箱庭の子どもたち



すこし先ではためく、白いシャツを見ていた。
伸びた背筋。膝を曲げて静かに腰を落としたかと思えば、全身に波を打たせて立ち上がる。ぐるり、と地と平行に回した腕。それにつられるみたく、右足を軸に一回転する身体。
振りはそこで終わりのはずだった。それなのにそいつは、れおくんは区切りのついたはずのそこに、俺の知らない踊りを続ける。何だ、あれは。交差させた腕を右に、左に。腕と身体を存分に伸ばして、その手を左に勢いよく捨てた。その瞬間、どうしてかそいつと目が合って、ただ胡坐をかいて太腿に肘をつく俺に、れおくんは歯を見せて笑う。近づけば、きっとはは、とちいさく声を出していたに違いない。
あの振りは難易度が高いと、教師も言っていたのだが。複雑であるというのもあるけれど、振り自体が左右非対称であるが故に、思考と動作と身体のみっつがなかなか揃い難い。頭では理解出来ているのに、身体がついていかない。どう動けばいいのかは分かるのに、いざ身体に落としてみるとどうにもぎこちない。多くの生徒にそういった齟齬を残したこの振りは課題となり、後日試験という形式で改めて評価される。今日か、昨日か。れおくんだって、同様のレッスンを受けたばかりのはずなのに。
音のない世界で、そいつは踊り続ける。見覚えのある身のこなしをしたかと思えば、それはまるで知らないステップに繋がっていく。見ていればそのうちにアクロバットが加わって、重力にまで逆らおうとするのではないかと思ってしまう。
授業の出席率に伴わず、こうも簡単に覚えてしまえるところはやはり、れおくんにはそういったある種の才能の持ち主であるという証拠なのだ。それをアイドルという括りにまとめるべきなのかは、分からないけれど。ただ踊り続けるだけのあの姿はしかし、陽射しも相俟ってやたらにきらきらと輝いて見えた。ひとの眼を奪ってしまえるという点で、れおくんにはアイドルとしての素質も充分に備えているのだと、俺は思う。
やがて疲れたのか飽きたのか、れおくんは俺のところへやって来ては、どさりととなりへ腰掛けた。今日は歌の練習をする予定だったのだ。しかし声を出そうとする日に限って屋上に追い込まれた俺たちは、否、俺は練習の選択肢を根こそぎ奪われて、ただ時間を無為に過ごしている。ここへ来てからすこしのあいだは一緒に踊っていたけれど、屋上に注がれる陽射しがあまりに痛くて、早々に日陰へと退避した。夏と呼ぶにはまだ早い時季なのだが。今年の夏は、きっとうんと暑くなる。そんな予感に、今から辟易してしまう。

「あっついなあ。今日」

れおくんは立てかけていたぺたぺたの鞄を引き寄せると、なかから五線紙の束を取り出した。そうすると萎びていた鞄はさらに支えを失くして、へなりとコンクリートの上に崩れる。思い出したようにふたたび手を入れて、掴んだ剥き身の鉛筆。本当にそれらしか入れていないのだろう。れおくんの鞄はいつだって枯れた人参のように細くて、頼りない厚みをしている。

「そんな踊ってたらねえ」

屋上には俺たち以外に誰もいなかった。当然だ。立ち入り禁止、と張り紙がされているのだから。あらかじめ禁止されていると、人はどうしてかそれに抗おうとする意志を捨てる。だからこの張り紙が、実は何の意味も持たないことにも気付かない。背の高い棚で隠されている出窓をよじ登れば、いくらでも外に出られることに、誰も気付こうとしない。

「れおくん、よくあれ覚えたね」
「あれ?」
「課題のやつ」

ああ、とれおくんは、鉛筆の尻で五線紙を叩いた。まるでこれから彩る五線譜たちに、挨拶でもするかのように。右上に振った一の番号を乱雑な丸で囲う。そうすれば、ここから先はれおくんの世界だ。ここから、れおくんの世界が始まる。

