五条悟
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2017年12月24日。
新宿と京都で百鬼夜行が行われた。
呪術師であれば、記憶に新しく、あまり思い出したくない事件である。
人手が足りないため、呪具を扱えるが非戦闘系術式の2級術師である私も新宿の前線へ駆り出された。恋人である悟には反対されたが、自分だけのうのうと安全地帯にいて鷹揚に構えてなんかいられなかった。
途中から1級呪霊の出現と、同時に怪我人が増えたため、後方待機、家入さんのサポートを務めるよう上から指示が下った。
私の術式は、触れた対象者の脳に干渉して催眠・鎮静を強制させる術式のため、怪我人の興奮状態や錯乱状態を抑えたりと、加減次第では医療分野にも使える。
応用すれば敵の昏睡も狙えるが、いかんせん潜在呪力量が少ない残念仕様。仲間内では通称『歩く睡眠薬』と呼ばれている程度の能力。まさに非力。
「夏油傑は、私と五条と同学年だった」
五条悟の親友だったんだ。
と、負傷術者の手当をしながら家入さんが教えてくれたのは、悟の青い春。
「どうすれば正解だったのか、あいつは今でも悩んでるんじゃないか」
淡々と語る家入さんの口調からは感情が推し量れない。『悟の親友』だが、『私たちの親友』ではないのかと複雑に思った。
「夏油さんについては、悟が全然話をしてくれなくって。ただ、たった一人の親友だと聞いています」
と、私が苦笑いすると、
「人って話し始めたら色んなこと思い出すから。あいつも昔は割と感情的だった」
治療を終えてマスクを外した家入さんの口角が僅かに上がっていた。昔を思い出しているのだろうか。
「全然想像出来ないです。今は自信たっぷりで余裕あるし」
「五条家当主だし、おどおどして弱気じゃあ海千山千の上層部から喰われるだろうよ」
「たまに、ですけど……眠れない時があるみたいです」
「んー……まぁ、夢子が支えてやってくれ。夏油がいなくなってから、弱い面は一切見せなくなった」
今夜も徹夜かな。
そう、ポツリと呟いた家入さんのスマホが鳴った。また新たな怪我人が運ばれる気配に、私は次の準備に取り掛かった。
怪我人の情報ばかりで、最新の戦況が入ってこない。怪我人の数から、戦いは苛烈を極めているのは理解している。手当のサポートや、書類作成を手伝いながら、最前線にいるであろう悟の身を案じて、祈るように窓から空を見上げた。
家入さんのサポートに徹してどれくらい経っただろうか。
二人でクタクタになって座り込んでいるところに、補助監督の方が差し入れを持ってきてくれた。同時に知らされたのは、呪詛師たちが次々に撤退し、放たれた呪霊も残り少ないということ。ただ、次の知らせを伝えられて血の気が引いた。
「高専が夏油傑に襲撃され、だいぶ前に五条術師もそちらに向かいました。少しずつ入ってきた情報によると、すでに何名か高専で待機していた補助監督の死亡が確認されています」
そんな、と言葉を失った私の横で、家入さんが深い深い溜め息を吐いた。
悟に続き、一部の1級術師が応援に向かっているだろうから心配ないだろうとの話だったが、悟の生徒さんの乙骨くんたちや真希ちゃんはどうなったんだろう。高専に待機していたはずだ。
夏油さんは特級呪詛師だと開戦前に夜蛾学長が言っていた。生徒の二人は怪我はしていないだろうか。
「……前線に重症者は?」
「新宿は残り軽症者のみです」
「夢子、高専に向かうぞ」
努めて冷静な家入さんが荷物をまとめ始めた。補助監督へ治療者名簿とカルテを渡し、今後の動きについて打ち合わせしながら、車の手配を促していた。
「学長?こっちは済んだので夢子と高専に向かいます。……えぇ、言われずとも警戒しながら行きますよ」
スマホで連絡を終えた家入さんの後ろにくっついて、私も今まで居た建物を後にする。
