短編(CPなし)
蝉の声を聞くたびに、ああ夏なんて早く終わってしまえばいいのに、とひたすら思う。
だって、あいつらうるさいし。死ぬ寸前まで迷惑だし。アスファルトに転がる死骸はまったくもってうつくしくなく、何より俺の睡眠を妨げる鳴き声が、鬱陶しいことこの上ない。
夏の陽射しに喘ぐそんな災厄たちを窓越しに眺めて、俺は高見の見物ならぬ、高見の欠伸を零す。空調の効いたこの空間は涼しく、ソファの座り心地も悪くなかった。先ほどまで肌に浮かんでいた汗は引いたものの、直射日光を浴びてしまったせいか、身体から倦怠感が抜けていかない。それと眠気が相まって、頭が随分重たく感じた。
燃え滓にならなくてよかった。そう思いながら、青白いおのれの手を見つめる。以前と比較すれば、まだ血の色を帯びているようにも伺える五本の枝。これまで意識はしていなかったけれど、この手はお姫さまたちからの評判がいいらしい。ピアノと戯れるために欠かさず手入れを行ってきた爪が、きっとこの手をうつくしく見せてくれているのだろう。
そんな不特定多数に握られてきたおのれの手を観察していると、奥の階段を下りてくるひとの影を捉えた。その人はソファに身を投げきっている俺のすがたを認めるなり、あれ、と頭に疑問符を浮かべてこちらへ寄ってくるのだった。
「リッツ? 何してんだ、おまえ」
「やっほー」
言いながら、左手をひらひらと宙に翳す。ぺたぺたのボストンバッグをひとつと、食べかけの食パン。それだけを手にしただけのその人、月ぴ~は、跳ねた髪もそのままに欠けた正方形に歯を立てた。これから海外へ向かうとは思えぬ身軽な装いはしかし、だからこそ月ぴ~らしいと言えるのかもしれない。そもそも在学中、月ぴ~が鞄を抱えているところなんて見たことがないから、俺にとっては何か手荷物があるという時点で物珍しいのである。
きっと調理室の冷蔵庫から、一枚だけ調達してきたのだろう。その人は俺の前に腰掛けて、焼きも塗りもしないただの食パンを小動物よろしく頬に詰める。それが完全に萎んだころ、もしかして、と月ぴ~は口を開いた。
「ナルかスオ~待ち? とっくに出てったぞ、あいつら」
「違うし。月ぴ~たちのお見送りに来ただけだし」
ぱんぱんと叩いた両手から、細かな白いかけらがぱらぱらと落ちる。そのようすを見て、駅前で朝食を買うのを忘れていたことを思い出した。意識した途端に胃が空腹を訴え始めるものだから、俺は宥めるように、制服の上から空っぽの胃袋をひと撫でしてやる。黒色の髪ゴムでひとまとめに整えられていく、目前の長髪。中途半端な長さの髪が指をすりぬけて、耳元にさらさらと落ちていった。
「なあんだ、わざわざ来たのか。リッツは良いやつだな」
「ふふん。どーいたしまして」
ロビーには、肝心のセッちゃんのすがたはまだなかった。ふたりは昨日のライブが終わってすぐに出発する予定だったようだけれど、そう都合のいい航空券を取ることができなかったらしい。結局明日の朝に発つことにしたみたい、とナッちゃんから聞いた俺は、昨晩の舞台の余韻も冷めやらぬまま、老体に鞭を打ってこんなところまでやって来てしまったのだった。
すこし前まで、季節のわりに随分過ごしやすい気候をしていたはずなのに。太陽からの光線を浴びた緑が、眩しいくらいに映えていて嫌になる。のろのろと、俺は足元に放っていた鞄から緑色のネクタイを取り出した。家から出る直前、暑さ故にただ鞄に放り込んでしまったそれを、今さら首に巻き付ける。くるり、と作った結び目に片方の布を被せて、穴に通すだけの簡単かつ単純な作業だった。
そうやって俺の胸に新たな色が加わる様子を、月ぴ~は珍しげに見つめながら言う。
「なんかあるのか? 今日」
結んだそれを限界まで緩めて、いびつな逆三角形を整える。それから立てた襟を畳み直せば、何処にでもいる男子高校生の完成だ。春と夏を経て、この首元の窮屈さにももう慣れてしまった。そもそも窮屈を感じるほど、制服を正しく着こなしてはいないのだが。
