箱庭の子どもたち
この道は、いつでも潮のにおいが満ちていた。
足元に落ちる桜の花弁。ざん、と海の揺れる音がかすかに聞こえて、俺は木々の向こうに目をやる。その隙間から、光を散らす青の水面が見えた。もうあの場所に行くことはないのかもしれない。そう思うと、忌々しかった夏の記憶が途端に美化されていくものだから不思議だ。春は良い。汗をかくことはまずないし、暖かくて長閑で。虫がうっとおしいのが唯一の欠点だけれど、夏と比較すれば些細なものだ。
この国と同じく、フィレンツェにも四季があるらしい。春のイタリアには一体どんな花が咲くのだろう。スマートフォンで調べようにも、両手がふさがっていて叶わない。大量の菓子類を詰めたビニール袋が、歩むたびにがさがさと揺れた。
ていうか、主役が買い出しって絶対おかしいでしょ。思いながらくぐった校門には、今朝見かけたはずの立て看板はもうなかった。卒業式、と大きく記されていたはずのそれ。ふ、と吹いた風が、左胸についたリボンを揺らす。外し忘れていたことに今更気が付いて、ひとりでに顔を苦くした。
式からやや時間が経ったものの、校内にはまだ、名残惜しさを滲ませた群れがいくつも見られた。そのなかで、簡素なビニール袋を提げて校舎に引き返す俺は、どうにも浮いているように思えて仕方がない。
それにしてもいい天気だ、と思う。前を向いて歩いていると、その澄んだ青が嫌でも目に入る。絶好の卒業式日和だと担任も言っていたけれど、正しくその通りだった。こんな日は、何をするにも絶好の日和になる。この空の下で歌ったら、きっととても気持ちが良い。
いくつかの人だかりを通り過ぎたとき、せな、と誰かに呼ばれたような気がした。不意に止めた足に、転がる桜の花弁が張り付く。見回してみたところで声の主が駆け寄ってくる気配はなく、見知った顔と目が合うこともなかった。
ふたたび歩み始めた俺を、同じように呼びつける声が今、確かに聞こえた。どこか遠くから、広がりきった誰かの声。見上げた校舎の屋上に、揺れる人の影を捉える。それはぶんぶんと腕を振って、必死のその存在を主張していた。
自由奔放な男。神に愛された人間。かつての王。おおい、セナあ。こちらが気付いたのをいいことに、そいつは尚も叫び続ける。何してんのあいつ。いや、待って。何となく分かる。分かるけど、とりあえず静かにしてほしい。生憎と周りのやつらは会話をするのに夢中で、あいつの奇行に意識さえ向けていないようだった。
校舎へ向かう足が、思わず早くなる。スマートフォンにまだ連絡は来ていなかった。あいつらの許可が得られなければ、今の俺はスタジオに入ることができない。恐らくはれおくんも同じだ。追い出し会と名付けられた今日の集まりは、まだ準備のさなかにある。
手空いてるなら、買い出し手伝ってよねえ。聳える建物の天辺を、この地上から睨みつける。無駄と分かりつつも、そんな恨み言のひとつを視線に込めた。ふたたび降ってきたれおくんの声は、その一切をやはり汲み取らない。あったかいぞ、ここ。昇降口へ向かいながら、暖かいのはどの場所でも同じだろう、と心中で悪態を吐く。
並んだ下駄箱の列。今朝そのあいだを抜けたとき、何気ない習慣のひとつひとつが終わっていくことに対して、感慨を抱いてしまったというのに。とはいえユニットに残る三人が在学している以上、また何度でもこの校舎を訪れる機会はある。途端に最後という言葉の価値がうすくなったように思えて、いつもは一瞥する掲示板に目をやることをしなかった。
階段には、上階からの賑やかな声が漏れ響いている。名も知らぬ生徒たちの笑い声を聞きながら、一段また一段と、俺はあいつへの距離を縮めていった。
別に、呼ばれたからではない。こんな荷物を抱えたまま、行く宛てが思い浮かばなかっただけだ。