心臓が終始ぎゅっと掴まれたようだった。悟も心配だし、乙骨くんや真希ちゃんの顔が頭に浮かぶと、心配で心配で、喉が締められたみたいに空気が通らない。
――――そして、私たちが高専に着いたころには決着がついていた。
「五条、夏油は検死に回すか?」
「いや、他のやつに任せるさ。ひどい有様なんだ。今回の件だけはオマエに処理はさせたくない」
「……そうか」
ひどく損壊を受けた高専を背景に、悟と家入さんの会話を聞きながら、私は一人蚊帳の外だった。術師や補助監督の人など、だんだんと人が集まってきて、事態の収拾にあたっている。
親友の死を語る悟の表情はずっと変わらない、仕事の時の顔だった。家入さんも、顔色一つ変えずに頷きながら報告を聞いていた。
夏油さんという人が悟の生徒さんたちに怪我をさせ、乙骨くんが反転術式で治療してくれて真希ちゃんや狗巻くんたちが助かったこと。パンダくんもダメージが大きいけど、なんとか修復ができそうなこと。
悟が親友に止(とど)めを刺したこと。悟の立場と状況的に命を奪わなければならなかったこと。
旧知の仲である家入さんに見せたくないほどの遺体の状態であること。
それらを知って、言葉にならなかった。
高専敷地内で瀕死で見つかった補助監督の方たちの治療を黙々と行う家入さんの横顔を見ながら、どう労りの言葉をかけたら良いか分からなかった。悩みながらも治療後の書類作成などサポートが大方終わった頃、
「夢子、顔色が悪い。外の空気を吸ってきた方がいいよ」
と、逆に家入さんに気を遣われてしまった。
視線を返すと、『私は大丈夫だ』と彼女の顔に書いてあった。眉を下げて困ったように微笑んだ家入さんに、抑えていた涙が出そうになった。私は会釈して下を向きながら部屋を後にした。
冬の朝6時半近く。
夜が明けてきても、冬の朝はまだ暗い。
早朝の12月の空気はキンと冷えていて、マフラーだけを手に、コートも持たずに建物の屋上に出てきたことを少し後悔した。静寂がひろがっていて、世界に私しかいないみたいだ。
「私は何ができるかな」
しばらく黙って空を見上げた。風もない、鳥も飛んでいない静かな空。ぼんやりとした頭が冷えて冷静になる。吐いた息が白く出て、霧散して溶けていく。
深呼吸し、柵に両手をかけた時だった。
「夢子、風邪ひくよ」
後ろから急に声が聞こえて、ハッとした。
勢いよく振り返ると、コートを羽織り、髪を下ろしてサングラスをかけた悟がいた。
もう事件の処理は終わったのか聞くと、彼は黙って首を振った。
「じゃあ、ここにいないで早く戻らないと」
各所に報告や連絡を行わないといけないのではないだろうか。私の言葉で、眉を下げて困ったような顔をした彼に、さっき見た家入さんの表情が重なった。
「夜まで帰れないし、充電させてくれたっていいでしょ」
そう言われた時には彼の腕の中にいた。
見上げると、頬と額に冷たい口づけが降る。ずっと外に居たのか、体温が下がっている彼の頬を両手で包む。鼻の奥がじんと痺れて、自分でも分からずに、はらはらと涙が流れてくる。
「なんで夢子が泣いてんの」
優しく問われても、なんでだか自分でも分からない。滲む視界の悟を見ながら、それでも震える声で絞り出す。
「だって、悟と家入さんの友達だったんでしょ」
「……ああ、傑は親友だよ」
かわりなんかいない、だからこの手で終わらせた、そう言いながら悟は悲しく微笑んだ。一瞬だけ、綺麗な青い瞳が揺れた。
友達同士なのになんで、と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。
それは悟なりのケジメの付け方だったのではないだろうかと気づいた。夏油さんが上層部に拘束されて処刑されるよりは、親友に自分の手で最期を与えてあげられることに意義があったのかもしれない。
悟が目を細めながら私の髪を指で梳く。そして、口を開いた。
「夢子、帰ったらゆっくり眠らせて」
「うん」
