Ⅱ 目覚め
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──寒い。
最初に感じたのは、それだった。
頬に触れているものが、ひどく冷たい。
硬いようでいて、少し柔らかい。
ざらざらとしていて、湿っている。
「……ん……」
少女は、ゆっくりと目を開いた。
ぼやけた視界。
最初に見えたのは、黒に近い茶色だった。
すぐ目の前にあるそれを、少女はしばらくぼんやりと見つめる。
やがて。
「……土……?」
掠れた声が漏れた。
知っている。
これは、土だ。
そういうものが存在することを、少女は知っていた。
植物が生える場所。
雨が降れば濡れ、乾けば砂埃が舞うもの。
けれど──。
少女は震える指を伸ばした。
そっと触れる。
指先が、わずかに沈んだ。
湿った粒が爪の隙間へ入り込む。
「…………」
もう一度、触った。
今度は指先で少し掬ってみる。
ぽろぽろと崩れて、指の間から落ちていった。
こんな感触なのだと。
なぜか、そのことがひどく不思議だった。
知っているのに。
触ったことがない。
そんな奇妙な感覚。
そのとき、手の甲を何かが撫でた。
「……っ」
驚いて手を引く。
細長い緑色のものが、風に揺れていた。
草。
それも知っている。
恐る恐る指先で触れてみる。
薄い。
柔らかい。
けれど縁だけは少しざらついている。
表面についていた朝露が指へ移り、小さな水滴になった。
少女はそれをじっと見つめた。
「……濡れてる……」
当たり前のことなのかもしれない。
けれど少女には、そのすべてが初めてだった。
ふいに。
どこか遠くから、高い音が聞こえた。
少女の肩が跳ねる。
「……?」
また聞こえる。
短く。
何度も。
少女は音のする方を探して顔を上げた。
そこで初めて、自分の上に広がっているものを見る。
天井が──ない。
「…………」
少女は動きを止めた。
遥か上。
幾重にも重なった枝。
その隙間から、白い朝の光が差し込んでいる。
木。
知っている。
太い幹があって。
枝が伸びて。
葉が生える。
そういう植物。
けれど。
「……大きい……」
思っていたものと、まるで違った。
少女は首が痛くなるほど上を向いた。
一本だけではない。
二本。
三本。
その向こうにも。
数えきれないほどの木々が立っている。
壁がない。
どこまで続いているのか、分からない。
視線を遮るものがあるのに。
その向こうにもまだ世界がある。
それが、少し怖かった。
また、高い声がした。
少女は枝葉の間へ目を凝らす。
小さな影が、枝から枝へ飛び移った。
「……鳥?」
知っている。
羽があって。
空を飛ぶ生き物。
けれど。
鳥の声とは、こんなふうに聞こえるものなのだろうか。
どこか一か所から聞こえるのではない。
右から聞こえたと思えば、今度は左。
遠くから。
近くから。
木々のざわめきに混ざりながら、いくつもの声が降ってくる。
少女はしばらく、呆然とそれを聞いていた。
そして。
木々の隙間の、そのさらに向こう。
淡い青色が見えた。
「…………空」
その言葉は、自然と出てきた。
空。
それも知っている。
青くて。
雲が浮かんでいて。
ずっと遠くまで続いているもの。
少女は知っている。
──はずだった。
けれど。
実際に見上げた空は、知っていたものよりずっと高かった。
どこにも端がない。
枠もない。
少女はなぜか息を止めた。
怖いほど、広い。
それなのに。
目を逸らしたくなかった。
風が吹いた。
「……っ」
髪が揺れる。
頬を撫でて。
木の葉を揺らして。
草を傾けて。
そのまま、どこかへ抜けていく。
少女は自分の頬へ手を当てた。
風。
これも、知っている。
けれど。
「……これが……」
風なんだ。
最後の言葉は声にならなかった。
知っているものばかりだった。
土も。
草も。
木も。
鳥も。
空も。
風も。
全部、知っている。
なのに。
何ひとつ、知らなかった。
名前だけを知っていた世界が、突然、自分の周りに広がっている。
少女はしばらく動けなかった。
けれど。
身体を起こそうとした瞬間。
「っ……!」
全身に激痛が走った。
息を呑む。
腕も。
脚も。
胸も。
どこが痛いのか分からないほど、身体中が痛かった。
そこでようやく、少女は自分自身へ意識を戻した。
服はところどころ破れ、乾いた血と泥で汚れている。
なぜ。
こんなところにいるのだろう。
「ここ……」
掠れた声が出た。
少女は改めて辺りを見回した。
誰もいない。
「……誰か……」
返事はない。
「誰か、いませんか……?」
少しだけ大きな声を出す。
けれど返ってきたのは、人の声ではなかった。
風が葉を揺らす。
鳥が鳴く。
それだけだった。
胸の奥が、急にざわついた。
何かがおかしい。
自分はどうして、こんなところにいるのだろう。
そもそも──。
「…………」
少女は自分の胸に手を当てた。
自分は。
「……わたし……」
誰?
