箱庭の子どもたち



ブラックホールって、もっと禍々しくてもっと絶望的で。諦めさえも抱かせてしまう、救いのない漆黒の空洞なのかと思ってた。
スマートフォンに人さし指を滑らせたのちに、その記事を閉じる。すこしだけ伸びた爪が画面に弾かれて、かつかつと耳触りの良い音を立てた。それは雨粒が傘にぶつかって、砕ける音によく似ているように思う。握り直した鉛筆の尻で、机を叩く。かんかん。鉛筆に使われている木は密度が小さいから音も軽い。
戻ってきたぞ。音符たち。おれの愛すべき傑作のかけらたち。机の上に突っ伏しながら、書きかけの五線紙を引き寄せる。目を閉じて、暗い暗い世界のなかに蠢く音を掻き分ける。時計の針。廊下から微かに響く誰かの話し声。衣擦れとともに、背後で男がうう、と唸った。
そうして捉えた音の並びを、何度も何度もこの耳で浚う。粗削りな一列を叩いて擦って、作り上げた直線を紙の上に嵌めていく。ひとつひとつ、パズルのピースを押し込むように。ひとつひとつが浮いて、逃げてしまわぬように。
今日の音たちは、まるで海を泳ぐ魚の形をしている。光のない世界にゆらゆらと身体をくねらせて泳ぐ細長の銀。なんて名前だったっけなあ、あれ。昔話に出てくる城の名前に似ていたような気がするけれど。マボロシの魚なんだってさ。だから今日の音は、ちゃんと探さないとすぐに逃げてしまう。あともうちょっと。あと一節。触れたそれはぱちんと弾けて、まるで花火のように闇を照らした。そうやって祝福を受けて、この曲は終わる。
最後の音を記したところで、役目を終えたとでも言うようにぽきり、と鉛筆の芯が折れた。危ないところだった。鉛筆削りなんて持ち歩いていないから、鉛筆の死はつまり、傑作の死を意味する。芯の出ない鉛筆は死んでいるし、死んでない鉛筆の芯は出ていなければ困るのだ。
うー、と後ろから潰れたような男の声が聞こえた。それはいつか見た心霊特番で聞いた声によく似ていたものだから、おれはちょっとした期待を抱きつつ振り返る。しかしそこには起き上がって伸びをする何の変哲もないリッツがいただけで、勝手に抱いたおれの希望はわずか数秒で打ち砕かれることとなった。おかしい。この学院にはきっと、幽霊なんて腐るほどいるはずなのに。数多の念と未練を蓄えた怨霊たちが、そのあたりをうじゃうじゃ彷徨っているに違いないのに。宇宙人に会えないのならせめて、幽霊くらいは見てみたいと思うのだが、どうも期待というのは空回りしてばかりである。

「あれえ。珍しいね、『王さま』。いらっしゃい」
「気付かなかったぞ、リッツ。いつの間に入り込んだんだ」

いや、俺が一番乗りだったはずだけど。それを聞いておかしいなあ、と首を捻ってみたものの、ここに来たときまでにうまく記憶を巻き戻せない。おれはどうしてここに来たんだっけ。いつからここに居るんだっけ。そういう、多分大事なことと引き換えに、おれは今日深い海の底を照らすことに成功した。どちらが大事なことであるかなんて、今更比べるまでもない。

「そっか。じゃあおはようだな。グッドモーニングリッツ~」
「元気だねえ。良いことでもあった?」

そりゃあ、そうだとも。たった今生まれたばかりのいのちたちを集めて、束ねる。最後の譜面に振った番号と、枚数が合っているかを確認した。一枚。二枚。三枚。指で弾くこの紙は、水に濡れても破れない優れものだ。だって同じひらめきは、二度と訪れてはくれないから。水のなかにいても雨のなかでも、そいつらは容赦なくおれの前を過ぎていく。二度あることは三度あるとはよく言うが、ひらめきという気まぐれな存在に、そんな都合のいいものは適用されない。
達成感に身を委ねて、どさりと後ろに倒れ込む。固い床が背中を打って、肺から押し出された空気に噎せた。呼吸を整えてから組んだ両腕を力いっぱい伸ばせば、かたまった肩甲骨の筋肉がうんと収縮するのが分かって、ちょっと痛かった。

