年下狼の恋
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暖簾をくぐるたび、安心するような匂いがする。
炭火で焼かれた団子の、ほんのり焦げた甘い香り。それに混じる、砂糖と醤油の温もり。
そして柔らかく、耳に残る声。
「いらっしゃいませ」
団子屋の看板娘・ナマエは、いつだってそこにいた。
店の奥から差し込む陽に照らされて、ほんのりと頬を緩める。
その笑みは誰に向けるでもなく、ただ客へと向けられたものだ。
けれど沖田総悟にとっては、それで十分すぎた。
十分なはずだった。
最初はただの暇つぶしだった。
仕事の合間、あるいはサボりついでに立ち寄る、ありふれた甘味処。
それだけの場所だったはずなのに、気づけば足は勝手にここへ向き、視線は勝手にあの人の姿を探している。
「今日はみたらしでいいんですか?」
「んじゃ、それで」
どうでもいいやり取り。
だが、その何気なさが妙に心地よかった。
落ち着いた声音。
柔らかく細められる目元。
どこか距離を保ったまま、それでも温かい接し方。
自覚した時には、もう遅かった。
完全に惚れていた。
けれど問題がひとつ。沖田の努力ではどうあっても覆せないもの。
年が離れすぎてる。
それだけが、どうしようもなく現実だった。
十八と三十。
たった十二年。
されど十二年。
その差は世間にとっては、あまりにも大きい。
自分はまだガキ扱いされる側で、あの人は落ち着いた大人の側にいる。
それでもあの人と話がしたくて。
あの人の視線を奪いたくて。
けれど胸の内を明かすような言葉は紡げなくて。
意味なんてないような、それこそ児戯にも等しい会話しかできやしなかった。
「ナマエさんって、飼われるならどういう人に飼われたいんでさァ?」
「うちの上司、ゴリラとお見合いしてゴリラと結婚させられそうになったんですけど、ナマエさんは親類にゴリラいても大丈夫ですかィ?」
ともすれば、わけのわからない聞き方をしているだろう。
だが彼女は、そんな支離滅裂な問いにも優しく答えてくれる。
「そうねえ。やっぱ柴犬とか憧れるわね。……え? 飼われる? 飼われる方??」
「え……? ゴリラとお見合いってできるの……? その、二人がきちんと愛し合ってるならいいかなーとは思うよ、うん……」
お決まりの言葉は「もう。年上を揶揄わないの」だ。
遠回しな言葉を投げてみても、軽口の延長のように流されてしまう。
そのどれもが、年下の客へのそれだった。
分かっていたことだ。
この距離は、越えられない。
向こうから見れば、自分はただの少し変わった常連客。
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、踏み込めなかった。
その日までは。
暖簾をくぐった瞬間、沖田は足を止めた。
見慣れたはずの店内。
見慣れたはずの立ち位置。
けれどそこに立っていた彼女は、いつもと違った。
長く背中まで流れていた髪が。
あの柔らかく揺れていた黒髪が。
ばっさりと、切られていた。
肩にも届かないほどの、軽いショート。
「いらっしゃいませ」
いつもと変わらない声。
いつもと変わらない笑顔。
いつもと変わった髪型。
(……失恋、ですかィ)
胸の奥が、妙にざわついた。
理由なんて、聞かなくても分かる気がした。
女が髪を切る理由なんざ、だいたいひとつだ。
誰かを想っていたか。
誰かを忘れようとしているか。
どっちにしろ、そこに自分はいない。
分かっていたはずなのに、実際に突きつけられるとこんなにも胸を抉られるものなのか。
(……気に食わねェ)
喉の奥に、黒いものが溜まる。
嫉妬と、焦燥と、苛立ち。
全部が混ざって、ぐちゃぐちゃに絡みつく。
気づいた時には、手が伸びていた。
彼女の細い手首を掴む。
「……なァ」
初めて触れた温度に、ほんの一瞬だけ躊躇いが走る。
それでも、もう止められなかった。
「なんで俺じゃなかったんですかィ」
言った瞬間、自分で理解する。
最悪だ。
こんな言い方、したかったわけじゃない。
もっと、余裕ぶって。
もっと、格好つけて。
もっと、沖田総悟らしく。
年下だからって思われないように。
そう思っていたのに、出てきたのはただのガキみたいな嫉妬だった。
「……俺なら、あんたをそんな顔にさせやせん」
言葉が勝手に、己の口から作られている。それを止めるブレーキも、手段も、何もかもがぶっ壊れていた。
「他の男に振られてんなら、代わりに俺が貰ってやりまさァ」
吐き捨てるみたいに言ってしまう。
「それなら、悪くねェでしょう?」
ああ、最悪だ。
己が想像していた告白とは真逆の存在にあるような告白だ。
いや、こんなもん、告白でもなんでもない。
ただの八つ当たりだ。
今すぐこの場から逃げ出したくなる。
きっと、ここに来るのもこれが最後になるだろう。
そう覚悟を決めて恐る恐る顔を上げた先で見たのは、耳まで真っ赤に染めたナマエだった。
「……振られたわけじゃ、ないの」
小さな声だった。
震えているくせに、逃げない瞳。
「髪は……ただ、気分を変えたくて……」
しどろもどろな言葉。
けれどその意味は、ひどく単純だった。
(……ってことは)
拒絶されてない。
むしろ意識されてる。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
今まで押し殺してきたものが一気に溢れ出し、口元が勝手に吊り上がる。