「課題なのか、あれ。久しぶりに授業受けたらなんかやってて」
「たまには真面目に来なって」

この学校では、アイドルは神様だから。教師たちは好き放題暴れる神たちに何も言わない。ろくに登校しないれおくんに小言をぶつけたりもしない。俺もそれ以上は何も言わない。言う権利もない。そのことに関しては、どうでもいいというのが正直な感想だった。ただ廊下でれおくんとすれ違う日は、どうしてか心が軽くなる。たったそれだけの本音に、こいつを付き合わせる気はない。
黒。黒。黒。極限までに簡易化された、一筆書きの四分音符。そこに間違いのように混ぜられた、ほくろのついた二分音符。ちらりと覗き見た紙に、今日も音の言葉が並べられていく。続々と書き足されていくそれの速さと、目前を泳いでいく白い雲の流れ。比べれば一体、どちらの方が速いのだろう。
しばらくそのさまを眺めていた俺は、返ってこないと知りながら、あのさあ、とれおくんに呼びかけた。そして予想外に声が戻ってきたものだから、そこに普段から抱いていた疑問を繋げる。

「なんでわざわざ五線紙に書くわけ」

何気ないその問いを口にしたとき、手すりに真っ黒なからすが停まった。ふたりしか居なかったはずの空間に、こつ然と現れたそいつ。黒くちいさな眼が、広い敷地を見渡す。豪勢な食事を前に迷う箸のごとく、思いのほか鋭いくちばしをゆらりと揺らしながら。

「書かないと作れないだろ」
「そうじゃなくて。だって面倒じゃん。録音すればよくない」

まるで何かに威嚇するかのように、からすは鳴く。身体はあんなにもちいさいというのに、声量だけはやたらに大きい。かあ、とどこかささくれた声は、ここら一帯に広く響き渡った。
録音! と、突然上がったれおくんの声に、俺はつい肩を強張らせる。ここ立ち入り禁止だから、静かにしてほしいんだけど。見つかったらきっと、面倒くさいことになる。反省文とか、活動制限とか。それらも充分面倒くさいけれど、人に謝る癖のない俺には、ごめんなさいとひと言、思ってもいないことを口にする方を心底面倒くさいと思ってしまう。

「考えたこともなかった。録音か。文明の進歩だなあ」
「気付くの遅くない」

こうして日陰のなかにいると、まるで何かから隠れているかのよう思えてならない。事実、今日の俺たちは追い込まれてこの場所へ来た。地上へ地上へと追いやられる日もあるけれど。放課後の校内にはもう、俺たちの居場所はないのかもしれない。

「いや、でも駄目なんだよなあ。声じゃあさ」

声には質量が無いだろ。言いながら、埋め終えたばかりの五線紙をコンクリートの上に放った。この世界ではなく、音の世界に干渉するための言語が並んだそれ。一枚二枚と、散らばるやや厚手の紙を勝手に拾い集めて、手の内で整えた。

「あ、嘘ついた。この世に駄目なんてないからな」
「どっちでもいいけど」

だから、質量がなんだって。そうやって促さないと、会話は容易に曖昧になってしまうのを知っていた。駄目なものは、いくらでもあるでしょ。たとえば、人を殺すのはよくないし、物を盗るのだってよくない。一方で前後の文脈を加味すれば、その言葉の意味合いだって変わってくることもある。するな、と言えば抑制になるし、諦めては駄目だと言えば鼓舞にもなり得る。れおくんの言うそれはきっと、後者に該当するのだと思う。れおくんはいつだってそうだ。無遠慮にひとを否定したりしない。

「鉛筆で書いた音符は、質量があるだろ。削った炭素分の重さがさあ」

へえ、と気のない返事をしてしまったのは、音の言語を解読するのに意識を奪われてしまったからだ。まだ歌詞のない、真新しい単純な音の並び。この曲はこのあとにどんな手を加えられていくのだろう。皆目見当もつかない俺はただ、れおくんの手元にある続きに視線を落とした。