×××
廻し手を捻って扉を開ければ、先には高々と広がる空があった。わざと立てた足音に、すぐ先で丸まっている水色の背中が振り向く。あ。あんたねえ。ふたつの声がぴたりと合わさって、すこしの奇妙な間が生まれた。
「え、なんだよ」
「なんだよじゃないし。買い出しくらい手伝いなよねえ」
「買い出し行ってたのか。セナ」
ご苦労ご苦労。鉛筆を握る左手。右手で抑えた五線紙。両手を塞ぐビニール袋と鞄を、コンクリートの上に置く。ちらりと見た紙の上には、まだどの音符も並べられていなかった。珍しいこともあるものだ、といささか歩き疲れた俺は、れおくんのとなりに腰を下ろす。何してんの、なんてやはり聞くまでもない。こいつはいつだって、頭のなかで踊る音符に質量を与えることだけを考えているのだから。
「何買った?」
「お菓子とか飲み物」
「あ、おれチョコ食べたい」
れおくんはそう言って、遠慮することなくビニール袋に手を入れた。ちょっと、と俺の制止も聞かず、引き揚げたチョコレートの袋。ひと袋に異なる味が混ざっているそれを開けて、無造作にひとつを取り出した。赤い包装が、ただの茶色の板に剥かれるさま。表面に印刷された商標は真っ二つに裂けていた。
「あんたのために買ったんじゃないんだけど」
しかもそれ、一番甘いやつじゃん。口に放られたチョコレートは溶かされ咀嚼され、あっという間に飲み込まれていく。うまい、と左手に鉛筆を持ち直したれおくんは、かんかん、とその尻でコンクリートを叩いた。しかしその視線はどこか宙を彷徨っているようで、五線に黒鉛を擦りつけようとする気配もない。やや錆のついた柵の向こう。数多の声の集まりが、曖昧な音となって散る。ポケットからスマートフォンを取り出した。何千何百と見た待ち受け画面が、まだそこにあるだけだった。
ううん、とれおくんは誰に聞かせるでもなく唸る。今こいつの頭には、どれだけの音が渋滞しているのだろう。俺にはその出口を用意してやることもできず、そもそもしようとも思わずに、先ほどのこいつみたくビニール袋を漁った。掴んだペットボトルの蓋を開けて、ひと口分を口に含む。菓子類とともにコンビニエンスストアで買ったものだから、ひやりとしていて美味しい。
「校舎の中入らないの」
「えー。最後に学院を一望して一曲、って思ってたんだけど」
ふたたび唸りながら、れおくんはその場所に仰向けのまま寝転がる。そして聞こえたのは、やたらに大きな欠伸だ。あ、このまま寝れそう。俺は風に流されそうな赤の包装を指で押さえた。
「汚れるよ」
塵くらいちゃんと拾いなよねえ。言ったところで改善の余地はないと知っているから、俺はその塵を黙ってチョコレートの詰まった袋に入れる。
「わはは。どうせもう着ないし」
つんと触れた肘で、立てた鞄が倒れた。真っ平らのそれを引き起こしながら、確かに、と俺は思う。今後ユニットの活動に関する話し合いは新しい事務所で行われるだろうし、ともなればこの学院に来る意味はなくなる。価値の薄れかけていた最後という言葉が、今になってこの身にかすかな焦燥をもたらしてくれた。毎日袖を通していたこの制服にも。数時間前に加わったばかりの左胸の花にも。愛着とは、案外簡単に湧いてしまうものであるらしい。
投げ出されたれおくんの足が揺れている。こいつは今日、珍しく濃茶の革靴を履いていた。スーツなんかに合いそうなウィングチップのドレスシューズ。すこし細くなった爪先が、まるで指揮棒でも操るかのように振れていた。
空のなかで、高く掲げられた校旗が靡く。卒業。ビターチョコレートを摘んだ俺の背後で、れおくんがそう呟いたのを聞き逃さなかった。ペットボトルの水が、溜めこんだ光を灰色の上に落とし込む。
