Ⅳ 黒の教団
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歓迎会が終わる頃には、すっかり夜も更けていた。
食堂に残っていた人たちも、一人、また一人と自室へ戻っていく。
主人公もリナリーたちに別れを告げ、コムイに案内されながら、これから使うことになる自室へと向かっていた。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、廊下は静かだった。
『今日は疲れただろう?』
隣を歩きながら、コムイが言う。
「検査もあったし、いきなり大勢に囲まれたしね」
『ちょっとだけ』
主人公は笑った。
「でも、楽しかったです」
『それならよかった』
コムイも笑う。
しばらく、二人の足音だけが廊下に響いた。
やがてコムイが、ふと思い出したように口を開く。
『そういえば主人公』
「はい?」
『村を離れて、寂しくないかい?』
その言葉に、主人公は少しだけ目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは、あの村の景色。
畑。
小さな家々。
子どもたちの笑い声。
いつも自分を気にかけてくれた村長。
食卓を囲んだ人たち。
「……寂しいです」
主人公は目を伏せ、素直にそう答えた。
「あの村は……何も覚えていなかった私を、家族みたいに迎え入れてくれた場所だから」
コムイが主人公を見る。
「でも、いつでも帰れるので」
主人公は顔を上げ、そう言った。
「だから、定期的に手紙も送りますし、お休みをもらえたときには帰ります」
『うん。それがいい』
穏やかに頷きかけたコムイが──ふと止まった。
『……ん?』
「?」
『今、何も覚えていなかったって言った?』
「はい」
『……主人公』
コムイの表情が変わる。
『君、記憶喪失なのかい?』
「あ……はい」
あまりにも普通に答えるものだから、今度はコムイのほうが目を瞬いた。
『それ、初耳なんだけど……』
「言ってませんでしたっけ?」
『聞いてないよ!』
思わず声を上げたコムイに、主人公が少しだけ肩をすくめる。
「ご、ごめんなさい」
『ああ、いや。怒ってるわけじゃないよ』
コムイは眼鏡を押し上げた。
『ただ……大事なことだからね』
そして少しだけ声を落とす。
『どこまで覚えていないんだい?』
「……分かりません」
主人公は自分の胸元へ手を添えた。
指先が、赤黒いチョーカーに触れる。
「気がついたときには、森の中にいたんです」
『森?』
「はい」
主人公はゆっくりと、あの日のことを思い返した。
「身体も服もボロボロで……怪我もしてて。自分が誰なのかも、どうしてそこにいるのかも分かりませんでした」
名前すら。
自分がどこから来たのかすら。
何一つ、思い出せなかった。
「それで……森の中を歩いていたら、歌が聞こえたんです」
『歌?』
「はい」
主人公は頷く。
「誰かが歌ってるみたいな……すごく綺麗な歌でした」
今でも、不思議と覚えている。
森の奥から聞こえてきた、あの声。
「その歌に誘われるみたいに歩いていったら、湖に着いて」
主人公の指が、チョーカーの中央にある深紅の結晶をなぞる。
「そこで──これを手に入れたんです」
コムイの視線が、その指先へ落ちた。
つい先ほど。
ヘブラスカが告げたばかりの事実。
主人公の首にあるそれもまた、イノセンスであるということ。
『……どうやって?』
クレアは少し考える。
「湖で水でできた人が歌っていました」
「それから、近づいたら急に形が変わって」
『変わって?』
「丸い……水の玉みたいなものです。水の上に浮かんでて」
あのときの光景が、脳裏に蘇る。
暗い森。
静かな湖。
水面に浮かぶ、不思議な球体。
『触ったのかい?』
「……飲み込みました」
『…………』
コムイが固まった。
『……飲み込んだ?』
「はい」
『なんで!?』
「分かりません」
『分からないのに飲み込んだの!?』
「なんとなく……そうしなきゃいけない気がして」
『主人公……』
コムイが頭を抱える。
けれど主人公は至って真面目だった。
「飲み込んだ瞬間、喉がものすごく痛くなって……」
無意識に首元を押さえる。
「喉の内側が裂けるみたいに痛くて、血も出て……そのあと、首も熱くなって」
『…………』
「気がついたら、これがありました」
赤黒いチョーカー。
中央には、ガーネットのような深紅の結晶。
「それから、不思議なんですけど」
『何が?』
「怪我が治ってたんです」
コムイの目が僅かに見開かれる。
「森で目を覚ましたときは、本当にボロボロだったのに。身体も急に楽になって」
『……なるほど』
コムイの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
研究者としての顔。