「へェ。それって、脈アリってことでいいんで?」
一歩、距離を詰める。
逃げ場を塞ぐように。
「……っ、総悟くん……」
名前を呼ばれた。
それだけで十分だ。
沖田の中で確信に変わった。
これはもう、無理な恋じゃない。
「覚悟してくだせェ」
囁くように、けれど確実に届く声で。
「俺ァ、あんたを堕としてみせやすから」
宣言だった。
もう遠回しにはしない。
もう引く気もない。
年の差だろうが何だろうが関係ない。
頬を染めて戸惑うその顔を見て、沖田は静かに確信する。
(……逃がす気ねェから)
この恋は、ここから始まる。
*****
炭の弾ける音が、静かに店内へ溶けていく。
焼き台の上で、団子がきつね色に変わっていくのを見ながら、ナマエは手際よく次の串を並べていく。
毎日、変わらない光景。
毎日、変わらない仕事。
「いらっしゃい」
暖簾が揺れた瞬間、自然と視線が向く。
そこに立っているのは、見慣れた少年。
「今日も来てくれたのね」
「……まあ、暇なんで」
そっけない返事。
けれど、彼────沖田総悟がほぼ毎日顔を出していることを、ナマエはちゃんと知っている。
(本当に、よく来る子)
最初はただの常連だった。
少し口の悪い、けれどどこか人懐こい少年。
年齢を聞いたとき、思わず「若いのね」と言ってしまった記憶がある。
十八歳。
その数字を聞いた瞬間、無意識に線を引いた。
自分とは違う世界にいる人。
そう思い込むことで、安心していたのかもしれない。
「ナマエさんって、飼われるならどういう人に飼われたいんでさァ?」
「そうねえ。やっぱ柴犬とか憧れるわね。……え? 飼われる? 飼われる方??」
唐突すぎる問いに、思わず手が止まる。普通なら飼いたいのはっていう質問じゃない? 飼われる前提って何?
「うちの上司、ゴリラとお見合いしてゴリラと結婚させられそうになったんですけど、ナマエさんは親類にゴリラいても大丈夫ですかィ?」
「え……? ゴリラとお見合いってできるの……? その、二人がきちんと愛し合ってるならいいかなーとは思うよ、うん……」
そんな意味の分からない会話。
そのたびに彼は、じっとこちらを見ている。
まるで、何かを探るみたいに。
時々変なことを聞く子、そういうイメージが定着してしまう。
けれど、それ以上深く考えたことはなかった。
「もう。年上を揶揄わないの」
そう言えば、彼は大抵それ以上踏み込んでこなかったから。
あくまで軽口。
あくまで冗談。
そう思っていた。
思っていた、のに。
ある日、髪を切った。
理由は単純。少し、気分を変えたくなった。ただそれだけ。
特別な出来事があったわけでもないし、誰かに影響されたわけでもない。
なんとなく鏡の中の自分を見て「少し、変えてみようかな」と思っただけ。
それなのに暖簾が揺れた瞬間、彼の足が、止まった。
「いらっしゃい」
いつも通り声をかける。
けれど、返ってきたのは沈黙だった。
視線が妙に鋭い。
じっと見られている。
問いかけようとした、その瞬間だった。
ぐっと、手首を掴まれた。
「っ……!」
驚きで息が詰まる。
今まで一度も触れてこなかったのに。
そのまま引き寄せられ、距離が一気に近くなる。
「なんで俺じゃなかったんですかィ」
低い声。
いつもの軽口じゃない。
冗談でも、からかいでもない。
「……え?」
理解が追いつかない。
「俺なら、あんたをそんな顔にさせやせん」
責めるような言葉。
けれど、その奥にあるのは怒りだろうか。
違う。
もっと、熱を帯びた何か。
「他の男に振られてんなら、俺が貰ってやりまさァ」
頭が真っ白になる。
振られた?
誰に?
何を言ってるの?
それよりも、貰うという言葉が耳に残った。
それってつまり────
「それなら、悪くねェでしょう?」
彼はそう言った。
逃げ場を塞ぐように。
まっすぐに、こちらを見たまま。
冗談でもない。
軽口でもない。
「……っ」
胸の奥が、一気に熱くなる。
今まで、意識していなかったはずなのに。
年下だからと線を引いていたはずなのに。
その線が、音を立てて崩れていく。
「……振られたわけじゃ、ないの」
やっと絞り出した声は、情けないくらい小さかった。
「髪は……ただ、気分転換で……」
言い訳みたいな言葉。
けれど、それを聞いた彼の表情が変わる。
「へェ」
ゆっくりと、口元が歪む。
その顔は、いつもの少年じゃなかった。
獲物を見つけたみたいな、鋭い目。
「脈アリってことでいいんで?」
「……っ、そ、そんな……」
否定しようとしたのに、言葉が出ない。
(……否定、できない)
さっきの言葉が、頭から離れない。
『俺が貰ってやりまさァ』
そんな風に言われて、何も感じないはずがない。
一歩、近づかれる。
逃げようとしたのに、足が動かない。
「覚悟してくだせェ」
耳元で、低く囁かれる。
「俺ァ、あんたを堕としてみせやすから」
その言葉が胸に落ちる。
じわじわと熱が広がる。
(……堕とすって)
そんな物騒な言い方なのに、どうしてか怖くなかった。
むしろ、期待してしまった。
こんな年下に。
こんな強引な告白に。
心が揺れている自分に戸惑いながら。
ナマエは、俯いたまま思う。
(……だめね、ほんとに)
線を引いていたはずなのに。
気づけば、引き返せないところまで来てしまっていたようだ。
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