「おめでとー。セナあ」
振り返った先で、大の字になって空を仰ぐそいつ。その姿に違和感を覚えたけれど、正体はすぐに分かった。濃紺のパーカーも、黒いネクタイも。恐らく、もう二度と見かけることはない。緑色のネクタイはただ首からぶら下がるだけの何かに成り果てて、紺色のベストは見るに久しい。さすがのこいつも、第一装という絶対的な規則には抗うことはできなかったようだ。
「あんたもでしょお」
言えば、れおくんはふふん、とわざとらしく鼻を鳴らしてみせた。
「すごいギリギリだったけどなあ」
軽快に。快濶に。寝転ぶあいつはそうして笑う。おれのことも祝って祝って、と年甲斐もなく足をばたつかせて。俺はつい視線を落として、おのれの鞄を見た。傷だらけの金具。削れた端。取れない染み。三年間持ち運んでいたおかげか、これにはそういったいくつもの綻びが伺えた。革は使い込むほど色味や質感に変化が現れるから、三年前のこいつ本来の色なんて、もう忘れてしまった。
「はいはい。おめでとお。れおくん」
真っ黒な包装の端を破り、現れた黒に近い板を噛む。ビターチョコって、粘土みたいな味がする。粘土なんて食べたことはないけれど。
残りを口に放り込んだ俺の背後から、ちいさな鼻歌が聞こえ始めた。紛れもないれおくんの声が、知らない曲を奏でている。たった今作った曲なのかもしれないし、単純に俺の知らない曲なのかもしれない。終わったと思えばまた始まって、始まったかと思えばすぐに終わる。短い音節を繰り返しているのだと気付いて、俺はそれ、とついその流れを遮った。
「それ、何の曲」
「セナはなんで泉って名前なんだろうの歌ー」
「はあ。もっとましなタイトル付けてよねえ」
「だってさあ。空の色綺麗だなーって思ったから」
するとまるで聞かせるかのように、れおくんはその曲をふたたびなぞり始めた。一音一音を与えるように。この風に乗せていくように。機嫌の良さそうに弾ませた声は、ただゆっくりと流れていく。繰り返し繰り返し、その音の並びは俺の耳に染みついていく。
れおくんの思考はいつだって飛躍していて、だから今日に至っても俺は、その思考を正しく理解することができなかったように思う。そもそも他者を寸分も違えることなく理解しようだなんて、そんなものは傲慢だ。それなら見たまま、聞いたままを信用すればいいのかと言われればそれはただの慢心で、かつての俺は、きっとそれを分かっていなかった。否、分かっていたのに、いつもおのれを取り繕うことばかりに気を取られて、数多踏みにじってきた他人の感情というものに、見ないふりをしてきた。
名付けられた理由なんて、そんなの知らない。そう返そうとして、しかし過去の記憶がそれを否定してくれる。小学生の頃に書いたことがある。ありふれた、自分の名前の由来を綴った作文だ。ぼくのなまえ。いずみというなまえには。
「確か、」
「おお。確か?」
切り出せば、投げ出された左足がぽん、と跳ねた。反動で起こされた身体は、広がる五線紙とふたたび向き合う。伸ばした左腕が転がる鉛筆を掬った。HB。尻に付いた消しゴムは、頻繁に用いられているのか角がない。
「なに期待してんの」
「気になるじゃん」
「そんな大したものじゃないし。いっぱい湧くようにとか、そんなんだよ」
綺麗な夢とか、希望とかさあ。口のなかに、チョコレートの苦味が残っていた。すこしだけ中身の減ったペットボトルを取る。蓋を取って、濯ぐみたく無味の液体を口に流し込んだ。
「れおくんは?」
「獅子のように強く!」
「なるほどねえ」
「まあ、そんな強くなれなかったけどさ」
一段。二段。会話を続けるうちに、五線は次々に埋まっていく。レ点にも見える黒点に素早く線を足して、そこに意味を与えていく。
