箱庭の子どもたち
雨が降っていた。
まるでちいさな埃のように宙を舞っていた水粒たちは、この短いあいだに確かな質量を持った雫へと変化したらしい。その身体がぽつぽつ、と硝子窓に砕けていく音を聞きながら階段を上る。手すりに沿わせた指先。冷え切ったそこが、今は確かに冬のさなかにあるのだということを教えてくれていた。
そういえば、傘を持ってきていないことを思い出す。帰る頃には止んでいてくれるといいけれど。今朝並んで歩いていたま~くんは、確か傘を持っていた。七十センチの、ひとりでは随分余裕のある、いつもの大きな傘だ。生徒会の用事あとにユニットの練習に合流すると言っていたから、ためしに連絡を入れてみようと思う。雨が降るなら、教えくれればよかったのに。そうしたら今、困ることなんてなかった。
左手に持つ用紙が、スラックスと擦れて歪む。皺が増えていくのが面倒で、その一枚を適当な半分に折って畳んだ。
たしか、前も同じようなことを思った気がする。いい加減天気予報くらいは真面目に見なければいけないのかもしれない。こうやって、俺のなかにあるちゃんとする、という項目がまたひとつ増えていく。前はそのすべてを煩わしいと思っていたはずなのに。今ではそれらを熟していくことに、どうやら俺は安堵を抱いているらしい。
とん、とうすく汚れた上履きを、上り着いた三階に乗せる。口元に翳したプリントのなかで、一度大きく欠伸を零した。帰ったらさっさと寝ようだなんて、まるで健康優良児の思考そのものだな、とブレザーのポケットに右手を突っ込む。
目的地であるスタジオは、先の角を右に曲がったところにあった。置かれた古時計がかちんこちん、とひとり言を響かせている廊下。今日も規則正しく揺れる振り子を一瞥して、その先を曲がる。
そこは見慣れた人間がいた。扉に背を預けて、スマートフォンの画面を眺めるひと。ぺたぺたと、踵を擦る俺の足音に気が付いたのだろう。ナッちゃんは液晶から視線を上げて、近づく俺に声を掛けた。その声はあの古時計よりも、高くこの廊下に響く。
「遅かったじゃない。日直終わったの?」
「うん。先生とちょっと話してただけ」
廊下寒いし、入れば? 廻し手を掴もうとする俺を、ナッちゃんは慌てたようすで引き止める。待て、の形をした右手の人さし指に、重たげな銀色の指輪が嵌っていた。傍から見れば不良のような出で立ちであるのに、ナッちゃんはそれとは裏腹な仕草と声色で、ダメよお、と扉の前に立ち塞がってみせた。やたらに大げさなその反応に、俺は思わず手を引く。
「え、何? なんかいんの?」
「泉ちゃんと『王さま』が居るだけだけど」
「なんだ。じゃあいいじゃん」
それなら、俺の知っているいつもの光景だ。『王さま』はこの頃、よくスタジオに姿を見せるようになった。炬燵に寝転がって、五線紙を散らして。ちょっと、あんたねえ。頭のなかで、染みついたセッちゃんの声が繰り返される。とても平和な光景だ、と思う。なのに、ナッちゃんは扉の前から退こうとしない。
「良くないわよ。ふたりとも寝てるんだから」
起こしてあげるのもかわいそうでしょ。耳に付いたピアスの飾りが、ちいさく揺れた。ころころと種類の変わるそれを見るたびに、ナッちゃんはマメだなあと思う。俺が耳に穴なんて開けても、毎日ピアスを選ぶのが面倒で、すぐに塞がってしまうに違いない。
「セッちゃんも? 珍しい」
「そ。ふたりとも仲良くねえ」
もとより響かない声をさらに潜めてしまったのは、この扉は防音の役割をもたないことを思い出したからだ。ぼおん、という古時計の鳴き声が、スタジオにはよく聞こえてくる。かっちん。こっちん。変わらずに、あの時計は時間を刻んでいた。
「司ちゃんが他の練習場所探しに行ってくれてるから」
