短編



例えば目を開けたとき、今が全て夢なんじゃないかって。そう思う瞬間が、よく訪れる。
けれど辿れば、昨日までの記憶がそれを端から否定していく。ほんの少し怠さの残る足。まるで糸の切れた人形のようにベッドへ倒れ込んだ昨夜の僕は、いつも就寝前に行っていたはずのストレッチを、そうだ疎かにしてしまったのだった。
睫毛に擦れる、何か。確実に朝であるはずなのに目前が黒で覆われているのは、アイマスクのせいだ。目を閉じれば蘇るのは、シャッターの音。フラッシュの輝き。たくさんの人の、声。
何も聞こえない。何も見えない。けれど繰り返される言葉たちが、昨日に引き続いて僕の頭の中に生きて、踊っている。昨日の僕は真面に眠っていなくて。なら今日の僕は反動でよく眠れたのかと言えば、実のところそうでもない。
安心した。よく泣いて、よく笑って。今までの憑き物が何もかも落ちきったかのような、昨日。首にかけられてから半日も経っていない銀色のメダルは、ケースに仕舞ってサイドテーブルの上に置いてある。
きっとよく眠れるよ。
そう言って三日前の就寝時にコーチから手渡されたアイマスクと、そして耳栓を取って、起き上がる。軽くなった耳に、ひやりとした空気の流れが、音となって聞こえてくるような。
今年の日本は大分おかしな気温の変化を辿っているけれど、北京もどうやら負けてはいないらしい。張りつめたような寒さの部屋の真ん中で、すん、と鼻を啜った。
昨日の夜は、何を食べたっけ。いや、そう言えば何も食べていない。やたらに腹が空いていると思えば、元々何も入っていないのだから当然のことだ。昨日の僕は、よほど疲れていた。踏み出す一歩の重さ。こんな夜は、初めてだった。じゃあ、また明日ね。コーチのその言葉にも曖昧にうなづいて、空寸前の体力を絞ってシャワーを浴びて、濡れきった頭のまま。そうやって、昨日は眠った。
鏡を見なくとも分かる髪の広がりを指で解しながら、洗面所へ向かい、顔を洗う。
それでも、今日もあまりよく眠れなかったのだ。沈もうとすると、押し返される。そんなやり取りを何度も繰り返しているうちに、気づけば朝になってしまっていた。
長谷津は、今日も寒いのだろうか。向こうに着くのは、何時くらいになるだろう。そういえばお土産をまだ買っていない。鏡に映る自分の顔をしばらく見つめて、ようやくひとつの課題を終えたのだと、実感する。
まだぼんやりと重い瞼に、叱咤するみたく蛇口から流れる水をばしゃり、と浴びせた。脇に置いた乾いたタオルでこれでもかと目を擦る。
まあ、飛行機の中で、眠ればいいや。
この瞼はどうしたって眠気を手放そうとはしないものだから、僕はついぞ諦めて、スーツケースから服を引っ張り出した。
頭の中には、昨日の夜からずっと、同じ言葉が繰り返し繰り返し響いている。
ヴィクトル選手は、
表彰式後のインタビューで、ひとりの記者がそう口にした。その人はすぐにはっ、と気がついてコーチ、と言葉を改めたけれど。続けて繰り出された問いに答えながら、その言葉がまるで棘のように刺さって、今朝の僕に違和感を残したままでいる。
選手。
そう。僕のコーチは、去年まで選手だった。氷の上の、皇帝だった。伝説だった。絶対的な、王者だった。んだ。
サイドテーブルに置いた眼鏡をかけると、ぼやけた視界は明確な部屋の景色に切り替わる。同時に足裏に伝わる冷たい床の感触も、より鋭く際立った気がして。ぶるり、と腕をさすった僕は、着た服の上からさらにパーカーを羽織った。
こんなに寒いだなんて、聞いていない。
六時五十五分。ラウンジが、混んでいないといいけれど。
スマートフォンと、入口の扉横に刺したカードキーを、パーカーのポケットに入れる。部屋中の電気が消えたのを確認してから部屋を出ると、数メートルも離れていない隣にある部屋の扉の前に立った。軽く握った拳で、こんこん、と二度叩けば、その声は遠く、けれど間を置くことなく聞こえてきた。

「ユウリ?」
「そうだよ」
「待ってて。支度できているんだ」

その言葉を聞いて、僕は急かすこともなくスマートフォンを取り出した。六時五十七分。日本も、今日はどうしようもなく寒いのだろうか。天気予報のアプリを起動させようとしたところで、目前の扉が開く。

「おはよう。お待たせ」

急いで靴を履いたのだろう。爪先でとんとん、と床を叩く僕のコーチ、ヴィクトルは、へらりと笑いながらそう言って、部屋の扉を閉めた。


 ×××


ハセツへの土産は何がいいかな、と焼きたてのトーストにバターを塗るヴィクトルを横目に、僕は暗い雲の広がる外をぼんやりと眺めていた。
朝食の暖かな香りが漂うラウンジには、僕たちには意味を拾うことのできない言葉が、そこかしこから聞こえてくる。

「北京ダックにしようか」
「お菓子でいいと思うよ」

さくさくさく、と音を立てて、ヴィクトルはトーストを齧る。横の皿にはレタスやトマトなんていう野菜が、これでもかというくらいに盛られていて、けれどそれももう、僕にとっては見慣れた光景だった。
ヴィクトルと会話をしていくうちに、僕は同じ言葉を二度、繰り返すようになった。口ではくだけた言葉を。頭の中で、敬語を。
畏まった言葉を使うと、彼はすこし悲しそうな顔をする。それが演技というか、ふざけているというか、つまりそういうふりをしているのだと、もう分かってはいるけれど。所謂日本人的な思考を、遠い国の生まれである彼にはどうやら理解できないらしい。