その疑問が浮かんだ瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
両手で頭を抱える。
何かを思い出そうとした。
けれど。
何もない。
昨日のこと。
家族のこと。
住んでいた場所。
ここへ来るまでのこと。
そして──自分の名前。
何ひとつ、出てこない。
まるで頭の中だけを真っ白に塗り潰されたようだった。
「名前……」
少女は呆然と呟いた。
「わたしの……名前……」
知らない。
自分の名前すら、分からない。
怖い。
その感情だけは、はっきり分かった。
少女は自分の身体を確かめるように腕を抱きしめる。
そのとき。
首筋に、微かな痛みを感じた。
「……?」
指先で触れる。
そこには、古い傷のような違和感があった。
自分では見ることができない。
だから少女は知らない。
その場所に刻まれている数字を。
──024。
かつて少女が名前ではなく番号で呼ばれていた、その痕跡を。
「…………」
風が吹いた。
少女は小さく身体を震わせる。
その瞬間だった。
頭の奥に、一瞬だけ何かが走った。
白い部屋。
割れるガラス。
赤い光。
誰かの叫び声。
そして──。
『──024!』
「……っ!」
少女は息を呑んだ。
「今の……」
誰?
誰の声?
もう一度思い出そうとする。
けれど、映像はすぐに霧の向こうへ消えてしまった。
代わりに胸の奥だけが、どうしようもなく苦しくなる。
悲しい。
理由なんて分からないのに。
大切な何かを失ったような気がして。
少女の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……なんで……」
自分でも分からなかった。
なぜ泣いているのか。
誰を想って泣いているのか。
少女は知らない。
自分を庇って命を落とした少女がいたことを。
この森に少女を運んだ研究長がいたことを。
そして、あの場所で交わした約束を。
──もし誰か一人だけ外へ出られたら。
──皆の分まで生きよう。
その言葉さえ、今の少女には届かない。
それでも。
少女は涙を拭った。
ここに座っていても、何も分からない。
誰かを探さなければ。
自分が誰なのか。
なぜここにいるのか。
何があったのか。
少女は木の幹につかまりながら、ゆっくりと立ち上がった。
脚が震える。
一歩。
また、一歩。
裸足に近い足で、湿った土を踏みしめる。
どこへ行けばいいのかなんて分からない。
それでも少女は歩き始めた。
最初に感じたのは、それだった。
頬に触れているものが、ひどく冷たい。
硬いようでいて、少し柔らかい。
ざらざらとしていて、湿っている。
「……ん……」
少女は、ゆっくりと目を開いた。
ぼやけた視界。
最初に見えたのは、黒に近い茶色だった。
すぐ目の前にあるそれを、少女はしばらくぼんやりと見つめる。
やがて。
「……土……?」
掠れた声が漏れた。
知っている。
これは、土だ。
そういうものが存在することを、少女は知っていた。
植物が生える場所。
雨が降れば濡れ、乾けば砂埃が舞うもの。
けれど──。
少女は震える指を伸ばした。
そっと触れる。
指先が、わずかに沈んだ。
湿った粒が爪の隙間へ入り込む。
「…………」
もう一度、触った。
今度は指先で少し掬ってみる。
ぽろぽろと崩れて、指の間から落ちていった。
こんな感触なのだと。
なぜか、そのことがひどく不思議だった。
知っているのに。
触ったことがない。
そんな奇妙な感覚。
そのとき、手の甲を何かが撫でた。
「……っ」
驚いて手を引く。
細長い緑色のものが、風に揺れていた。
草。
それも知っている。
恐る恐る指先で触れてみる。
薄い。
柔らかい。
けれど縁だけは少しざらついている。
表面についていた朝露が指へ移り、小さな水滴になった。
少女はそれをじっと見つめた。
「……濡れてる……」
当たり前のことなのかもしれない。
けれど少女には、そのすべてが初めてだった。
ふいに。
どこか遠くから、高い音が聞こえた。
少女の肩が跳ねる。
「……?」
また聞こえる。
短く。
何度も。
少女は音のする方を探して顔を上げた。
そこで初めて、自分の上に広がっているものを見る。
天井が──ない。
「…………」
少女は動きを止めた。
遥か上。
幾重にも重なった枝。
その隙間から、白い朝の光が差し込んでいる。
木。
知っている。
太い幹があって。
枝が伸びて。
葉が生える。
そういう植物。
けれど。
「……大きい……」
思っていたものと、まるで違った。
少女は首が痛くなるほど上を向いた。
一本だけではない。
二本。
三本。
その向こうにも。
数えきれないほどの木々が立っている。
壁がない。
どこまで続いているのか、分からない。
視線を遮るものがあるのに。
その向こうにもまだ世界がある。
それが、少し怖かった。
また、高い声がした。
少女は枝葉の間へ目を凝らす。
