短編(CPなし)



ためしに歯を立てた秋桜の茎は、思っていたほど美味くはなかった。
おれの胸を圧す、重くてあたたかいものを撫でる。そいつは寝言のようなちいさな声で鳴いたかと思えば、耳をぴくりと震わせてくしゃみをした。乱れた空気は波となって、おれの顎をくすぐる。その頭はふすう、と息を吐いたのちに、ふたたびおのれの胸へと戻ってきた。尾の付け根を掻いてやると、面白いくらいに尻尾が揺れたものだから、おれは木の葉の隙間から漏れる光を目に焼き付けながら、買いたての絨毯のような感触をしたそこに、しばらくのあいだ触れていた。
くちびるを動かせば、細い白色の花弁が視界の端で揺れ動く。花壇のなかの秋桜は、風に吹かれてひそひそとささめいていた。もしくは、おれの口のなかにいるこの仲間を、返せと叫んでいるのかもしれない。そもそもおれが折ったわけじゃないし。最初から折れてただけだし。まるで、絵に描いたような放浪者だ。ぐう、と猫の下で、今度はおれの腹が鳴いた。こんなものを咥えたところで、空腹はすこしも紛れやしない。
目を閉じると、そこかしこで生命が活動している音が聞こえる。触発されるみたく、頭のなかで怠けていた音符たちが、一様に起き上がって列を成し始めるのが分かった。こんな時に限って、どうして紙もペンも持ちあわせていないのだろう。この花弁を毟って、五線の上に並べていけばいいのだろうか。しかし新しい命を生むために別の命を犠牲にするのはどうにも気が引けたから、おれは行進を始めた音列を、ひとつひとつ声に起こすだけに留めた。
どれだけ身を投げるように寝転んでいたって、この身体を包む制服の窮屈さは変わらない。もしも生まれ変わったら、裸で生きていても許される生き物になりたいと思う。たとえば猫とか、犬とか。まあ、花でもいい。結局のところ、人間以外であればなんだっていいのだ。この国でだって、まだ見足りない場所も多いから、羽を持った生き物であればなおさら良い。とはいえゴキブリになるくらいなら、人間でいた方が幸せなのかもしれない。近頃おれは、そんなことをよく考えている。
とん、と上履きを履いた踵で、煉瓦を叩いた。胸があたたかい。瞼の向こうで、光がちらちらと揺れている。ぬるい風が心地良かった。秋は好きだ。暑すぎず、寒すぎず。春よりもどこかよそよそしい空気に、尽きかけの草木の香りが混ざっていて、それがひどく霊感を刺激してくれるのだ。だから秋は、芸術の季節と呼ばれているのだろう。おれの霊感は秋に限らず、春夏秋冬年中無休なのだが。
このまま寝て、目が覚めたら練習場所へ向かおう。そう思ったとき、遠くから足音が聞こえてきたものだから、おれはつい、投げ出していた右脚を立てた。別に、身を隠そうと思ったんじゃない。知ってるやつだったら、なんとなく嫌だなあと思っただけだ。中途半端に顔を知っているようなやつは特に。
おれのことを良く思っている生徒なんて、この学院にはいない。白い眼で見られることにももう飽きていたけれど、だからといって、何も感じないほどおれの精神は鋼鉄ではなかった。足音が近づくにつれて、上履きに収めた足指に力が篭る。ちいさな身体に乗せた手が、熱を持ってすこし汗ばんでいた。
レオさん。やがて止んだ足音の主は、聞き慣れた声でおれのことをそう呼んだ。立てていた膝を退けて見ると、そこには薄汚れた散水ホースを片手にしたママが立っていた。まなこを射す光線が痛い。かき消すように目を擦ると、んん、と寝起きのような声が漏れる。花壇の縁から落ちかけた身体を、左脚で踏ん張って耐えた。こんな細い煉瓦の上に寝そべっているのが、そもそもいけない。