「昨日は、よく眠れた?」

脈絡もない唐突なその問いに、僕はイエス、とだけ答える。口の中で転がした氷が、じわじわと溶けていくのがわかった。仄かなオレンジの味。オレンジジュースに、浸していたからだ。
僕の頭の中にはやはり、ひと言。選手、というあの言葉が、今この瞬間も引っかかって、刺さったまま抜けない。
ヴィクトルは、どうするんだろう。
今のシーズンが、いや、十二月が過ぎたら、終わってしまったら、ヴィクトルは、僕たちはどうなるんだろう。

「ハセツに戻ったらさ、ユウリ。すぐオンセンに入ろう」
「混んでなかったらね」

それを聞けばきっと、どうしようかなあ、なんてからりと笑って、笑ったままどうにもしてくれないことくらい、容易に想像がついてしまう。
僕は、夢を見ている。
僕は、夢を見ていた。
じゃあ次に目を開けたときには、きっと見慣れた自室の天井があるんだって。そう思って。
けれど、そうではなかった。すっかり量の減った野菜の山。うさぎのようにそれらを咀嚼するヴィクトルが、僕の前から消えない。
ハセツヨカトコ。銀のフォークの先を振りながら、拙く日本語を繰り返すヴィクトルが、僕の前から消えていかない。

「ユウリ。どうしたの」
「いや。今日は寒いな、と思って」

比較的薄着なヴィクトルは、今日の寒さをものともしていないように見える。そうだ。彼は、こことも日本とも比べ物にならないくらいの寒冷地の出身であった。僕には想像もつかないくらい遠く、ひたすらに寒さを極めた、ヴィクトルの母国。

「なあに言ってるのさ。こんなもの、寒いのうちには入らないよ」

あはは、とフォークの先に刺したレタスのひと切れを、口に運ぶ。
ヴィクトルの話す英語は、僕とはほんの少しだけ違う。いや、ヴィクトルからすれば、僕の話す英語の方が少しおかしいのかもしれない。ああ、これが日本でいうところの方言とか、訛りだとか、そんなところに該当するのだろうか。きっとお互い、師とした人物の話し方の影響を受けている。そんなことに気がついたのは、彼が日本にやって来てから間も無くのことであった。敢えて指摘したことはないし、指摘されたこともないけれど。
窓の外で、木々が寒そうな風に吹かれている。
七時二十三分。
早く、あの場所に戻りたい。
それなのに、温泉へ連れて行こうと、僕の背を強引に押す彼の姿も同時に浮かんで。
オレンジの味がとうに抜けた氷を、がり、と噛み砕いた。


 ×××


空港の土産売り場に張り付くヴィクトルをなんとか引き剥がして、駆け足で乗り込んだ飛行機の中は、心地良い暖かさに包まれていた。シートに掛けた僕はすぐにでも眠ってしまいそうだったけれど、離陸直前の独特な緊張感に、ぎりぎりのところで引き止められている。何度経験しても慣れることのないその感覚を思い出せば、自然と背筋が強張る。振り払うようにふるふると頭を振って、鞄の中からアイマスクと耳栓を取り出した。

「あれ、もう寝るの。早いんだね」
「まあ。することもないから」

じゃあ俺も寝ようかな、なんて、そんなやりとりをいくつかしているうちに、飛行機はあっという間に地面を滑るように走って、空へと駆け出していく。
会場だったリンクはどの辺りだろう。泊まっていたホテルは。大会の前日に夕飯を食べたあの場所は。探そうとすればするほど、景色はますます小さくなって、雲とも呼べない蒸気の向こうへ隠されてしまう。
ぽん、とシートベルト着用のマークが、音を立てて消えた。何人かが立ち上がって、前へ後ろへと移動していく。
重い。左肩に乗せられた、頭。ヴィクトル、重いよ。そう言って肩を小さく揺らしてみせたけれど、彼はおやすみ、と言って聞こうともしない。
食べるのも早い。眠るのも早い。それが、そうだヴィクトルという男だった。
ふう、とひとつ息を吐いてから、小さな窓に視線を投げる。見えた大きな機械の翼に、太陽の光が反射して。ああ、綺麗だな、と、そう思ったから、もう一度左肩を小さく揺すった。けれど、何の反応も返ってこない。ちらりと見やれば、ヴィクトルは既に眠りに入っているようだった。こんな景色、彼はもうきっと見飽きているのだろう。その長身には窮屈そうなシートに体を収めて、よく眠れるものだと思う。
僕は右手だけで、なんとかアイマスクと耳栓を装着した。そうして出来た人工的な暗闇の中に、焼き付いたようなあの光景が浮かんで、消えていかない。フラッシュの輝き。僕にとって昨日はとても、とても多くの意味で、特別な日になった。忘れられない日になった。
あとひと月もしたら、僕たちはどうなっているのだろう。ヴィクトルは、どこへいくのだろう。
僕が行くのは、頂上だ。僕だけの頂を、その一瞬を、そこだけを目指して、求めて。
目を閉じながら、その光景を繰り返しながら、同じことを考えている。早く、早く。氷の海へ、滑り出したくてたまらない。何百回も繰り返し聴いたプログラムを、指先で刻む。
この瞬間を、一秒でも長く繋ぎ止めるために。
早く、早く。



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