「何もないよ。なんで?」
「だってリッツ、ネクタイ嫌いだったじゃん」
革張りのソファは、俺の体重を受けてうんと沈み込み、眠気の溜まった身体を受け止めてくれる。このまま月ぴ~の部屋に行って、一緒に昼寝でもしてしまいたい気分だった。もっとしておけばよかったなあ、と今になって思う。学院にいた頃はスタジオや仮眠室で一緒に眠ることもあったけれど、月ぴ~が卒業してしまって以降は、その機会も無くなった。もしかしたらこれから先も、もうずっと訪れることはないのかもしれない。そう思うと途端に足元が空いたような心地がして、俺はローファーを履いた足で、深紅の絨毯をぱたりと叩いた。
「まあ、なんとなく」
「なんとなく?」
「卒業したいなあと思って。今年は」
胸元に長く垂れた深緑。黄色の線が入ったそれを摘んで、かっこいいでしょ、と見せびらかすように揺らしてみせた。朔間、と裏に入れられた橙色の刺繍が、左右にふらふらと振れる。去年のおれよりだらしない! そう言って笑うその人のくちびるの端から、野生動物のような八重歯が覗いていた。
子どものような輝きを秘めた、おおきな瞳。その眼はきっと、俺の眼に見えているものとはまったく異なる世界を映している。だって月ぴ~の世界は昼と夜の境目が曖昧で、宇宙人がいて、そこかしこを飛び回る音符がいて、いつだって騒がしいと聞く。想像したそれはまるで幼稚園児が描いた落書きのようで、だから月ぴ~の瞳は、こんなにも澄んでいるのだと思う。俺はこの人のそんな純粋なところを好ましく思っていて、だからこそ、一生損なわないでいてほしいと願っている。
それにさあ、と肘掛けに頬杖を突いて溜息を吐く。磨いて整えた爪の先で、撫でるように頬を掻いた。
「それに俺も、お兄ちゃんになっちゃったからさあ」
奥の階段から、俺と同じ制服を着た幾人かが下りてくるのが見える。そいつらが自動扉をくぐったとき、外の熱気がロビーに入り込んで、一帯には不快な熱が漂った。フィレンツェという都市の夏は、ここよりも涼しいのだろうか。もしもそうであるのなら、避暑地の候補にでも入れておこうと思う。
「いいじゃん、お兄ちゃん。妹は可愛いぞ」
「よくないよ。俺は弟でいたかったのに」
俺たちは同い年だけれど、だから俺はこの人の前では弟じみた振る舞いをしてしまうこともあったし、この人はこの人で、それに合わせて兄のように振る舞ってくれることもあった。そのやりとりはまるで、光の落ちる床に寝転がっているような。室温の保たれた硝子の庭園で、昼寝でもしているような。俺の安穏を妨げることなく、すべてを許してくれたこの人のとなりは、そんな居心地の良さで溢れていたはずなのに。もう間もなく、月ぴ~はその庭園からいなくなる。友人で、同級生で、後輩で、かわいい弟であるはずの俺を残して。その事実が、俺の胸にたまらない風穴を開けるから、しゃんと背筋を伸ばして座ることさえ億劫になる。
あーあ、と思わず零れ出た声は欠伸ではなく、ただの子どもじみた不満だった。この人を遠くに連れて行ってしまう、うつくしくも性格の悪い、あの男への。
「ずるいなあ。セッちゃん」
言いながら組んだ脚の先が、持て余した感情を乗せて心許なく揺れる。先を促すように、わずかに持ち上げられた細い眉。俺たちを隔てる硝子のテーブルには照明が反射していて、光溜まりのように眩しかった。
「俺も、まだ月ぴ~とピアノ弾いてたかったのに」
「はは。じゃあ、おまえも来るか?」
月ぴ~はそうやって、まるで夕飯にでも誘うかのような気軽さで言ってくれるけれど。俺にはそれに頷けるだけの覚悟や、勇気も。財力だって持ち合わせてはいなかった。今後持ち合わせる予定もないのだから、そういった面でふたりはどこか、俺とは異なる次元で生きているように思えてならない。
月ぴ~だって、俺が頷くとは端から思ってはいないのだろう。硝子テーブルの下に潜るスニーカーの赤を見ながら、俺は首を静かに振った。
