五条悟
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後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
今までの人生で、僕は3回後悔をしたことがある。
1度目は親友の苦しみに気づけなかったこと。
2度目は命を奪うことでしかアイツを止められなかったこと。
3度目は周りの皆と愛する夢子に、心の底から心配をかけてしまったこと。
傑が非術師を大勢手に掛けて一つの集落を地図から消し去り、実の両親をも殺し、高専から離反した2007年9月のあの日。
当時、担任の夜蛾さんから事件を聞いた時、「なぜ?」が頭の中をずっとぐるぐる巡っていて、きっと傑と直接会えば、アイツと直接話し合えば、何かが、最悪の結末が、変わると信じていた。
「もし私が君になれるのなら――」
傑はそう言ったが、オマエにだって理想を成し得るだけの実力があったはずだ。なぜ自分にはその力が無いと思ったんだ。
いつだか、傑は後輩たちに指導していた。
「どうせ自分には救えるだけの実力は無いと思考停止すれば、眼の前の1人だって救えなくなる。最期の瞬間まで、呪術師であることを忘れるな」
いつだって、呪術師は社会の平穏を守るために全力を尽くすべきだと七海や灰原に言ってただろう。その教えを守り、灰原は儚くも散ってしまったが、七海は今も傑の言葉を胸に刻んでいる。
最強だのなんだの持て囃されても、六眼(こいつ)があっても、無下限呪術があっても、僕にとって一番救いたい眼の前の1人の奴を救えなかったというのに。自分から手を振り払って去っていくなんて、本当に馬鹿な奴だ。
本当に馬鹿なんだよ、オマエは。
高専を卒業しても、暗闇の中で去っていく親友の背を追いかけて、追いつけなくて、名前を叫んだところでハッと起きる。そんな夢を見る夜が続いていた。いつの間にか、睡眠時間は短くても生活出来るように体が慣れてしまった。
もう吹っ切ったと思っていたのに。
もう、若い世代の呪術師を上の連中どもの駒のように使わせはしないし、消耗品のような扱いはさせない。そう、意気込んでいた。五条家の当主を襲名し、高専では教職に就くことを選んだ。
心の何処かでは、いつか和解できると、理解し合えると思っていた。甘い考えを持っていたと認めざるを得ない。呪術師の仲間を大切に想う心は繋がっていると思っていたから。
傑はいつだって理性的で真面目で、適当でいい加減な僕よりは正しい方を向いていたはずだ。
だから大丈夫だと勝手に思っていたのだ。
しかし、現実は非情だった。
僕は結局何もできなかった。
傑を止めることもできず、止めるための手段すら選べなかった。
そして今、また同じことを繰り返そうとしている。
否、今度は絶対に止めてみせる。
僕の大事な生徒や仲間達を傷つける者は何人たりとも許さない。それが例え誰であろうとも。
2017年12月24日。
新宿と京都で百鬼夜行が行われた。
出撃前の術師合同の打ち合わせで、恋人の夢子が非戦闘系なのに前線に出ると知り、彼女の腕を掴んで廊下に連れ出して、何を考えているんだと猛反対した。
当の本人は頑として譲らず、呪具もあるし危なくなったら退避するからと僕を説き伏せてくる。
「だって、悟も行くんでしょ?」
そう言って、屈託なく笑顔を見せる君に、僕は心底弱いと思う。
本当に無理はしないでくれ、と伝えて、目隠しに巻いている包帯の上から眉間を指で押さえる。思わず溜息が洩れると、夢子は呪具の薙刀(なぎなた)の柄の部分で地面を小気味よくカツンと鳴らして、意気揚々と胸を張った。
「悟って心配症だよね、私は大丈夫だよ」
そりゃ心配症にもなるって。大切な人は失いたくないだろう。替えが効かないから、君の言動には尚更ハラハラさせられる。
夢子は二級術師だ。一級呪霊が出てきたら、躊躇なく後ろへ下がって欲しいと伝えると、彼女は素直に頷いた後に思い出したように眉尻を下げた。
「学長から聞いたけど、敵側に悟の親友さんがいるんでしょ?大事な人なら殴ってでも止めてあげてよ」
同じ土台に上って、オマエは間違ってるって言ってあげられるうちに、止めてあげてほしい。大人になってからの喧嘩は仲直りがすごく難しくて、拗らせたら一生修復が不可能になる。そう語った夢子は、「悟には大事な人を失って欲しくない」と呟き、曖昧に笑った。
この女性(ひと)は、心が痛くなる程に他人を思いやる。術師としては強くはないが、精神的な強さには自分も救われた。誰かに寄り添い、一緒に泣いて、一緒に怒ることができる。独りではないと、この女性に巡り会えて、初めてそう思えた。
「夢子まで失ったら、僕は正気を保てるか分からない」
小さく呟きながら、その未来を想像しただけで、言葉が震えた。声量が小さすぎて僕の言葉が聞こえてなかったのか、小動物が何も考えずに首を傾げたかのような彼女の仕草に苦笑した。何も邪な感情のない恋人を抱き締め、無理はしないこと、怪我を極力しないことを約束させ、手を振りながら去る華奢でありながらもたくましい背中を見送った。
様々な不安を抱えたまま、百鬼夜行が開戦した。前線に傑の呪力の気配が無い時点で胸が少しざわついたが、よく呪力が練られて研ぎ澄まされている奴が一人紛れ込んでいたのが気になった。しかも日本人ではない呪力の流れ方。体から立ち上る呪力の密度が違う。あれが傑の代打か。
「五条さん!報告が……」
「伊地知か、どうした?」
開戦前の最前線に滑り込むように走ってきた伊地知から乙骨憂太の血筋の調査報告を聞いて、頭の中でバラバラになっていまパズルのピースが一つずつピタリとハマるように、違和感の霧が晴れていく。
「憂太を怒らせるか何かして、無意識に里香のリミッターを外させた完全体の時に呪霊操術で取り込む気か……?」
里香は憂太の感情の動きに敏感に反応する。
じゃあ、リミッターを外すトリガーはなんだ?憂太が限界まで感情を爆発させなければ、里香も感応しない。
憂太の大事な物を――そこまで思考が巡って、頭からサァッと血の気が引くのを感じると同時に走り出す。
「パンダ!棘!」
真希と憂太が危ない。
特に真希は、傑が嫌悪する非術者に該当する。最悪、鉢合わせた場合に、里香取り込みの踏み台にされる可能性もある。第一プランは高専を滅茶苦茶に破壊しながら憂太を煽ることだろうが、真希が居れば憂太の激情のスイッチを押すのは容易だ。