「いや、疲れたよ。いいなあ、リッツは。寝床があって」

首を反らして、えー、と声を漏らしつつ目を擦るリッツを見た。同時にこの身体がずぶずぶとぬかるみに沈んでいくような感覚を覚える。天井がどんどん、遠くなっていくような。そういえばここのところ、あまり眠れていない。リッツを真似るように、おれも右手で目を擦った。本当に、なんでここにいるんだっけ。あーあ、と腑抜け切った欠伸を零す。

「入る? いいよ。『王さま』も堕落しようよ」

これマットレス重ねてあるから、広げたらみんなで寝られるよ。言いながらリッツは緩慢に立ち上がって、マットレスを広げ始めた。掛けるやつは一枚しかないんだけどねえ。皺がくっきり刻まれたブレザー。ぴょんと跳ねた髪が、屈むたびに揺れている。そのさまはスタッカートの拍子によく似ていた。

「おお、いいのか?」
「いいよいいよ。『王さま』なら大歓迎」

ただし靴は脱いでねえ。わずか数十秒で領土を拡大した新たなる寝床に、リッツはふたたび寝転がる。セナが見たら怒るなあ、これ。セナ。セナ。セナ? こつん、と側頭を小突かれたような違和感を覚えながら、おれもその寝床とやらに歩み寄った。靴を脱いで、ブレザーをそのあたりに脱ぎ捨てて。
踏み入れたマットレスに、足指が埋まる。へえ、結構厚いんだなあ。感触を確かめながら、おれも遠慮することなくマットレスに身を投げた。ああ確かに、家のベッドよりも寝心地が良いかもしれない。髪を束ねていたゴムを引き抜く。それを曲げた小指と伸ばした親指に掛けて、最後に銃筒を模した人さし指の爪先にも引っかけた。高い天井に張り付くあの照明に狙いを付けたのちに、その弾丸を放つ。しゅるしゅると宙を回転するそいつの勢いは最初だけで、どこに掠ることもなく床へと落ちるさまを見届けた。

「『王さま』は、なんで髪伸ばしてんの」

リッツは横にしたブランケットを引き上げて、自身とおれの身体に掛けてくれた。最近寒くなってきたもんなあ。肌触りの良いそれが、頬に擦れて心地良い。

「んー。朝寝癖直すのがめんどくさいから」

だって寝癖まみれの髪で登校する姿をファンの誰かに見られたら、きっと幻滅させてしまう。一年の頃のおれは確かそう思って、有限な時間を最大限に活用するための方法をいくつか編み出した。髪を伸ばすというのはそのうちのひとつで、ううん、あとは何だっけ。他にもたくさんあったような気がするけれど、すっかり身に染みてしまったせいか、今更うまく思い出すことができない。
その根本的な理由となる「アイドル」をほとんど引退した気になっている今だが、切ってしまおうとも思ってはいない。元より身だしなみに気を遣うのが億劫なおれには、この髪形が性に合っていると言える。
分かるー。言いながら、リッツは伸ばした腕で、おれの肩を抱き込んだ。ああ、なんか、誰かが言ってたな。眠っているリッツの傍に寄ると、もれなく抱き枕にされるって。距離がほとんど零になったリッツの身体からは、ふわりと甘い香りがした。なんだろう、この香り。それはゆらゆらと、あの銀の魚のように漂って、追いかけることも難しい。

