのままに、僕はすでにノートに記入しておいた和訳を書かれているままに声に起こす。月永くんが目を覚ましてしまわないように、すこしだけ声をちいさくして。
僕が読み上げたそれに、教師は満足したようだった。よし、と頷いた教師は、ふたたび黒板に向き直って英文に含まれる熟語の解説を始めていた。それを書き写す僕のとなりから、ちいさな呻き声が聞こえて手が止まる。なんてことはない。先ほどまでこちらを向いていた月永くんが、身じろいで窓の方を向いてしまっただけだった。
その天使のような寝顔が見られなくなってしまうのは残念だけれど。無造作に結ばれた髪だって、まるで起き抜けの猫みたいで可愛らしいから。それを眼でなぞることを繰り返していたって、きっと飽きがくることはないだろう。
枕にしていた腕が動いて、月永くんの机から楽譜が一枚滑り落ちていく。セナのボールペン失くしてごめんなさいの曲。板書を終えた僕は、拾い上げたそこに書かれた音節たちを眼で追った。月永くんは一体、この音の並びにどんな編曲を加えるのだろう。そうして完成した曲を、いつか瀬名にも聴かせるのだろうか。月永くんが生まれ持って磨いてきた才能の一部を、いとも容易く涼しい顔をして受け取るあいつ。そのすがたを思い浮かべるだけで、楽譜を摘む指には力が篭り、元々あった皺の上に新たな皺が浮かび上がる。
羨ましい。月永くんに曲を書いてもらえるだなんて羨ましい。僕は一度もそれをしてもらったことがないというのに、月永くんがあいつに楽譜を渡しているところを、僕はもう何度も目の当たりにしていた。教室でも。廊下でも。校門の前でも。授業中でも。そしてそれを当たり前のような顔で受け取る瀬名のことも、僕は同じ回数だけ遠くから見届けてきたのだ。
あいつと僕の、一体何が違うというのだろう。僕だって僕なりの理想のアイドルを目指して日々努力をしているのは変わらないというのに。不真面目な生徒が多いなかで、休むこともせず授業にだって真剣に取り組んでいるというのに。どうして素質のあるやつばかりがいい思いをして、僕みたいな平凡な人間には日の目を見る機会さえ与えられないのだろう。
考えたって分からないから、僕は手にしていたその一枚の楽譜を、折り畳んでノートの最後の頁に挟み込む。どうせあいつは、月永くんの作る曲の素晴らしさなんて知らないに決まっている。記されたこの楽譜の束にどれだけの価値があるのか知らないまま仕舞い込んで、時折思い出したように眼を通すだけに決まっているのだ。
そんなやつに月永くんの曲を渡すわけにはいかない。僕はそう固く心に決めて、ぴょんぴょんと機嫌の良さそうに跳ねる月永くんの髪の先を見つめた。
あんなやつよりも、絶対に僕の方が月永くんのことを理解してあげられるのに。月永くんの才能や努力を、蔑ろになんてしないのに。授業に出なくても困らないようにノートだって写させてあげるし、課題だって代わりに解いて提出しておくことだって、簡単に引き受けてあげられるのに。
見つめながら誓う僕の頭のなかで、月永くんが真夏の太陽みたいに笑って僕に語りかけていた。おまえはやっぱりすごいやつだなって。僕に楽譜の束を押し付けながら、まるで親友みたいに抱きついて僕のことをしきりに褒めてくれていた。
いつか本当にそんな日が来ることを夢見ながら。僕は聞こえてくるかもしれない彼の寝息にじっと耳をそばだてる。チョークが削れていく音。グラウンドで授業を受ける生徒の声。誰かが椅子を引いた音。教科書の頁が捲られていく音。遠くから聞こえる蝉の鳴き声。寝息の代わりに聞こえてくるそんなありふれた物音たちでさえも、月永くんはきっとうつくしい楽曲に仕立て上げて、人々の心を掴んで離さない一流の芸術に昇華してしまうだろうから。
やっぱり月永くんはすごいや。そう思いながら、僕は太陽の光に縁取られた彼の真白いうなじを見つめていた。