夏の話
乗せてもらっていたバイクから降りる。
肌を突き刺すようにジリジリと焼いてくる日差し。
まとわりつく熱風。
ベタつく肌。
カラフルなパラソル。
賑やかな声。
屋台から香る、香ばしい肉の匂い。
来てしまった。
「うみだーーーーーッッッッ」
「人多いな」
「お、あの子可愛い」
海に。
アイスで買収された日から数週間後。
予定を合わせたその日、待ち合わせ場所に指定された駅前に行くと、2台のバイクが停まっていた。
1台には赤さんと、後ろに菊地君が。もう1台にはピンクさんが乗っていた。
いるんだ…。行くんだ…。
俺に気付いたピンクさんが笑顔で手を振ってくるのでゆっくり近づいた。
「乗って!おれの後ろ!」
すぐ後ろのスペースを叩いて、バイク乗ったことある?と聞かれ、首を横に振った。
「じゃあ俺のスーパースポーツより乗りやすいんじゃねぇか?クラシックバイクなら」
よく分からないけど、赤さんが乗ってる後輪が跳ね上がったデザインのバイクよりは、椅子みたいに平坦な見た目で確かに座りやすそうだと思った。
ピンクさんがヘルメットを投げ渡すのを見て、手を広げ慌てて受け取った。
「ウニくんのハジメテ、優しくしてあ、げ、る」
ウインクしてくるピンクさんに思わずお礼を言った。
それを聞いた菊地君がツッコミを入れてきて律儀だな、と思った。
頭にかぶるだけのヘルメットを付ける。
「スピード落とすんすか?」と菊地君が戯けて言ったのに対し、「飛ばす!」と力強くピンクさん。
優しいの?それ。そう考えながらピンクさんの後ろにお邪魔した。掴む場所は腰だと、ピンクさんの手が支持してきたのに従う。
「じゃ、行くか!」
赤さんの合図で動き出したバイク。
初めてのダンデムというものは、走り出してすぐはこわかったけど、風が気持ちよくて心地よかった。
海が見え始めた時に片手を離してはしゃぐピンクにヒヤヒヤしたけど。
先に俺と菊地君を降ろしてくれて先輩2人が駐輪場に向かうのを見送ると、菊地君が2人から預かった荷物を背負い直した。
「荷物置きに行こうぜ」
頷いて菊地君の後をついていく。
「水着ちゃんと持ってきたか?」
「うん」
「荷物置いたら、2人帰ってくる前に先にお前着替えてこいよ」
いいの?確認のために菊地君の横に並んで顔を伺ったら、いつもより目元が緩んでいて穏やかな表情に見えた。
「わかった」
荷物を置いて一息ついたのを見て、一声掛けて着替えに行った。
人が多く、少し並んで着替え終わって菊地君のいる場所に戻ると2人も着いていた。携帯で連絡をとっていたらしい。
「戻りました。菊地君と、先輩達もありがとうございます」
「おー…あ?えっ?」
「ん?ブハッ」
「おかえり〜……あ」
声を掛けた俺を見た3人の様子がおかしい。
目を丸くしたまま、上から下まで頭を動かして俺の姿を未だにジッと見る菊地君。赤さんは立っていた体勢から勢いよく膝から崩れ落ちて震えていた。痛そうだ。ピンクさんは口元を押さえ、俺を見ながら目元をにやにやさせている。
どうしてそんな反応なのか全然分からない。
流石に居心地悪くて顔を下に向けて自身の足元を見ておくことにした。無心で足元の砂をサンダルで混ぜていると菊地君が声をかけてきた。あ。サンダルと足の間に砂が。気持ち悪い。足をもぞもぞさせながら顔をあげた俺に手招きしてくるピンクさん。
「お前さ……その水着」
「なんですか」
「…パーカーはいいけど、それ、学校のやつだろ」
頷いた。
今の俺の格好は、白の薄手のパーカーに、苗字が表に付いてる高校の水着と100均で買ったビーチサンダル。
「変ですか」
頭を抑えた菊地君が、反応は悪かったけど敬語やめろよ、とため息を吐いた。
「変じゃない、変じゃないけど…ブフッ…いや、まさか水着持ってねーとは思わなかった」
赤さんが立ち上がって肩を叩いてきた。
「持ってないなら、言ってくれたらいっしょに買いにいけたのに〜〜!」
も〜!と言いながら次はピンクさんが肩を掴んで大きく揺さぶってくるのに、それはちょっと、と思った。だって派手そう。
赤さんはかぶってた帽子を俺にかぶせると、「じゃあ俺らも着替えてくるから荷物頼むな」と着替えに行った。菊地君もそれについて行ったが、ピンクさんは行かなかった。
「行かないんですか?」
俺の反応に、ニヤァと笑うと服を脱ぎ始めた。えっ。これ、俺はピンクさんを隠さないといけないやつ?それとも通報される前に遠巻きに見た方がいいかな?ピンクさんから数歩離れた。通り過ぎるお姉さん達はキャッキャしながら、Tシャツを脱いで腹筋の割れた姿を見せるピンクさんをガン見している。
ズボンに手をかけたのを見て本気で人混みに紛れようか考えたけど、脱いですぐ、その姿を見て安堵した。
「ジャーン!おれの水着!どー?どー??」
既に水着を履いてたのか。
縦にはっきり筋の入った腹筋の下を両手で指差すピンクさん。膝くらいまでのボクサー型で、模様は沢山のアヒルちゃんだった。まつ毛があるから多分、ちゃん、で合ってる。
「可愛いです」
離れていた距離を詰め、座ってから拍手を送った。
「ありがと!サメと迷ってこっちにしたの〜。サメはウニくんにゆずるね」
腰に手を当て、片手を俺に向かってサムズアップするピンクさん。
ありがとうございます。目を合わせて頷いた。
やっぱり一緒に買いに行かないでいいかもしれない。
2人が帰ってくるまで手持ち無沙汰なので、ピンクさんが持ってきていた浮き輪やボールに空気を入れてしばらくすると帰ってきたのが見えた。
「なんかめっちゃ人多かったっすね」
「ついでにかき氷買ってきたぞ〜」
菊地君は暗めの緑のグラデーションの水着。
赤さんは赤地に植物の模様が入った派手なデザインの水着。
2人とも似合っていたし、腹筋も割れていてかっこよかった。
3人とも割れているのを見て、いつも鏡で映っている自分の体を改めて見返した。割れてない。
やっぱり割れてるとかっこいい。中学の頃は部活してたし少し割れてたけど、引退して高校に入ってから体育以外で運動しないからすっかり見えなくなってしまった。少し残念に思った。