「もしかして『王さま』、誰かに呼ばれたからここに来たんじゃないの」
「誰って、誰だ?」
「さあ。スマホ見てみれば?」

あ、スマホ、机の上に置き放しかも。しかし何気なくパーカーのポケットに左手を突っ込んでみると、硬質なスマートフォンは予想に反してそこにいてくれた。先ほどのおれは、無意識に突っ込んでいたらしい。部活の集まりあるから遅れる。ちょっと待ってて。あと二パーセントのいのちしかない電子機器の液晶には、セナからの言葉が映し出されていた。
提出明日までなんだから、絶対に居てよねえ。ああ、そうだ。昨日の夜、セナがわざわざ家の電話に掛けてまでそう言ってきたのを思い出した。確か、いつかライブを行うための書面に、リーダーのサインが必要だかなんだか。そんなの、おれの筆跡を真似て上手く誤魔化してくれればいいのに、と思う。印鑑だってそこら辺で買って、適当に押しておけばいいのに。
この数日、セナの顔を見ていない。登校はしているものの、おれがろくに教室に顔を出さないからだ。ハロウィンが終わって以降ユニットの活動もすこし落ち着いたのか、おれを連れ戻そうとするスオ~の姿も、同様にここ数日は見ていない。

「誰からだったの。結局」
「セナだった」
「セッちゃんかー」

それならちゃんと待ってた方がいいねえ。スマートフォンを掲げていた左手ごとマットレスの上に放る。ぼすん、と跳ねた衝撃で、手のひらからそれが抜けた。ちょっと、ってどれくらいだろ。あんまり長いと、おれ、このまま寝そうかも。視線を揺らすと、そこかしこに掛けられたかぼちゃの飾りや、風船が目に入った。先日のハロウィンイベントで学院中を埋め尽くしていたこいつらを、ナルがいくつか貰ってきたらしい。萎れて、さつまいもみたく形を変えた紫の風船。

「『王さま』、なんか眠そう」
「うーん、確かに眠いかも」

でも、セナが来るからなあ。瞼を閉じると、最後に見たセナの姿が浮かんでくる。うすいベールを纏ったその下でひかる、あの瞳。綺麗だった。綺麗なんだよ、セナはさ。本当に本当に、綺麗なんだ。昔はいくらでもその手を取ることができたのに。今はそのうつくしさに触れることを、ほんのすこしだけこわいと思ってしまう。
なんでだろうな。分からない。問えば、間を置かずにおれのなかにいる誰かがそう返す。このやりとりも、もう何度繰り返したことか。

「寝てなよ。セッちゃん来たら、俺が起こしてあげる」

ぽん、とリッツの手が、おれの肩を叩く。そうやって仕草で声で、リッツはおれのことを眠りへと誘おうとする。まあ、寝てればいっか。そうしてふたたびまぶたを閉じれば、別のひとりがそこに立ち尽くしているものだから、最近のおれはうまく眠りに就くことができない。
眼鏡のあいつ。セナと同じく、綺麗な眼をしたあいつ。月永先輩、とぎこちなく声を震わせた、あいつ。

「とか言って、おまえも寝るんだろ」
「えへへ。そしたらセッちゃんが起こしてくれるよ」

『王さま』、頭ちいさいねえ。おれの頭をぎゅう、と抱き寄せたリッツは、その手の温度とは裏腹なぬくもりのある声で言った。このあいだ手を握ったときにも思ったけれど、リッツの身体はやたらに冷たい。それでいて普段も青白い顔をしているのだから、どこか悪いんじゃないかと不安になってしまうときがある。その予感が的中した先日はさすがに焦ったし、今もちょっと、誰かに見ておいてほしいと頼むべきなのだと思う。リッツは嫌がるかもしれないけど。しかし道端で倒れているこいつを発見する誰かの心情も察してほしいものだ。
おれの頭のほんの上で、リッツはひひ、と笑いを零した。

「なんだ? 頭に何かついてたか」
「んーん。なんでもないよ」

笑うんだなあ、リッツって。昔のリッツといえば、喜怒哀楽の大半を放棄して生きているような印象だったはずなのだが。姿勢悪く背中を丸めて、いつもどこか面倒くさそうにして。いつからリッツは、こうも人間らしくなったのだろう。その変化を見届けられなかったことを、すこしだけ惜しいと感じる。ただの自業自得だ。すべてを放り出してしまった、おれの。
リッツだけじゃない。学院も、ユニットも。毎日誰かしらが、おれには眩しいくらいの顔で笑っている。悪意とはかけ離れた、もっともっと純粋な感情に任せた笑顔が、今はそこら中に溢れている。そんな夢のような光景が、今の学院にはあった。
みんな、おれの知らないところで変わっていったのだ。あいつだって。セナだってきっと、もうおれだけが知っているあいつではない。そしてその変化は、いつかのおれ自身が望んでいたものであったはずなのに。