呼び止めたパンダと棘に僕の予想を話す。四人が固まれば、そこそこの時間稼ぎはできるかもしれない。何より、術師だけの世界を作ろうとしているアイツが、理由もなく若い術師をおいそれと殺すわけがない。
言葉は悪いが、パンダと棘に盾になって貰い、真希と憂太を死守するプランでいく。
二人を高専に送り込んだ後で、異人の術師を退けると、タイミングを合わせるかの如く、波が引くように呪詛師たちが撤退していった。
そこで初めて、傑の狙いがハナから憂太だったことが予想から確信に変わる。
里香を取り込み、百鬼夜行で高専の体力を削れれば御の字。ほくそ笑みながら高専の門を開けるアイツの姿が目に浮かぶようだ。
「あーあ、やってくれたな、傑」
親友に出し抜かれたことに軽く舌打ちし、座り込んでガシガシと頭を掻いていると、
「悟、高専へ向かえ。特級呪詛師・夏油討伐に関して、上がお前をご指名だ」
夜蛾学長が渋い顔をしながら、スマホ片手に近付いてきた。
学長の話から、大体の被害状況が分かってきた。命からがら、傑の放つ呪霊から逃げた高専待機の補助監督から、学長へ現状の報告があったらしい。
百鬼夜行首謀の夏油傑を殺せ。さもなければ五条悟、お前も裏切り者とみなす……と、上層部は息巻いている。学長がうんざりとした様子でそう告げてきた。
「学長、夢子は?」
「無傷で退避して硝子を手伝っている」
「そっか……夢子が怪我したら街ひとつくらいは灰にしてたね」
「お前が言うと冗談に聞こえんな」
軽い冗談を交わした後で、障害物の少ないビル上に出てから目視でルートを確認して高専へとトぶ。移動には無下限の術式を応用するが、その特徴から直線ルートのほうが移動は早い。
数秒後、高専に近付いた瞬間、大きな爆発音が聞こえた。スピードを上げて辿り着くと、眼下に広がるのはひどく損壊した高専の校舎、爆発の中心地から少し離れた場所で倒れている憂太を視界に捉える。
風に煽られた煙と砂塵を吸わないように、無限を解かずに降り立ち、教え子に大きな怪我が無く、打撲程度で済んでいることを確認して胸をなで下ろす。傑から攻撃を受けないか周囲を警戒するが、いやに静かだ。
「死んだか?……いや、違うな」
目隠し代わりの包帯をずらし、片目だけで一旦周囲を見渡すと、気を失ったままの真希、パンダ、棘の3人の呪力の他に、ヨロヨロと高専の外に向かっている呪力の塊が一つ。見まごうことなき親友の影。
煙を吸わないようにと、憂太を移動させて寝かせると、腹を括り、決着をつけるために歩き出す。
ザッザッと瓦礫の上を早足で歩きながら、この百鬼夜行の結末がまざまざと予想出来る。この爆発の規模から、巻き込まれていれば、まず動くのがやっとのくらいの怪我を負っているはずだ。
やがて、事態の収集のために上層部が動くだろう。そうなれば、傑は補縛され、中途半端に生かされて繰り返し拷問を受ける。活動拠点の本丸や他の呪詛師の居場所はどこか吐けとひどい仕打ちを受けた後に、僕の知らない所で処刑されるのは分かり切っている。
僕が傑を庇おうものなら、共犯者にされる。
「……ここまで、か」
もはや、傑を生かすための手立てがない。
四面楚歌だ。もう、アイツを庇えない。
「もっと早くにどうにか……いや、それは愚問か」
小さなほつれが大きな穴となって、人生の綻びが生まれた。
いつだって、ああすれば、こうすれば良かったと、人は後悔する。それが必ずしも現状よりも幸せな結末を連れてくるとは限らないのに、いつだって最善の一手を探っている。
親友の歩調よりも早く歩みを進め、口から飛び出しそうな心臓を鎮めるように、息を呑み込む。乱暴に刻む心音に追い立てられるが如く、走り出していた。
あと、10m先ほどに距離が縮まった瞬間、一度歩みを止める。
これが最期なら、アイツの死に様をしっかり見ておきたい。目元の包帯を取ってポケットに突っ込み、気配を隠しもせずに満身創痍の親友に近付く。
「……遅かったじゃないか、悟」
壁に凭れて、ボロ雑巾のような有様で、傑は自嘲の笑みを浮かべていた。だが、その顔からは「ここまでか」と穏やかな諦観さえ感じられた。
頬を撫でる冬の黄昏時の風は冷たい。憂太との戦いでズタズタになった袈裟から覗く欠損した腕のあたりの傷が痛々しく、今すぐにでも駆け寄ってやりたかった。
お互いの視線が合った時、これが今生の別れだと、こんな日がいつか来ると解っていたと、胸ごと引き裂かれそうな鋭い痛みでどうにかなりそうだった。それでも、不思議と涙は出ない。
「――この世界では、私は心の底から笑えなかった」
傑が弱く吐き捨てた言葉。その声には怒りがあった。憎しみもあった。悲しみさえあったかもしれない。
そして何より、深い後悔があるようだった。
自分が自分を、生きてていいと思えるように。自分が自分のままでいてもいいのだと思えたら、きっと自分は救われるのだと思った。だから、歪んだままの理想を追い続けた。
だから、非術師を皆殺しにしてしまおうと考えたし、実際に行動に移した。でも、それは間違っていた。
何かを言うべきなのかとも思ったけれど、何を言っていいか分からなくて口を閉ざした。今の“夏油傑”にかける言葉を、僕は知らない。
僕にとって傑は親友で、今も昔も大事な仲間だけど、悲しくも相手にとってはそうではなかった。二人の間に横たわる溝の深さを思い知るようで、少しだけ寂しかった。
それでも、何年経っても、僕にとって変わらないことがある。それを伝えたい。
「オマエは僕の親友だよ、たった一人のね」
学生の頃には恥ずかしくて絶対言えなかったけれど、大人になった今なら言える。
「は……最期くらい、呪いの言葉を吐けよ」
僕の言葉に、傑は苦笑を浮かべた。
僕が何かやらかすと、「しょうがないな、悟は」と言って、困ったように笑っていた昔の時と同じ表情だ。
せめて、最期は苦しまずに逝ってほしい。
傑の額に指を添え、呪力操作で気絶させると、左胸に手を添えた。術師の始末は呪術を使わなければならない。力を込めた瞬間、バシュと音を立てて、生を刻む臓器が潰れ、微かに傑の体が揺れ、ツーっと口端から逆流した血が漏れた。止まる呼吸と脈。真冬の外気に奪われる、生きていた証の体温。
親友の亡骸の横に座り込んで、壁に背を預け、ある人物へ報告の電話をかける。
「……悟か?」
すぐに出た恩師の声に、
「学長、傑を始末した」
一言、抑揚のない声で報告を済ませた。