それまで一緒に待ってましょ。ナッちゃんの言うそれに、俺はふうん、と鼻を鳴らすような呟きを返した。真似るようにとん、と壁に凭れさせた背中。立っているのが億劫で、すぐにずるずるとその場にしゃがみ込んだ。やや使い古された黒革の鞄。ナッちゃんの脚のあいだに収まるそれは、床に放ったおのれのものと外観がよく似ていた。
寝ている。仲良く。俺にはちょっと、その光景を想像することができない。ナッちゃんが過剰に表現しているだけなのだと思うけれど。俺の考えるところのそれとは、たとえば手を繋いで同じベッドで寄り添って眠るだとか、ひとつの枕をふたりで共有するだとか、そういった姿だ。うんと昔、兄者やま~くんとしていたみたいに。
俺はあのふたりを、その絵に収めることがやはりうまくできない。そうあればいいと、いつかそんな風になればいいと、思っていたのに。
「なんか、」
半分に折り畳んだ用紙で、つんと床をつつく。うすく浮かぶ模様を辿れば、すぐに俺の上履きの先にぶつかった。汚れたなあ、これ。上履きを洗濯するには、ちょっとどころではない労力が要る。
「なんか?」
「平和になったなあって。俺たちさあ」
雨粒で濡れきった硝子窓を見た。重々しい灰色の雲が右にも左にも、ずっと奥にも続いていて、しばらく止む気配はなさそうだ。絶え間なく、硝子を滑り落ちていく雫。ひとすじ、またひとすじと、重力に逆らえずに消えていく。
そうねえ。ナッちゃんの右足が、廊下を擦った。きっと今、右手を頬に沿えて考えるような仕草をしているのだろうということは、見ずとも分かった。すこし首を傾げたあの姿は、幾度も見てきたせいか想像に容易い。
「いいじゃない。平和の方が好きよ。アタシは」
でも、とナッちゃんは、呼吸ひとつぶんの間を置いてから言葉を続けた。俺はそれを、白黒の床にぐりぐりと指先を押し付けながら聞いていた。
「嵐の前の静けさじゃないといいんだけど」
かっちん。こっちん。校舎がやけに静かなように感じるのは、外からの音が無いせいだ。今日は雨のおかげで野外ステージが使用できない。元より本日開催のドリフェスの告知も受けておらず、故にどのユニットも屋内で練習に励んでいるのだろう。すべて雨に吸い込まれて、この校舎にはただ雫の弾ける音だけが届く。
俺も、すこしだけ同じことを考えていた。これまでが慌ただしすぎたのだ。だから唐突に訪れた平穏というものを、俺たちは素直に享受することができないでいる。
右腕を頬杖にしながら、俺は折り畳んだ用紙を手持無沙汰に開いた。第二学年B組五番。朔間凛月。画数が多いなあ。この名前。響きは嫌いじゃないんだけどさあ。
「来ると思う?」
嵐。問えばナッちゃんはやだ、アタシ? なんて恍けてみせるものだから、俺は淡々とそれを否定する。
桜が散って、蝉が鳴いて。紅葉が綺麗だと思っていたら、いつの間にかすべてが枯れ葉となって地に落ちていた。一年は一二か月しかなくて、その四分の三が怒涛の勢いで過ぎていったのだから、残る四分の一なんてきっと本当に、あっという間に終わっていく。成人を境に時は一気に流れていくと聞いた。今よりもっとはやくなるだなんて、大人になるというのは損を受けることと相違ない。
「冗談よ。まったく、すぐそうやって戦いたがるんだから」
「聞いただけじゃん」
「もう。来ない方がいいに決まってるでしょ」
「なにそれ。どっちなの」
ナッちゃんはとくべつ、平穏というものを愛しているように思う。みんなで仲良く炬燵に入って、購買で買ったお菓子を食べながら次のライブの話をするような。新しい曲の振り入れを、くだらないことを交えながら進めるような。それを床に伏して笑っても、咎められないような。ユニットにそんな平穏が訪れることを、そしてそれが永続することを、ナッちゃんはいつも望んでいた。