「やあだよ。セッちゃん、口うるさそうだもん」
ああいうのはね、たまに聞くから良いんだよ。言いながら俺は、ベストからはみ出たシャツの釦を、くるりと回す。確かに、と月ぴ~はいたずらっぽく頷いて、きょろきょろとあたりを見渡した。セッちゃんのすがたは、まだ見えない。
俺の背後に掛かっている時計が、ちくたくと秒針を進めている音が聞こえた。あまりのんびり過ごしていると一時間目の授業に遅れてしまうのだが、眼球にこびりついた外の白さに、先ほどから欠席の二文字が過ってやまない。しかし昨日の帰り際、新人の子たちにまた明日、と言ってしまった手前、約束を反故にしてしまうのもきまりが悪く、俺はくちびるをわずかに尖らせた。
そうやって増えていくお兄ちゃんとしてのおのれの顔に、まだ慣れていない自分がいて、時折背中がむず痒くなる。近頃はひとの目を気にしてしまうせいか、青葉の「お兄ちゃん」がせっかく図書室に作ってくれた寝床にも、あまり足を運べていなかった。誰かが間違えて、撤去してしまっていないといいけれど。
でもさあ。頬杖をついた左手の、薄く汚れたその端。きっと、部屋を出る直前まで何か曲を書いていたのだろう。横顔をを象る、真白い夏の光。跳ねた髪のひと束ひと束が、その色を透かして煌めいている。綺麗なひとだ、と思った。光に溶けた肌の色も。うすい色をした瞳も。セッちゃんのことをそう思うときは度々あるけれど、この人はまたそれとは異なる中性的な雰囲気でもって、他者の視線を奪うのだ。
「それがないともう、落ち着かないんだよなあ」
そう言って、月ぴ〜は困ったように笑ってみせる。どこか大人びたその表情が、いつか音楽室で見かけた、無邪気な笑顔に対する懐かしさを募らせた。否、俺が気付いていなかっただけで、この人はもう、ずっと前から大人だったのだと思う。身に纏っていた制服という期限付きの布きれが、この人をただ幼く見せていただけで。この人は俺なんかよりもよっぽど、世界の広さというものを知っている。
家の鍵を入れてすこし膨らんだポケットを、スラックスの上から撫でた。月ぴ~の言うその感情には俺も身覚えがあったから、敷かれたチェック柄の上に人さし指を歩かせながら、そうだねえ、と噛み締めるように一度瞼を閉じる。
思い出すのは、雨のことだった。やわらかな陽の当たる硝子の庭園に、時折降ってくる透明な雨。瀬名泉という人間の雨雲がもたらす、声の雨だ。時にはぽつぽつと屋根を打ち、時には庭園を荒らし、時には雷雲を引き連れてくるそれは、たしかに厄介なものではあったけれど。決して悪いものではなかったと思うのは、窓を濡らすやさしい小雨が、まるで子守唄のように穏やかだったからだ。それがないともういっそ、寝付ける気がしないくらいに。夢のなかから引き揚げてくれる声たちがないと、もううまく起きられる気がしないくらいに。庭園に雨雲が訪れなくなって随分経ったころ、ようやくそのことに気が付いた俺は、だからスタジオや図書室の寝床に足が向かなくなってしまったのかもしれない。
ほんと、ずるいなあ。セッちゃんも。月ぴ~も。ふたりは俺が好ましいと思っているものを、いっぺんに浚っていってしまうのだから。そんなずるいふたりが恨めしいはずなのに、俺にはふたりを、どうしたって憎むことはできなかった。
あーあ、とふたたび吐いた溜め息は、見送りにはまったく相応しくないのだろう。俺だって笑って送り出してやりたいのに、この人を前にするとどうも、感情が緩んでしまいがちになる。
「寂しくなっちゃうよねえ」
目元にかかるひと束の前髪が、伏せた瞼をかすかにくすぐる。外は相変わらず、蝉の声で溢れていて騒がしかった。時間が経つごとにその波は確実に大きくなっていて、俺たちの会話を邪魔してくれる。まるで、絵に描いたような夏の日だ。それこそ本当に、幼稚園児がクレヨンで施した落書きみたいに。
「毎日電話してやろうか?」
「月ぴ~、よくスマホ失くすじゃん」
「セナに怒られるから、もうしないって決めた!」