「変なやつだなー」
「『王さま』には言われたくないかなあ」

おれだって、笑うことくらいならできる。わはは、って声を上げて、口を開いて、目を細めることはできる。誰よりも豪快に。誰よりも自由に。そして誰かの笑顔のために動くことだってできるのに。いつもそこに息苦しさが伴うのは、どうしてなのだろう。笑えば笑うほどその裏に隠した虚しさを自覚して、いっそう苦しくて、たまらなくなるのは。
なんでだと思う。分からない。そうやってまた、おれは自分に対して意味のない問答を繰り返す。これ以上、何を望むことがあるというのか。音を掴み取ることはできても、肝心の答えを見つけることが、今日もできないままでいる。それが分からない限り、おれはずっと息苦しいままなのだと思う。

「あったかいねえ。『王さま』」

リッツは確かに冷たいけれど、それでも確かにひとのぬくもりは宿していて、だからおれはその胸に額を寄せた。どうしたの、ってリッツはすこし驚いたような声を上げる。縋っていると悟られたくはなかったから、努めて明るい声色でもって返事をした。

「ふふん。ひとの体温って安心するよなあ」

この部屋はいつも、あいつのにおいがする。いまここに、あいつは居ないというのに。やわらかくて、なめらかで、どこか澄んだこのにおい。ずっと抱えて歩いていたいようなそんなにおいが、今日はリッツのそれと混ざっているせいか、甘さをはらんでいて慣れない。しかしこれはこれで悪くはないと、隠れるみたく静かにそっと息を吸い込む。

「ね。俺も誰かと寝るの結構好き」

廊下から響く鐘の音が、ここの空気をかすかに揺らした。スタジオの近くの古時計が、新たな時刻の訪れを伝えてくれる。ぼおんぼおん、と時刻の回数だけ低く鳴くそいつは、深夜一二時になると一三回鳴くことがあるというのは、この学院の七不思議のひとつとして数えられているらしい。
今度から、俺が『王さま』の抱き枕になってあげてもいいよ。どちらかと言えば、今抱きついているのはリッツの方なのに。だからその妙な提案を聞いて、思わず笑えてしまった。

「わはは。いいな、それ」
「でしょお。『王さま』は大好きだから、特別ね」

とすん、と刺さったその言葉に、おれの心臓がほんの一瞬動きを止めたのが分かった。ろくに手入れもしていない、ぱさついた髪に埋まる指先。どこか眠気を滲ませたのんびりとした声色が、おれの耳をじわじわと侵していく。
ちょっとお。暑苦しいって言ってんでしょ。
いつかのあいつは、抱きつこうとするおれの頭を、そのたびにぐい、と押し返した。加減をしない手のひらと指先が、この頭に食い込む感触を今でも覚えている。あの手は、まだちゃんとあたたかいのだろうか。おれが知っている、おれが覚えている、あのぬくもりのままなのだろうか。ぐしゃぐしゃに髪を混ぜるあの仕草。あのまなざし。あの声も。あの日の温度も。あいつの身体越しに見た空の色も。おれは一日たりとも、忘れたことはない。
ああおれはひどいやつなんだって、気付いてしまった。臆病なやつで、だからやっぱり消えちゃえばいいやつなのだと。何度も思い知ったその事実を、ふたたび自分自身に突きつける。
だって、望んでしまったのだ。この指と手のひらが。細い身体が。あいつのものであれば良かったと。大好きだってその言葉を、あいつの声で聞きたかったと。そんな望みを抱いてしまった。

「おれも大好きだぞー。リッツー」
「うん。ありがと」

今日は海へ行ったから、明日はそうだ、宇宙へ行こう。宇宙には、ブラックホールがあるんだってさ。ホールなんて言うから、宇宙空間に空いた大きな穴だとずっと勘違いしてたけど。その正体は輝きを失って死んだ、天体なんだって。自分で自分を支えられなくなった、恒星の末路なんだって。
なんだ。それって、まるでおれみたいだ。光さえ歪めてしまう、観測不能の異形。だからおれは、おれによく似たブラックホールというものを、見に行かないといけない。どうすればそんな風に誰にも見つけることができない姿になれるんですかって、聞きに行かなければ。何もかもを引き込む無限大の重力の星に、消えてしまえばいいおれを、本当に消し去ってもらうために。

