箱庭の子どもたち



この国へ来て最初に驚いたのは、日没の遅さだった。
日本ではとうに日の暮れている時刻でも、ここの空はまだ薄ぼんやりと明るくて慣れない。窓から覗き込んだ外は人通りも多く、今が夕方を超えた時刻であることを忘れがちだ。
水を替えた花瓶を窓際に置く。水替えは起床時の日課だが、今日はあいつらの見送りの支度で忙しくて、すっかり忘れていたのだ。この黄色い花の名前を、俺は知らない。勝手に貰ってきて、勝手に花瓶ごと飾ったのはれおくんだった。春に咲いているのだから、きっと春を象徴する花なのだろう。調べてみようと取り出したスマートフォンが、手の内で振動を繰り返していた。朔間凛月。表示された名を見て、緑色の応答ボタンを押す。

「もしもし。セッちゃん?」
「そうだけど」

道を細く照らしながら、下の通りを過ぎて行く自転車。向かいにはちいさな花屋があって、その入り口に、これと同じ色をした花があるように見えた。ふわふわと目一杯欠伸を零したのちに、くまくんは言う。

「連絡入れるの忘れてた。ごめんね」
「ああ、空港着いたんだ」
「着いたのは結構前。眠すぎてねえ、家帰って即効寝ちゃった」

ぴん、と伸びた緑色の葉をつまむ。産毛のような細やかな毛が生えていて、指先に刺さる感触が心地良い。
空港着いたら連絡して。別れ際に押し付けたそんな言葉を、くまくんは覚えていたらしい。俺たちは今、すぐに会いに行けるような距離にはいないから。単純に事故にでも遭って、今後の活動に支障をきたすようなことがあったら困るのだ。そこにそれ以上の理由はない。卒業して以降、より口うるさくなったという自覚はある。

「そお。メールでもよかったのに」

昼前まで言葉を交わしていた相手が、俺たちよりも八時間ほど進んだ先に移動しているというのも、まだ慣れない感覚だった。今、あちらは未明に相当する時刻だろうに。その時間帯こそ昼間であったくまくんは、もう過去の存在だ。俺たちと同じ時間を生きようと、その身を砕いて努力しているのだと思う。

「セッちゃんが寂しがると思って」
「思わないし。気色悪いこと言わないで」

黄色の花弁をつついていると、向こうの街灯に明かりが灯ったのが見えた。その真下をあの珍獣頭が歩いていたものだから、俺はつい窓の錠を解く。春と言えど、フィレンツェの夜は肌寒い。ひゅう、と入り込んだ風が額を撫でた。そのあいだに、くまくんがまたひとつ欠伸を零す気配がした。

「早く寝なよ。明日もどうせなんかあるんでしょ」

未明と呼べる時間帯にそう急かすのも、既に遅すぎる気がするけれど。くまくんは先ほどまでの眠たげな様子とは裏腹に、今度はどこか自慢げな声色で言う。

「明日はねえ、夜にま~くんとご飯行くだけー」

いいでしょ。窓から顔を出すと、こちらを見上げたあいつと目が合った。立ち止まって大きく手を振る姿に、片手を上げて応える。この通りを歩いているということは、れおくんは今日もあの安宿に帰るつもりはないらしい。
くまくんがその呼び名を繰り返すせいで、衣更の顔をネット上で見かけると、本名よりもそのだらけきったあだ名の方が浮かんでしまうようになった。端的に言って困っている。いつか本人を前に口を滑らせてしまうようなことがあれば、俺の沽券に関わるからだ。
俺とくまくんは友達だけれど、だからといってその幼馴染とも仲良くできるかと言われれば、そう上手くはいかないのが人間関係の面倒くさいところである。そもそもくまくんは、俺よりもぼろぼろになったそいつの方がよっぽど好きであるらしい。随分前に、そう言われたことを思い出した。

「春休みだからって、羽目外して問題起こすんじゃないよ」

淡い水色をした花瓶を指でなぞる。れおくんなら、この花の名前を知っているだろうか。あいつは俺の知らないことを多々知っている一方で、知っていなければならないことを知らない。あいつが選んだあの車も、思えば黄色の可愛らしい外観をしていた。黄色に惹かれるだなんて、まるで虫のようだ、と襞状の花弁の縁に触れる。
はい、はあい。まるで信用できない返事が、日本にいた頃は憎らしくてたまらなかったのに。こうして離れてみると、そんなくだらないことに親しみを覚えてしまうのだから不思議なものだ。木製の窓枠には、以前の住人が付けたであろう傷が付いていた。締めた硝子窓に、暖かみのある色で揃えられたおのれの部屋が反射している。ばたん、と玄関扉が閉まった音がしてそちらを覗くと、擦り硝子の扉の奥で動く人の影があった。

「じゃ、寝るねえ。こっち戻ってくるとき連絡ちょうだい」
「うん。なるくんとかさくんにもよろしく言っといて」

そしてあいつは扉を勢いよく開けて、チャオ! と声を張りながらこの部屋の安寧を壊しにくる。一緒に空港まで見送りに行ったきり、どこかへふらふらと消えていったこいつ。来るなら連絡を入れろと言っているのに、まったく聞こうとしないから。仕方なく合鍵を渡してしまったのは、つい数日前のことだった。