「不満そうにどうした?で、かき氷、イチゴでいいか?つーかイチゴ以外だったらステゴロすることになるけど。」ステゴロ。
味がよく分からないカラフルな色を持って大喜びしてるピンクさん。青色の、多分ブルーハワイを持ってる菊地君。余ったらしい赤色を両手に持っていた赤さんが片方を差し出してきた。ステゴロはしたくないので大人しく受け取る。
「ありがとうございます、何円でしたか?」
「いいよ、あとで焼き鳥頼むから」
それなら、とそのまま受け取った。
かき氷を食べた後は、待っていた俺とピンクさんで、でかいソーセージと焼きそばと焼き鳥を買い、泳ぐ前に腹ごしらえを。
代金は、菊地君の提案で運転代として俺と菊地君で割り勘した。
「食べたしうみいこ!!」
いの一番に食べ終わったピンクさんが立ち上がり、割れた腹をポンっと叩くと急かしてくる。
結構食べて腹一杯な俺は、「今腹一杯で、荷物見てるので先に泳いできてください」と送り出すことにした。海水ベタつくのが嫌で元々あまり泳ぐつもりもなかったし。
ピンクさんは俺の言葉を聞くより先に、フラミンゴの頭がついた浮き輪を持って走り出してた。
赤さんは「そうか?」とかぶっている俺の帽子を軽く弾くと、ピンクさんの後を追った。
2人が走り出して暫くして、焼きそばを食べ終えた菊地君が俺に「貴重品は防水ケースで持ってるし、荷物なら気にせず貴重品持ってお前もあとで来いよ」と声をかけてくれた。
周りを見回した後、2人の姿を確認したらしい菊地君が立ち上がった。
「分かった。ありがとう」
頷いて手を振った俺に、眉を寄せて口籠る菊地君。なんだろう。
「……連絡先、伝えとく」
「え?うん」
確かに今まで連絡することなんてなかったし、今日だって学校での口約束だったから3人の連絡先は知らなかったのに今更気付いた。
「もし知らない奴とか変なやつに絡まれたら、近くの奴に声かけるか俺に連絡して」
そう言って携帯をポーチから出すと、ラインのQRコードを見せる菊地君。手に持っていた携帯で読み込むと、画面に1人友達が増えたらしかった。
「うん、わかった」
俺の返事を聞いて「絶対だからな」と謎に念押しされ、それから2人のところに走り出して行った。
別に、そんなに俺ぼんやりしてないんだけどな。意外と菊地君は世話焼きらしい。
3人がいなくなった後、ゴザに足を伸ばして寛ぐ。送り出してすぐは周りを見てたけど、胃袋が落ち着いてからの視線は3人に向けた。今から混ざりにいくのも億劫だな、と考えていると、彼らに4、5人のお洒落をした水着の女の人が声をかけているのが見えた。大学生くらいのお姉さんだ。
あ、逆ナンってやつ。本当にあるんだ。そう思ったけど、学校での女子の騒ぎっぷりを思い返して、そういえば3人ともイケメンなんだった。
大所帯となったグループは女の人に連れられてどこかに移動するようだった。
ピンクさんが1人の女の人に顔を寄せて楽しそうに話している。あの人おっぱいが大きい。ピンクさんっておっぱいでかい人が好きなのかな。赤さんは女の人の後について行っている。菊地君は両脇を女の人に挟まれ、渋い顔を赤くしていた。皆もし彼女がいたら修羅場になりそうな絵面だ。
これは俺やっぱり行かなくて良さそう。安心だ。何か買ってきて食べとこうかな、と携帯を触っていると、ラインの通知が来た。菊地君だ。
『西側の方に移動してビーチバレーする』
『お前もこれたら来いよ』
顔を上げると、菊地君がこっちを見て、行く方向に指差しているのが分かった。
既読がついたことに気付いたらしい。
ちょっと考えて、『わかった』と送った。行かないけど。だって知らない女の人こわいし。
既読はついたけど、返信はなかった。
遠くに移動した後、楽しそうにビーチバレーを始めた男女を眺めていると、急に俺の周囲が暗くなった。雲?と思っていると、頭の上の方から「君、ちょっといいかな?1人?」と知らない低い男性の声が聞こえた。
振り返ると、青色の日傘を持った黒のTシャツと、黒のハーフパンツを着た、中年の普通のおじさんが立っていた。やっぱり知らない人だった。
「友達と来てます」
ビーチバレーをしてる方角を指さしたけど、おじさんの反応は薄かった。人が多いし、誰のことか分からないのかもしれない。
「そっか、もし今手が空いてるなら、ちょっと人探し手伝ってくれないかな…おじさんの息子が迷子になっちゃって…。」
「わかりました。大丈夫です」
困ったように眉を下げて頼んでくるおじさんに、確かに暇だし、と協力することにした。
とりあえず菊地君に連絡しておこう。一応知らない人だし。念押しされたし。そう、ラインを開こうとしたら、おじさんに腕を引かれた。
驚いている俺に気付いてないのか、そのまま早足で俺を引っ張っていくおじさん。熱いし、ちょっと痛い。慌ててる?でも子供が迷子なら焦るのもしょうがないか。手から落とさないように携帯をパーカーのポケットに入れた。
「おじさん、息子さんって何歳くらいなんですか?」
「…君よりもう少し幼いくらいかな」
「じゃあ中学生ですか?」
「君は中学生だろう?小学生だよ」
…?
首を傾げる。何故か中学生に間違われてるみたいだ。
訂正しようとしたら、おじさんが「ここら辺ではぐれたんだ」と俺からようやく手を離して立ち止まった。
さっき俺がいた場所とは雰囲気が大きく違い、人気が少なくて落ち着いていた。ビーチバレーをしている所からは正反対の場所で、菊地君達の姿は人混みやパラソルで欠片も見えない。
こんな所まで来てたのか。気づかなかった。
でも、こんな人気の無いところではぐれたのか。
少し、違和感。
ポケットの携帯から振動が伝わる。携帯を取り出そうと手をポケットに入れて、そういえば、と周囲を忙しなく見渡すおじさんに聞く。
「あの」
「なっ、なんだい?」
「海の人に迷子の連絡ってしてますか?放送流れてなかったと思うんですけど」
「あぁ、うん…そうだね…。」
「今から俺言ってきましょうか?息子さんの名前は?」
「もう、大丈夫かな」
え?