「んんー。寝れん。頭がごちゃごちゃする」
「何? 何考えてんの」

アイドルとしての輝きを失ったおれに、すべてを放り出したおれに、なんであいつは手なんて差し伸べてくれたんだ。今度はおれの夢を叶えてくれるって。そんな都合のいい妄想のようなひと言で、アイドルとしてのおれは半分だけ生き返ってしまったのだ。完全に死んでいたはずの、一度は殺したはずのおれに、あいつは魔法をかけてしまった。
馬鹿だなあ、本当に。おまえは、音だけを追っていればよかったんだ。音だけを拾い集めて、紙の上に並べて。これからずっと、誰の手の届かないところでずっと、そうしているだけの人生でよかったはずなんだ。
なんでそう、誰も彼も、死んだままでいさせてくれないんだよ。おれだってなんでそう、死んだままでいられないんだよ。
おれはもう、見たくないだけなのに。おれが傷つくところをもう、二度と見たくないだけだったのに。

「ブラックホールに吸い込まれたら、やっぱ死ぬのかなーって」
「ブラックホール? あー。最近よく聞くね」

ていうか、やだ。死なないでよ。まるで気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、リッツはおれの身体を、殊更に強く引き寄せた。これじゃあ本当に、どっちが抱き枕なんだかな。悪い気はしないけど。
薄くて冷たいこの身体を、抱きしめ返すことができたら。心を預けきることができたら、おれの呼吸はどれほど楽になるんだろう。けれど今以上に縋ってしまったら、重しを乗せてまで蓋をしたあらゆる感情が溢れて、どうにかなってしまうのがこわかった。
抱えているこいつらを、誰かに、うつくしいあいつにひとつだって見られたら。汚いって幻滅されたら。嫌われてしまったら。そうしてまた、この身体に傷が増えてしまうのが。そのすべてがこわくて、こわくてこわくて。だから呼吸を止めてしまおうとするおれを、何度も何度も、あちこちに散らばる音たちが呼び戻してくれた。暗黒の天体に想いを馳せるたびに、そいつらが生きる意味というものを与え直してくれるから、おれはまだ、この世界から消えてしまうわけにはいかない。
リッツは。呟きながら、皺の寄った目前の壁をなぞった。見慣れた、やわらかな生地の灰色のベスト。冬も近づいてきた今、シャツの釦くらいは留めないと寒そうだ、と思う。

「リッツは俺が死んじゃったら、悲しんでくれるのか」

なかなか暖まらない寝床のなかで、足指を静かに合わせる。
何言ってんの。おれのくだらない問いに、リッツは呆れるでもなく躱すでもなく、きっぱりと言い切ってみせた。

「当たり前じゃん。そしたら俺も死んじゃうかも」

とん、と擦れる膝と膝。背後でスマートフォンが唸ったけれど、今はそれに手を伸ばす気にはならなかった。誰だろう。セナかな。終わったから今行くって、メッセージかな。だったら、ちゃんと返事をした方がいいとは分かっていても。おれはひどい人間だから、今ここに或る仮初めの安寧に、もうすこしだけ身を委ねていたかった。

「そんなことしたら、幼馴染くんに会えなくなるぞ」

自分で引き出しておきながら、その幼馴染くんとやらの顔も、やたらに輪郭がぼやけていて曖昧だった。代わりにひとつ、思い出したことがある。細長の、深海を漂う銀の身体。竜宮の遣いだ。リュウグウノ、ツカイ。あの魚はたしか、そんな名前をしていた。どうせ閃いたところで、明日の朝には忘れてしまっているのだが。質量を与えない音は、すぐに浮かんでどこか遠くへ行ってしまう。二度と、おれの手の届かないところへと。