「重さがあった方が、そこに在る気がするんだ。生んでるっていう、手ごたえを感じる」

しかし右上に振られた番号は、そこに続いていなかった。もしかすれば頭から曲を綴ってはいないのかもしれない。覚えやすいところから振りを入れるのと同じように、浮かんだところから書いていく。馬鹿正直に最初から辿っていくことが正しいとは限らないとは、よく聞くけれど。下敷きもなく、コンクリートの上に置いて書いているせいか、凹凸の見られる音符や記号。少々いびつ歪んでいたって、それがこの曲の持つ価値に反映されることは、きっとない。

「ふうん」
「あー。聞いてないだろ」
 
まあいいけどさ。くるり、とれおくんの右手の親指を、古びた鉛筆が回る。何度か繰り返したのちに、れおくんはうう、と唸って、乱雑に頭を掻いた。ただ束ねただけの髪は乱れ、幾束も跳ね上がってしまったけれど、当の本人はそんなこと気にも留めていないようだった。ととと、と三本の指でコンクリートを調子良く叩く。ナウ、ローディング。そうやって、頭に溢れ続ける音が整うのを待っている。
依然として手すりを寄生木にしていたからすが、そのちいさく細い足を前に踏み込ませる。黒い身体は一瞬落ち込んで、羽ばたかせた翼で空を舞った。地上の獲物を捕らえるために飛び出したのだ。

セナあ。

皺のついたままのブレザー。やはりぼさぼさの髪。背の低い、薄汚れた鉛筆。シャープペンシルでもいいけれど、鉛筆で耐水紙に書けば、雨の日でも水のなかでも作曲ができるのだと、いつかれおくんは言っていた。だからすこし厚みのあるこの紙は、音符たちは、水に落ちても消えてしまうことはない。

「なに」
「ちょっと。なんでもいいから歌ってくれ」

時間をかけて灯したいのちの火を、途絶えさせぬよう。だかられおくんは、わざわざ五線紙に鉛筆を走らせるのだろう。重さのないものは、脆い。データ化したおのれの声は、水に浸せば容易く消える。高い所から落とせば、砕けて散り散りになってしまう。同じものは二度と作ることができないから。その瞬間に生まれたいのちに質量を与えることが、れおくんの音に対する愛なのだと思う。

「あのねえ。声なんか出して、見つかったらどうなるか分かってんの?」
「おまえが歌いやすければなんでもいいよ。あ、いや。やっぱり霊感が湧いてくる歌がいい」
「あんたねえ」

おまえの言葉は綺麗だと、れおくんはよく言う。そしてそのあとに、決まって俺に詞を書いてほしいとせがむのだ。それが俺の夢のひとつなのだ、と。もしもこの真新しい音たちに言葉を与えるとしたら、どんな文字たちを選ぼうか。無限大の言葉の海からどんな平仮名を、片仮名を、はたまた数字を英字を繋いで、掬い上げるとしたら。
綺麗。傍から見て、それが事実なのかどうか、俺には分からないけれど。それなら同じ分だけ、俺の歌声も綺麗になればいいのに、と度々思う。俺は歌があまりうまくないから。恐らく、声の出し方が喉の構造と合っていないせいだ。人数がいれば、低い音はまだ紛らわせることが出来るものの、力任せに伸ばす高音はどうしても周りから浮いてしまう。そんな俺の歌声を聞いたれおくんはしかし、どこにいても分かる歌声って良いと思うけどなあ、と偽りを含まないまなざしで言ったのだった。
あ! と、先ほどみたく上がった声に、俺の肩はふたたび跳ねる。時折、れおくんを不発弾のようだと思うときがある。いつどこで爆発するのか分かったものではない。
紙が足りない。そう言って立ち上がり、身体中に両手を這わせる。スラックスのポケットを叩いて、ブレザーも叩いて。そうして手を突っ込んだ左のポケットから、れおくんは黒い油性ペンを取り出した。何処にでも売っている、有名なメーカーのペンだ。れおくんは呆気にとられている俺を無視して背後の壁に向き直ると、そこに歪な線を引き始めた。一本。二本。それが五本に増えたとき、俺はようやく、こいつが何をしようとしているのか理解した。