俺はれおくんの発言に返すべきひと言に悩んだまま、右へ左へと忙しなく行き来する手を眺めていた。膝に頬杖を突いて、人さし指でおのれの頬をつつく。
シャーペンと鉛筆って、何が違うの。いつかそう問うたとき、こいつはシャー芯持ち歩くのめんどいじゃん、とただそう言った。れおくんはいつだって身軽だから、身に纏うものは一グラムだって少ない方がいいのだろう。
「あのさあ。れおくん」
ほとんど呟くような声だったというのに、れおくんは呼びかけに気が付いてしまう。んー、と間延びした声が、呼びかけた理由をやわらかに促した。俺さあ。耳の奥で血液がごうごうと巡る音が騒がしい。
「アイドルになりたかったんだよねえ」
熱を持った手のひら。センタープレスされたスラックスの裾を左手で密かに摘む。空を邪魔する電波塔の赤が、俺の眼にはやけに鮮やかに映った。ぴたりと動きを止めたあいつの左手。コンクリートの一点を見つめながら、鉛筆の尻でおのれの顎をぐりぐりと押し込む。目線の先には、背の低い雑草が生えていた。
「なんで過去形?」
「現在進行形だけど」
「セナは最初からアイドルだろ」
何を言っているんだ、とでも言いたげな曇りのないまなざしが俺を捉える。ほんの一瞬合わせた視線から逃れるように、静かに首を振った。
「人を笑顔にさせるのがアイドルでしょ」
俺はまだ、全然アイドルじゃないよ。言えば、れおくんはふうん、と呟きながら五線紙の上の消し滓を手で払った。そこに一、と番号を振って、下から真新しい一枚を取り出す。
「セナの隣で歌えて、おれはずっと幸せだったけどなあ」
俺を含めて大勢で歌っていたときも。俺とれおくんのふたりだけだったときも。五人で踊る今も。決して楽しいことばかりではなかったはずなのに。それらをすべて無かったことのように、もしくはそれらをすべて含めて、こいつは良い思い出だったかのように言う。俺にはそれがすこし気にくわなくて、は、と雑に息を吐いた。
「お人好しだよねえ、あんた。ほんとさあ」
「だってほんとのことだし」
ぱちり、と一度落とした瞼。昔から変わることのないこいつのやさしさが、俺にはずっと、身に余るほどむず痒い。強くなりきれなかったと言い切ったれおくんは、それなのに、今も無意識的に俺へと手を差し伸べる。きっと瘡蓋をこさえたままのあいつに、俺は慰めの言葉だってかけてやれないのに。
「ほら。そういうとことか」
「セナ好し? わはは。好きに理由なんて要らなくない?」
そうして鉛筆を握ったままの左手で、チョコレートの袋を漁る。黒と茶色の包装を掴んで、黒い方を元へ戻した。端を剥いて、中身を口に咥える。アイドルってさあ。発せられたその声は、チョコレートに阻まれてやたらにくぐもって聞こえた。
「好きになってくれる人がひとりでもいたら、そいつはもうアイドルなわけじゃん」
消しゴムでひとつの音符を消す。その上にまた新たな音を足し直して、左手はするすると進み始める。うん、と頷いた声が生返事じみていたのは、やはりこいつの発言は突飛だと思っていたからだ。次に何を告げるのか、そのひと言ひと言を聞いていないと、すぐに話の内容が分からなくなる。単純なようで複雑で。複雑なようでいて単純で。俺の周りには、そんな人間ばかりがいる。
「あ、興味ないだろ」
「あるよ。それで?」
れおくんは八重歯を覗かせて、にんまりと笑いながら言う。だからあ。
「セナはアイドルなんだよ。少なくとも俺のさあ」
背中を暖めてくれる太陽の光。春を超えたその先の、夏の象徴のような笑顔。こいつが。れおくんが。特別に好きな表情をして、俺のことを語るから。
靴の縫い目を撫でる指を止めた。ほんの一瞬だけ周囲の音が途絶えたような気がして、俺は思わず息を詰める。