そうか、とあちらからも短い返事が返ってきて、少し沈黙が生まれた。電話の向こうから微かに鼻をすする音が聞こえた。当たり前か、自分の教え子が教え子を殺したんだ、学長も思うところはあるだろう。しかも学生の頃の僕と傑を知っている数少ない人だ。お互いに何も言わずとも、心境は解ってしまう。
「……高専に硝子と夢子が向かっている」
生存者がいないか軽く見て回っておいてくれと学長から言われ、併せて、現場保存のために1級術師と上層部も高専に向かっていることも伝えられた。
事務的なやり取りをして、電話を切ったあと、
「悪いね、あとで迎えに来るからさ」
穏やかな笑みを浮かべたまま、物言わぬ親友に語りかけて肩をポンポンと叩き、憂太たちの元へと向かうために、重だるい足をパンッと叩いて立ち上がる。
それから、里香の解呪を見届け、治療のために生徒たちを預け、現場検証を行った。
無表情でこちらへ歩いてきた硝子は視線だけで現状を聞かせろと言ってくる。傑を術式を使って始末したことを伝えると、
「五条、夏油は検死に回すか?」
と、ひどく冷静な声で返された。
「いや、他のやつに任せるさ。ひどい有様なんだ。今回の件だけはオマエに処理はさせたくない」
「……そうか」
これは僕の勝手な配慮だ。
いくら医師として死体を見慣れていても、彼女も傑と僕と、学生の頃の馬鹿なノリで楽しい時を過ごした一人だ。せめて、旧友として、あの時のままの傑の姿を記憶に残しておいて欲しい。すでに他の医師へ検死を依頼した。
少し離れたところで、硝子の医療道具が入った黒鞄を持ちながら、恋人の夢子は呆然とした表情で、損壊した高専を眺めていた。
近寄って、夢子の頭に優しく手を乗っける。ハッとした様子で、勢いよく僕の方を見ると、
「悟、お疲れ……さ、ま……」
と、彼女は青白い顔で涙ぐんで、抱えている鞄を胸元で抱きしめていた。特級呪詛師の所業と僕がしたことを耳にして、自分だってショックを受けているだろうに、彼女の口から出るのはいつだって誰かを労る言葉だ。
「さて、仕事をするか」
徐ろに硝子が呟き、腰に手を当てた。
怪我人の手当をするからと僕に告げて手を振り、硝子が歩き出すと、後ろから夢子が小走りで付いていく。チラッと恋人に視線を送ると、彼女も見つめ返して微かに笑ってくれた。
小一時間ほど状況を上層部に聞かれ、名残惜しいが傑の遺体を引き渡す。他の医師へ移送されるため、粛々と白い布で包まれる親友を横で見ているしか出来ない。
流石に完全に日が落ちると、12月終わりの寒さが身体に応える。コートを取りに部屋へ戻る途中、医務室の灯りが目の端に留まる。
今夜は夜通し関係者が動いている。事件の報告やら、役所に提出する爆発の事故扱いの捏造書類やら、校舎再建に向けた瓦礫の撤去やらがスピーディーに行われるらしい。
帳が途中で消えたお陰で、一般人から爆発の通報を警察が受けたらしく、学長が事情を話していた。その間も補助監督が忙しく駆け回り、瓦礫撤去のための重機を乗り付けた業者が集まってきている。
「後で夢子の顔でも見に行くかな」
疲れた時には、甘味摂取と夢子を抱きしめるに限る。
夜通し働いて、一時休憩に入った明け方。
彼女の呪力から居場所を探って会いに行き、声を掛けた。
「夢子、風邪ひくよ」
外は冷えるというのに、コートも羽織らずに薄着で建物の屋上に居た彼女を心配して抱きしめると、優しい夢子は、傷心の僕の代わりに涙を流した。
会いに来るまで憂鬱で気分が沈んでいたが、鼻水まで垂らして泣き顔を晒した夢子に、逆に笑いが込み上げてきて、ティッシュを渡しながらも微笑ましい気持ちになった。この女性(ひと)が、たまらなく愛おしい。
「夢子には笑っててほしい」
口をついて出るその言葉は、紛れもなく本音。親友を殺めることでしか、終幕を迎えることが出来なかったのは僕の罪だ。彼女にはなるべく心配も負担もかけさせたくない。
「夢子、帰ったらゆっくり眠らせて」
願わくば、君の体温を、匂いを感じて眠っている間はすべてを忘れたい。
「夢子のこと抱きしめて寝ていい?」
大切なものは、もう何一つ失いたくはない。腕に抱いて、確かめていたい。
「夢子も休んでよ」
頑張り屋の恋人は、僕が休まなければ、他に何か自分にできることはないかと頭をフル回転させながら、せっせと動き回るタイプだ。
はらはらと涙を流しながら、夢子は僕のお願いの言葉すべてに頷いてくれる。本当に僕には勿体ないくらいの女性だと思う。
既に離れがたいと思いつつも、夢子の髪を指で梳いていると、ふいに電話のコールがポケットから鳴り響く。幸せな夢から無理矢理に目を醒まさせられた気分だ。
「なるべく早く帰るよ」
と、彼女に宣言して、慌ただしく建物から降りながらスマホを耳に当てる。
報告書類の訂正要請と、事件の詳細を文書化したから目を通して欲しいと電話越しに伊地知から話され、これは本当に完徹になりそうだと苦笑が洩れた。
無限を使って地面に降り立つと、丁度日の出が拝めた。寝不足の瞳にしみて、サングラスを外し、いつもの目隠し代わりの包帯を着けた。
現実、奪った傑の命ひとつでは償えないほど、犠牲になった命と、悲しみに流れた涙は多い。それでも、生きている者たちは前に進まないといけないのだ。
だが――あれから僕は、毎晩悪夢にうなされた。
傑が最期に笑っていたのは記憶に目に焼き付いているというのに、夢の中では、傑は血だらけの目を見開き、「苦しい、痛い」「悟、助けてくれ」と訴えながら、僕に掴みかかってくる。
なぜ殺したのか、なぜお前だけ生きているのかと、苦痛に満ちた声で僕に助けを乞う。
うわっ、と小さく叫んで、思わず飛び起きる深夜。暴れる鼓動。額に滲む脂汗。喉が絞られたように引きつる。息を呑み込むと、口の中がカラカラに乾いていて、むせこんでしまった。
罪悪感が見せるのだと、もう済んだことだと、自分に言い聞かせるも、その夢の声から逃れることはできない。
――全ては僕のせいだ。
僕のせいで、親友が死んだのだ。それは、捻じ曲げようのない真実。
「あれは夢だ、夢……っ、傑がッ、そんな……ことするはず……な、い」
頭を抱えて布団の上で丸くなるも、叫び出したくてたまらない衝動を必死で堪える。
いつまでこんなことを続ければいいのか。いっそこのまま死んでしまいたいと思った時だった。ふわりと、安心するやわらかな香りに包まれた。
「大丈夫だよ」
耳元で囁かれた言葉とともに、背中をさすられる感触があった。
顔を上げると、そこには心配そうな表情を浮かべている夢子がいた。彼女はベッドの上に座り込み、僕の身体を抱き寄せていた。