「分からないわよ。アタシ、神様じゃないもの」
「まあ、確かにねえ」
俺だって、この毎日がずっと続けばいいと思う。しかし煮え切らない返事をしてしまったのは、もう間もなくやってくる終わりが、その望みを砕いてくれると分かっていたからだ。三年って、早いんだなあ。そんなこと、中学の頃は考えもしなかったのに。楽しいことはあっという間だなんて、その意味を知る日が来るとは想像もしていなかった。
枕代わりにした右腕に、頬を押し付ける。太陽光の届かない今日は、俺にとってどこまでもやさしい世界であった。目を閉じても、意識が暗闇に引かれることがない。蛍光灯の安価な光が床に落ちて、瞼の裏に広がる闇を妨げていた。
「あら、それなあに? 答案用紙?」
ずるずると、ナッちゃんはその場に腰を落として、俺の左手に摘まれた用紙を覗き込む。昨日のナッちゃんとは、また違った香りがした。本当にマメだなあと、こんな俺でさえ感心してしまう。
「そ。さっき返してもらったやつ」
赤色のインクがぐるぐるといくつもの円を描くそれを、さらに開いて見せた。第二学年B組。朔間凛月くん。百点満点おめでとお。ぱんぱかぱーん、と頭のなかでファンファーレがやかましく鳴り響く。近頃は諦めという意味で、試験中にシャープペンシルを置くことがなくなった。試験勉強のための時間を作るようになった。こんなの、一体いつ以来だろう。俺にとって勉強とは無価値なもので、点数とは無意味なものであったはずなのに。
「へえ。やればできるって、本当だったのね」
まあねえ。やればできてしまったから、俺には閉ざされていたはずの道が、今更になって開いてしまったのだが。けれどやはり、俺にとってこの三桁の数字は無意味なものに思えてならない。こんなものを獲ったところで今が続くわけでも、時が止まってくれるわけでもないのだから。まったく、余計なことをしてしまったなあと思う。
「でも、今年は卒業しないのよね?」
半分に畳み直した答案用紙をさらにもう半分に折り込んで、鞄のなかに押し込んだ。それは教科書とノートに阻まれて、やや不格好にひしゃげてしまった。
「うん。さっき先生にちゃんと言ってきたから」
流れていく時間にただ流されていた俺は、ようやく立ち上がって、そこに留まることを決めた。新たに開いた扉を自らの手で閉めて、今ある安寧を享受し続けることを望んだ。それはもしかすれば、愚かなことなのかもしれない。俺がいくらここに留まろうと、あのふたりは時の流れに逆らうことはできないのだから。留まりながら、進んで行くふたりの背中を見送ることしかできないのだから。
「凛月ちゃんまで卒業しちゃったら、寂しくて死んじゃうところだったわよお」
五人が揃う舞台が、あと何度あるかを数える。片手分で事足りてしまうことくらい、前から知っていたのに。このスタジオで、五人が揃う回数。炬燵に入れた脚が、誰かの脚とぶつかる回数。セッちゃんがあんたねえ、から始まる小言をぶつける回数。扉を開けて、今日は『王さま』がいるのだと安堵する回数。未来に起こるそんな事象たちを知っているのはきっと、カミサマくらいのものだ。生憎と俺は目に見えないものの存在を信じたりはしないけれど。
その回数を想像するたび。あと何度、これと同じことが起こるのだろうと思いに耽るたびに、心に穴が空いたような気持ちになる。その感情に名前があるのだとしたら、それはきっと、寂しいという言葉に変換されるのだろう。
「ねー。俺も寂しくて死んじゃいそう」
柄にもなくそう漏らした俺に、ナッちゃんはふ、と笑いかけた。凛月ちゃんも意外に寂しがり屋さんなのね。そう返すナッちゃんの右手のスマートフォンが震える。ぱ、と点いた液晶には、ス~ちゃんからのメッセージが映し出されていた。二階端の練習場に居ます。淡々としたその文をふたりで眺めたあと、行きましょうか、とナッちゃんは自身の鞄を掴んで立ち上がる。一歩踏み出そうとするその人を、俺はしゃがみ込んだまま呼び止めた。