「ちょ、馬鹿! 何やってんの」
「だあいじょうぶ、大丈夫。すぐ終わるから」
「だー、もう。あんたってやつはさあ!」

俺はれおくんの手から油性ペンをむしり取って、代わりに鞄に入れていた用紙の何枚かを差し出した。確か学院祭のお知らせだとか、学院だよりだとか、俺にとってはどうでもいい内容が綴られていたように思う。端が折れて、荷物に揉まれて草臥れているその数枚を嬉々として受け取ったあいつは、同じく草臥れた鉛筆で平行にならない五本線をいくつも引いていく。俺は拾い上げた蓋をペン先に被せながら、そのさまを見ていた。歌。歌ねえ。
ど、と背後の壁に背中を預ける。開いた両脚の靴先。大分履き込んでいるからか、革靴には皺と癖がいくつもついていた。親指の付け根の、でっぱりのところが擦れて、わずかに色が剥げている。
この場合、れおくんが作ってくれた歌を歌うべきなのだろう。けれど俺は素直ではないから。最近見た映画のエンディングテーマを、呟くように歌い始めた。大声を出すと、教師やほかの生徒たちに居場所がばれる。小声でも歌うことのできる歌は、これしか思いつかなかった。

「あ、それ」

冒頭を歌い上げたとき、れおくんは思い出したように声を上げる。に、と口の端を持ち上げて、どこか悪だくみを覚えたような笑み。細められた眼が、楽しげに俺を見ている。

「それ、おれが作った曲」
「はあ?」

まったく想像もしていなかった言葉に、俺はつい声を張ってしまった。静かにしないと見つかるだろー。身体を左右に揺らしながら、れおくんは何でもないようにお手製の五線譜に音符を落とし続ける。丸められたその背には、どこか喜びが滲んでいるように見えた。いや、知らないし。聞いてないし。普通に良い曲だなって、思ってたし。映画のエンディングの作曲者なんて、あんまり見ないし。そもそもれおくんは、月永レオとして他者に曲を提供しない。だから、気付きようもないのだ。何もかも。

「詞はおれじゃないけどな。セナに気に入ってもらえて嬉しい」
「違うし。頭に残ってだけだから」

ふうん、とその声色から、にやついているであろうれおくんの笑みが伺えて、俺は可愛げもなく舌打ちを返した。腹の底から湧く羞恥にも似た感情を堪えきれず、乱雑に脚を組む。ごん、と打ち付けた踵に、衝撃が鈍く響いた。

「いいじゃん、おれの曲を歌うおまえの声、聴かせてくれよ」

その曇りのない眼に弱いのだということを、こいつは気付いているとでも言うのか。手にしたままだった油性ペンを、れおくんの膝めがけて放った。見事に命中したそれは跳ねて、コンクリートの上に転がる。

「暴力反対ー。あーほら、音が逃げる! 傑作の欠片が!」
「あー、分かった分かった。歌えばいいんでしょお。歌えばあ」

ひゅうと向かい風が、頬を撫ぜる。まるでこの歌に綴られている詞のように。かすかな夏の気配を感じる風がやむのを待って、俺は先ほどと同じ歌を、もう一度最初から歌い始めた。君のいない世界はつまらないのだ、と。静かに語りかける、すこし恥ずかしい歌だ。
やっぱり好きだなあ。セナの声。
れおくんがそう呟いたのを、俺は歌いながら、確かに聞いた。


