夢小説短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
玄関の引き戸をそっと引いた。
町はまだ、眠りの底にある。
夜が白み始めたばかりの空気が、頬を撫でた。
風が少し冷たくて、ふるりと小さく体が震えた。
この時間、大半の人は活動していない。この時間に出歩いているのは新聞配達員か、私のような人間だけだろう。
ようやく一晩が終わった。体はクタクタ、足は棒、頭は霞がかっている。仕事中は神経をより一層尖らせなければならないため、解放されたらどっと力が抜ける。
昼夜逆転している生活を送っているからか、疲労感が半端ではない。
何も考えずにベッドへ倒れ込みたい。その前にお風呂にも入りたい。ご飯は……まぁ、後でいいや。一食抜いたところで死ぬわけじゃないし、それよりも睡眠の方が幾倍も重要事項だ。
そうするはずだった。
しかし、廊下の電気が点いていた。
玄関は防犯のために付けてから出た記憶はある。だが、廊下は必要ないから消していたはずだ。
「……なァ、今何時かわかってんの?」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
銀時が廊下の壁にもたれ、腕を組み、通せんぼをするように足を反対側の壁に置いて立っている。
行き道を塞ぐその姿は、半分寝ているくせにしっかり怒っている。
彼がこの時間起きていることは、そうそうないはずなのに。
「わかってるよ。そこどいて」
「これで何回目よ? そろそろ我慢の限界なんだけど」
「仕方ないでしょ。疲れてるから、お風呂入って寝たいんだけど」
「は? 俺を一晩中放っておいて、許されるとでも思ってんの?」
いつもと違う低い声。
またか。と、心のため息を漏らす。
何度このやり取りをすれば気が済むのだろうか。
平時ならなんとも思わないが、今日はトラブル続きで私だって苛立っているのだ。
「だからさぁ────」
私は大きく息を吸い込んだ。
「夜勤明けだっつってんでしょうが!!! 何回言わせる気だ、このあんぽんたん!!!」
「昼勤だってあるだろ!?」
「そういうのは順番ってもんがあるの!! あと夜勤の方が稼げるんだよ!!」
「彼氏持ちの若い娘が朝帰りなんざ許されねーよ!?」
「アンタの常識を持ってくんな!! 若いからこそ夜勤ができるんだよ!! あと《朝帰り》って言うな!! 一仕事終えてんだよこっちは!!」
「ハァーー!? こうなったら直接抗議してやる!! テメェの上司教えやがれ!!」
「私の上司、例の鬼怖い師長さんだけど」
「誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げる銀時。背中がきれいに直角。
謝り慣れているのだろうかと思わせるほど、見事な姿勢だった。
もう何度目か分からない、この流れ。
疲れてるのに、腹筋に悪い。
銀時と出会ったのは、私が今の病院で働き始めて間もない頃だった。
ケガで入院してきたのに、じっとしていない患者で。
ベッドの上でもマンガを広げて、お菓子を食べて、点滴棒を振り回して、特に用事もないのに院内をぶらついて。
何度叱ったか分からない。
何度衝突したか分からない。
でも、叱るたびに「先生より怖ェ」って笑ってた顔を、今でも覚えてる。
銀時は廊下で膝を突き合わせたまま、まだ何か言いたげだった。
「もう……何回このやり取りすれば気が済むの」
「……俺が寂しいだけですけど何か?」
「だからって八つ当たりすんな」
「違ェんだよ、八つ当たりじゃねェ。……なかなか帰ってこねェから、また倒れてんじゃねーかって思ってよ」
その声が、急に弱くなった。
思わずまばたきをした。
怒っていたはずの銀時が、ほんの少し眉を下げている。