「お、電話? 誰?」

どたどたと足音を立てて近づいてくるれおくんを、手のひらで追い払う。その声は電話越しにでも届いていたのだろう。くまくんはかすかに笑っていた。

「月ぴ~? あはは。本当に棲みついてるんだねえ」
「はあ? 笑い事じゃないから」

机の上に置き放しにされたスマートフォン。ソファに投げられた上着。充電コードの絡まったノートパソコン。その上に積まれた紙の束。
日に日に、この部屋にはあいつの気配が濃くなっていくように思う。今あいつがキッチンで弄っているコーヒーサーバーやドリッパーだって、俺が買ったものではないのだ。帰国するとき、ちゃんと持って行ってくれるのだろうか。珈琲なんて俺は飲まないから、押し付けられても困る。
顔は見えないものの、ふうん、と呟くくまくんが、その向こうで腹立たしい顔をしていることは分かった。じゃあ切るから。言いながら、舌打ちをしてやりたい衝動をこらえる。通話を切ろうとした親指は、呼び止める声に邪魔された。

「なに」
「うわ、こっわ。言ったら殺されそうだから、やっぱやめとく」

じゃねー、と切られかけた通話を、今度はこちらが引き止める番だった。しゅんしゅん、とキッチンで湯が沸き立つ。じきにこの部屋には、珈琲の芳ばしい香りが漂い始める。

「えー。怒らない?」
「怒らないから。早く」

するとしばらく、受話口からは衣擦れの音だけが響いていた。ベッドに寝転がっているのだろう。くまくんはきっと、目を覚ましたそのままで、起き上がることもなく俺に電話を掛けてきたのだ。あまりのくまくんらしさに苦笑しながら、あのさあ、と逡巡するような声を聞いた。

「うん」
「よかったね。セッちゃん」

そして目の前を、マグカップを片手に持ったれおくんが通り過ぎる。セナも飲む? と尋ねるようにそれを掲げてみせるものだから、俺は何も言わずに首を振った。
単純なようでいて複雑で。複雑なようでいて、単純で。思えばあれは、くまくんなりのやさしさだったのだ。傷だらけの俺も嫌いではないと言った、あの言葉は。すこしかかってしまったけれど、今ならもう、その意味を理解できるような気がした。
壊れてしまったものは、もう元には戻らない。それは、間違いではないのだと思う。しかし俺は、駄目なものはないと、どうでもいいことはないと、無暗に否定をしないあいつにすっかり感化されてしまった。崩壊とは変化であって、ただの喪失では、決してない。あの学院で過ごした時間を振り返るたびに、俺はそんなことを考える。
世の中には不変のものなど存在せず、時間の流れとともに新しくなるものもあれば、劣化していくものもある。生まれてしまったひびや、もう見つからない欠片は変化の波に飲み込まれて、いつしか見えにくくなっていくのだろう。
まだ子どもの俺たちが、これからすこしずつ大人になって。子供じみたあいつが、そうしてすこしずつなりを潜めていくとして。徐々に変わっていくあいつを、それでも俺は当たり前のように、いつまでもれおくんと呼んでいたかった。
どう変わろうとも、そんなあいつから、まだ変わらないものを見つけたとき。そのときは、もう戻ってこない時間を嘆くのではなく、愛でることのできる人間でありたい。数多の愛しい思い出として。これからの時間を生きる糧として。俺は俺の人生を、そんな風にして歩いて行こうと思う。
どうも、ありがと。俺は、目前のあいつに聞かれぬよう声をひそめた。自ら口にしておいて、そのあまりの柄のなさに後頭部を掻く。受話口の先にいるくまくんは確かに笑っていて、しかしそれはからかう様子ではなく、どこか照れ隠しのように聞こえたのは、俺の思い過ぎだろうか。友達になったばかりの俺たちは、まだすこし、距離を計りかねている。

「あはは。どーいたしまして。そんだけ。じゃあ、また今度ねえ」

そして通話は、今度こそ切れた。検索画面に戻ったスマートフォンの向こうで、れおくんが俺を見ていることに気付く。何、とマグを傾けるそいつに問うと、言葉よりも先に、珈琲を啜る音が返ってきた。真白い陶器がテーブルをうって、れおくんはようやく口を開く。

「誰だったんだ?」
「くまくん。家着いたからって」
「なあんだ、リッツかあ」

床に転がっている鞄を拾い上げ、ソファに投げた。そこはほとんどれおくんの寝床と化していて、あいつは枕として使っているクッションを抱えながら、ノートパソコンと向き合っていた。このブランケットも、クッションも。知らぬうちに、あいつがどこからか持ってきたものだ。

「あんたねえ。あっち戻るとき、こういうの全部持って帰ってよねえ」

持ち込むのは構わないけどさあ。こうやって付け入る隙を与えるから、力関係がますます逆転していくのだと思う。こいつの持つ出資者という絶対的な肩書が、厄介で仕方がない。

「心配ご無用! しばらくこっちにいるので!」
「まったく嬉しくないんだけど」

頭のなかで、くまくんが小生意気に笑う。睨め付けて黙らせることができないせいか、実物を見るより一層、癪に障るものがあった。

「なんだよー。おれがいなくなったら、どうせ寂しがるくせに」
「あんたたち、ほんと何なの?」

どいつもこいつも、分かったような口をきいてくれる。まったく同じことを先ほども言われたばかりの俺は、深いため息にすべての不満を込めて散らした。
俺が構築しようと描いていた理想の人間関係は、こうではなかったはずなのに。一体どこで掛け違えてしまったのか、今となっては見当もつかない。こいつと出会ってしまったことが本当に運の尽きだったのかもしれないし、言い換えれば、こうなる運命の始まりだったのかもしれない。 
たち? と尋ねるれおくんの横から、マグを攫った。断りも入れずにひと息で煽ろうとする俺に、あー! とれおくんは声を上げる。
けれど、珈琲はまだ随分熱くて。ほんのすこし口に含んだだけのそれが、舌を焼いて痛かった。



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