日傘を肩まで下ろし、影が濃くなったようなおじさんの目付きがさっきまでと違って見えた。
どうしたのか聞き返そうとした時、おじさんが俺の服を掴んで勢いよく下に引っ張ってきた。突然の力によろけて腰を付いた。その拍子に帽子が取れた。おじさんの息が荒い。
気付くのが遅かったけど、"迷子の息子はいない"みたいだった。
このおじさんが、菊地君の言ってた「変な奴」だったらしい。
未だに振動してる携帯に手を触れる。
「……おじさん、警察呼びますよ」
「大丈夫だよ…こわくないからね…」
睨んだけど、気にも止めてないおじさんが距離を詰めてきて、すぐ目の前にしゃがむ。大きめの日傘が俺をほとんど隠している。おじさんの圧迫感と、影の濃さで息が詰まる。
ポケットに突っ込んだ手と反対の腕をおじさんが痛いくらい強く握ってきたのに眉を顰めた。そのままその手をおじさんのズボンの方に強引に引っ張られる。おじさんのしたいことが分かった。
おじさんの汗が数滴、胸元に落ちた。
きもちわるい。無理。
握っていた携帯を強く握り、勢いよく頭に振りかぶった。
想定外だったらしく、避けられることもなくおじさんの側頭部に鈍くヒット。
おじさんは日傘を落とし、悲鳴をあげて立ち上がった。
この携帯、買ってもらってまだ1年も経ってないのにひび割れたらどうしよう。そんなことを頭の端で考えた。
日傘から離れ、途端に眩しくなる視界に目をしかませる。おじさんから逃げないと。
唸るおじさんの前から立ちあがろうとした。
瞬きを1つ。
鈍い、重い音と同時に、唸るおじさんが目の前から消えた。
瞬きを1つ。
擦れる砂音が耳に入り、俺の前には、汗だくの菊地君がいた。
そのまま、「馬鹿!!!!!呼べっつっただろうが!!!」と怒った。
肩で大きく息をしながら菊地君の怒号が俺の鼓膜を揺らした。固まっていた俺は、呆然と口を滑らせた。
「呼べとは言ってなかった、けど」
「あ"〜〜!!こいつ…!ニュアンス!!!!!」
確かに。頷いた。
目を横に向けると、砂浜に倒れ込んだおじさんが見えた。呻き声をあげて立ちあがろうとしている。俺の視線の先を追っておじさんを目にした菊地君は、舌打ちをしておじさんの方に走った。引きずり倒した。そのまま波が当たるところまで蹴って転がし、踏みつけた。
…すごいな菊地君。
顔にまで砂が付き、膝は砂で擦り切れ、濡れてぐしゃぐしゃになったおじさんは見るも無惨だ。
「ウニくん!!!」
「おいウニ!!!大丈夫か!!?」
おじさんの反対側から声が。
弾かれたようにそっちを見ると、ピンクさんと赤さんがこっちに走ってくるのが分かった。一緒にいた女の人達は海の警備の人を連れて。人気がなく閑散とした場所だったが、パラソルで隠れて騒ぎが起きるまでこっちに気付いてないような周囲の人達も、ざわつきはじめていた。
ピンクさんが駆け寄ってきた。腰を曲げて帽子を拾って軽く砂を叩くと、深く帽子をかぶらせて俺の顔を隠すようにツバを下げた。
「ぼうし、かぶっとこうね」
「…はい」
赤さんは菊地君の元に行き、もがくおじさんを一緒に押さえつけていた。
海の警備の人が2人に話しかけにいくのを見ていたが、ピンクさんがおじさん捕獲隊と俺の間にしゃがんで視界を遮られてしまった。顔の向きはこっちで、こそこそ話をするような体制に。向こう側から会話だけが聞こえる。
「この人、ここ何年も不審者として目撃情報があって、実際被害者も何人かいて困っていたんです。ありがとうございます」
「そうなんですか、よかったです」
「トッシーお手柄だな〜」
「いたっ…そんなんじゃないっすよ別に」
常習犯だったのかおじさん。
…俺は、自分が被害者になるとは思わなかった。
手持ち無沙汰で砂を左右にかき混ぜた。
気付くとすぐ隣に砂山ができ始めていた。ピンクさんの犯行だった。真剣に砂山を2人つくっている。何故。ピンクの思考を真剣に考えようとした時だった。大声で怒鳴る声が聞こえたのは。
「お、お前!俺を殴ったことは警察に全部言ってやるからな!!暴行罪で刑務所行きだ!!カスどもが!!」
罵る声にピンクさんが反応してそちらを向いたが、俺には見えなかった。
そういえばすごい蹴ってたもんな、菊地君。
菊地君刑務所か…。助けてもらったし、俺も殴りに行った方がいいかな。両親には悪いけど。
立とうとしたらピンクさんに手を握られた。
「おれらはだいじょうだよ、慣れてるから」
??何がですか、と聞こうとした時、赤さんの笑った声が聞こえた。
「確かにな!」
「何笑ってんすか」
「しょうがね〜な〜お前は、そんなに殴ったのか」
「殴ってないっす。蹴った」
「そうか、
じゃあ俺は殴るわ」
あ。バキッと痛そうな音が鳴った。殴った。すぐに海の警備の人の慌てて止めに入る声が聞こえる。
「既に蹴ってんなら、何回やってもおんなじだろ?なあ、おっさん…。あと何回殴ればお前は子供に手を出せなくなんだ?腕折るか?」
ピンクさんがやれやれ〜!と拍手をはじめた。ピリついてる空気なのにノリが軽い。様子が気になってピンクさんからズレて見た。顔色が悪く、怯えたおじさんの胸ぐらを掴んだ赤さんは警備の人に肩を掴まれていて、無表情だった。ブチギレてそうなその顔を見て、そういえば兄妹が沢山いたんだよな、と思った。自分の家族を思うとそうなるのも無理はない気がする。
と、あっさりとすぐに手を離しておじさんが砂に倒れ込む。
赤さんは立ち上がり、警備の人から離れる。菊地君の肩を叩いて俺とピンクさんの方を見てニカっと笑った。
「…なんてな。お前らー!警察来る前に逃げんぞ!!」
「っす」
「おっけぇ〜!」
慣れたように普通に返す2人。
突然の展開に置いてけぼりにされてしまった。切り替えがはやい。
困惑する海の警備の人から逃げるようにこっちに走ってくる2人。ピンクさんが立ち上がって尻の砂を払った。俺も立とうとして足に力を入れた。けど、どうしてか力が入らなかった。
「あれ?」
呆然としていると、ピンクさんが俺の頭を2度ポンっと叩いた。
「おれがタクシーになったげる」
俺普通に重いし、おぶってくれるのは悪いな、と思ったが、小脇に抱えられてあっさり連行された。
腕そんなに太くなかったのに…ピンクさんすごい。腹筋綺麗に割れてるだけある。
連行される途中、一緒にビーチバレーをしていた女の人の1人、おっぱいの大きい人の側に寄ったピンクさん。「アキちゃーん!おれら勝ったし、アレ、ごめんけど駐車場のとこに持ってきて〜!」
そう言うと、女の人は驚いた顔をした後、笑顔で頷いていた。
あの人数差で勝ったんだ。小脇に抱えられながらすごいなと思った。
菊地君と赤さんが荷物を取りに戻ってくれてる間に先に駐車場に着き、降ろしてもらうと今度はちゃんと立てた。さっきのはなんだったんだろう。頭を捻った。
「ウニくん」
さっきまで俺を抱えて全力疾走してたとは思えない静かな声のピンクさん。バイクに腰掛けてこっちを見る目が優しい。
「だいじょうぶ?」
頷いた。大丈夫です。立ててます。
「イヤだったね」
…小脇に抱えられるのが?