主人公はそれに気づかないまま続ける。
「そのあと森を抜けて、行商人の人に見つけてもらって。その人が村まで連れていってくれました」
『その村で主人公って名前を?』
「はい」
主人公は笑った。
「村長がつけてくれました」
『じゃあ……』
コムイは静かに尋ねる。
『主人公という名前も、本当の名前かどうかは分からないんだね』
「はい」
答えは迷いなく返ってきた。
けれど。
「でも、気に入ってます」
主人公は微笑む。
「みんなが呼んでくれるから」
その表情を、コムイは黙って見つめた。
「何もなかった私が貰った大切なものなんです」
記憶がない。
素性も分からない。
森の中で瀕死の状態で目覚めた。
そして──イノセンスと思われる何かに導かれるように湖へ辿り着き、そこでチョーカー型のイノセンスを得た。
偶然。
そう片付けるには、あまりにも出来すぎている。
『……主人公』
「はい?」
『その森で目覚める前のことは、本当に何も?』
主人公の笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「……はい」
目を閉じる。
探してみる。
けれど。
そこにあるのは──何もない暗闇だけだった。
「何も、思い出せません」
自分がどこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
家族がいたのか。
どうして傷だらけだったのか。
何一つ。
『そうか……』
コムイはそれ以上、問い詰めなかった。
『ごめんね。疲れてるのに色々聞いちゃって』
「大丈夫です」
『このことは、また今度ゆっくり聞かせてもらってもいいかな』
「はい」
二人は再び歩き出す。
やがて、主人公の部屋の前へ辿り着いた。
『ここが今日から君の部屋だよ』
「……私の?」
『そう』
コムイが笑う。
『黒の教団での、主人公の部屋』
主人公は扉を見つめる。
自分のために用意された場所。
それだけなのに、なんだか不思議な気持ちになった。
「……ありがとうございます」
『おやすみ、主人公』
「おやすみなさい」
扉が閉じる。
一人残された廊下で。
コムイの表情から、ゆっくりと笑みが消えた。
──記憶喪失。
──瀕死の状態で森にいた。
──歌に導かれて辿り着いた湖。
──そこで得た、イノセンス。
そして。
遺跡で得た、二つ目のイノセンス。
『……調べる必要がありそうだね』
誰に聞かせるでもなく、コムイは呟いた。
その頃。
部屋の中では、主人公が窓から見える夜空を眺めながら眠りに落ちた。
食堂に残っていた人たちも、一人、また一人と自室へ戻っていく。
主人公もリナリーたちに別れを告げ、コムイに案内されながら、これから使うことになる自室へと向かっていた。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、廊下は静かだった。
『今日は疲れただろう?』
隣を歩きながら、コムイが言う。
「検査もあったし、いきなり大勢に囲まれたしね」
『ちょっとだけ』
主人公は笑った。
「でも、楽しかったです」
『それならよかった』
コムイも笑う。
しばらく、二人の足音だけが廊下に響いた。
やがてコムイが、ふと思い出したように口を開く。
『そういえば主人公』
「はい?」
『村を離れて、寂しくないかい?』
その言葉に、主人公は少しだけ目を伏せた。
脳裏に浮かぶのは、あの村の景色。
畑。
小さな家々。
子どもたちの笑い声。
いつも自分を気にかけてくれた村長。
食卓を囲んだ人たち。
「……寂しいです」
主人公は目を伏せ、素直にそう答えた。
「あの村は……何も覚えていなかった私を、家族みたいに迎え入れてくれた場所だから」
コムイが主人公を見る。
「でも、いつでも帰れるので」
主人公は顔を上げ、そう言った。
「だから、定期的に手紙も送りますし、お休みをもらえたときには帰ります」
『うん。それがいい』
穏やかに頷きかけたコムイが──ふと止まった。
『……ん?』
「?」
『今、何も覚えていなかったって言った?』
「はい」
『……主人公』
コムイの表情が変わる。
『君、記憶喪失なのかい?』
「あ……はい」
あまりにも普通に答えるものだから、今度はコムイのほうが目を瞬いた。
『それ、初耳なんだけど……』
「言ってませんでしたっけ?」
『聞いてないよ!』
思わず声を上げたコムイに、主人公が少しだけ肩をすくめる。
「ご、ごめんなさい」
『ああ、いや。怒ってるわけじゃないよ』
コムイは眼鏡を押し上げた。
『ただ……大事なことだからね』
そして少しだけ声を落とす。
『どこまで覚えていないんだい?』
「……分かりません」
主人公は自分の胸元へ手を添えた。
指先が、赤黒いチョーカーに触れる。
「気がついたときには、森の中にいたんです」
『森?』
「はい」