その声音に、怒りよりも怖さが滲んでいた。
「……倒れたこと、あったじゃねェか。あの時、連絡つかなくて……病院から電話きて……」
そういえば、あった。
過労で少し倒れた時、夜勤明けにそのまま点滴を受けたことが。
その時、病院の受付に駆け込んできた銀時の顔は、ひどく青ざめていた。
あんなに焦った顔を見たのは初めてだった。
その記憶がよみがえって、少しだけ胸の奥がじんわりする。
「心配してくれてるのは分かってるけどさ。体力ある方だし、私この仕事、結構気に入ってるのよ。だからさ……」
そこまで言うと、銀時が少しだけ視線を逸らした。
物分かりはいいのに、それでも奥底では納得が出来なくて拗ねた子供のようだった。
「……分かってるよ。分かってんだけどな。帰ってこねェ時間が長ェと、ロクでもねェ想像すんだわ。誰かに絡まれてねェかとか、事故ったんじゃねェかとか、また倒れたりしてんじゃねェかとか」
「銀時……」
「……俺が寂しいだけですけど何か?」
さっきと同じ言葉を、もう一度。
でも今度は拗ねたような声じゃなくて、照れ隠しみたいな小ささだった。
そんな顔を見たら、こっちが恥ずかしくなるじゃないの。
「私の気遣い返してくれる?」
「え?」
「私だって心配してんの。アンタ、風邪気味でも仕事行こうとするでしょ。こっちにいない間にまた甘いものばっか食べて、賞味期限切れたもの食べて腹壊すんじゃないかって」
「壊してねぇよ。……ちょっと豆パン食いすぎただけで」
「ほら見ろ」
「ぐぬぬ……」
いつもの調子に戻る。
ため息が出るけど、不思議と悪くない。
こんなやり取りができるのも心配してくれてるからだと思うと、少しだけ頬が緩んだ。
銀時はそのままソファにどかっと座り、天井を見上げた。
「……まあ、しゃあねぇか。頑張ってんのはわかってるし。俺が夜勤明け迎え係でもやるか。牛乳とあんぱん用意しといてやるよ」
「張り込み中の
「いいじゃねぇか。朝帰りの彼女を労る優男ってことで」
「朝帰り言うなって言ってんでしょ」
「へいへい」
気の抜けた返事。
そのまま銀時はソファの背にもたれ、眠そうにまぶたを落とした。
私は小さく笑って、風呂場に向かう。
湯気の音の向こうで、かすかに寝息が聞こえた。
────あぁ。なんだかんだ言って、心配性なんだよな。
風呂から上がると、銀時はそのままソファで寝落ちしていた。
毛布をかけようとしたら、ふいに目を開けて掠れた声で言う。
「……おかえり」
「ただいま。怒るの、もうおしまい?」
「……次からは、連絡くらい入れろよ」
「分かってる。ちゃんとするよ」
素直にうなずくと、銀時は満足そうに片腕を伸ばした。
引き寄せられるように、その腕の中に身体を預ける。
彼の体温が、夜勤明けの冷えた指先にじんわりと染み込んでいく。
「……やっぱ、朝帰りってのは良くねーな」
「まだ言う?」
「だってよ、こうして抱きしめてねーと、俺が寝らんねェ」
「……はいはい。おバカ」
苦笑いを漏らしながら、毛布を二人の肩にかける。
窓の外は、もう朝日が差し始めていた。
怒鳴り合った夜の先に、こうして笑える朝があるなら────悪くない。
小鳥がちゅんちゅんと鳴く音をBGMにして、私の意識は白い光の中に沈んでいった。
『―後日談―』
────あれから、数日後。
病院の裏口に、見慣れた白い髪が覗いた。
「……おい、そこの白衣の天使さん。夜勤明けのお迎え、参上しましたっと」
口は軽いが、手にはちゃんと温かい缶コーヒーが二本。
銀時が片手を着物の袂に突っ込みながら、片眉を上げた。
寝癖なのか天パなのか分からない髪の毛が、あちこち無造作に跳ねている。
まだ気温が上がりきっていないためか、冬本番でもないのにいつもの格好に羽織を着ていた。
日も昇りきらない時間帯、早朝五時半。