うそみたいに明るくて。呆れるくらいにやさしくて。こいつの言動に愛想を尽かしかけたことなんて、いくらでもあるけれど。それでも離れることをしなかったのは、こいつのそんなところを、俺はそれ以上に好んでいたからだ。離れることを選ばなかったのは、あいつのそんなところに、いつまでも触れていたいと思ったからだ。
そっと吐いて、静かに吸い込んだ空気は、桜の香りがした。薄い桃色をした木の先端が、校門の近くで揺れている。
「ふうん。どうもありがとお」
「あれ。嬉しくない?」
好きになってくれるやつがひとりでもいたら、そいつはもう、アイドル。それは滅茶苦茶で、いかにもこいつらしい理論であると言えた。そんなれおくんのやさしさが、もう二度と損なわれぬように。顔の筋肉がちりちりと疼いて落ち着かない。それでも俺は、嬉しいよ、と何も飾らない本心を返した。
「あんたもずっと、俺のアイドルでいてくれるならね」
取れかけだったあいつの袖の釦が、いつの間にか繕われていることに気付く。一体誰がそれをしたのだろう。母親かもしれない。もしくはあいつが愛してやまない妹ちゃんかもしれない。じゃあまたな、と階下で誰かが声を張った。喧騒が近づいたように思うのは、れおくんと俺のあいだを埋める言葉が、しばらく失われてしまったからに他ならなかった。椋鳥が列を成して飛んでいる。右から左へ。向きを変えて、左から右へ。一瞬乱れた隊列はすぐに整って、美しいまま視界の端へと外れていった。
「え。おれのこと、好きになってくれんの」
やがてそいつは、ひとつの問いを俺に投げてみせた。指で、おのれの袖の金釦を掻く。手の内にどうしようもない熱がともっていて、釦はすぐにぬるくなった。
「ずっと前から大好きだけど」
からん、と乾いた音を立てて、コンクリートの上に鉛筆が落ちる。大事に使わないと、なかで芯が折れてしまうだろうに。俺には、シャープペンシルの方が便利に思えてならない。何も掴まないあいつの両手が、何かを掴もうと宙を揉む。底抜けに澄んだ空のもとで、大きな瞳が揺れていた。
「ど、どんくらい?」
遠くから、波の立つ音が聞こえる。ここからなら、座ったままでも海が見えた。空よりも、ずっと深い色をした青。海は空の色を映したものだと聞く。だからあいつは、俺に名前の由来なんて尋ねたのかもしれない。海も泉もきっと、青い理由に変わりはない。
「あんたのいない世界の過ごし方なんて、忘れちゃったくらい」
スマートフォンを持たなかった小学生の頃、どうやって友人たちと連絡を取り合っていただろう。大したお金を持っていなかった中学生の頃、何をして時間を潰していただろう。日常のなかに加わったあるひとつによって非日常がもたらされて、その非日常がまた、気付けば日常に変わっていく。俺にとってそれはれおくんで、れおくんのもたらした非日常が、いつからか俺の日常になっていた。あいつのいない人生の方がずっと長かったはずなのに。もう俺は、れおくんに出会う前の俺のことを、うまく思い出すことができない。
こ。光を浴びて、れおくんの髪がきらきらと靡いている。まるで、れおくんの持つ煌めきというものが可視化しているように見えて、綺麗だった。
「告白か?」
眉根を寄せながら眉尻を下げて、口元はどこか忙しない。今のれおくんは、そんな奇妙な表情をしていた。普段よりすこしきつく結んだネクタイを緩めて、大きくため息をつく。ばあか。その鼻先に向けて、俺は言った。途端に笑えてしまって、仕方なかった。
「そうだよ」
ぐしゃぐしゃに髪を巻き込んで、終いには力いっぱいに目まで閉じて。うわ、と呟きながら、れおくんは両の手で両の耳を抑え込む。まるで、何かに耐えるみたくちいさくなってしまったそいつ。掌底に揉み潰された耳朶が、薄らと赤みを帯びていた。ドレスシューズに、くるぶし丈の黒い靴下。第一装では白色を着用するように、と定められていたはずなのに。こいつはこういった奇怪な着こなしを、平気でするようなやつだった。