「悟……眠れないなら、私の催眠系の術式を使おうか?」
そう言って、彼女は頭を撫でてくれる。まるで子供を相手にするような扱いだが、不思議とその手つきはとても優しく感じられた。気がつけば、僕は自然と彼女の胸に顔を押し付けるようにして、スゥッと沈むように眠りに落ちる。とても居心地が好く、包まれて眠るような安心感があった。
夢子と一緒に暮らしていて、本当に良かった。傷んだ心が擦り切れてしまいそうでも、縋っていい温もりがそこにある。
そんなことを毎晩繰り返し、夢子が硝子や夜蛾学長に僕の睡眠不足について相談してくれていたのは知っていた。ついでに、憂太や他の生徒たちからも、僕がいつもと違うから心配だと言われていたことも知ってしまった。
皆、こんな僕を心配していた。
特に、硝子と夢子は何かを企んでいる。
頼むから危険なことはしないでくれと願いながら、冗談っぽく、
「僕に隠し事はしないでね」
と夢子に言うと、彼女は一瞬キョトンとしてから笑った。
「じゃあ晩御飯のメニューはハンバーグだってバラしちゃいまーす」
と、愛する人が抱きついてくる、平和で細やかな幸せ。
だが、夢子が資料室に籠もって何かを読み漁っていることや、学長から「夢子に昇級できる余地があるが、反対するか?」と問われ、僕が彼女の成長を妨げているのではないかと少し落ち込んだ。
夢子に昇級したいかと聞くと、苦笑して首を振った。もし、危険な任務に行くことになったりしたら、心配するであろう僕の顔は見たくないから、無茶はしないと決めているそうだ。お互いが行動の基準になっていて、似た者同士だなと呆れて笑ってしまった。
そんなことが続いた日の晩。
――悟、悟。
誰かが僕を呼ぶ。真っ暗闇の中でふと目が覚めると、袈裟姿の傑が寝そべる僕の顔を覗き込んでいた。
『なんて顔をしてるんだい』
からかうようにフフッと笑った親友を前に、バッと上体を起こす。夢か、夢だよな。だが、いつもの悪夢と展開が違っている。唖然として口を開けたまま、傑と思われる夢の中の人物を見つめると、そいつは肩をすくめた。
『私は悟を恨んでいないよ』
発せられた言葉に、ハッとして彼を見つめた。
鼻の奥がツンとして、視界が滲んでいく。ずっと心の底でわだかまっていた思いが、感情が、目からとめどなく溢れてくる。
『ただ、もっとお互いに話していれば、こんなに悟に心配をかけることもなかっただろうって、今になって思うんだ』
悪戯っぽい笑みを浮かべ、おどけた様子で傑から肩を叩かれる。最強も寝不足には敵わないんだな、と冗談を言われ、こっちも「オマエのせいだろ」と、鼻声で学生の頃のように悪態をついてみせる。
『悟……礼を言うよ』
私に引導を渡したのが君で良かった。
その声が僕の耳に届く頃には、傑の姿が光の粒になって闇に溶けていく。駆け寄って光を掴もうとするが、その手は虚しく空を切った。バランスを崩して転ぶと、遠くから『ありがとう』と反響する聞こえた気がした。
「くそっ……まだまだ……オマエと話したいことがあるのに」
握りしめた拳で地面を叩き、親友の名前を力の限り叫んで身を起こすと、そこはいつもの家の寝室だった。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいて、鳥の鳴き声が聞こえていた。
混乱したまま静かに辺りを見回すと、ベッド脇には僕の手を握って眠りこける夢子の姿があった。彼女を揺すって起こすと、
「……悟、眠れた?」
と、切羽詰まった様子で聞いてくる夢子に怯んだ。
夢を思い出そうとして、夢の中の傑の「ありがとう」が耳に蘇る。リアル過ぎて、あれは現実にあったことなんじゃないかと疑った瞬間に、抑えきれずに声を上げて泣いた。
涙腺が崩壊してしまったかのように、自分でも止められず、次から次に大粒の雫が流れ落ちていく。夢子は目を見開いて驚きつつも、黙って背中をさすってくれた。彼女の手の温もりが、ズタズタになった心に安らぎを与えてくれる。
やがて嗚咽混じりになりながらも、ぽつりぽつりと語り出す。あの日の出来事を全て夢子へ話した。
自分がしたことへの後悔や懺悔の言葉を口にしながら、今は亡き親友へ何度も謝罪する。その間ずっと、夢子は何も言わずに頷いて耳を傾けてくれる。
全てを吐き出し終えると、ようやく心が落ち着くことができた。
「ごめん……」
鼻水をすすり上げつつ、今度は夢子に謝った直後、ふわりと柔らかなものに包まれた。夢子の胸元に引き寄せられ、優しく頭を撫でられる。その温もりに安堵感を覚えながら彼女の甘い匂いを吸い込むと、心の奥底にある何かが溶け出していくような気がした。
「夏油さんも、悟のことが大切だったんだね」
そう言ってくれた彼女に甘えるように、僕はしばらくそのままじっとしていた。
泣き顔は彼女に見せまいと努めていたのに、結局は泣いてしまったことを少し恥ずかしく思いながら、僕は自分の心に向き合うことにした。
もう逃げないと決めたのだ。
だからまず、僕が一番恐れていることを確かめるために口を開いた。
「ねぇ夢子、こんなカッコ悪い僕に幻滅したりしない?最低なことをした僕でも、まだ好きでいてくれる?」
すると彼女は僕の顔を覗き込みながら微笑んで言った。
「当たり前じゃない。私はどんな悟も好きだよ。だから安心してね」
その言葉を聞いた途端、僕はまた泣けてきた。けれど今度は嬉しくて泣くことが出来た。そんな僕を見て、彼女は優しく笑っていた。
それから、僕は不思議と悪夢を見ることはなくなった。
某日。
「今度、オマエの後輩たちや硝子、夢子も連れてくるよ」
風ひとつない、穏やかな昼下がり。持参した白い花を墓に飾りながら、僕は親友に語りかける。
「オマエみたいにバカ真面目な術師が割りを食わないように、僕が腐った呪術界を変えると決めた」
拳を冷たい墓にくっつけ、親友に、自分に、宣誓する。
次の瞬間、ヒュウっと一抹の風が優しく頬を撫でる。まるでアイツが返事をしたような気がして、思わず笑みがこぼれた。風に乗って、懐かしい笑い声が聞こえた気がした。
「……だからさ、見守っててくれよ。僕のこと」
この決意はきっと揺るがないだろうから。
そう思いを込めて呟いた言葉は、果たして親友に届いているだろうか。答え合わせはできないけれど、それでもいいと思った。だって、ヤツはいつもそばにいるんだろうから。
「じゃあね、傑」
また来るよと言い残し、踵を返す。
振り返り際に見た墓石には、瑞々しい白百合の花が揺れていた。
END.