すると月ぴ~は、ポケットから首かけ用のストラップが付いたスマートフォンを取り出して、俺の前に掲げてくれた。なるほどそれは頷きたくなってしまうような提案だけれど、月ぴ〜はそんな約束をしたことさえすぐに忘れてしまうだろうし、それを真に受けて俺から頻繁に連絡することも、作業の邪魔をしているようでなんだか憚られた。
そんなおのれの安寧を守るよりも、ずっと。俺にとっては、ふたりが正しい場所で、正しい幸福を得ることの方が、結局のところ大事なのだった。寄り添うふたりのすがたを知ってしまった日からずっと。純粋に、無意識に願っていたことのその先を、見届けてみたいと思ってしまうのだ。
仲間とか、家族とか、絆とか。すべてをくだらないと決めつけていた俺はもう彼方にいて、今となってはその言葉たちを愛しいとさえ思うのだから、おのれという人間の変化にはただ驚くばかりだった。ひとって、一年でこんなに変わるもんなんだねえ。自身の首に蛍光色のストラップを掛ける月ぴ〜を眺めながら、俺はそんなことを、他人事のように考えていた。
「いいよ、別に。たまに会いに来てくれるだけでさ」
背後の時計が、八時を知らせる音楽を奏で始める。じっとりとした夏の朝にはふさわしくない、細く軽やかな旋律に眠気を呼び起こされて、俺はたまらず右眼を擦った。こぼれそうになった欠伸を深呼吸で相殺して、肩の力をうんと抜ききる。
「それだとおれが寂しいじゃん!」
「えー。セッちゃんいるのに?」
長さの揃わないパーカーの紐。ふさふさに解れた片方が、白地のプリントを邪魔している。こんな猛暑のなかでもこの人は長袖を着ていて、おまけにその服の色は黒い。光のもとを歩いたら、その白い肌が一瞬で焦げ付いてしまいそうで、なんだか心配になってしまった。
考えてみると、この人が汗をかいているところを、舞台の上以外で見かけたことがないように思う。眼を細めて遡る愛おしい記憶たちを、目前のその人に重ねる。椅子に並んで腰かけて、時には語るように、時には競うように並べた音たち。とん、と時折触れ合った腕。せがまれて弾いた、でたらめな曲調のクラシック。童謡。ワルツ。それから。
「だっておれも、またおまえとピアノ弾きたいし」
ああどうして、今すぐにこの人を演奏スタジオに連れて行くことができないのだろう。すべてを笑って、すべてを大げさに称えて、すべてを許してくれたこの人のことを。やはり好ましく思う感情が、じわりと胸に落ちては染みる。叶わないのが惜しいけれど、この人と、この人たちが望む未来はそこにないということをもう知っているから。俺はその手を引くよりも、このソファに腰掛けて、別れの時間がやってくるのを待つことの方を選んでいたかった。
兄を超えて、まるで保護者じみたおのれに内心苦笑しつつ、俺はおどけたような視線と言葉を、月ぴ~に返す。
「じゃあ、月一で会いに来てくれてもいいよ」
「よし、行くか! わはは。日本のご飯も食べたい!」
月ぴ~の背後で自動扉が開いたのは、ちょうどそのときだった。現れたのは怒りを煮詰めきったような顔をしたセッちゃんで、ロビーで寛いでいる俺たちを見るなり、その人はますます眉間の皺を深くした。外はひたすらに暑いだろうに、汗ひとつかかず、涼しげなすがたで。あんたねえ、とセッちゃんは綺麗な顔を歪めて、月ぴ~のつむじに小言をぶつける。
「挨拶するから、事務所に来いって言ったでしょお」
「そうだっけ。ごめん、間違えてた!」
「電話も出ないしさあ。ほんと勘弁してよねえ」
いかにも忌々しいといったようすで舌打ちを繰り出したセッちゃんは、そののちに制服を着た俺を一瞥して、くまくんは何してんの、と収まらない声色のまま問うた。それは月ぴ~が朝食を咥えながら尋ねてくれたのと似たものであったから、俺も同じようにして、左手をひらひらと宙に翳す。
「登校前のお見送り的な」
「早く行きなよ。遅刻するよ」
「遅刻でいいよ。暑いし眠いし」
「あんたら、なんでそんなに適当なわけ?」