「おっさん」
「あ…。……はい」
脳裏に浮かぶのは、覆い被さってきた、あの一瞬。
俺に落ちてきた汗。
荒い息遣い。
きもちわるい。
「…気持ち悪かったです」
「だよねぇ…こわかったね」
こわかった……。
こわい……。
……………………。
目線を下に向けて言葉の意味を何度か頭で考えていると、ピンクさんが慌てて俺の方に駆け寄ってきた。
「ごめんね!あのおっさんNGワード?ヤダ?」
頬を拭われる。ピンクさんの指には水滴がついていて、自分が泣いていたの気付いた。
「……こわかった」
「…うん」
あの時、あの後がどうなるのかわからなくて。はじめてのことで。知らない大人が。
ゆっくりと、思いっきり強く抱きしめられる。抱擁って安心することを知った。
「こわかったです」
「うん。そうだよね。ごめんね…おれら気付くのおそくなって」
肩に顔を付けると、熱と汗の匂いが。あと濡れてた。ピンクさんの汗だ。多分。
「ってちょっと何してんすか!!」
お、やっと来た、とピンクさん。俺も顔を向けると、荷物を持って階段を上がってきた菊地君と赤さんがいた。菊地君と目が合う。目を丸くして、すぐに眉を顰めてギュッと怒った顔になった。
「メグさん!」
「おれおんなのこよしよしするの得意だから」
菊地君にピースした。そうなんだ。チャラい。
離れたピンクさんを見上げるとドヤ顔だった。
「慰めれてねーだろ。よしよし怖かったな発禁男は」
菊地君より早く着いた赤さんが服をそれぞれに投げ渡す。
「バイク乗ると寒いからちゃんと着ろよ」
着替えてる暇無いからと、水着の上から服を着ていく。俺は何一つ濡れてないから問題無かったけど、3人はしおしおしながらズボンをはいていた。海入らなくて良かった。
「そーいえば浮き輪はぁ?」
「知らん奴にあげた」
荷物少ないと思ったら。
着替え終え、バイクに鍵を刺す。ヘルメットを片手にもうすぐ出発、となった時、あのおっぱいの大きいお姉さんがバスタオルを肩に階段を上がって駆け寄ってきた。ピンクさんに小さな袋を渡す。「これ、皆の分!」「え〜!?4つも?!1個でよかったのに〜ありがとぉ!」「かっこよかったからサービス!」照れるように笑う。それと、と俺に目を向けた。「君も、頑張って偉かったね」頭を撫でられた。揺れるバスタオルとおっぱい。いい匂いがした。
なんか。全部上書きされたような。
菊地君が「お前顔赤い」と睨んで言ってきたけど、菊地君だって女の人に挟まれてた時顔真っ赤だったのに。と釈然としなかった。
それから、と女の人が口を開く。「あのゴミクズは私たちに任せてね!」
口が思ったより悪かったことに衝撃をうけた。
「ありがと!」
「悪いけど頼む、サンキュ!」
「あざます」
「あ、お願いします」
バイクから離れた女の人に4人で手を振って、それで、海から離れた。海岸を走る時、俺たちが居た場所は見えず、波が反射して目が痛かった。
「ここまで送ってくれてありがとうございます」
帰ってくると、日が沈みはじめ、すっかり夕暮れになっていた。
バイクから降り、ピンクさんにヘルメットを返す。
集合場所の駅前におろしてくれるかと思ってたのに、そんなに距離変わらないし、と家まで送ってくれた。
バイクに乗ったままの3人に頭を下げて見送ろうとしたら、ピンクさんがポケットを探りだした。手にしたのは、海から離れる前におっぱいが大きくていい匂いがした女の人にから受け取っていた袋。袋を開け、中身を取り出す。紐…ミサンガだった。
「ミサンガ。お前、ビーチバレーの時これのこと言ってたのか」
「ふふーん、勝ったらちょうだいって言ってたのさ!」
「そういえば浜辺の売店で売ってたな」
「あ。あの人ら海の売店でバイトにきてたって…メグさん抜け目ねぇな」
胸を張ってしたり顔をするピンクさん。
俺に手招きして、4本のうちの1本を差し出してくる。
「俺、別にビーチバレーしてないですよ」
「いーからいーから」そう言って1本、俺に握らせた。
「ウニくんにはヤな思い出になったかもしんないけど、おれはウニくんと海行けてよかったよ」
「ありがとう…ございます」
手の内にあるミサンガを見つめる。
おっぱいの大きい女の人、口悪かったけど優しかったな…。
「俺も良かった、けど、次行く時はお前も泳げよ」
「次はお前にも濡れた水着の上からズボンを履く気持ち悪さを味わってもらうからな」
着替えさせてくれないんだ…。
バイクにエンジンをかけ、手を挙げる赤さんとピンクさんに頭を下げる。バイクを発進させるの見ていると、菊地君が思い出したかのように振り返った。「じゃ、また屋上でな」
「うん」
頷いて、頬を緩ませた。
教室じゃないんだ。
肌を突き刺すようにジリジリと焼いてくる日差し。
まとわりつく熱風。
ベタつく肌。
カラフルなパラソル。
賑やかな声。
屋台から香る、香ばしい肉の匂い。
来てしまった。
「うみだーーーーーッッッッ」
「人多いな」
「お、あの子可愛い」
海に。
アイスで買収された日から数週間後。
予定を合わせたその日、待ち合わせ場所に指定された駅前に行くと、2台のバイクが停まっていた。
1台には赤さんと、後ろに菊地君が。もう1台にはピンクさんが乗っていた。
いるんだ…。行くんだ…。
俺に気付いたピンクさんが笑顔で手を振ってくるのでゆっくり近づいた。
「乗って!おれの後ろ!」
すぐ後ろのスペースを叩いて、バイク乗ったことある?と聞かれ、首を横に振った。
「じゃあ俺のスーパースポーツより乗りやすいんじゃねぇか?クラシックバイクなら」