今までの人生で、僕は3回後悔をしたことがある。
1度目は親友の苦しみに気づけなかったこと。
2度目は命を奪うことでしかアイツを止められなかったこと。
3度目は周りの皆と愛する夢子に、心の底から心配をかけてしまったこと。
傑が非術師を大勢手に掛けて一つの集落を地図から消し去り、実の両親をも殺し、高専から離反した2007年9月のあの日。
当時、担任の夜蛾さんから事件を聞いた時、「なぜ?」が頭の中をずっとぐるぐる巡っていて、きっと傑と直接会えば、アイツと直接話し合えば、何かが、最悪の結末が、変わると信じていた。
「もし私が君になれるのなら――」
傑はそう言ったが、オマエにだって理想を成し得るだけの実力があったはずだ。なぜ自分にはその力が無いと思ったんだ。
いつだか、傑は後輩たちに指導していた。
「どうせ自分には救えるだけの実力は無いと思考停止すれば、眼の前の1人だって救えなくなる。最期の瞬間まで、呪術師であることを忘れるな」
いつだって、呪術師は社会の平穏を守るために全力を尽くすべきだと七海や灰原に言ってただろう。その教えを守り、灰原は儚くも散ってしまったが、七海は今も傑の言葉を胸に刻んでいる。
最強だのなんだの持て囃されても、六眼(こいつ)があっても、無下限呪術があっても、僕にとって一番救いたい眼の前の1人の奴を救えなかったというのに。自分から手を振り払って去っていくなんて、本当に馬鹿な奴だ。
本当に馬鹿なんだよ、オマエは。
高専を卒業しても、暗闇の中で去っていく親友の背を追いかけて、追いつけなくて、名前を叫んだところでハッと起きる。そんな夢を見る夜が続いていた。いつの間にか、睡眠時間は短くても生活出来るように体が慣れてしまった。
もう吹っ切ったと思っていたのに。
もう、若い世代の呪術師を上の連中どもの駒のように使わせはしないし、消耗品のような扱いはさせない。そう、意気込んでいた。五条家の当主を襲名し、高専では教職に就くことを選んだ。
心の何処かでは、いつか和解できると、理解し合えると思っていた。甘い考えを持っていたと認めざるを得ない。呪術師の仲間を大切に想う心は繋がっていると思っていたから。
傑はいつだって理性的で真面目で、適当でいい加減な僕よりは正しい方を向いていたはずだ。
だから大丈夫だと勝手に思っていたのだ。
しかし、現実は非情だった。
僕は結局何もできなかった。
傑を止めることもできず、止めるための手段すら選べなかった。
そして今、また同じことを繰り返そうとしている。
否、今度は絶対に止めてみせる。
僕の大事な生徒や仲間達を傷つける者は何人たりとも許さない。それが例え誰であろうとも。
2017年12月24日。
新宿と京都で百鬼夜行が行われた。
出撃前の術師合同の打ち合わせで、恋人の夢子が非戦闘系なのに前線に出ると知り、彼女の腕を掴んで廊下に連れ出して、何を考えているんだと猛反対した。
当の本人は頑として譲らず、呪具もあるし危なくなったら退避するからと僕を説き伏せてくる。
「だって、悟も行くんでしょ?」
そう言って、屈託なく笑顔を見せる君に、僕は心底弱いと思う。
本当に無理はしないでくれ、と伝えて、目隠しに巻いている包帯の上から眉間を指で押さえる。思わず溜息が洩れると、夢子は呪具の薙刀(なぎなた)の柄の部分で地面を小気味よくカツンと鳴らして、意気揚々と胸を張った。
「悟って心配症だよね、私は大丈夫だよ」
そりゃ心配症にもなるって。大切な人は失いたくないだろう。替えが効かないから、君の言動には尚更ハラハラさせられる。
夢子は二級術師だ。一級呪霊が出てきたら、躊躇なく後ろへ下がって欲しいと伝えると、彼女は素直に頷いた後に思い出したように眉尻を下げた。
「学長から聞いたけど、敵側に悟の親友さんがいるんでしょ?大事な人なら殴ってでも止めてあげてよ」
同じ土台に上って、オマエは間違ってるって言ってあげられるうちに、止めてあげてほしい。大人になってからの喧嘩は仲直りがすごく難しくて、拗らせたら一生修復が不可能になる。そう語った夢子は、「悟には大事な人を失って欲しくない」と呟き、曖昧に笑った。
この女性(ひと)は、心が痛くなる程に他人を思いやる。術師としては強くはないが、精神的な強さには自分も救われた。誰かに寄り添い、一緒に泣いて、一緒に怒ることができる。独りではないと、この女性に巡り会えて、初めてそう思えた。
「夢子まで失ったら、僕は正気を保てるか分からない」
小さく呟きながら、その未来を想像しただけで、言葉が震えた。声量が小さすぎて僕の言葉が聞こえてなかったのか、小動物が何も考えずに首を傾げたかのような彼女の仕草に苦笑した。何も邪な感情のない恋人を抱き締め、無理はしないこと、怪我を極力しないことを約束させ、手を振りながら去る華奢でありながらもたくましい背中を見送った。
様々な不安を抱えたまま、百鬼夜行が開戦した。前線に傑の呪力の気配が無い時点で胸が少しざわついたが、よく呪力が練られて研ぎ澄まされている奴が一人紛れ込んでいたのが気になった。しかも日本人ではない呪力の流れ方。体から立ち上る呪力の密度が違う。あれが傑の代打か。
「五条さん!報告が……」
「伊地知か、どうした?」
開戦前の最前線に滑り込むように走ってきた伊地知から乙骨憂太の血筋の調査報告を聞いて、頭の中でバラバラになっていまパズルのピースが一つずつピタリとハマるように、違和感の霧が晴れていく。
「憂太を怒らせるか何かして、無意識に里香のリミッターを外させた完全体の時に呪霊操術で取り込む気か……?」
里香は憂太の感情の動きに敏感に反応する。
じゃあ、リミッターを外すトリガーはなんだ?憂太が限界まで感情を爆発させなければ、里香も感応しない。
憂太の大事な物を――そこまで思考が巡って、頭からサァッと血の気が引くのを感じると同時に走り出す。
「パンダ!棘!」
真希と憂太が危ない。
特に真希は、傑が嫌悪する非術者に該当する。最悪、鉢合わせた場合に、里香取り込みの踏み台にされる可能性もある。第一プランは高専を滅茶苦茶に破壊しながら憂太を煽ることだろうが、真希が居れば憂太の激情のスイッチを押すのは容易だ。
呼び止めたパンダと棘に僕の予想を話す。四人が固まれば、そこそこの時間稼ぎはできるかもしれない。何より、術師だけの世界を作ろうとしているアイツが、理由もなく若い術師をおいそれと殺すわけがない。