月ぴ~の足元転がっている、萎んだボストンバッグ。セッちゃんはそれを見つけると、荷物はこれだけでいいのか、と呆れながらも月ぴ~に尋ねた。送るものは手配したのか。家族に連絡はしたのか。仕事先には伝えたのか。ひとつを皮切りに続々と投げかけられる問いはまるで機関銃のようで、そのリズミカルなさまは、ただ聞いている分には面白くもあった。
セナの過保護が始まったなあ。そのすべてにうんうんと頷く月ぴ~は、セッちゃんには見つからぬよう、そんな意図を込めたまなざしで俺を見てくれる。しかし一方でどこか楽しんでいるようにも伺えたから、俺は月ぴ~の視線にただ口角を上げて、無言の返事を送るのだった。
「ほら、早く行くよ。タクシー待たせてるんだから」
「あれ。もう行っちゃうの?」
まだ話してたかったのになあ。口をついたのは、紛れもない本心だったけれど。セッちゃんはあっけらかんとした表情で、何言ってんの、とそんな俺に返してみせた。
ふたつの瞳はその人の名前の通りにうつくしく澄んでいて、俺はほんの一瞬、まばたきというものを忘れしまう。
「だってどうせ、またすぐに会うでしょ。俺たち」
俺の目の前に座る人と、同じ輝きを宿しているその瞳。そこには未来というものに対する期待や希望のようなものが伺えて、俺の胸には細やかな憧憬が湧いて満ちる。それが胸に残っていたもの寂しさを、またたく間に塗り替えてくれたものだから。今日も俺は、おのれの向かうべき場所へと、この足を運ばせるのだろう。俺として。アイドルとして。誰かの兄として。新たに増えていくおのれの一面を、今日もまた、ひとつひとつ受け入れていくのだろう。
そっか、と首を縦に揺らした折に、視界の端に留まった光溜まり。あの庭園よりも、すこしだけ強い光の降り注ぐこの場所で、俺はこれからも生きていく。それを自覚した途端に、この夏の日差しのことも、じわじわと喧しい、止むことのない蝉の声たちのことも。やたらに鮮やかな草木の緑のことも。ひたすらに憂鬱だったはずの存在たちを、すこしくらいなら肯定してやっても良いと、そう思えた。
「うん、そうだね」
「そ。まあ、わざわざ見送りありがと」
またね、くまくん。そう言い残して、やって来たばかりのセッちゃんは、早々に扉を開けて外へ出て行ってしまった。ゆっくりと閉じていくそこが、ロビーの冷気を吸い込んで、代わりにむわりとした熱気を送り込んでくれる。
「じゃあまたな、リッツ!」
そして月ぴ〜も足元のバッグを拾って、ソファから勢いよく立ち上がった。ひとり分の重さを受けて、すこし沈んだそこには何も残らず、ぱたぱたとラグの上を移動していく赤いスニーカーだけを見送る。
うん。気をつけてねえ。言おうとして、俺は扉を抜けようとするその人を呼び止めた。れおくん。レオくん。レオさん。なんだ、名前で呼んでないの、俺だけじゃん。いつかこの人はおつまみのようだと言っていたけれど、だからこそ俺には、この呼び方が特別のように思えるのだ。
好きなものにはどうしてか、おのれ自身で名前を付けたくなってしまう。そうやって、好きなものを好きになりすぎてしまう性質の自分を、俺自身は結構、気に入っていたりするのである。
「ん? なんだ?」
じりじりとなだれ込んでくる蝉の鳴き声。隔絶されていたはずの夏の匂いがロビーに広がって、手のひらには汗が滲みかける。空っぽの胃が、先ほどからちいさく鳴き続けていた。俺も調理室の冷蔵庫から、食パンでも貰ってから行こうかな。そんなことを考えて、ソファに投げきっていた身体を起こす。
「またね。頑張って」
言いながら親指を立てた左手を掲げてみせると、まあるく磨いた爪の向こうで、月ぴ~は口元を弓なりに撓らせた。うんと細くなった眼。ああ、と頷いたすがたが眩しくて、きっと次に会うときまで、その笑顔は瞼の裏から消えてしまうことはないのだろう。
そしてその人は俺を真似るように、右手の親指に祈りを乗せながら、言った。
「おまえらもな!」