よく分からないけど、赤さんが乗ってる後輪が跳ね上がったデザインのバイクよりは、椅子みたいに平坦な見た目で確かに座りやすそうだと思った。
ピンクさんがヘルメットを投げ渡すのを見て、手を広げ慌てて受け取った。
「ウニくんのハジメテ、優しくしてあ、げ、る」
ウインクしてくるピンクさんに思わずお礼を言った。
それを聞いた菊地君がツッコミを入れてきて律儀だな、と思った。
頭にかぶるだけのヘルメットを付ける。
「スピード落とすんすか?」と菊地君が戯けて言ったのに対し、「飛ばす!」と力強くピンクさん。
優しいの?それ。そう考えながらピンクさんの後ろにお邪魔した。掴む場所は腰だと、ピンクさんの手が支持してきたのに従う。
「じゃ、行くか!」
赤さんの合図で動き出したバイク。
初めてのダンデムというものは、走り出してすぐはこわかったけど、風が気持ちよくて心地よかった。
海が見え始めた時に片手を離してはしゃぐピンクにヒヤヒヤしたけど。
先に俺と菊地君を降ろしてくれて先輩2人が駐輪場に向かうのを見送ると、菊地君が2人から預かった荷物を背負い直した。
「荷物置きに行こうぜ」
頷いて菊地君の後をついていく。
「水着ちゃんと持ってきたか?」
「うん」
「荷物置いたら、2人帰ってくる前に先にお前着替えてこいよ」
いいの?確認のために菊地君の横に並んで顔を伺ったら、いつもより目元が緩んでいて穏やかな表情に見えた。
「わかった」
荷物を置いて一息ついたのを見て、一声掛けて着替えに行った。
人が多く、少し並んで着替え終わって菊地君のいる場所に戻ると2人も着いていた。携帯で連絡をとっていたらしい。
「戻りました。菊地君と、先輩達もありがとうございます」
「おー…あ?えっ?」
「ん?ブハッ」
「おかえり〜……あ」
声を掛けた俺を見た3人の様子がおかしい。
目を丸くしたまま、上から下まで頭を動かして俺の姿を未だにジッと見る菊地君。赤さんは立っていた体勢から勢いよく膝から崩れ落ちて震えていた。痛そうだ。ピンクさんは口元を押さえ、俺を見ながら目元をにやにやさせている。
どうしてそんな反応なのか全然分からない。
流石に居心地悪くて顔を下に向けて自身の足元を見ておくことにした。無心で足元の砂をサンダルで混ぜていると菊地君が声をかけてきた。あ。サンダルと足の間に砂が。気持ち悪い。足をもぞもぞさせながら顔をあげた俺に手招きしてくるピンクさん。
「お前さ……その水着」
「なんですか」
「…パーカーはいいけど、それ、学校のやつだろ」
頷いた。
今の俺の格好は、白の薄手のパーカーに、苗字が表に付いてる高校の水着と100均で買ったビーチサンダル。
「変ですか」
頭を抑えた菊地君が、反応は悪かったけど敬語やめろよ、とため息を吐いた。
「変じゃない、変じゃないけど…ブフッ…いや、まさか水着持ってねーとは思わなかった」
赤さんが立ち上がって肩を叩いてきた。
「持ってないなら、言ってくれたらいっしょに買いにいけたのに〜〜!」
も〜!と言いながら次はピンクさんが肩を掴んで大きく揺さぶってくるのに、それはちょっと、と思った。だって派手そう。
赤さんはかぶってた帽子を俺にかぶせると、「じゃあ俺らも着替えてくるから荷物頼むな」と着替えに行った。菊地君もそれについて行ったが、ピンクさんは行かなかった。
「行かないんですか?」
俺の反応に、ニヤァと笑うと服を脱ぎ始めた。えっ。これ、俺はピンクさんを隠さないといけないやつ?それとも通報される前に遠巻きに見た方がいいかな?ピンクさんから数歩離れた。通り過ぎるお姉さん達はキャッキャしながら、Tシャツを脱いで腹筋の割れた姿を見せるピンクさんをガン見している。
ズボンに手をかけたのを見て本気で人混みに紛れようか考えたけど、脱いですぐ、その姿を見て安堵した。
「ジャーン!おれの水着!どー?どー??」
既に水着を履いてたのか。
縦にはっきり筋の入った腹筋の下を両手で指差すピンクさん。膝くらいまでのボクサー型で、模様は沢山のアヒルちゃんだった。まつ毛があるから多分、ちゃん、で合ってる。
「可愛いです」
離れていた距離を詰め、座ってから拍手を送った。
「ありがと!サメと迷ってこっちにしたの〜。サメはウニくんにゆずるね」
腰に手を当て、片手を俺に向かってサムズアップするピンクさん。
ありがとうございます。目を合わせて頷いた。
やっぱり一緒に買いに行かないでいいかもしれない。
2人が帰ってくるまで手持ち無沙汰なので、ピンクさんが持ってきていた浮き輪やボールに空気を入れてしばらくすると帰ってきたのが見えた。
「なんかめっちゃ人多かったっすね」
「ついでにかき氷買ってきたぞ〜」
菊地君は暗めの緑のグラデーションの水着。
赤さんは赤地に植物の模様が入った派手なデザインの水着。
2人とも似合っていたし、腹筋も割れていてかっこよかった。
3人とも割れているのを見て、いつも鏡で映っている自分の体を改めて見返した。割れてない。
やっぱり割れてるとかっこいい。中学の頃は部活してたし少し割れてたけど、引退して高校に入ってから体育以外で運動しないからすっかり見えなくなってしまった。少し残念に思った。
「不満そうにどうした?で、かき氷、イチゴでいいか?つーかイチゴ以外だったらステゴロすることになるけど。」ステゴロ。
味がよく分からないカラフルな色を持って大喜びしてるピンクさん。青色の、多分ブルーハワイを持ってる菊地君。余ったらしい赤色を両手に持っていた赤さんが片方を差し出してきた。ステゴロはしたくないので大人しく受け取る。
「ありがとうございます、何円でしたか?」