「夢子のこと抱きしめて寝ていい?」
「っ、もちろん」
「夢子も休んでよ」
「う、ん……」
どこまでも穏やかな悟の声音に、私の目からは次から次に涙が溢れて、感情が整理できなかった。
鼻水垂れてる、と笑いを堪えてる悟がポケットティッシュを差し出すので、急に恥ずかしくなって、とりあえず鼻はかんでおいた。
「夢子には笑っててほしい」
まだしゃくりあげる私の額に、彼の額がこつんと重なる。手の甲で涙を拭いながら黙って何度か頷くと、そっと彼の温もりが離れた。
「なるべく早く帰るよ」
ひゅっ、と屋上の柵を飛び越えて、下に悟が落ちていく。慌てて下を覗くと、もう彼の姿はなかった。忙しない人だ。それでも会いに来てくれたのは嬉しかった。
「……貴男に、私は何ができるかな」
自問自答しても、まだまだ答えは出そうにない。とりあえず泣き止んで鼻水が止まってから家入さんのところへ戻ろう。
「あー朝日……」
あたたかいオレンジ色が闇を消していく。夜空と陽光が混じり合い、青にも紫にも見える絶妙な色合いが生まれた。
柵に頬杖をつき、その色が混じり合う様をしばらく眺めていると、昇る太陽の光が目に染みた。泣きすぎたか、少し目の奥が痛い。
今日も変わらずに日が昇って平等に朝が来る。 皆、今日はどんな朝を迎えているのだろうか。願わくば、心身に傷を負った人たちの苦しみや痛みが少しでも減りますように。そう祈らずにはいられない。
家に帰って悟の部屋着を洗っておいてあげよう。何着もあるくせに、いつも着るのは同じものなんだよね。
良い匂いのシーツとタオルケットも準備してセットしておこう。割と柔軟剤にうるさいんだよね。
温かくて甘いココアが作れるように、牛乳も買っておこう。マシュマロ入れたら喜ぶかな。もしかしたら蜂蜜入れたカフェオレの方がいいって言うかもしれない。
お腹が空いたら何が食べたいって言うかな。材料は一通り買っておこう。
今の私ができるのはそれくらいだ。
暁光を受け、アスファルトに伸びる影を見ながら、私は屋上を後にした。
END.
新宿と京都で百鬼夜行が行われた。
呪術師であれば、記憶に新しく、あまり思い出したくない事件である。
人手が足りないため、呪具を扱えるが非戦闘系術式の2級術師である私も新宿の前線へ駆り出された。恋人である悟には反対されたが、自分だけのうのうと安全地帯にいて鷹揚に構えてなんかいられなかった。
途中から1級呪霊の出現と、同時に怪我人が増えたため、後方待機、家入さんのサポートを務めるよう上から指示が下った。
私の術式は、触れた対象者の脳に干渉して催眠・鎮静を強制させる術式のため、怪我人の興奮状態や錯乱状態を抑えたりと、加減次第では医療分野にも使える。
応用すれば敵の昏睡も狙えるが、いかんせん潜在呪力量が少ない残念仕様。仲間内では通称『歩く睡眠薬』と呼ばれている程度の能力。まさに非力。
「夏油傑は、私と五条と同学年だった」
五条悟の親友だったんだ。
と、負傷術者の手当をしながら家入さんが教えてくれたのは、悟の青い春。
「どうすれば正解だったのか、あいつは今でも悩んでるんじゃないか」
淡々と語る家入さんの口調からは感情が推し量れない。『悟の親友』だが、『私たちの親友』ではないのかと複雑に思った。
「夏油さんについては、悟が全然話をしてくれなくって。ただ、たった一人の親友だと聞いています」
と、私が苦笑いすると、
「人って話し始めたら色んなこと思い出すから。あいつも昔は割と感情的だった」
治療を終えてマスクを外した家入さんの口角が僅かに上がっていた。昔を思い出しているのだろうか。
「全然想像出来ないです。今は自信たっぷりで余裕あるし」
「五条家当主だし、おどおどして弱気じゃあ海千山千の上層部から喰われるだろうよ」
「たまに、ですけど……眠れない時があるみたいです」
「んー……まぁ、夢子が支えてやってくれ。夏油がいなくなってから、弱い面は一切見せなくなった」