「えー。そしたら幽霊になってま~くんに憑り付くから、」

今よりも、もっと深く繋がれるね。根拠もないのに、リッツはおのれの空想に心底歓喜しているかのように言う。やっぱ変なやつだな。リッツって。ま~くん。ま~くん。どうせこれも明日には忘れていると分かっていて、甘やかな声色が撫でるその名を、頭のなかでころりと転がした。
おれも幽霊になってあいつに憑り付いたら、あいつのことが分かるのだろうか。あいつが何に喜んで、何に悲しんで、何に苦しんで、何に笑うのか。理解することができるのだろうか。ようやく友達みたいになることが、できるのだろうか。
ふたりで腹の底から笑って、時折喧嘩して、仲直りしたりするような。身体を失ったとき、ようやくそれらが叶うだなんて。そのあまりのどうしようもなさに、おれはおれを嘲るより他はなかった。

「おまえは、おれを甘やかすのがうまいなあ」

本当に、どいつもこいつも、おれに甘くて嫌になるよ。スオ~も。ナルも。言わずもがなリッツも。セナも。おれなんか要らないって、あの時、そう言ってくれもしないのだから。言ってくれたら、おれはやっと覚悟を決めることができたのに。全部捨てて、全部忘れて、おれはおれのために生きるという覚悟を定めることができたのに。
結局おれは、かつての青春にしがみついたまま、今目前に広がる光を眩しい目をして見ているだけなんだろう。結局何も捨てることができずに、何も諦めることができずに。本当に欲しいものを与えられないまま、そこに仮初めを見立てて、自分を誤魔化しながら生きていくのだろう。
だっておれは臆病だから。手酷く振り払ってくれないと、自分ひとりで生きる覚悟だってできやしない。

「こんなの、甘やかしたうちに入らないでしょ」

とん、と手のひらが、おれの背中を叩く。早く眠ってしまえ、とでも言うような仕草で。くすぐったくなるほどのやわらかな力が、おれの身体を埋め尽くす瘡蓋に触れていた。
あーあ。『ゆうくん』が、もっと嫌なやつだったら良かった。あいつの感情を全部ぐちゃぐちゃに踏みにじって、無遠慮にあいつを傷つけて悲しませるような。ひどくて、ただのどうしようもないやつだったら良かったのに。そうしたら、あいつを導くことができるのはやっぱりおれだけなんだって、そう思うことができたのに。

「知らないぞ。おれがどんどん駄目なやつになっていっても」

なあ、おまえは。『ゆうくん』は、知ってるんだろ。セナが、どんな風に笑うのかを。あいつが何を求めているのかを。あいつが今、何を見ているのかを。何を望んでいるのかを。おれの瞼の裏に張りつくおまえなら、分かるんだろ。だったら全部、教えてくれよ。何でもするから。ひとつでもいいから。おれに教えてくれよ。全然何にも、ひとりじゃなんにも気が付けない、ただの無力なおれに。

「それぐらいがさあ、ちょうどいいんだよ」

呼吸に伴い、不随意に揺れる身体。だからおやすみ、『王さま』。それだけを言い残したリッツは、やがてひとりで夢の世界へと旅立ってしまった。起こしてくれるって言ったのになあ。瞼を閉じることを諦めたおれは、リッツのブレザーを指先で掴む。ブランケットに埋めたくちびるで、懐かしいあの音色を声も無くなぞった。おれだけの音を。世界で一番好きな声が紡ぐ、なによりうつくしい音色を。
譜面に書き記さなかったそいつらももう、おれの手の届かないどこかへ行ってしまった。宇宙に、ブラックホールに吸い込まれて、潰されてしまった。だからおれは、やっぱり宇宙に行くべきなのだと思う。この身体が消えても、あの短い音たちを闇のなかから救いに行かなければならないのだと思う。
なんであのとき、声じゃ駄目だなんて言ったのだろう。この音たちは、あいつの声でなければ意味がない。五線紙に書き記しただけでは、意味がないのだ。あいつの声でなければ、おれの名前には価値なんて生まれない。
れおくん。
いつかみたく、あいつがそう呼んでくれる日を。
今日もおれはこんなところで、ずっと待っている。



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