「いいよ、あとで焼き鳥頼むから」
それなら、とそのまま受け取った。
かき氷を食べた後は、待っていた俺とピンクさんで、でかいソーセージと焼きそばと焼き鳥を買い、泳ぐ前に腹ごしらえを。
代金は、菊地君の提案で運転代として俺と菊地君で割り勘した。
「食べたしうみいこ!!」
いの一番に食べ終わったピンクさんが立ち上がり、割れた腹をポンっと叩くと急かしてくる。
結構食べて腹一杯な俺は、「今腹一杯で、荷物見てるので先に泳いできてください」と送り出すことにした。海水ベタつくのが嫌で元々あまり泳ぐつもりもなかったし。
ピンクさんは俺の言葉を聞くより先に、フラミンゴの頭がついた浮き輪を持って走り出してた。
赤さんは「そうか?」とかぶっている俺の帽子を軽く弾くと、ピンクさんの後を追った。
2人が走り出して暫くして、焼きそばを食べ終えた菊地君が俺に「貴重品は防水ケースで持ってるし、荷物なら気にせず貴重品持ってお前もあとで来いよ」と声をかけてくれた。
周りを見回した後、2人の姿を確認したらしい菊地君が立ち上がった。
「分かった。ありがとう」
頷いて手を振った俺に、眉を寄せて口籠る菊地君。なんだろう。
「……連絡先、伝えとく」
「え?うん」
確かに今まで連絡することなんてなかったし、今日だって学校での口約束だったから3人の連絡先は知らなかったのに今更気付いた。
「もし知らない奴とか変なやつに絡まれたら、近くの奴に声かけるか俺に連絡して」
そう言って携帯をポーチから出すと、ラインのQRコードを見せる菊地君。手に持っていた携帯で読み込むと、画面に1人友達が増えたらしかった。
「うん、わかった」
俺の返事を聞いて「絶対だからな」と謎に念押しされ、それから2人のところに走り出して行った。
別に、そんなに俺ぼんやりしてないんだけどな。意外と菊地君は世話焼きらしい。
3人がいなくなった後、ゴザに足を伸ばして寛ぐ。送り出してすぐは周りを見てたけど、胃袋が落ち着いてからの視線は3人に向けた。今から混ざりにいくのも億劫だな、と考えていると、彼らに4、5人のお洒落をした水着の女の人が声をかけているのが見えた。大学生くらいのお姉さんだ。
あ、逆ナンってやつ。本当にあるんだ。そう思ったけど、学校での女子の騒ぎっぷりを思い返して、そういえば3人ともイケメンなんだった。
大所帯となったグループは女の人に連れられてどこかに移動するようだった。
ピンクさんが1人の女の人に顔を寄せて楽しそうに話している。あの人おっぱいが大きい。ピンクさんっておっぱいでかい人が好きなのかな。赤さんは女の人の後について行っている。菊地君は両脇を女の人に挟まれ、渋い顔を赤くしていた。皆もし彼女がいたら修羅場になりそうな絵面だ。
これは俺やっぱり行かなくて良さそう。安心だ。何か買ってきて食べとこうかな、と携帯を触っていると、ラインの通知が来た。菊地君だ。
『西側の方に移動してビーチバレーする』
『お前もこれたら来いよ』
顔を上げると、菊地君がこっちを見て、行く方向に指差しているのが分かった。
既読がついたことに気付いたらしい。
ちょっと考えて、『わかった』と送った。行かないけど。だって知らない女の人こわいし。
既読はついたけど、返信はなかった。
遠くに移動した後、楽しそうにビーチバレーを始めた男女を眺めていると、急に俺の周囲が暗くなった。雲?と思っていると、頭の上の方から「君、ちょっといいかな?1人?」と知らない低い男性の声が聞こえた。
振り返ると、青色の日傘を持った黒のTシャツと、黒のハーフパンツを着た、中年の普通のおじさんが立っていた。やっぱり知らない人だった。
「友達と来てます」
ビーチバレーをしてる方角を指さしたけど、おじさんの反応は薄かった。人が多いし、誰のことか分からないのかもしれない。
「そっか、もし今手が空いてるなら、ちょっと人探し手伝ってくれないかな…おじさんの息子が迷子になっちゃって…。」
「わかりました。大丈夫です」
困ったように眉を下げて頼んでくるおじさんに、確かに暇だし、と協力することにした。
とりあえず菊地君に連絡しておこう。一応知らない人だし。念押しされたし。そう、ラインを開こうとしたら、おじさんに腕を引かれた。
驚いている俺に気付いてないのか、そのまま早足で俺を引っ張っていくおじさん。熱いし、ちょっと痛い。慌ててる?でも子供が迷子なら焦るのもしょうがないか。手から落とさないように携帯をパーカーのポケットに入れた。
「おじさん、息子さんって何歳くらいなんですか?」
「…君よりもう少し幼いくらいかな」
「じゃあ中学生ですか?」
「君は中学生だろう?小学生だよ」
…?
首を傾げる。何故か中学生に間違われてるみたいだ。
訂正しようとしたら、おじさんが「ここら辺ではぐれたんだ」と俺からようやく手を離して立ち止まった。
さっき俺がいた場所とは雰囲気が大きく違い、人気が少なくて落ち着いていた。ビーチバレーをしている所からは正反対の場所で、菊地君達の姿は人混みやパラソルで欠片も見えない。
こんな所まで来てたのか。気づかなかった。
でも、こんな人気の無いところではぐれたのか。
少し、違和感。
ポケットの携帯から振動が伝わる。携帯を取り出そうと手をポケットに入れて、そういえば、と周囲を忙しなく見渡すおじさんに聞く。
「あの」
「なっ、なんだい?」
「海の人に迷子の連絡ってしてますか?放送流れてなかったと思うんですけど」
「あぁ、うん…そうだね…。」
「今から俺言ってきましょうか?息子さんの名前は?」
「もう、大丈夫かな」
え?