「なあんだ。ママか」
「なにしてるんだあ? こんなところで」

くちびるから秋桜が零れて、花壇のなかへ落ちていく。それはこっちの台詞なんだけど。返そうとして頭を持ち上げたけれど、視界に入った猫の寝顔にすっかり気を取られて、おれは一時呼吸さえ忘れてしまう。その気の抜けきった顔に、おれの口元は容易に緩んでしまった。本当に野生で生きてるのかな、こいつ。すっかり爪の隠された、まあるい手を指でつついた。

「こいつが起きてくれなくてさあ」

かちん、かちん。ママは音節を刻むようにノズルのレバーを握りながら、おれの上で伸びる愛玩動物に目をやった。身体が大きいからか、手に収まるそれがやたらにちいさく見えて仕方がない。
レオさんは動物に好かれやすいもんなあ。そうやって、ママはからからと風のごとく笑う。春。夏。秋。冬。ママの笑う声はいつだって夏のように自由でありながら、秋のように熟んだ響きをしていた。
ぴい、と猫の鼻が細く鳴る。その音があんまりに愛おしくて、こいつに与えるべきいくつかの名前が、頭のなかを瞬時に過っていった。もしかすれば、もう誰かに飼われているのかもしれないけれど。胸に圧し掛かるこの重さが、こいつの普段の暮らしというものを物語っているように思える。

「ママは何してんの」

くるくる、と巻きつけられたホースを引き延ばすママに問う。その先端を、すぐそこにたったひとつだけ佇んでいる蛇口に挿した。聞くまでもないような気がするけれど、律儀なママは声高らかに教えてくれた。局所的な雨を花壇に降らせながら。渇いた土は、みるみるその色を変えていく。

「見ての通り! 花壇の水やりだぞお」
「サボり?」
「課外活動とも言う」
「あっは。いいな、それ」

くちびるをくすぐっていた花がなくなり、どうにも口寂しさを覚えた俺は、ブレザーのポケットに手を入れて、一枚だけ入れ放しにしていたガムを取り出した。噛めば舌には人工的な葡萄の味が染みていく。癖のように舌先でうすく伸ばしてしまったけれど、息を吹き込んだところで、ガムが膨らむことはなかった。
頭のなかには、先日完成したばかりの曲が流れている。明日行われるライブのために書き下ろした曲だ。悪役にぴったりの、挑発的な旋律。それをなぞればなぞるほど、やはりおれは天才だなあと思うし、そういった役回りの方が、存外向いているのかもしれないとも思う。

「あー、そうだ。ママあ」

呼びかければ、ママは雨音のなかで、どうしたあ、と声を弾ませた。よく晴れているから、角度によっては虹を作ることができそうだ。そう思って首を傾げたけれど、水はきらきらと光を帯びて落ちていくだけで、七色を映す気配さえ伺えない。

「明日ライブするからさあ。暇だったら見に来てくれよ」

たん、と腿に尻尾が触れる。静かにしてくれと言われているような気がして、おれは諌めるように、その頭の毛を混ぜてやった。知ってるぞお、とママは花々に向かって声を放る。強豪ユニットの内輪揉めなんて、野次馬からすればこれほど愉快な話題もない。校内の掲示板には告知も貼ってあるから、敢えておれが伝えることでもなかったようだ。