「変な姿勢」
「だって逃げてくだろ! せっかくのおまえの声なのに」
声じゃ駄目なんだよ。れおくんはあの日この場所で、そう言っていたことを思い出す。重さがある方が、そこに在るって気がするから。質量のないものは脆くて、すぐに失くなってしまうから。数秒前の自分の言葉を覚えてはいても、その声を狂いなく再現することは、当の俺にだってもうできない。だからこいつは今、そんなあてのないものを留めておこうと必死なのだろう。
「録音でもすればあ」
「いや、いい。これ以上聞いたら多分死ぬから」
「そんな簡単に死なれたら困るんだけど」
時折、れおくんは身命を削って曲を作っているのではないかと、疑心するときがあるから。これもまた、偽りのない本心だった。かたく閉じた瞼は、どれだけ眺めたって開こうとはしない。あと一回くらいなら、言ってやってもよかったのに。
近くで、唐突に音が弾ける。マイク越しに広がる誰かの声は、振り返ったその下から響き渡っていた。常設された野外ステージ。何かしらを叫び始めたかと思えば、ゲリラライブ、と確かな単語が耳を突く。
「セナは、」
両耳を押さえつけていた手が緩む。セナ。その呼び名が、あいつなりに考えた俺へのあだ名であったと気が付いたのは、俺がれおくんと呼び始めてすこし経った頃のことだった。
「セナは俺が死んだら、悲しんでくれるのか」
そして走り始めた歌声のなかで、れおくんは俺にそう尋ねる。馬鹿なことを聞くな、と思う。そんなこと、想像したいとも思わない。言語というのは不自由だ。そう嘆くあいつの心情が、ようやく分かったような気がした。けれど言語しか意思疎通の手段を持たない俺は、せいぜいその感情をまなざしに込めることくらいしかできない。
「当然でしょお。俺には、あんたが必要なんだからさあ」
響く重低音が心臓を打つ。ひとが集まり始めているのか、音楽に合わせて揺れるざわめきが大きくなっているように聞こえた。
ひひ、と目の前のこいつはそうして笑う。れおくんのことも。今のやりとりで笑うべきところも。やはり俺にはよく分からなくて。けれど無性に懐かしさを覚えるその表情から、目が離せなかった。
取れかけの靴紐。すっかり乱れた髪。左胸に付けられた揃いの花。皺だらけだったはずのブレザーは、今日に限って縒れもない。ひとつの区切りを終えたばかりの今だからだろうか。目に映るすべてを惜しんでしまうのは。けれど終わることよりも始まることの方が多いと知っているから、不思議と寂しさはなかった。
「おまえにそこまで言われたら、一生死ねないなあ」
「だったらずっと生きててよ」
「わはは。じゃあ、末永くよろしく!」
言い残して立ち上がると、れおくんは音のする方へと駆けて行く。柵から身を乗り出して、野外ステージを覗き込もうとする背中。同じく立ち上がろうとした俺を、スマートフォンの振動が引き止めた。点いた画面には、くまくんからのメッセージが表示されている。もう来てもいいよ。れおくんは、その簡素な文章を眺めている俺を呼んだ。
「セナ。おれたちもあれやろう」
「馬鹿。ライブ前に問題起こさないでよ」
いくつもの力強い歌声を聞きながら、中身がわずかに減ったチョコレートの袋をビニールに詰める。すこしだけぬるくなった水は、鞄のなかに押し込んだ。教師か、もしくは生徒会の人間が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。こんな日に限っては、見逃してくれるかもしれないけれど。
「えー。今日みたいな日に歌ったら絶対気持ち良いじゃん」