日傘を肩まで下ろし、影が濃くなったようなおじさんの目付きがさっきまでと違って見えた。
どうしたのか聞き返そうとした時、おじさんが俺の服を掴んで勢いよく下に引っ張ってきた。突然の力によろけて腰を付いた。その拍子に帽子が取れた。おじさんの息が荒い。
気付くのが遅かったけど、"迷子の息子はいない"みたいだった。
このおじさんが、菊地君の言ってた「変な奴」だったらしい。
未だに振動してる携帯に手を触れる。
「……おじさん、警察呼びますよ」
「大丈夫だよ…こわくないからね…」
睨んだけど、気にも止めてないおじさんが距離を詰めてきて、すぐ目の前にしゃがむ。大きめの日傘が俺をほとんど隠している。おじさんの圧迫感と、影の濃さで息が詰まる。
ポケットに突っ込んだ手と反対の腕をおじさんが痛いくらい強く握ってきたのに眉を顰めた。そのままその手をおじさんのズボンの方に強引に引っ張られる。おじさんのしたいことが分かった。
おじさんの汗が数滴、胸元に落ちた。
きもちわるい。無理。
握っていた携帯を強く握り、勢いよく頭に振りかぶった。
想定外だったらしく、避けられることもなくおじさんの側頭部に鈍くヒット。
おじさんは日傘を落とし、悲鳴をあげて立ち上がった。
この携帯、買ってもらってまだ1年も経ってないのにひび割れたらどうしよう。そんなことを頭の端で考えた。
日傘から離れ、途端に眩しくなる視界に目をしかませる。おじさんから逃げないと。
唸るおじさんの前から立ちあがろうとした。
瞬きを1つ。
鈍い、重い音と同時に、唸るおじさんが目の前から消えた。
瞬きを1つ。
擦れる砂音が耳に入り、俺の前には、汗だくの菊地君がいた。
そのまま、「馬鹿!!!!!呼べっつっただろうが!!!」と怒った。
肩で大きく息をしながら菊地君の怒号が俺の鼓膜を揺らした。固まっていた俺は、呆然と口を滑らせた。
「呼べとは言ってなかった、けど」
「あ"〜〜!!こいつ…!ニュアンス!!!!!」
確かに。頷いた。
目を横に向けると、砂浜に倒れ込んだおじさんが見えた。呻き声をあげて立ちあがろうとしている。俺の視線の先を追っておじさんを目にした菊地君は、舌打ちをしておじさんの方に走った。引きずり倒した。そのまま波が当たるところまで蹴って転がし、踏みつけた。
…すごいな菊地君。
顔にまで砂が付き、膝は砂で擦り切れ、濡れてぐしゃぐしゃになったおじさんは見るも無惨だ。
「ウニくん!!!」
「おいウニ!!!大丈夫か!!?」
おじさんの反対側から声が。
弾かれたようにそっちを見ると、ピンクさんと赤さんがこっちに走ってくるのが分かった。一緒にいた女の人達は海の警備の人を連れて。人気がなく閑散とした場所だったが、パラソルで隠れて騒ぎが起きるまでこっちに気付いてないような周囲の人達も、ざわつきはじめていた。
ピンクさんが駆け寄ってきた。腰を曲げて帽子を拾って軽く砂を叩くと、深く帽子をかぶらせて俺の顔を隠すようにツバを下げた。
「ぼうし、かぶっとこうね」
「…はい」
赤さんは菊地君の元に行き、もがくおじさんを一緒に押さえつけていた。
海の警備の人が2人に話しかけにいくのを見ていたが、ピンクさんがおじさん捕獲隊と俺の間にしゃがんで視界を遮られてしまった。顔の向きはこっちで、こそこそ話をするような体制に。向こう側から会話だけが聞こえる。
「この人、ここ何年も不審者として目撃情報があって、実際被害者も何人かいて困っていたんです。ありがとうございます」
「そうなんですか、よかったです」
「トッシーお手柄だな〜」
「いたっ…そんなんじゃないっすよ別に」
常習犯だったのかおじさん。
…俺は、自分が被害者になるとは思わなかった。
手持ち無沙汰で砂を左右にかき混ぜた。
気付くとすぐ隣に砂山ができ始めていた。ピンクさんの犯行だった。真剣に砂山を2人つくっている。何故。ピンクの思考を真剣に考えようとした時だった。大声で怒鳴る声が聞こえたのは。
「お、お前!俺を殴ったことは警察に全部言ってやるからな!!暴行罪で刑務所行きだ!!カスどもが!!」
罵る声にピンクさんが反応してそちらを向いたが、俺には見えなかった。
そういえばすごい蹴ってたもんな、菊地君。
菊地君刑務所か…。助けてもらったし、俺も殴りに行った方がいいかな。両親には悪いけど。
立とうとしたらピンクさんに手を握られた。
「おれらはだいじょうだよ、慣れてるから」
??何がですか、と聞こうとした時、赤さんの笑った声が聞こえた。
「確かにな!」
「何笑ってんすか」
「しょうがね〜な〜お前は、そんなに殴ったのか」
「殴ってないっす。蹴った」
「そうか、
じゃあ俺は殴るわ」
あ。バキッと痛そうな音が鳴った。殴った。すぐに海の警備の人の慌てて止めに入る声が聞こえる。
「既に蹴ってんなら、何回やってもおんなじだろ?なあ、おっさん…。あと何回殴ればお前は子供に手を出せなくなんだ?腕折るか?」
ピンクさんがやれやれ〜!と拍手をはじめた。ピリついてる空気なのにノリが軽い。様子が気になってピンクさんからズレて見た。顔色が悪く、怯えたおじさんの胸ぐらを掴んだ赤さんは警備の人に肩を掴まれていて、無表情だった。ブチギレてそうなその顔を見て、そういえば兄妹が沢山いたんだよな、と思った。自分の家族を思うとそうなるのも無理はない気がする。
と、あっさりとすぐに手を離しておじさんが砂に倒れ込む。
赤さんは立ち上がり、警備の人から離れる。菊地君の肩を叩いて俺とピンクさんの方を見てニカっと笑った。
「…なんてな。お前らー!警察来る前に逃げんぞ!!」
「っす」
「おっけぇ〜!」
慣れたように普通に返す2人。
突然の展開に置いてけぼりにされてしまった。切り替えがはやい。
困惑する海の警備の人から逃げるようにこっちに走ってくる2人。ピンクさんが立ち上がって尻の砂を払った。俺も立とうとして足に力を入れた。けど、どうしてか力が入らなかった。
「あれ?」
呆然としていると、ピンクさんが俺の頭を2度ポンっと叩いた。
「おれがタクシーになったげる」
俺普通に重いし、おぶってくれるのは悪いな、と思ったが、小脇に抱えられてあっさり連行された。
腕そんなに太くなかったのに…ピンクさんすごい。腹筋綺麗に割れてるだけある。
連行される途中、一緒にビーチバレーをしていた女の人の1人、おっぱいの大きい人の側に寄ったピンクさん。「アキちゃーん!おれら勝ったし、アレ、ごめんけど駐車場のとこに持ってきて〜!」
そう言うと、女の人は驚いた顔をした後、笑顔で頷いていた。
あの人数差で勝ったんだ。小脇に抱えられながらすごいなと思った。
菊地君と赤さんが荷物を取りに戻ってくれてる間に先に駐車場に着き、降ろしてもらうと今度はちゃんと立てた。さっきのはなんだったんだろう。頭を捻った。
「ウニくん」
さっきまで俺を抱えて全力疾走してたとは思えない静かな声のピンクさん。バイクに腰掛けてこっちを見る目が優しい。
「だいじょうぶ?」
頷いた。大丈夫です。立ててます。
「イヤだったね」
…小脇に抱えられるのが?