今夜も徹夜かな。
そう、ポツリと呟いた家入さんのスマホが鳴った。また新たな怪我人が運ばれる気配に、私は次の準備に取り掛かった。
怪我人の情報ばかりで、最新の戦況が入ってこない。怪我人の数から、戦いは苛烈を極めているのは理解している。手当のサポートや、書類作成を手伝いながら、最前線にいるであろう悟の身を案じて、祈るように窓から空を見上げた。
家入さんのサポートに徹してどれくらい経っただろうか。
二人でクタクタになって座り込んでいるところに、補助監督の方が差し入れを持ってきてくれた。同時に知らされたのは、呪詛師たちが次々に撤退し、放たれた呪霊も残り少ないということ。ただ、次の知らせを伝えられて血の気が引いた。
「高専が夏油傑に襲撃され、だいぶ前に五条術師もそちらに向かいました。少しずつ入ってきた情報によると、すでに何名か高専で待機していた補助監督の死亡が確認されています」
そんな、と言葉を失った私の横で、家入さんが深い深い溜め息を吐いた。
悟に続き、一部の1級術師が応援に向かっているだろうから心配ないだろうとの話だったが、悟の生徒さんの乙骨くんたちや真希ちゃんはどうなったんだろう。高専に待機していたはずだ。
夏油さんは特級呪詛師だと開戦前に夜蛾学長が言っていた。生徒の二人は怪我はしていないだろうか。
「……前線に重症者は?」
「新宿は残り軽症者のみです」
「夢子、高専に向かうぞ」
努めて冷静な家入さんが荷物をまとめ始めた。補助監督へ治療者名簿とカルテを渡し、今後の動きについて打ち合わせしながら、車の手配を促していた。
「学長?こっちは済んだので夢子と高専に向かいます。……えぇ、言われずとも警戒しながら行きますよ」
スマホで連絡を終えた家入さんの後ろにくっついて、私も今まで居た建物を後にする。
心臓が終始ぎゅっと掴まれたようだった。悟も心配だし、乙骨くんや真希ちゃんの顔が頭に浮かぶと、心配で心配で、喉が締められたみたいに空気が通らない。
――――そして、私たちが高専に着いたころには決着がついていた。
「五条、夏油は検死に回すか?」
「いや、他のやつに任せるさ。ひどい有様なんだ。今回の件だけはオマエに処理はさせたくない」
「……そうか」
ひどく損壊を受けた高専を背景に、悟と家入さんの会話を聞きながら、私は一人蚊帳の外だった。術師や補助監督の人など、だんだんと人が集まってきて、事態の収拾にあたっている。
親友の死を語る悟の表情はずっと変わらない、仕事の時の顔だった。家入さんも、顔色一つ変えずに頷きながら報告を聞いていた。
夏油さんという人が悟の生徒さんたちに怪我をさせ、乙骨くんが反転術式で治療してくれて真希ちゃんや狗巻くんたちが助かったこと。パンダくんもダメージが大きいけど、なんとか修復ができそうなこと。
悟が親友に止(とど)めを刺したこと。悟の立場と状況的に命を奪わなければならなかったこと。
旧知の仲である家入さんに見せたくないほどの遺体の状態であること。
それらを知って、言葉にならなかった。
高専敷地内で瀕死で見つかった補助監督の方たちの治療を黙々と行う家入さんの横顔を見ながら、どう労りの言葉をかけたら良いか分からなかった。悩みながらも治療後の書類作成などサポートが大方終わった頃、
「夢子、顔色が悪い。外の空気を吸ってきた方がいいよ」
と、逆に家入さんに気を遣われてしまった。
視線を返すと、『私は大丈夫だ』と彼女の顔に書いてあった。眉を下げて困ったように微笑んだ家入さんに、抑えていた涙が出そうになった。私は会釈して下を向きながら部屋を後にした。
冬の朝6時半近く。
夜が明けてきても、冬の朝はまだ暗い。
早朝の12月の空気はキンと冷えていて、マフラーだけを手に、コートも持たずに建物の屋上に出てきたことを少し後悔した。静寂がひろがっていて、世界に私しかいないみたいだ。
「私は何ができるかな」