「どうしたの?」
使い込んで、傾き癖のついた鞄を引き寄せる。春よりも随分質量を増した鞄だ。教科書。筆箱。ノート。ひとつひとつは大した重さではないけれど、いくつかを詰め込めばそれなりに重くなるせいか、最近はどうにも左肩が怠い。リュックにでもしようかなあ、なんて。そんな拘りを持ち始めた俺を見たら、ま~くんは驚いてくれるだろうか。
「んー。今年もよろしく。みたいな」
そうだ。ま~くんに連絡を入れるのを忘れないようにしなければ。帰宅して濡れ鼠になっていたら、あの兄みたいなのが五月蠅いだろうし。俺の場合は鼠ではなく、鴉の方がよりそれらしいのだが。
「新年の挨拶にしては、ちょっと遅くなあい?」
緩慢に立ち上がる俺を急かすでもなく、ナッちゃんはおどけたような声色でそう言った。先を歩むその後ろ姿を、上履きの踵を引き摺りながら追いかける。数分前に来た廊下を、今度はふたりで引き返す。
かっちん。こっちん。階段を下るその背後に、古時計のいのちの鼓動が響いていた。
×××
雨が降っている。
目を離した隙に、黒板には白で書かれた文字が増えていた。かつん、かつん、と弾ける音が心地良い。縦書きのノートに続きを書き写しながら、意識はその断続的な響きに向いていた。す、と白文字を、黄色のチョークが囲う。真似るように、筆箱から黄色のマーカーを取り出して、同じ文字列を囲った。
チョークを置いた教師は教科書の頁を捲って、最初の段落を読み上げ始める。丸い銀縁の眼鏡。いつも着ている茶色いベスト。ぴしりと締められた縞のネクタイ。それらをぼんやりと収めた視界の端に、あいつは今日もいた。教師の真正面にいるそいつ。堂々と机に頬を付けて、シャープペンシルさえ握らない後姿。その姿勢はあまりにも居眠りの模範としてふさわしく、この場所から見ていていっそ清々しいものがあった。
ああやって悪気もなく寝顔を晒されては、教師もやりがいがないだろうに。授業中に話をされるのと、居眠りをされるのと。どちらがあの教師の熱意を削ぐのに有効なのだろう。元より、この学院には熱意のあるやつなんて居ないのだが。
教師も、生徒も。皆時間という流れのなかを、ただ流れるままに生きているように思う。それは一か月とすこし、この学院で過ごして得た俺なりの所見だ。かちん、とシャープペンシルの尻をゆっくり押し込む。それがこれから覆ることはあるのだろうかと考えて、浮かんだ答えはただの否定だった。夢、と名を冠した学院であるのに、夢も希望もありはしない。俺にだってアイドルになるという夢はあるけれど、それが叶うかどうかはもはや怪しい。
昨日は淡い青色をしていたはずの空が、嘘のように黒い。これから来る嵐で今日は短縮授業になるかもしれないということを、今朝の段階で担任が話していた。数週間前に桜が咲いていた木の頂点が、強風に煽られて撓っているのが見える。まだ雨は大した強さではないけれど、風と混ざって脅威的な暴風雨になるのも時間の問題だろう。
さらさらと黒板の上を、黒板消しが滑っていく。上から下へと何度も往復を繰り返す茶色を、頬杖をついて眺めていた。き、と黒板と擦れて立つ不快な音に、思わず顔を顰める。
授業というのは、聞いている側に隙がありすぎるように思う。たとえば隠れるみたく手紙を書いたり。退屈すぎるが故に、前に座る生徒の背中をつついてみたり。それらをあしらうことは、隙を誤魔化すためのいい戯れであったのだと知る。
席替えをしたのは、つい先日のことだ。俺の真後ろに居たあいつは最前列に移動し、あいつの正面にいた俺は、最後列の窓側から二列目の席を新たに与えられた。だから教室がよく見渡せる。寝ているやつも。授業に関係のない作業をしているやつも。机の下でスマートフォンを弄っているやつも。それらが、今抱いている所見を確固たるものにしてくれていた。