通勤の車の音と、遠くの鳥の声だけが響いている。
「何そのテンション。朝っぱらから恥ずかしいんだけど」
「夜通し働いてた彼女に会えるんだから、テンション上がんの当たり前だろ。……ほら、ブラックと微糖。どっちがいい?」
「どっちでもいいけど……ありがとう」
受け取った缶から、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
金属の温もりが指先に染みて、体の奥にまで沁みるようだった。
夜勤明けの身体には、何よりのご褒美だ。
「まったく……迎えに来るなんて、どうしたの。珍しいじゃない」
「《朝帰り》って言葉を取り消す代わりに、迎えに行くことにした。これでチャラだろ」
「まだその話根に持ってるの?」
「男は執念深いんだよ」
口ではそう言いながら、銀時の表情は柔らかかった。
朝靄の中で、彼の瞳が少し眠たげに光る。
昨夜はきっと、早く寝なかったんだろう。
そしてきっと、普段よりかなり早く起きたのだろう。
私が帰る時間を見計らって、ここまで歩いてきたに違いない。
「歩いてきたの?」
「ん。原チャリ修理中」
「……そういうとこだぞ」
「でもな、夜明け前の空ってのは悪くねェ。お前がまだ働いてる時間帯って、こんな感じなんだなーって思った」
銀時の言葉に、少しだけ足を止めた。
病院の駐車場の先、空の端が薄い桃色に染まり始めている。
夜の冷たさと、朝のぬくもりがせめぎ合う時間。
それは、いつも夜勤の終わりに感じる瞬間だった。
「この時間、好きなんだよね。人の声が少なくて、世界が一度リセットされるみたいで」
「だろ? お前がここで働く理由、ちょっとわかった気がすんだわ」
「え?」
「……誰かが夜を明かしてる間に、誰かが朝をつくってんだなって思っただけ」
ぽつりと呟いた銀時の声は、やけに優しかった。
普段のふざけた口調とは違う。
その静けさに、胸の奥がほんのり熱くなる。
「銀時」
「ん?」
「……ありがと。来てくれて」
「おう。俺が寂しいだけですけど何か?」
またそれか、と思いながらも笑ってしまう。
この人はこうやってふざけながら、ちゃんと寄り添ってくれる。
「帰ったらすぐ寝ろよ。風呂は俺が沸かしとく。飯は……まぁ、俺の愛情入りトーストで我慢しろ」
「焦がしたら食べないからね」
「そん時ゃ、お前の手料理出してくれりゃチャラだ」
「まだ根に持ってるの!?」
「執念深い男だからな!」
くだらないやり取りをしながら、二人並んで歩き出す。
通りに出る頃には、東の空がすっかり明るくなっていた。
銀時がふと、私の肩に上着を掛ける。
夜勤明けの制服は薄く、まだ肌寒い朝には心地いい。
「……風邪引かれたら、また師長さんに怒られっからな。俺が」
「いや、それ私じゃなくてアンタが怒られるんだ?」
「そりゃそうだろ。お前の彼氏だもん」
言ってから少しだけ視線を逸らす。そのくせ口元だけは、誇らしげに笑っていた。
軽口のように言いながら、どこかくすぐったそうに見えた。
その笑みが朝日を受けて、やけに眩しかった。
────こんな風に迎えられる朝も、悪くない。
缶コーヒーの残りを飲み干して、空に息を吐く。
口から放たれた白い息が空中に漂い、あっという間に霧散していった。
夜勤明けの身体はまだ重いけど、心だけは不思議と軽かった。
「ねぇ銀時」
「ん?」
「今日の朝ごはん、私が作る。アンタが焦がす前にね」
「……うわ、先手打たれた」
「当然でしょ」
笑いながら、ふたりでゆっくりと歩いていく。
通りの先には、いつもの坂道と、見慣れた町並み。
夜の名残を背中に、朝の光を胸に受けながら。
今日もまた、私たちの《日常》が始まっていく。
怒鳴り合った夜の先に、こうして並んで帰る朝があるなら。
それだけで、十分に幸せだ。
1/3ページ