しばらく黙って空を見上げた。風もない、鳥も飛んでいない静かな空。ぼんやりとした頭が冷えて冷静になる。吐いた息が白く出て、霧散して溶けていく。
深呼吸し、柵に両手をかけた時だった。
「夢子、風邪ひくよ」
後ろから急に声が聞こえて、ハッとした。
勢いよく振り返ると、コートを羽織り、髪を下ろしてサングラスをかけた悟がいた。
もう事件の処理は終わったのか聞くと、彼は黙って首を振った。
「じゃあ、ここにいないで早く戻らないと」
各所に報告や連絡を行わないといけないのではないだろうか。私の言葉で、眉を下げて困ったような顔をした彼に、さっき見た家入さんの表情が重なった。
「夜まで帰れないし、充電させてくれたっていいでしょ」
そう言われた時には彼の腕の中にいた。
見上げると、頬と額に冷たい口づけが降る。ずっと外に居たのか、体温が下がっている彼の頬を両手で包む。鼻の奥がじんと痺れて、自分でも分からずに、はらはらと涙が流れてくる。
「なんで夢子が泣いてんの」
優しく問われても、なんでだか自分でも分からない。滲む視界の悟を見ながら、それでも震える声で絞り出す。
「だって、悟と家入さんの友達だったんでしょ」
「……ああ、傑は親友だよ」
かわりなんかいない、だからこの手で終わらせた、そう言いながら悟は悲しく微笑んだ。一瞬だけ、綺麗な青い瞳が揺れた。
友達同士なのになんで、と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。
それは悟なりのケジメの付け方だったのではないだろうかと気づいた。夏油さんが上層部に拘束されて処刑されるよりは、親友に自分の手で最期を与えてあげられることに意義があったのかもしれない。
悟が目を細めながら私の髪を指で梳く。そして、口を開いた。
「夢子、帰ったらゆっくり眠らせて」
「うん」
「夢子のこと抱きしめて寝ていい?」
「っ、もちろん」
「夢子も休んでよ」
「う、ん……」
どこまでも穏やかな悟の声音に、私の目からは次から次に涙が溢れて、感情が整理できなかった。
鼻水垂れてる、と笑いを堪えてる悟がポケットティッシュを差し出すので、急に恥ずかしくなって、とりあえず鼻はかんでおいた。
「夢子には笑っててほしい」
まだしゃくりあげる私の額に、彼の額がこつんと重なる。手の甲で涙を拭いながら黙って何度か頷くと、そっと彼の温もりが離れた。
「なるべく早く帰るよ」
ひゅっ、と屋上の柵を飛び越えて、下に悟が落ちていく。慌てて下を覗くと、もう彼の姿はなかった。忙しない人だ。それでも会いに来てくれたのは嬉しかった。
「……貴男に、私は何ができるかな」
自問自答しても、まだまだ答えは出そうにない。とりあえず泣き止んで鼻水が止まってから家入さんのところへ戻ろう。
「あー朝日……」
あたたかいオレンジ色が闇を消していく。夜空と陽光が混じり合い、青にも紫にも見える絶妙な色合いが生まれた。
柵に頬杖をつき、その色が混じり合う様をしばらく眺めていると、昇る太陽の光が目に染みた。泣きすぎたか、少し目の奥が痛い。
今日も変わらずに日が昇って平等に朝が来る。 皆、今日はどんな朝を迎えているのだろうか。願わくば、心身に傷を負った人たちの苦しみや痛みが少しでも減りますように。そう祈らずにはいられない。
家に帰って悟の部屋着を洗っておいてあげよう。何着もあるくせに、いつも着るのは同じものなんだよね。
良い匂いのシーツとタオルケットも準備してセットしておこう。割と柔軟剤にうるさいんだよね。
温かくて甘いココアが作れるように、牛乳も買っておこう。マシュマロ入れたら喜ぶかな。もしかしたら蜂蜜入れたカフェオレの方がいいって言うかもしれない。
お腹が空いたら何が食べたいって言うかな。材料は一通り買っておこう。
今の私ができるのはそれくらいだ。
暁光を受け、アスファルトに伸びる影を見ながら、私は屋上を後にした。
END.