だからといって、あいつを熱意のない人間として扱うのは、何か違うような気がしてならない。その理由のひとつとして、あいつが作曲という変わった特技を持っていることが挙げられる。そしてその才能は、何度凡人が生まれ直そうとも手に入れることのできない、類稀なるものであるらしい。それは入学当初から学院中に周知されている事実だった。
俺はその片鱗を、既に何度か目撃している。そもそも学院で使用を推奨している楽曲をひとりで一新してしまったというのだから、才能を知らしめるにはそれだけで十分だった。だからあいつは許されている。怠惰ではなく、慢心でもなく。あの寝姿は、常に結果だけを求める学院から得た正当な待遇に過ぎない。
しかしあいつ、ほんといつも寝てるよねえ。
ずる、と背もたれに身体を預ける。授業を受ける気がないのなら、帰って曲でも作っていればいいのに。生憎とここはアイドルの育成に特化した学校であるから、授業の出欠には左程うるさくない。試験でそう高くもない基準点に達してさえいれば、誰だって進級できてしまう。あいつとなれば、それは地に生えた杭ほどの高さまで下げられているに違いない。まったく馬鹿げているな、と思う。特別になれないおのれを、恨むことにももう飽きた。
それならどうして、あいつはアイドルになろうと思ったのだろう。音楽の神に愛されているらしいあいつは、何故曲という、歌という武器を駆使する側を選んだのだろう。
ばん、と風が窓を叩いた。伴って雨粒の砕ける音が響く。空が瞬いたのちに聞こえた轟音に、誰かが悲鳴を上げた。世紀末、という言葉が脳裏を過る。この調子であれば、じきに電車も止まってしまうはずだ。今の授業が終わった頃に、帰宅指示が出てもおかしくはない状況だった。
誰もが窓の外に意識を向けるなかで、そいつだけがひとり夢のなかいる。綺麗だなあと喚く声も、輝かせる大きな瞳も。今は俺ではない別の世界に攫われているおかげか、静かなものだった。称賛されるのは好きだ。けれど授業中に騒がしくされるのはまったく好ましくない。あいつから随分離れたこの席で、今度は俺があいつの背中を見ていた。
月永。このところあいつをそう呼ぶと、他人行儀だなあ、と不思議そうな顔をするものだから、どう呼んだものか迷う。あいつには友達らしい友達もいないらしく、参考になるような呼び名がない。そして俺にもまだ、この学院にはあだ名で呼び合うような親しい人間はいない。
月永。つき。つきくん。レオ、れ。れおくん。
シャーペンの先をノートに落とす。そこには浮かべたひらがなの分だけ、黒の点が並んでいる。
×××
加減のない光が、開いたこの眼を射してくれた。
反射的に閉じた瞼を右手で擦る。足元がやたらに熱い。足指のあいだに汗を掻いていて、気持ちが悪かった。ぼやけた視界のなかで、天井から下がる照明の輪郭が徐々に定まっていく。ここがスタジオであるということを、眺めるそれらが教えてくれていた。
炬燵の温度を上げたのは一体誰なのだろう。身体を起こしたものの、この空間には誰の姿も見受けられなかった。ひとの気配も。普段はそこらに放置されているはずの荷物さえ見つけられない俺の前に、ちいさな用紙が置かれていることに気付く。二階端の練習場にいるからね、とハートマークの付けられたそれ。ぺたりと机に貼りついたメモを、不服を込めたまなざしで見つめた。
普通に起こせばよくない、あのクソオカマ。なんで呑気に寝てんだろうねえ、俺も。睡眠不足ってわけでもないのに。足元が温まると、どうにも気が緩んでしまう。こんな炬燵、早く片付けてしまった方がいいのだ。しかしその主張はきっと、反対意見多数により却下されるのが目に見えているから、声に出すことはしない。