「内部粛清なんて、時々大胆なことをするよなあ。レオさんは」

だらりと下げた左腕。その爪先に、冷えたアスファルトが掠めた。夏の、火傷してしまいそうなほど蓄えられた熱が、もう懐かしい。すでに伺える冬の気配に、おれはつい息を吐いた。それがまだ、白く漂わないことを確かめる。
大胆。そんなひと言で片付けてしまうだなんて、ママも随分薄情だな、と思った。まあおれの方が、それ以上に薄情なやつであることは間違いのだが。おれはあいつが守り続けてきたものを、あいつらが積み上げてきたものを、この手で壊してやろうと目論む悪い人間なのだから。それだけじゃない。あいつらを待っているファンの想いを無下にするような、アイドルの風上にも置けない卑劣な人間なのだから。
そんなところで寝てたら、制服汚れるよ。
風に流れて、あいつのそんな声が聞こえたような気がして、ぎゅうと奥歯を噛み締める。
あいつがあたためてくれていた、あの居場所も。立ちはだかって、守ってくれていたその椅子も。おれはそんな、名誉や立場が欲しいわけじゃなかった。仲間が欲しいわけじゃなかった。もっともっと単純なことなのに。誰だってそうであるはずなのに。ただ必要とされたいだけなのに。誰も、あいつらも、あいつでさえも。愚かなやつらはみんな、それに気付かない。けれど一番愚かなのは、どうしようもなくおれだけだった。おれだけがずっと、今も、馬鹿なままだった。

「ひどいやつだと思う?」

おれのこと。裏腹に、猫は呑気に欠伸を零す。覗く牙を見つめながら、こいつに付けられているであろう名前を想像した。茶色の虎柄だから、トラとか。右耳が欠けてるからミミとか。安直なものばかり浮かんでしまうのは、おのれの想像力が不足しているからに他ならない。そのなだらかな眉間をかりかりと指先で掻いてやると、トラだかミミだか定まらない名前のこいつは、持ち上げた鼻先をおれの手に擦りつける。髭が皮膚を掠めてくすぐったかった。
かちかち、と切り替えたノズルで、ママは薄汚れた煉瓦に途切れない水銃をぶつける。雨で跳ねた泥や汚れを、そうやって綺麗に落としていく。まあ、といくつかの煉瓦を水浸しにしたのちに、ママは言った。

「弱肉強食だからなあ。この世界は」

砕けた飛沫が空気に溶け込んだおかげか、一帯の湿度が上がったように思う。すこし冷やされた空気に頬を撫でられながら、おれはざらざら、と上履きの底をアスファルトに押し付けていた。
ママはいつもそうだ。完全な肯定も否定もしない。ママだけじゃない。他の連中もそうだ。セナも。リッツも。ナルも。あの新入りも。誰もおれのことを責めようとしない。ひどいやつだって。ひとでなしだって。今までろくに姿を見せなかったくせに、唐突に現れては解散を命じる長に、誰も怒りをぶつけてこようともしない。
だからおれは、そのための舞台を設けてやったのだ。おのれの首を、切ってもらうための大舞台。勝利の旗を掲げたあいつらから、追放という罰を突きつけられるために、おれは明日、おのれ自身で誂えた死地へと赴くのだ。倒されるべき敵として。忌むべき悪役として。気の触れてしまったかつての王には、そんな終わりがふさわしい。
そもそも最初から、あいつらがこんな目的も意思もばらばらな即席のユニットに敗北するだなんて、思っていなかった。それでも万が一、おれたちが勝ってしまうようなことがあったとしても、どちらにしたっておれの未練は消えてくれるのだから万歳だ。おれとしては、勝ったあいつらの刃で、おれの息の根を止めてくれる方が万々歳なのだが。どうせ同じ結果になるのなら、手段の違いなんて誤差にもならない。
何にせよ、アイドルとしての月永レオは、明日必ず死ぬ。長い長い悪夢だった。明日のこれは、それを終わらせるためのくだらない自己満足に過ぎなかった。
じゃあさあ。ばちばちと、水は煉瓦に砕かれていく。ガムを噛んでいるうちに、いつの間にか空腹が紛れていたことに気が付いた。雲がじっくりとゆっくりと、グラウンドの方へ運ばれていく。こんなに天気の良い日に、机に齧りついているだけだなんて。この学院にいる生徒は、というより人間は、あまりに損をしながら生きている。