主人公はゆっくりと、あの日のことを思い返した。
「身体も服もボロボロで……怪我もしてて。自分が誰なのかも、どうしてそこにいるのかも分かりませんでした」
名前すら。
自分がどこから来たのかすら。
何一つ、思い出せなかった。
「それで……森の中を歩いていたら、歌が聞こえたんです」
『歌?』
「はい」
主人公は頷く。
「誰かが歌ってるみたいな……すごく綺麗な歌でした」
今でも、不思議と覚えている。
森の奥から聞こえてきた、あの声。
「その歌に誘われるみたいに歩いていったら、湖に着いて」
主人公の指が、チョーカーの中央にある深紅の結晶をなぞる。
「そこで──これを手に入れたんです」
コムイの視線が、その指先へ落ちた。
つい先ほど。
ヘブラスカが告げたばかりの事実。
主人公の首にあるそれもまた、イノセンスであるということ。
『……どうやって?』
クレアは少し考える。
「湖で水でできた人が歌っていました」
「それから、近づいたら急に形が変わって」
『変わって?』
「丸い……水の玉みたいなものです。水の上に浮かんでて」
あのときの光景が、脳裏に蘇る。
暗い森。
静かな湖。
水面に浮かぶ、不思議な球体。
『触ったのかい?』
「……飲み込みました」
『…………』
コムイが固まった。
『……飲み込んだ?』
「はい」
『なんで!?』
「分かりません」
『分からないのに飲み込んだの!?』
「なんとなく……そうしなきゃいけない気がして」
『主人公……』
コムイが頭を抱える。
けれど主人公は至って真面目だった。
「飲み込んだ瞬間、喉がものすごく痛くなって……」
無意識に首元を押さえる。
「喉の内側が裂けるみたいに痛くて、血も出て……そのあと、首も熱くなって」
『…………』
「気がついたら、これがありました」
赤黒いチョーカー。
中央には、ガーネットのような深紅の結晶。
「それから、不思議なんですけど」
『何が?』
「怪我が治ってたんです」
コムイの目が僅かに見開かれる。
「森で目を覚ましたときは、本当にボロボロだったのに。身体も急に楽になって」
『……なるほど』
コムイの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
研究者としての顔。
主人公はそれに気づかないまま続ける。
「そのあと森を抜けて、行商人の人に見つけてもらって。その人が村まで連れていってくれました」
『その村で主人公って名前を?』
「はい」
主人公は笑った。
「村長がつけてくれました」
『じゃあ……』
コムイは静かに尋ねる。
『主人公という名前も、本当の名前かどうかは分からないんだね』
「はい」
答えは迷いなく返ってきた。
けれど。
「でも、気に入ってます」
主人公は微笑む。
「みんなが呼んでくれるから」
その表情を、コムイは黙って見つめた。
「何もなかった私が貰った大切なものなんです」
記憶がない。
素性も分からない。
森の中で瀕死の状態で目覚めた。
そして──イノセンスと思われる何かに導かれるように湖へ辿り着き、そこでチョーカー型のイノセンスを得た。
偶然。
そう片付けるには、あまりにも出来すぎている。
『……主人公』
「はい?」
『その森で目覚める前のことは、本当に何も?』
主人公の笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「……はい」
目を閉じる。
探してみる。
けれど。
そこにあるのは──何もない暗闇だけだった。
「何も、思い出せません」
自分がどこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
家族がいたのか。
どうして傷だらけだったのか。
何一つ。
『そうか……』
コムイはそれ以上、問い詰めなかった。
『ごめんね。疲れてるのに色々聞いちゃって』
「大丈夫です」
『このことは、また今度ゆっくり聞かせてもらってもいいかな』
「はい」
二人は再び歩き出す。
やがて、主人公の部屋の前へ辿り着いた。
『ここが今日から君の部屋だよ』
「……私の?」
『そう』
コムイが笑う。
『黒の教団での、主人公の部屋』
主人公は扉を見つめる。
自分のために用意された場所。
それだけなのに、なんだか不思議な気持ちになった。
「……ありがとうございます」
『おやすみ、主人公』
「おやすみなさい」
扉が閉じる。
一人残された廊下で。
コムイの表情から、ゆっくりと笑みが消えた。
──記憶喪失。
──瀕死の状態で森にいた。
──歌に導かれて辿り着いた湖。
──そこで得た、イノセンス。
そして。
遺跡で得た、二つ目のイノセンス。
『……調べる必要がありそうだね』
誰に聞かせるでもなく、コムイは呟いた。
その頃。
部屋の中では、主人公が窓から見える夜空を眺めながら眠りに落ちた。
