甘ったるい地獄
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見守る側のバレンタイン
バレンタイン前日。
三つの家の台所で、母たちは同じように一歩引いた位置に立っていた。
【坂田家・燈】
ボウルの中で、溶けたチョコがゆっくり回る。
「ねえママ、これくらい?」
燈が砂糖の袋を持って聞く。
「……うん、そこまででいいよ」
(……本当はもう十分だけど)
銀時妻は、止める手を一瞬だけ躊躇する。
「パパ、甘いの好きでしょ?」
「……うん。好きね」
(好きと限界は違うのよ……)
だが燈の顔は真剣で、誇らしげで。
(ここで口出ししたら『作った』じゃなくなる)
銀時妻は、計量スプーンをそっと戻した。
「……じゃあ、混ぜよっか」
後ろで、砂糖の量を見て遠い目になる未来を想像しながら。
【土方家・小春】
キッチンは静か。
小春は、レシピを見ながら几帳面に作業している。
「……この順番で合ってる?」
「合ってるわ」
(むしろ正確すぎる)
小春は慎重にチョコを型に流し込む。
「……パパ、全部食べるかな」
「……食べるでしょうね」
(食べない選択肢、あの人にはない)
土方妻は、コーヒー豆を確認する。
(苦め。絶対必要)
「ママ、これも飾っていい?」
「いいわよ」
(後で胃薬も準備ね)
【高杉家・紫苑】
オーブンの前。
紫苑は、ガトーショコラの生地を静かに型に流している。
「……簡単って書いてあった」
「そうね」
(簡単と軽いは違う)
高杉妻はワンホールの大きさを見て、一瞬だけ考える。
(……切り分ける提案、今じゃない)
紫苑は、そっと言った。
「……パパ、全部食べるかな」
「……食べるでしょうね」
(あなたのパパは、そういう人)
オーブンのタイマーをセットする。
(胃薬……後で出しておこう)
【共通の沈黙】
三人の母たちは、同じことを思っていた。
(これは、お菓子作りじゃない)
(渡すまで含めて、一つの体験)
失敗させないことより、やり切らせること。
味より、気持ち。
止めたら安全かもしれない。
でも────
止めなかったから、娘たちは『作った』顔をする。
完成したチョコを前に、娘たちは言う。
「パパ、喜ぶかな?」
母たちは、同じ答えを返す。
「喜ぶわよ」
(身体張って)
(意地で)
(全部引き受けて)
「絶対」
その夜。
父親たちは甘さにうめき、胃に来て、それでも笑った。
母たちは、少し離れた場所から見て思う。
(……大変だけど)
(……悪くない)
親子のバレンタインは子どもが一歩前に出て、大人が一歩下がる日。
その距離をちゃんと守れた母たちは、静かに満足していた。