「馬鹿だと思う?」

おれのこと。問うてみれば、ママは水銃を撃つ手を止めた。腕を組み、ノズルを持ったままの手から水が滴り落ちる。それはぽつん、とママの皮靴の先に落ちて弾けた。ふむ、と頭を傾けて、しばし考えるような姿を見せたのちに、ママは言う。ブレザーにも染みができ始めていることに、ママは気が付いていない。

「レオさんをそう思ったことは、一度もないぞお」

その声は、この陽射しと同じくらいに穏やかなものだった。ママはいつだって肯定も否定もしないけれど、おれを卑下するようなことも、同じく絶対にしない。だからママがどんな返事をくれるかほとんど分かっていたおれは、そっか、と上履きの踵を踏みつけながら呟いた。そこにただ、とママの言葉が重なる。

「ただ?」
「自分を蔑ろにし続けるのは、愚かなことだと思うなあ。俺は」

びゅ、と空に向けて放たれた水の弾丸は、高く昇って虹のような曲線を描く。それは花弁を掠めて土を抉り、土壌を潤す恵みとなった。
愚か。その言葉を、すっかり無味になったガムと共に咀嚼する。
馬鹿と愚かの違いは、どこにあるのだろう。正真正銘の愚か者であり、馬鹿者でもあるおれは、だから理解に苦しんでしまう。そうでなくたって、ママは時折分かりにくい言い回しをする時があるから、語彙力の乏しいおれには、完全に理解することが難しいのだ。
それでもおれがママと意思の疎通ができるのは、感性が似ているからなのだと思う。コミュニケーションに、言語は要らない。おれにそう教えてくれたのは音楽でも世界でもなくて、実のところ、このママという同級生だったのかもしれない。

「えー。じゃあ、見に来てくれない?」

観客席に、誰が座っていようが関係ない。明日の舞台にどんな評価が付けられるかなんて、おれには微塵も興味がなかった。けれどおれはその舞台を、ママに見に来てもらいたいと思う。おれが舞台の上に戻ることを、純粋に望んでくれた人。だからその結末を、どうか見届けてほしいと思う。他でもない、この親友に。
ぺたぺたと、猫はその長い舌でおのれの鼻を舐める。パーカーの色が濃いおかげか、付着した毛が目立って仕方がない。それでもこのちいさな生き物が愛おしかったので、おれは頬ずりをするくらいの勢いで、そのやわらかな毛のかたまりを抱きしめた。その身体から太陽のにおいがして、おれはちょっとだけ、心細くなった。

「もちろん見に行くぞお。久しぶりのレオさんの晴れ舞台だからなあ」

目先に横たわる、白い秋桜。あちこち曲がった無残なそれは、もう土に還るのを待つだけの命だ。そんな姿に、おれがした。おれがこの花に、とどめを刺したのだ。そしてそれは未来の、明日のおのれの姿でもあるような気がして。おれはその細い屍に、そっと手を伸ばした。まだ瑞々しさの残る葉も花弁もそのうちに朽ちて、此処に並ぶ仲間の糧となる。 
それならおれは、一体誰の糧になれるんだろう。浮かんだあのうつくしい顔は、ぽつぽつと雨に打たれて滲んでいく。ただの残滓となったそれなのに、あいつはそれでも充分に綺麗だった。
ママはやはり、薄情だなあと思う。おれの命日に、晴れ舞台という言葉を宛てるなんて。でも、だからこそ、おれはそんなママが好きだった。おれの、ただひとりの理解者。そんな親友のために、おれは明日、誰よりもアイドルでいようと思う。踏めば消えてしまいそうなかすかな炎を、目一杯燃やし尽くそうと思う。そうしておれはおれの未練を断ち切って、もう二度と、舞台の上に立つことはしないだろう。
望まれたって。請われたって。全部、全部。明日で何もかも、終わりにする。終わりにしてやると決めた。

「ありがと。ママ」

応えるように、猫が鳴く。お安い御用だと笑うママの声を、おれは白い花弁に這う蟻の姿を見ながら聞いていた。



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