一体いつからこんなぬるま湯のようなユニットになってしまったのか。そしておのれ自身も、今日はその一端を担ってしまっていることを自覚する。ぱしり、と両手で頬を叩いた。特別に目が冴えることもなく、ただ頬に痛みだけが走る。
なんて言うかなあ、あのクソガキ。頭のなかで謝罪の言葉を考えつつ動かした脚に、何かが触れた。質量のある、やたらに硬い何か。布団を持ち上げてなかを覗けば、そこにはくるぶしまでの靴下を履いた足があった。折り曲げられて、炬燵のうんと深くまで潜る脚。灯る光がごく近くで、そいつの服を橙色に照らしている。濃紺のパーカーに、誰かなんて確認するまでもなかった。れおくん。身を乗り出してみれば、そいつは確かに俺の反対側で布団に埋まるみたくして眠っていた。
しかし眉根を寄せたその寝顔は、今にも唸りそうなほど苦しげに見える。悪い夢でも見ているのか。それとも、ただ単に炬燵が熱いだけなのか。だから俺はれおくんのそばに延びるコードまで這って、炬燵の電源を落とした。ばさばさと布団を持ち上げ直して、なかに籠った熱気を逃がす。
頬や額に髪が張り付いているせいか、俺の眼にはその寝顔がやたらに幼く映った。此処での騒がしさに慣れてしまっていて、今のこの圧されるような静寂が落ち着かない。こうも近くにいるというのに聞こえてこない寝息も、余計に不安を煽る材料でしかなかった。
ためしに鼻のもとへ手のひらを翳してみれば、揺れる空気の感触につい安堵してしまう。よかった。ちゃんと生きている。まず死体の血色が、こうも良いわけがないのだが。
そのときちょうど、廊下の時計が静寂を割いた。唐突に響いた重たげな音色に、思わず身を硬くする。機械的なそれは四度響き渡り、校内に新たな時刻の訪れを知らせてくれた。個人の仕事を済ませて此処へ来たのが三時過ぎであったから、時間を随分無駄にしてしまったらしい。れおくんはいつやって来たのだろう。また授業を放棄してきたのかもしれない。最近は出席していると聞いたけれど、あいつがまともな授業の聞き方を知っているとは思えなかった。
そういえば、夢を見ていたような気がする。じわじわと水彩のごとく、その断片は輪郭を崩して記憶のなかに溶け落ちていく。昔よく見かけたあいつの後姿は、ぼんやりと滲んで不明瞭な水色に変わり始めていた。堂々と机に伏して眠る背中。クラスが分かれたせいで、懐かしいその姿をもうしばらく見ていない。
れおくん、起きなよ。練習行こう。
やや眉根の緩んだ寝顔に呼びかけようとして、しかし俺のくちびるは引き結ばれたままだった。頬の内側を柔く噛む。きん、と静寂が耳の奥で擦れた。呼吸するのも憚られるような静けさのなかで、潜めるように息を吸う。
れおくん。いつか定めたその名を呼ぶことを、いつからかずっと、怖いと思うようになった。一度壊してしまったものにふたたび同じ名を付けてもいいのかと、そのたびに惑うのをやめられない。けれど昔の呼び方だ、と喜ぶような声を上げるから、そんなあいつに救われたような気持ちを抱いてしまうのも確かだった。
どうしてれおくんは、まだその瞳に俺を映そうとするのだろう。あいつの夢を奪った俺を呪って、心の底から嫌悪してくれたっていいのに。むしろ俺はそれを望んでさえいるというのに、そうしてくれない呆れるくらいのやさしさは、今の俺にとってはただただ酷でしかなかった。
指先に、散らばった五線紙が触れる。すぐ傍には剥き身の鉛筆が一本落ちていた。すっかり先の潰れた、深緑のそれ。拾い上げて天板にからりと転がせば、HBと掠れきった金の文字が上を向く。傘持ってくるの忘れたの歌。右上がりの癖字を見て、登校しているときに降り始めた雨のことを思い出した。