    ×××


夢という言葉に蓋をするようになったのは、一体いつからだっただろうか。
地上から、絶えず音が響いてくる。金属同士がぶつかる音。指示を飛ばす誰かの声。どこかのユニットの曲が空気を揺らして、こんなところに居ても、ひたすらに騒がしかった。学院祭が近いのだ。今は誰も彼もがその準備に追われている。
何度訪れてみたって、屋上はがらんとして誰もいない。この時間、日陰のできる場所も。足の先まで、ぎりぎりかかる影の長さも。悲しいくらいに、あの日と何も変わらない。変わったのは、誰もいないということだけだ。俺のとなりには今日、誰もいない。そしてこの場所はいつの間にか、立ち入り禁止ではなくなっていた。
このあと、昨日欠席して受けることができなかった試験の追試がある。どこか空き教室で待っていればよかったのだろうが、今この時期の教室はどこもかしくも浮かれていて、正直なところ気分には合わない。普段は静かな図書室だって当日の催しの準備のためにやや忙しく、こんなところでぼんやりと座り込んでいるのはきっと、自分くらいのものだ。
放った鞄から取り出したノート捲って、試験範囲の箇所を眺める。数学なんて、ただ眺めて勉強する科目ではないのだが。紙に向かってシャープペンシルを構える気にもならないのだから、せめて暗記している公式が正しいのか、確認するくらいはすべきだ。基礎の基礎を理解していれば、点は取れる。ここはアイドルを育成するための学校なのだから。試験の内容にだって、それは顕著に反映されていた。三から始まって、五ずつ増えていく数の並び。このn番目までの和を求めることができれば、事足りてしまう。
ととと、と右手の三本の指で、白いノートを小気味良く叩く。それはあいつの癖だった。傑作の欠片が正しい列を成すのを、待っているときの癖。
たとえば、nが九であったと仮定して。まず九番目の数を求めるには。そこから端と端の数を足して九を掛けた数を、二で割ればいい。とととん、と指先が、そうやって計算が終わるのを急かしている。こんな初歩的な公式、忘れても作ってしまえそうだ、と思う。シグマだとかアルファだとか、小難しい文字は好きではなかった。

「あ、れえ」

唐突に声が聞こえたものだから、瞬間、俺の心臓は跳ねる。反射のように右を向けば、そこにはひとり、こちらを覗き込む生徒がいた。黒髪の。ネクタイもせず、留めないシャツの釦をベストで誤魔化した、締まりのない服装の男。

「セッちゃんじゃん。誰かと思った」
「は、こっちの台詞なんだけど」

言ったのちに、くまくんはひとつ、口を開けて大きな欠伸を零した。右手でそれを遮っているようだが、まるで隠れていない。ふあ、と漏れる声も。癖のついた髪も。ぐりぐりと手で瞼を擦りながら、革靴の底でコンクリートをだらしなく叩いてこちらへ歩み寄る。わずか数歩を埋めたくまくんは、俺のとなりに遠慮することなく腰掛けた。

「いらっしゃい。何しに来たの」
「あんたこそ。何してんの」

聞かずとも、先ほどまでを眠りに費やしていたということは分かるけれど。それでもくまくんは、まるで遠回りでもするかのように寝てた、とひと言、捨てるように答える。その左手には本が収まっていた。数Ⅱと書かれた、やや小ぶりな黄色い教科書。そうだ。去年使っていた数学の教科書は、確かやさしげな黄色をしていた。
右手にノートが貼り付く。見れば、手のひらの端にはシャープペンシルで書き込んだ文字が写っていた。nイコール五。nは、任意の自然数を表す。

「セッちゃんは?」
「試験勉強」
「うそ。俺と一緒じゃん」
「寝てたんでしょ」
「今からやるの」
 
手に写った炭素の欠片たちを、左手の親指でこする。鉛筆は万能なんだと、れおくんが言っていたあの声が今、頭のなかに起こった。シャープペンシルと、鉛筆。どうして鉛筆の方が優れているのか。その理由を尋ねようとも思ったことがなかった。
なんでこんなとこにいんの。問えば、ず、とくまくんの革靴がコンクリートの上を這った。やたらに踵の減った焦茶。振った右足から、靴がちいさな放物線を描いて飛んでいく。日向に落ちて転がったそれは、明日の天気が曇りであることを伝えていた。靴占いで言うならば、あれはそういう角度のはずだ。