ふらりふらりと、浮かせた足が揺れている。調子に合わせて柵を打つ爪先。靴紐はすっかり解けて、コンクリートの上を這っていた。そう思ったから、あいつらだって予告もなしに舞台に立つことを選んだのだろう。そんな馬鹿ばかりが溢れるこの学院が、しかし嫌いではなかった。今はもう、いっそ好ましいとさえ思っていることを否定しない。
「ほら、スタジオ行くよ。準備終わったって」
「おー。あ、待って。譜面片付ける」
蓋の開いた鞄から、今朝入れたクリアファイルが覗いていた。散らかした数枚を整えたれおくんは、解けた靴紐を結び直す。俺は無地のそれを引き抜いて、晒された旋毛へと差し出した。
「れおくん」
「んー」
「あげる。卒業祝い」
顔を上げたれおくんは、なんだこれ、と疑問を隠さない表情でファイルを受け取り、中身を取り出した。今、れおくんの足元にある数枚と、同じ種類の五線紙。それから紙へ走り書きされた、お手製の五線紙。
メロディラインだけじゃさあ、曲の雰囲気とかちゃんと分からなくて。何度も弾いたり書き直したりして、大変だったんだからねえ。そう述べているあいだに、れおくんの真剣なまなざしは、紙の上を過ぎていく。尋ねるよりも、聞くよりも。書かれていることを読み取った方が早い。譜面を手にしたときのれおくんはそうやって、いつもすぐにおのれの世界で目前の音と会話をし始めてしまう。話しかけるのも躊躇うような鋭い視線を前に、俺はつい、小言を並べるだけのつまらない口を噤んだ。
皺まみれになったビニールの持ち手を、手持無沙汰に広げていく。ステージには、ひとつめの曲の余韻が漂っていた。短いマイクパフォーマンスを行ったあと、すぐにふたつめの曲が続く。いつかのライブで聞いたことのある曲だった。それにもっと個人的な理由で、俺はこの曲を覚えていた。なあ、これ。歌が始まろうとするころ、れおくんはようやく口を開く。
「なんでおれのこと書いてんの」
いつだってきみの言うことは大げさで、だけどもう、それがないと物足りない。ステージの上で、ひとつの声がそう歌う。初めて聞いたとき、まるでれおくんみたいな歌詞だと、そう思ったのはたしか、二年の夏ごろだろうか。それ以降しばらく聞かなかったものだから、ユニットはもう解散してしまったとばかり思っていたのに。
「あんたが曲作ってんの見るの、好きだから」
それを詞にしただけだよ。今日は暑いなあ、とあの日のれおくんが俺に笑う。翻るシャツ。目が合って、にやりと笑いかけたあいつ。ぺたぺたに萎びた鞄は今日、何処にも見当たらなくて。復学して以降、こいつが学校鞄を持ち歩いているさまを見かけたことがなかった。
整えた譜面が一枚、風に浮く。膝元に滑り込んだそれには、一と番号が振られていた。先ほどのれおくんが、何かを書き留めていた五線紙だ。なんでセナは泉って名前なんだろうの歌。それと同じ並びの音が、この線の上に落とされている。安直な題名なのに。頭のなかでは、聞いたあいつの鼻歌がひどく穏やかに流れていた。
「もし、おれが死んだらさあ」
淡い光に満ちた部屋。慈しむよう鍵盤に触れる指先。生まれた音を愛でるそのまなざしはどこまでもやさしげで、やわらかい。俺の頭のなかに居るあいつはそんな姿で、この曲を美しく奏でていた。
「棺桶に、絶対これも入れといて」
記された音は途中で止まっている。二枚目は、座り込むれおくんのとなりにあった。けれどあいつが繰り返していた声は俺のなかに染みついて、止むことはない。
「ずっと生きててって言ったじゃん」
「言った言った! 言ったけど! 生涯現役でいますけど!」
そんなことを言ったって、こいつは極めて不摂生な生活をやめないだろうし、徘徊となんら変わらない奇行を年中繰り返すのだろう。