まだ降っていたら、俺の置き傘に入れてあげてもいいけど。放っておけば、こいつは霊感が湧くから、と進んで濡れに行くようなやつだから。風邪引いて休んだら、出席日数やばいんじゃないの。そんなあいつを引き止めるための言い訳を、予め用意しておく。真新しい紙の感触に、触れすぎて随分草臥れてしまったあの楽譜たちのことを思った。
夢なんて忘れていたと、れおくんは言っていた。だからもう、あの曲のことなんて覚えていないかもしれない。俺に詞を書いてほしい、とせがんでいたあの頃の夢は、別の形で叶えてしまったばかりだ。
あいつが生んだ音は、すこしだって褪せてはいないけれど。俺はあいつのように器用ではないから、そこへ当てはめた言葉たちは日に日に剥がれ落ちて、その度に書き換えることを繰り返している。昨日も。きっと明日も、明後日も。四度目の春がもうすぐそこに訪れようとしているのに、書きかけはずっと書きかけのまま、最後の一音までがまだ遠い。
鍵盤と戯れるのに邪魔だからと、短くそして丸く磨かれた十の爪。ブレザーの袖に付いている釦が、ひとつ取れかかっているのが目についた。おかしなところに胼胝を蓄えた指。その懐かしい感触がこの手に浮かんで、ついラグの短い毛を掴む。
学院に漂い始めた卒業の気配に、俺もあてられているとでも言うのだろうか。そうでなくとも、こいつと同じ舞台に立てる機会はあと何度残されているのだろうと、考えることはよくある。そして、れおくんがどうしてアイドルという道を選んだのか。その理由を、願いを、もっと早く受け取ってやれば良かったと、同じくらいによく思う。そうすれば、もっとあいつと歌うことができたのに。踊ることができたのに。俺たちが俺たちのまま未来永劫続くのだとしても、これは最期の瞬間まで、ずっと抱き続ける後悔なのだと思う。
あいつの夢を叶えると誓ったのは、消すことのできないそんな罪悪感から逃れるためだったのかもしれない。れおくん。いつか名付けたその響きに、俺はあの日の続きを見ている。以前のように、過去に戻りたいと思っているわけではないけれど。ただあの頃の方がきっと、あいつはずっとあいつだっただろうから。過去に戻ってみたいと願うのは、そこに未練があるからに他ならない。嫌われることが叶わないのならせめて、心の底から笑うあいつの顔が見たかった。
そうやって、利己的にしかあいつの幸せを願えない俺だから。もう間違えたくないと思っていても、選択するのはどうしたって不正解ばかりだった。きっと、今もどこかで何かを掛け違えているはずなのに、それを顧みるほどの勇気がない。そんな愚かな俺を早く嫌いになってほしいと、やはり心底願ってやまなかった。俺がまた、あんたを傷つけてしまう前に。傷ついたあんたを、俺が見つけてしまう前に。
天板に貼り付けたままのメモ用紙。やたらに丸みを帯びた文字の並びが、早く来いと急かしているように見えた。だから俺は、今度こそれおくんの肩に右手を伸ばす。指先がブレザーの生地に触れたとき、れおくんはううん、とちいさな唸り声を上げて身じろいだ。反射のように引き戻した手に、ほんのわずかな汗が滲む。そしてその瞼がゆっくりと開いていくさまを、二度のまばたきを挟みながら見ていた。
現れた眼に落ちるおのれの影。あいつの視界に、俺はどのように映っているのだろう。その姿は、まだあいつが綺麗だと評したあの頃の俺のままなのだろうか。
そうであるとすれば、そんな幻想のことは忘れてしまった方がいい。本物はもっとずっと醜くて、愚かで臆病で。結局はあんたが称えるような高尚な存在のままではいられなかった。
けれど俺は、こいつのいない世界で生きる覚悟もないのだから。そんな矛盾に塗れたおのれを、今日もうまく好きになることができなかった。