言葉は悪いが、パンダと棘に盾になって貰い、真希と憂太を死守するプランでいく。
二人を高専に送り込んだ後で、異人の術師を退けると、タイミングを合わせるかの如く、波が引くように呪詛師たちが撤退していった。
そこで初めて、傑の狙いがハナから憂太だったことが予想から確信に変わる。
里香を取り込み、百鬼夜行で高専の体力を削れれば御の字。ほくそ笑みながら高専の門を開けるアイツの姿が目に浮かぶようだ。
「あーあ、やってくれたな、傑」
親友に出し抜かれたことに軽く舌打ちし、座り込んでガシガシと頭を掻いていると、
「悟、高専へ向かえ。特級呪詛師・夏油討伐に関して、上がお前をご指名だ」
夜蛾学長が渋い顔をしながら、スマホ片手に近付いてきた。
学長の話から、大体の被害状況が分かってきた。命からがら、傑の放つ呪霊から逃げた高専待機の補助監督から、学長へ現状の報告があったらしい。
百鬼夜行首謀の夏油傑を殺せ。さもなければ五条悟、お前も裏切り者とみなす……と、上層部は息巻いている。学長がうんざりとした様子でそう告げてきた。
「学長、夢子は?」
「無傷で退避して硝子を手伝っている」
「そっか……夢子が怪我したら街ひとつくらいは灰にしてたね」
「お前が言うと冗談に聞こえんな」
軽い冗談を交わした後で、障害物の少ないビル上に出てから目視でルートを確認して高専へとトぶ。移動には無下限の術式を応用するが、その特徴から直線ルートのほうが移動は早い。
数秒後、高専に近付いた瞬間、大きな爆発音が聞こえた。スピードを上げて辿り着くと、眼下に広がるのはひどく損壊した高専の校舎、爆発の中心地から少し離れた場所で倒れている憂太を視界に捉える。
風に煽られた煙と砂塵を吸わないように、無限を解かずに降り立ち、教え子に大きな怪我が無く、打撲程度で済んでいることを確認して胸をなで下ろす。傑から攻撃を受けないか周囲を警戒するが、いやに静かだ。
「死んだか?……いや、違うな」
目隠し代わりの包帯をずらし、片目だけで一旦周囲を見渡すと、気を失ったままの真希、パンダ、棘の3人の呪力の他に、ヨロヨロと高専の外に向かっている呪力の塊が一つ。見まごうことなき親友の影。
煙を吸わないようにと、憂太を移動させて寝かせると、腹を括り、決着をつけるために歩き出す。
ザッザッと瓦礫の上を早足で歩きながら、この百鬼夜行の結末がまざまざと予想出来る。この爆発の規模から、巻き込まれていれば、まず動くのがやっとのくらいの怪我を負っているはずだ。
やがて、事態の収集のために上層部が動くだろう。そうなれば、傑は補縛され、中途半端に生かされて繰り返し拷問を受ける。活動拠点の本丸や他の呪詛師の居場所はどこか吐けとひどい仕打ちを受けた後に、僕の知らない所で処刑されるのは分かり切っている。
僕が傑を庇おうものなら、共犯者にされる。
「……ここまで、か」
もはや、傑を生かすための手立てがない。
四面楚歌だ。もう、アイツを庇えない。
「もっと早くにどうにか……いや、それは愚問か」
小さなほつれが大きな穴となって、人生の綻びが生まれた。
いつだって、ああすれば、こうすれば良かったと、人は後悔する。それが必ずしも現状よりも幸せな結末を連れてくるとは限らないのに、いつだって最善の一手を探っている。
親友の歩調よりも早く歩みを進め、口から飛び出しそうな心臓を鎮めるように、息を呑み込む。乱暴に刻む心音に追い立てられるが如く、走り出していた。
あと、10m先ほどに距離が縮まった瞬間、一度歩みを止める。
これが最期なら、アイツの死に様をしっかり見ておきたい。目元の包帯を取ってポケットに突っ込み、気配を隠しもせずに満身創痍の親友に近付く。
「……遅かったじゃないか、悟」
壁に凭れて、ボロ雑巾のような有様で、傑は自嘲の笑みを浮かべていた。だが、その顔からは「ここまでか」と穏やかな諦観さえ感じられた。
頬を撫でる冬の黄昏時の風は冷たい。憂太との戦いでズタズタになった袈裟から覗く欠損した腕のあたりの傷が痛々しく、今すぐにでも駆け寄ってやりたかった。
お互いの視線が合った時、これが今生の別れだと、こんな日がいつか来ると解っていたと、胸ごと引き裂かれそうな鋭い痛みでどうにかなりそうだった。それでも、不思議と涙は出ない。
「――この世界では、私は心の底から笑えなかった」
傑が弱く吐き捨てた言葉。その声には怒りがあった。憎しみもあった。悲しみさえあったかもしれない。
そして何より、深い後悔があるようだった。
自分が自分を、生きてていいと思えるように。自分が自分のままでいてもいいのだと思えたら、きっと自分は救われるのだと思った。だから、歪んだままの理想を追い続けた。
だから、非術師を皆殺しにしてしまおうと考えたし、実際に行動に移した。でも、それは間違っていた。
何かを言うべきなのかとも思ったけれど、何を言っていいか分からなくて口を閉ざした。今の“夏油傑”にかける言葉を、僕は知らない。
僕にとって傑は親友で、今も昔も大事な仲間だけど、悲しくも相手にとってはそうではなかった。二人の間に横たわる溝の深さを思い知るようで、少しだけ寂しかった。
それでも、何年経っても、僕にとって変わらないことがある。それを伝えたい。
「オマエは僕の親友だよ、たった一人のね」
学生の頃には恥ずかしくて絶対言えなかったけれど、大人になった今なら言える。
「は……最期くらい、呪いの言葉を吐けよ」
僕の言葉に、傑は苦笑を浮かべた。
僕が何かやらかすと、「しょうがないな、悟は」と言って、困ったように笑っていた昔の時と同じ表情だ。
せめて、最期は苦しまずに逝ってほしい。
傑の額に指を添え、呪力操作で気絶させると、左胸に手を添えた。術師の始末は呪術を使わなければならない。力を込めた瞬間、バシュと音を立てて、生を刻む臓器が潰れ、微かに傑の体が揺れ、ツーっと口端から逆流した血が漏れた。止まる呼吸と脈。真冬の外気に奪われる、生きていた証の体温。
親友の亡骸の横に座り込んで、壁に背を預け、ある人物へ報告の電話をかける。
「……悟か?」
すぐに出た恩師の声に、
「学長、傑を始末した」
一言、抑揚のない声で報告を済ませた。
そうか、とあちらからも短い返事が返ってきて、少し沈黙が生まれた。電話の向こうから微かに鼻をすする音が聞こえた。当たり前か、自分の教え子が教え子を殺したんだ、学長も思うところはあるだろう。しかも学生の頃の僕と傑を知っている数少ない人だ。お互いに何も言わずとも、心境は解ってしまう。