「この裏の、管理室? 静かでひんやりしてて、寝心地良いんだよね」
 
最近、どこもうるさいし。ずるずると、となりの男の身体は沈んでいく。伴うように掲げられた教科書の表紙には、折り癖がまるでついていなかった。使用感のまったくないそれを、くまくんは仰向けに寝転びながら眺める。その頭上には、線があった。意図的に引かれた五本線。月日が経って、雨に雪に、光に晒されてすこしくすんだ線の集まり。消えることなく、まだそこにあるあの日の痕跡。

「セッちゃんさあ、証明得意?」
「無理。一番嫌い」
「即答じゃん」
 
じゃあ、この部分は捨てとこ。頭のなかで、去年の今頃の学習内容をさらう。確か少々複雑な数式の計算と、それに伴う簡単な証明問題が範囲になっていたはずだ。俺には何乗ものxやyを操るくまくんの姿を、どうしても想像することができなかった。

「いつテストなの」
「このあと追試。めんどくさあ」
「どこで?」
「職員室」
 
そういえば、教師に下の学年の生徒と一緒でも構わないか、と尋ねられたことを思い出す。追試は職員室横の応接室で受けることになっていた。ふたりしかいないのに、わざわざ空き教室を借りるのが面倒だったのだろう。まあ、誰が一緒であっても関係ないけれど。ただくまくんは追試のさなかにこれどうやんの、と小声で尋ねてくるような気がして、俺はそれをどう一蹴するものかと、すこし悩んだ。

「そんなの、あんたの幼馴染に聞けばいいでしょお」
 
突き放してみれば、くまくんはむ、とわかりやすく眉を寄せた。そして口元に教科書を被せて、頭の後ろで腕を組む。俺の態度に拗ねたのかと思いきや、どうやら原因は、俺の発した言葉の方にあるようだった。

「今はま~くんの顔、見たくない」
 
くまくんの口からそんな台詞が出てくるとは、珍しいこともあるものだ、と思う。明日は曇りではなく、槍の雨が降る可能性が高い。思わず空を見上げたものの、そこには変わらず、夏の気配をかすかに混ぜた空が広がるだけだった。くまくんはどこか翳りを帯びたふたつの眼に、その青を映している。いや、映しているだけで、そこに何か別のものを見ているのかもしれない。それが何か分かるほど、俺たちの親交は深くなかった。

「なに、喧嘩? めんどくさあ」
「そ。俺は今めんどくさいの。色々と」
 
早く仲直りすれば。そう返そうと思って、しかし口を噤む。ごめんなさいもろくに言えない自分の助言など、余計に何かを抉れさせるだけのような気がして。ごめんなさいと言えなかった自分が、途端にみじめに思えてしまって。中指にできたささくれを、親指で抉った。破れた皮膚がぴり、と痛くて、できたばかりの傷口を鎮めるように、指で押す。
生まれた沈黙を埋めるかのごとく、風がひゅう、と抜けていった。春の終わりを告げるような、ぬるい風だ。れおくんのいない春が終わって、そうしたら、れおくんのいない夏が来る。あいつのいない季節の過ごし方を忘れてしまったと思っていたけれど。いつの間にか季節はひとつ過ぎようとしていて、それがあまりにも恙なく終わろうとしているものだから、その呆気なさに虚しさを感じている俺がいる。
日向に転がった靴の片方。使い古されたそれがまるでれおくんみたいで、見ていてすこし、悲しくなった。

「ねえ。これ」
 
そう言って、くまくんは頭上に左腕を伸ばす。右上がりに引かれた五本の線。ただの落書きのように見えるそれはきっと、くまくんだから気付くことのできる違和感だったのだろう。音の言語を日頃から共有している人間から見れば、これは。
青白い人さし指が、その線の集まりをなぞる。

「これ。『王さま』、ここに居たのかな」
 
ちょうど一年前のことだ。君のいない世界はつまらないのだ、と歌って聞かせたあの日は。一年後、それを思い知ることになるとは、当時の自分は想像もしていなかった。
どんな言葉をかければ、あいつから音を奪わずに済んだのだろう。ごめんなさいと言えば、救うことができたのだろうか。どんな言葉を浮かべても、それは自分自身を慰めるためのつまらない綺麗ごとに聞こえてしまう。れおくんがいなくなってから俺は、自分自身のことをうまく好きになれない。上辺だけの言葉を並べるしかできない自分を。何もできない自分のことを。ただ嫌いになっていくばかりだった。