小さな影が、枝から枝へ飛び移った。
「……鳥?」
知っている。
羽があって。
空を飛ぶ生き物。
けれど。
鳥の声とは、こんなふうに聞こえるものなのだろうか。
どこか一か所から聞こえるのではない。
右から聞こえたと思えば、今度は左。
遠くから。
近くから。
木々のざわめきに混ざりながら、いくつもの声が降ってくる。
少女はしばらく、呆然とそれを聞いていた。
そして。
木々の隙間の、そのさらに向こう。
淡い青色が見えた。
「…………空」
その言葉は、自然と出てきた。
空。
それも知っている。
青くて。
雲が浮かんでいて。
ずっと遠くまで続いているもの。
少女は知っている。
──はずだった。
けれど。
実際に見上げた空は、知っていたものよりずっと高かった。
どこにも端がない。
枠もない。
少女はなぜか息を止めた。
怖いほど、広い。
それなのに。
目を逸らしたくなかった。
風が吹いた。
「……っ」
髪が揺れる。
頬を撫でて。
木の葉を揺らして。
草を傾けて。
そのまま、どこかへ抜けていく。
少女は自分の頬へ手を当てた。
風。
これも、知っている。
けれど。
「……これが……」
風なんだ。
最後の言葉は声にならなかった。
知っているものばかりだった。
土も。
草も。
木も。
鳥も。
空も。
風も。
全部、知っている。
なのに。
何ひとつ、知らなかった。
名前だけを知っていた世界が、突然、自分の周りに広がっている。
少女はしばらく動けなかった。
けれど。
身体を起こそうとした瞬間。
「っ……!」
全身に激痛が走った。
息を呑む。
腕も。
脚も。
胸も。
どこが痛いのか分からないほど、身体中が痛かった。
そこでようやく、少女は自分自身へ意識を戻した。
服はところどころ破れ、乾いた血と泥で汚れている。
なぜ。
こんなところにいるのだろう。
「ここ……」
掠れた声が出た。
少女は改めて辺りを見回した。
誰もいない。
「……誰か……」
返事はない。
「誰か、いませんか……?」
少しだけ大きな声を出す。
けれど返ってきたのは、人の声ではなかった。
風が葉を揺らす。
鳥が鳴く。
それだけだった。
胸の奥が、急にざわついた。
何かがおかしい。
自分はどうして、こんなところにいるのだろう。
そもそも──。
「…………」
少女は自分の胸に手を当てた。
自分は。
「……わたし……」
誰?
その疑問が浮かんだ瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
両手で頭を抱える。
何かを思い出そうとした。
けれど。
何もない。
昨日のこと。
家族のこと。
住んでいた場所。
ここへ来るまでのこと。
そして──自分の名前。
何ひとつ、出てこない。
まるで頭の中だけを真っ白に塗り潰されたようだった。
「名前……」
少女は呆然と呟いた。
「わたしの……名前……」
知らない。
自分の名前すら、分からない。
怖い。
その感情だけは、はっきり分かった。
少女は自分の身体を確かめるように腕を抱きしめる。
そのとき。
首筋に、微かな痛みを感じた。
「……?」
指先で触れる。
そこには、古い傷のような違和感があった。
自分では見ることができない。
だから少女は知らない。
その場所に刻まれている数字を。
──024。
かつて少女が名前ではなく番号で呼ばれていた、その痕跡を。
「…………」
風が吹いた。
少女は小さく身体を震わせる。
その瞬間だった。
頭の奥に、一瞬だけ何かが走った。
白い部屋。
割れるガラス。
赤い光。
誰かの叫び声。
そして──。
『──024!』
「……っ!」
少女は息を呑んだ。
「今の……」
誰?
誰の声?
もう一度思い出そうとする。
けれど、映像はすぐに霧の向こうへ消えてしまった。
代わりに胸の奥だけが、どうしようもなく苦しくなる。
悲しい。
理由なんて分からないのに。
大切な何かを失ったような気がして。
少女の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……なんで……」
自分でも分からなかった。
なぜ泣いているのか。
誰を想って泣いているのか。
少女は知らない。
自分を庇って命を落とした少女がいたことを。
この森に少女を運んだ研究長がいたことを。
そして、あの場所で交わした約束を。
──もし誰か一人だけ外へ出られたら。
──皆の分まで生きよう。
その言葉さえ、今の少女には届かない。
それでも。
少女は涙を拭った。
ここに座っていても、何も分からない。
誰かを探さなければ。
自分が誰なのか。
なぜここにいるのか。
何があったのか。
少女は木の幹につかまりながら、ゆっくりと立ち上がった。
脚が震える。
一歩。
また、一歩。
裸足に近い足で、湿った土を踏みしめる。
どこへ行けばいいのかなんて分からない。
それでも少女は歩き始めた。