「……高専に硝子と夢子が向かっている」
生存者がいないか軽く見て回っておいてくれと学長から言われ、併せて、現場保存のために1級術師と上層部も高専に向かっていることも伝えられた。
事務的なやり取りをして、電話を切ったあと、
「悪いね、あとで迎えに来るからさ」
穏やかな笑みを浮かべたまま、物言わぬ親友に語りかけて肩をポンポンと叩き、憂太たちの元へと向かうために、重だるい足をパンッと叩いて立ち上がる。
それから、里香の解呪を見届け、治療のために生徒たちを預け、現場検証を行った。
無表情でこちらへ歩いてきた硝子は視線だけで現状を聞かせろと言ってくる。傑を術式を使って始末したことを伝えると、
「五条、夏油は検死に回すか?」
と、ひどく冷静な声で返された。
「いや、他のやつに任せるさ。ひどい有様なんだ。今回の件だけはオマエに処理はさせたくない」
「……そうか」
これは僕の勝手な配慮だ。
いくら医師として死体を見慣れていても、彼女も傑と僕と、学生の頃の馬鹿なノリで楽しい時を過ごした一人だ。せめて、旧友として、あの時のままの傑の姿を記憶に残しておいて欲しい。すでに他の医師へ検死を依頼した。
少し離れたところで、硝子の医療道具が入った黒鞄を持ちながら、恋人の夢子は呆然とした表情で、損壊した高専を眺めていた。
近寄って、夢子の頭に優しく手を乗っける。ハッとした様子で、勢いよく僕の方を見ると、
「悟、お疲れ……さ、ま……」
と、彼女は青白い顔で涙ぐんで、抱えている鞄を胸元で抱きしめていた。特級呪詛師の所業と僕がしたことを耳にして、自分だってショックを受けているだろうに、彼女の口から出るのはいつだって誰かを労る言葉だ。
「さて、仕事をするか」
徐ろに硝子が呟き、腰に手を当てた。
怪我人の手当をするからと僕に告げて手を振り、硝子が歩き出すと、後ろから夢子が小走りで付いていく。チラッと恋人に視線を送ると、彼女も見つめ返して微かに笑ってくれた。
小一時間ほど状況を上層部に聞かれ、名残惜しいが傑の遺体を引き渡す。他の医師へ移送されるため、粛々と白い布で包まれる親友を横で見ているしか出来ない。
流石に完全に日が落ちると、12月終わりの寒さが身体に応える。コートを取りに部屋へ戻る途中、医務室の灯りが目の端に留まる。
今夜は夜通し関係者が動いている。事件の報告やら、役所に提出する爆発の事故扱いの捏造書類やら、校舎再建に向けた瓦礫の撤去やらがスピーディーに行われるらしい。
帳が途中で消えたお陰で、一般人から爆発の通報を警察が受けたらしく、学長が事情を話していた。その間も補助監督が忙しく駆け回り、瓦礫撤去のための重機を乗り付けた業者が集まってきている。
「後で夢子の顔でも見に行くかな」
疲れた時には、甘味摂取と夢子を抱きしめるに限る。
夜通し働いて、一時休憩に入った明け方。
彼女の呪力から居場所を探って会いに行き、声を掛けた。
「夢子、風邪ひくよ」
外は冷えるというのに、コートも羽織らずに薄着で建物の屋上に居た彼女を心配して抱きしめると、優しい夢子は、傷心の僕の代わりに涙を流した。
会いに来るまで憂鬱で気分が沈んでいたが、鼻水まで垂らして泣き顔を晒した夢子に、逆に笑いが込み上げてきて、ティッシュを渡しながらも微笑ましい気持ちになった。この女性(ひと)が、たまらなく愛おしい。
「夢子には笑っててほしい」
口をついて出るその言葉は、紛れもなく本音。親友を殺めることでしか、終幕を迎えることが出来なかったのは僕の罪だ。彼女にはなるべく心配も負担もかけさせたくない。
「夢子、帰ったらゆっくり眠らせて」
願わくば、君の体温を、匂いを感じて眠っている間はすべてを忘れたい。
「夢子のこと抱きしめて寝ていい?」
大切なものは、もう何一つ失いたくはない。腕に抱いて、確かめていたい。
「夢子も休んでよ」
頑張り屋の恋人は、僕が休まなければ、他に何か自分にできることはないかと頭をフル回転させながら、せっせと動き回るタイプだ。
はらはらと涙を流しながら、夢子は僕のお願いの言葉すべてに頷いてくれる。本当に僕には勿体ないくらいの女性だと思う。
既に離れがたいと思いつつも、夢子の髪を指で梳いていると、ふいに電話のコールがポケットから鳴り響く。幸せな夢から無理矢理に目を醒まさせられた気分だ。
「なるべく早く帰るよ」
と、彼女に宣言して、慌ただしく建物から降りながらスマホを耳に当てる。
報告書類の訂正要請と、事件の詳細を文書化したから目を通して欲しいと電話越しに伊地知から話され、これは本当に完徹になりそうだと苦笑が洩れた。
無限を使って地面に降り立つと、丁度日の出が拝めた。寝不足の瞳にしみて、サングラスを外し、いつもの目隠し代わりの包帯を着けた。
現実、奪った傑の命ひとつでは償えないほど、犠牲になった命と、悲しみに流れた涙は多い。それでも、生きている者たちは前に進まないといけないのだ。
だが――あれから僕は、毎晩悪夢にうなされた。
傑が最期に笑っていたのは記憶に目に焼き付いているというのに、夢の中では、傑は血だらけの目を見開き、「苦しい、痛い」「悟、助けてくれ」と訴えながら、僕に掴みかかってくる。
なぜ殺したのか、なぜお前だけ生きているのかと、苦痛に満ちた声で僕に助けを乞う。
うわっ、と小さく叫んで、思わず飛び起きる深夜。暴れる鼓動。額に滲む脂汗。喉が絞られたように引きつる。息を呑み込むと、口の中がカラカラに乾いていて、むせこんでしまった。
罪悪感が見せるのだと、もう済んだことだと、自分に言い聞かせるも、その夢の声から逃れることはできない。
――全ては僕のせいだ。
僕のせいで、親友が死んだのだ。それは、捻じ曲げようのない真実。
「あれは夢だ、夢……っ、傑がッ、そんな……ことするはず……な、い」
頭を抱えて布団の上で丸くなるも、叫び出したくてたまらない衝動を必死で堪える。
いつまでこんなことを続ければいいのか。いっそこのまま死んでしまいたいと思った時だった。ふわりと、安心するやわらかな香りに包まれた。
「大丈夫だよ」
耳元で囁かれた言葉とともに、背中をさすられる感触があった。
顔を上げると、そこには心配そうな表情を浮かべている夢子がいた。彼女はベッドの上に座り込み、僕の身体を抱き寄せていた。
「悟……眠れないなら、私の催眠系の術式を使おうか?」