「さあねえ」

短く切り揃えられたくまくんの爪先が、その線をかり、と掻く。校内に落書きを施すような生徒は、知りうる限りではひとりしかいない。くまくんだって、きっとそれを分かっているのだ。確信をもって触れる指先には、どこか寂寥が宿っているように思えた。
これにいつか、詞をつけてくれよ。
あの日そう言って、鞄に無理矢理押し込まれたクリアファイルは、自室の机に仕舞ってある。埃を被ってしまわぬように。れおくんの生んだ愛の質量が、すこしだって失われぬように。
あいつの夢はまだ、生きているのだろうか。まだ覚えていても、許される夢なのだろうか。
あんたさあ。呼べば、赤い瞳が俺を捉えるのが分かった。そのふたつに視線を合わせることをせず、俺はただ、日向に転がる革靴を眺め続ける。

「夢って、ある?」

地上からは、変わらずに喧騒が届いていた。舞台でも組み立てているのか、クレーン車の動いている気配がする。すこしずつ、すこしずつ。活気を取り戻しつつある学院を、喜ばしく思うべきなのに。廃れきっていた一年前に戻りたいと願ってしまう俺はきっと、ここに集う誰よりも愚かであるに違いなかった。

「唐突すぎるでしょ」
「じゃあいいし」
「えー。つめたいなあ」

そうして、くまくんは眼ごとを手にしていた教科書で覆い隠した。完全に寝る態勢じゃん、それ。ほい、と脱ぎ捨てられたもう片方の革靴。晒された白い靴下のなかで、五本の指が丸められたり、開いたり。てっきり眠るものだと思っていたのに、その些細な運動はしばらく続いていた。その分だけ、屋上にはふたたび静寂が訪れたけれど、俺はくまくんと過ごす何もない時間が嫌いではなかった。
ま~くんと。やがて、やたらにくぐもった声が教科書の下から起こった。俺、ま~くんから。

「ま~くんからどんな言葉を貰えたら、ま~くんのこと許せるのかな」

低く。低く。ゆっくりと。それは俺の問いへ答えではなく、おのれ自身に問うているかのような呟きだった。どいつもこいつも、悩んでばかりだ。その苦しささえも青春なのだと、以前教師の誰かが言っていた。馬鹿なことを言うな、と思う。大人はすぐに、知ったような口をききたがる。何も知らないくせに。何も知らなかったくせに。助けられなかったくせに。

「勝手に話変えないでくれない」
「変えてないし。俺の大事な未来の話だよ」

もごもごと、くまくんの口の動きに合わせて、教科書は揺れる。好きって、言葉だけじゃ伝わんないもんだよねえ。その言葉と夢と、一体何が関係しているというのか。元よりまともな返答を期待していたつもりもなかったけれど。
複雑なようでいて単純で。単純なようでいて、複雑で。それが俺の知っているくまくんだから。喧嘩なんて単純なものではなくて、もっとずっと、くまくんは幼馴染同士でしか理解できない事情に囚われているのかもしれない。そうは言っても、くまくんとあの幼馴染が決別するさまは、俺にだって想像がつかないのだから。早いうちにどこかうまいところへ着地すればいいのに、と他人事ながらに思う。ああ、だからか。だから今のくまくんにとっては、それが何より大切な夢なのだと気付く。

「あんまりしつこくしてると、嫌われるんじゃない」
「セッちゃんに言われたくないんだけど」

こんなにも容易く好きという感情を言葉にできるくまくんが、俺には心底羨ましかった。好きという感情は、伝わりづらい。そんなものは間違いだ。そんなものは全部全部、素直になることができない受け取り手のせいにしてしまえばいい。全部全部、俺のせいにして。それであいつを救い出すことができるのなら、どんな言葉でこの身体を刺してくれたって構わない。
そう言ってみれば陳腐で、やはり上辺だけで。どれだけ慰めようとしたって、そのどれもが宙をすべっては消えていく。

おれのことも、好き?