「おっさん」
「あ…。……はい」
脳裏に浮かぶのは、覆い被さってきた、あの一瞬。
俺に落ちてきた汗。
荒い息遣い。
きもちわるい。
「…気持ち悪かったです」
「だよねぇ…こわかったね」
こわかった……。
こわい……。
……………………。
目線を下に向けて言葉の意味を何度か頭で考えていると、ピンクさんが慌てて俺の方に駆け寄ってきた。
「ごめんね!あのおっさんNGワード?ヤダ?」
頬を拭われる。ピンクさんの指には水滴がついていて、自分が泣いていたの気付いた。
「……こわかった」
「…うん」
あの時、あの後がどうなるのかわからなくて。はじめてのことで。知らない大人が。
ゆっくりと、思いっきり強く抱きしめられる。抱擁って安心することを知った。
「こわかったです」
「うん。そうだよね。ごめんね…おれら気付くのおそくなって」
肩に顔を付けると、熱と汗の匂いが。あと濡れてた。ピンクさんの汗だ。多分。
「ってちょっと何してんすか!!」
お、やっと来た、とピンクさん。俺も顔を向けると、荷物を持って階段を上がってきた菊地君と赤さんがいた。菊地君と目が合う。目を丸くして、すぐに眉を顰めてギュッと怒った顔になった。
「メグさん!」
「おれおんなのこよしよしするの得意だから」
菊地君にピースした。そうなんだ。チャラい。
離れたピンクさんを見上げるとドヤ顔だった。
「慰めれてねーだろ。よしよし怖かったな発禁男は」
菊地君より早く着いた赤さんが服をそれぞれに投げ渡す。
「バイク乗ると寒いからちゃんと着ろよ」
着替えてる暇無いからと、水着の上から服を着ていく。俺は何一つ濡れてないから問題無かったけど、3人はしおしおしながらズボンをはいていた。海入らなくて良かった。
「そーいえば浮き輪はぁ?」
「知らん奴にあげた」
荷物少ないと思ったら。
着替え終え、バイクに鍵を刺す。ヘルメットを片手にもうすぐ出発、となった時、あのおっぱいの大きいお姉さんがバスタオルを肩に階段を上がって駆け寄ってきた。ピンクさんに小さな袋を渡す。「これ、皆の分!」「え〜!?4つも?!1個でよかったのに〜ありがとぉ!」「かっこよかったからサービス!」照れるように笑う。それと、と俺に目を向けた。「君も、頑張って偉かったね」頭を撫でられた。揺れるバスタオルとおっぱい。いい匂いがした。
なんか。全部上書きされたような。
菊地君が「お前顔赤い」と睨んで言ってきたけど、菊地君だって女の人に挟まれてた時顔真っ赤だったのに。と釈然としなかった。
それから、と女の人が口を開く。「あのゴミクズは私たちに任せてね!」
口が思ったより悪かったことに衝撃をうけた。
「ありがと!」
「悪いけど頼む、サンキュ!」
「あざます」
「あ、お願いします」
バイクから離れた女の人に4人で手を振って、それで、海から離れた。海岸を走る時、俺たちが居た場所は見えず、波が反射して目が痛かった。
「ここまで送ってくれてありがとうございます」
帰ってくると、日が沈みはじめ、すっかり夕暮れになっていた。
バイクから降り、ピンクさんにヘルメットを返す。
集合場所の駅前におろしてくれるかと思ってたのに、そんなに距離変わらないし、と家まで送ってくれた。
バイクに乗ったままの3人に頭を下げて見送ろうとしたら、ピンクさんがポケットを探りだした。手にしたのは、海から離れる前におっぱいが大きくていい匂いがした女の人にから受け取っていた袋。袋を開け、中身を取り出す。紐…ミサンガだった。
「ミサンガ。お前、ビーチバレーの時これのこと言ってたのか」
「ふふーん、勝ったらちょうだいって言ってたのさ!」
「そういえば浜辺の売店で売ってたな」
「あ。あの人ら海の売店でバイトにきてたって…メグさん抜け目ねぇな」
胸を張ってしたり顔をするピンクさん。
俺に手招きして、4本のうちの1本を差し出してくる。
「俺、別にビーチバレーしてないですよ」
「いーからいーから」そう言って1本、俺に握らせた。
「ウニくんにはヤな思い出になったかもしんないけど、おれはウニくんと海行けてよかったよ」
「ありがとう…ございます」
手の内にあるミサンガを見つめる。
おっぱいの大きい女の人、口悪かったけど優しかったな…。
「俺も良かった、けど、次行く時はお前も泳げよ」
「次はお前にも濡れた水着の上からズボンを履く気持ち悪さを味わってもらうからな」
着替えさせてくれないんだ…。
バイクにエンジンをかけ、手を挙げる赤さんとピンクさんに頭を下げる。バイクを発進させるの見ていると、菊地君が思い出したかのように振り返った。「じゃ、また屋上でな」
「うん」
頷いて、頬を緩ませた。
教室じゃないんだ。