毎日家で寝るようになってから言いなよねえ、と右手でそのちいさな頭を掴んだ。ろくに手入れのされていない髪が指に引っ掛かる。つよ! 力強いな! 喚きつつも、なんでこいつは笑ってんだろ。暴れる姿は子どものようでいて、しかしこの頭蓋の内には、世界を驚嘆させる傑作のかけらが詰まっている。どうして神様は、こいつに作曲の才能を与えたのか。その才能を、すこしくらい生活力に振り分けてくれてもよかったのに。
「あ、そうだ。じゃあ、これ」
れおくんは続きを記した二枚目に、手探りで触れる。おまえにやるよ、と掴んで差し出すものだから、俺は頭を離してそれを受け取った。親指の爪は今日も短く丸く磨かれていて、音を愛している人間の指先をしていた。
「おれからの卒業祝い!」
そして、クリアファイルに鉛筆と五線紙をひとまとめに入れて立ち上がると、踊るようにして扉へと歩き始めた。荷物に囲まれた俺を置いて。五線譜を失った鞄のなかに、今度は異なった五線譜を入れ直す。軽やかな足取りをした背中が、どんどんちいさくなっていく。
けれど廻し手に手をかけようとしたれおくんは、何を見つけたのかそばの壁を前にしゃがみ込んだ。すっかり距離を埋めた俺も、つられるようにして打ちっぱなしの灰色を覗き込む。そこには五本の歪な線があった。以前自身が施した、落書きじみたただの直線。春頃よりもさらに霞んでいたものの、うすい灰色の上では、まだその痕跡の存在は色濃く残っていた。
れおくんはそれを眺めつつ、指折り何かを数え始める。いち、に、さん、し、ご。すべての指を畳んだその手で左のポケットを探って、黒の油性ペンを取り出す。
最後にれおくんは、この学院にどんな曲を残すのだろう。ペンを取り上げることをしなかったのは、そんな好奇心が勝ってしまったからだ。俺はただ、褪せた線上に触れるペン先を黙って見ていた。
しかしその作業は、ほんのわずかな時間で終わりを迎えることとなる。たったの五音を乗せただけで、れおくんはペン先に蓋を被せてしまった。それをポケットに仕舞い直して、用は済んだとばかりに立ち上がる。一見して特別な意味を持たない音の並びのようにしか見えず、俺は何これ、と思わず尋ねてしまう。
するとれおくんは俺に見せるよう、開いた左手の指をひとつひとつ畳みながら言った。
「せ、な、い、ず、み!」
綺麗な響きだなあ。開け放った扉の先に、その声は反響する。埃っぽくて、薄暗くて。誰もいない踊り場に、屋上からの光が広がっていた。
ちょっと、くだらない落書きしないでよねえ。本当はそんなこと、すこしだって思ってないけれど。この胸には、嬉しいとも楽しいとも異なる感情が湧いていた。うまく当てはまる感情の名を見つけることができずに、足早に階段を下っていく背中へ、癖のように小言を投げる。扉の締まりきった狭い世界に、れおくんの笑い声が抜けていった。世の中にくだらないものはない! 歌うような。舞うような。あいつの姿を追って、俺もひとつずつ階段を踏んだ。
足音の代わりにビニール袋が鳴り、やがてそこに、あいつの鼻歌が混ざり始める。詞が与えられたばかりの、まだ未完成な曲。まるで行進曲のごとく歌いながら、れおくんは腕を振って踊り場へと下りた。
あちこち乱れたままの髪。体躯に見合わぬ大きな歩幅。はみ出たシャツの裾には皺が付き、足取りは常に曲がりやすい。
窓から光が射し込む廊下で、そんな締まりのない後姿が先を行く。身なりを整えろ、と苦言を呈した回数は両の手では足りなくて、真っ直ぐ歩け、と後ろ襟を引いた回数もまた、足の指をすべて入れたって足りない。
しかし、こうして歩きながら眺めるあいつの背中を。そこからひとつひとつ見つけていく、あいつの気配を。仕草を。振り返って俺を見る、その眼を。
本当のところ俺は、出会ったころからずっと、愛していたのだ。