そう言って、彼女は頭を撫でてくれる。まるで子供を相手にするような扱いだが、不思議とその手つきはとても優しく感じられた。気がつけば、僕は自然と彼女の胸に顔を押し付けるようにして、スゥッと沈むように眠りに落ちる。とても居心地が好く、包まれて眠るような安心感があった。
夢子と一緒に暮らしていて、本当に良かった。傷んだ心が擦り切れてしまいそうでも、縋っていい温もりがそこにある。
そんなことを毎晩繰り返し、夢子が硝子や夜蛾学長に僕の睡眠不足について相談してくれていたのは知っていた。ついでに、憂太や他の生徒たちからも、僕がいつもと違うから心配だと言われていたことも知ってしまった。
皆、こんな僕を心配していた。
特に、硝子と夢子は何かを企んでいる。
頼むから危険なことはしないでくれと願いながら、冗談っぽく、
「僕に隠し事はしないでね」
と夢子に言うと、彼女は一瞬キョトンとしてから笑った。
「じゃあ晩御飯のメニューはハンバーグだってバラしちゃいまーす」
と、愛する人が抱きついてくる、平和で細やかな幸せ。
だが、夢子が資料室に籠もって何かを読み漁っていることや、学長から「夢子に昇級できる余地があるが、反対するか?」と問われ、僕が彼女の成長を妨げているのではないかと少し落ち込んだ。
夢子に昇級したいかと聞くと、苦笑して首を振った。もし、危険な任務に行くことになったりしたら、心配するであろう僕の顔は見たくないから、無茶はしないと決めているそうだ。お互いが行動の基準になっていて、似た者同士だなと呆れて笑ってしまった。
そんなことが続いた日の晩。
――悟、悟。
誰かが僕を呼ぶ。真っ暗闇の中でふと目が覚めると、袈裟姿の傑が寝そべる僕の顔を覗き込んでいた。
『なんて顔をしてるんだい』
からかうようにフフッと笑った親友を前に、バッと上体を起こす。夢か、夢だよな。だが、いつもの悪夢と展開が違っている。唖然として口を開けたまま、傑と思われる夢の中の人物を見つめると、そいつは肩をすくめた。
『私は悟を恨んでいないよ』
発せられた言葉に、ハッとして彼を見つめた。
鼻の奥がツンとして、視界が滲んでいく。ずっと心の底でわだかまっていた思いが、感情が、目からとめどなく溢れてくる。
『ただ、もっとお互いに話していれば、こんなに悟に心配をかけることもなかっただろうって、今になって思うんだ』
悪戯っぽい笑みを浮かべ、おどけた様子で傑から肩を叩かれる。最強も寝不足には敵わないんだな、と冗談を言われ、こっちも「オマエのせいだろ」と、鼻声で学生の頃のように悪態をついてみせる。
『悟……礼を言うよ』
私に引導を渡したのが君で良かった。
その声が僕の耳に届く頃には、傑の姿が光の粒になって闇に溶けていく。駆け寄って光を掴もうとするが、その手は虚しく空を切った。バランスを崩して転ぶと、遠くから『ありがとう』と反響する聞こえた気がした。
「くそっ……まだまだ……オマエと話したいことがあるのに」
握りしめた拳で地面を叩き、親友の名前を力の限り叫んで身を起こすと、そこはいつもの家の寝室だった。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいて、鳥の鳴き声が聞こえていた。
混乱したまま静かに辺りを見回すと、ベッド脇には僕の手を握って眠りこける夢子の姿があった。彼女を揺すって起こすと、
「……悟、眠れた?」
と、切羽詰まった様子で聞いてくる夢子に怯んだ。
夢を思い出そうとして、夢の中の傑の「ありがとう」が耳に蘇る。リアル過ぎて、あれは現実にあったことなんじゃないかと疑った瞬間に、抑えきれずに声を上げて泣いた。
涙腺が崩壊してしまったかのように、自分でも止められず、次から次に大粒の雫が流れ落ちていく。夢子は目を見開いて驚きつつも、黙って背中をさすってくれた。彼女の手の温もりが、ズタズタになった心に安らぎを与えてくれる。
やがて嗚咽混じりになりながらも、ぽつりぽつりと語り出す。あの日の出来事を全て夢子へ話した。
自分がしたことへの後悔や懺悔の言葉を口にしながら、今は亡き親友へ何度も謝罪する。その間ずっと、夢子は何も言わずに頷いて耳を傾けてくれる。
全てを吐き出し終えると、ようやく心が落ち着くことができた。
「ごめん……」
鼻水をすすり上げつつ、今度は夢子に謝った直後、ふわりと柔らかなものに包まれた。夢子の胸元に引き寄せられ、優しく頭を撫でられる。その温もりに安堵感を覚えながら彼女の甘い匂いを吸い込むと、心の奥底にある何かが溶け出していくような気がした。
「夏油さんも、悟のことが大切だったんだね」
そう言ってくれた彼女に甘えるように、僕はしばらくそのままじっとしていた。
泣き顔は彼女に見せまいと努めていたのに、結局は泣いてしまったことを少し恥ずかしく思いながら、僕は自分の心に向き合うことにした。
もう逃げないと決めたのだ。
だからまず、僕が一番恐れていることを確かめるために口を開いた。
「ねぇ夢子、こんなカッコ悪い僕に幻滅したりしない?最低なことをした僕でも、まだ好きでいてくれる?」
すると彼女は僕の顔を覗き込みながら微笑んで言った。
「当たり前じゃない。私はどんな悟も好きだよ。だから安心してね」
その言葉を聞いた途端、僕はまた泣けてきた。けれど今度は嬉しくて泣くことが出来た。そんな僕を見て、彼女は優しく笑っていた。
それから、僕は不思議と悪夢を見ることはなくなった。
某日。
「今度、オマエの後輩たちや硝子、夢子も連れてくるよ」
風ひとつない、穏やかな昼下がり。持参した白い花を墓に飾りながら、僕は親友に語りかける。
「オマエみたいにバカ真面目な術師が割りを食わないように、僕が腐った呪術界を変えると決めた」
拳を冷たい墓にくっつけ、親友に、自分に、宣誓する。
次の瞬間、ヒュウっと一抹の風が優しく頬を撫でる。まるでアイツが返事をしたような気がして、思わず笑みがこぼれた。風に乗って、懐かしい笑い声が聞こえた気がした。
「……だからさ、見守っててくれよ。僕のこと」
この決意はきっと揺るがないだろうから。
そう思いを込めて呟いた言葉は、果たして親友に届いているだろうか。答え合わせはできないけれど、それでもいいと思った。だって、ヤツはいつもそばにいるんだろうから。
「じゃあね、傑」
また来るよと言い残し、踵を返す。
振り返り際に見た墓石には、瑞々しい白百合の花が揺れていた。
END.