れおくんが。俺の頭のなかにいるれおくんが、問う。あの日と同じ姿で。青色の、首にぶら下がるだけのネクタイ。だらしなく開けられた第二釦。すこし短い髪。曇りのない眼が、俺の言葉を待っている。望んでいる答えが返ってこないと分かっていながら。
思えば、手がかりはそこかしこに転がっていたのだ。この問いだって。あれもこれも辿ってみると、片鱗はいくらでもあった。あんなにも伸ばされていた腕を手を、どうして俺は、掴んでやれなかったのだろう。掴もうとも思わなかったのだろう。素直に肯定してやることができなかったのだろう。

「セッちゃんのは?」
「は?」
「夢。人に聞いといて自分は言わないの、ずるくない」

とん、と合わせた靴の先。まだおのれの足に馴染みきらない、おろしたての茶色い革靴。硬いそれに収めた足が、やや疲労を訴えていて怠い。
俺には今も、見つけられないでいる。本当のれおくんを。れおくんが隠してしまった、れおくんをれおくんたらしめるもっとも大切なところを。本当のれおくんがどこに隠れているのか分からない限り、俺はずっと、ここから動くことができない。救いたいと、言葉にすれば簡単なのに。思考と、動作と、身体と。すべてがばらばらで繋がらないまま、俺はあの日を繰り返し夢見ている。
だって、ずるいでしょ。れおくんはずっと笑っていたのだから。嬉しいことにも嫌なことにも、全部同じ笑顔を向けていたのだから。まるで道化のように。うそみたいに明るくて、呆れるくらいにやさしくて。ずっとずっとそうだったから、気付くことができなかった。気付かせてもくれなかった。自分が思うよりもずっと、俺は大馬鹿野郎だったということに。俺がれおくんを追い詰めていたことにも。やさしいれおくんは、最後の最後まで俺を守ろうとしていたことにも。
俺は大馬鹿野郎だから。こんなんだから。ねえ、そんなこと。自分だけじゃ全然、分からないよ。分かりっこないんだよ。
すう、とちいさく息を吐いた。ただ広げただけのノート。ぶん、と一瞬、耳元で虫の羽音が聞こえた。

「こんなクソみたいな追試をさっさと終わらすことお」
「うーわ。真面目じゃん」

ごろりと、くまくんは寝返りをうつ。その拍子に、教科書がコンクリートの上に落ちた。閉じられた薄いそれを枕にして、俺の脚に置かれたノートを奪う。何これ。なんでaがびっくりしてんの。くまくんは知らない異国の言葉を眺めているかのように眉を顰めて、俺のノートを捲っていた。
夢があった。もっともっと根本的に、アイドルになるという夢があった。しかし今の俺に、その夢を語る資格はない。アイドルは、ひとに希望を与えるものでなければならないのだから。見るひとを笑顔にさせる存在であるべきなのだから。ひとりの笑顔を奪ったままの俺には、アイドルになる資格なんて、あるわけがなかった。

「終わったら、ちゃんとスタジオ行くからねえ」
「はいはい。セッちゃん練習大好きだもんね」

だからこれは、夢なんかじゃない。叶え方も知らないこんなものを、夢と呼ぶことはない。どうかせめて。未だ自分勝手な望みを捨てきれない馬鹿な俺をどうか。どうか、許してほしい。
どんな歌だっていい。どんな踊りだっていい。どんな場所だっていい。観客だって、いなくていい。ただ俺はもう一度、あいつと。れおくんと。手の内で掠れた、シャープペンシルの黒。いのちの残骸に触れた親指の爪で、傷とつない右腕を静かに刺す。

「大好きに、決まってんでしょ」

それが、あまりにも自分のくちびるに馴染みのない言葉だったから、笑えた。




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