土器土器体育祭

美月千桜



驚いた表情の生徒達に気を向ける余裕も無く走る。

時折ぶつかりそうになる小柄な生徒の肩に手を置き、「悪い」とだけ言ってまた走った。

汗が流れ、息を切らす。
心臓がバクバクと音を鳴らしているのは、久しぶりの運動だけが理由ではない事は自覚していた。


連絡が入ったのはついさっきのことだった。
「柴と遠坂が3階から落ちた。」その内容を聞いて青褪めた。

すぐに2人が今どこに居るのか聞き、すぐに教員のテントから飛び出した。
電話口で連絡を入れてくれた風紀の生徒へ気を回すことも出来ず。

頭につぎはぎで流れる苦い記憶は過去のものだったが、今もなお魘される程に鮮明だ。

季節は違えど、あの日も今日のような雲一つない青天だった。



学生らしく短く黒い髪。

明日も会えそうな明るい笑顔は、どこまでも広がる青い空からの光を受けて陰っていた。

遠ざかる制服に手を伸ばしたが、かすりもせず傷だらけの手は風が攫った。


「先生、さようなら」


受け持ったクラスの生徒。

あいつの、最期の言葉。



保健室と書かれた扉に手を掛けて力任せに横に押した。

視界を遮っていた扉が消え、ガタン、と鳴った音に、中に居た何人かが驚いたように俺の方を見たのが視界に端に映った。

柴は、開けてすぐ正面に居た。
体操着に腕を通し、上半身を出して吊り目を丸めて俺を見て驚いていた。

「美月先生?」

誰かが俺の名前を呼んだが、そのまま柴の前まで近寄る。

顔にそっと手を伸ばし、頬に触れる。
湿っていたらしく少しひんやりと感じ、髪が濡れていたことに気付いた。
順に首元、肩、背中、胴回りと触れて、足に手を伸ばした所で背後から頭に強い衝撃を受け、手を衝撃を受けた頭に持っていった。

「ウ"ッ…。」
「ちょっとなぁにしてんの千桜ちゃん!セクハラだヨ!」

振り返ると、見覚えのある生徒が消毒液のボトルを片手に戸惑った表情で立っていた。

眼鏡を掛け、髪にパーマがかかった、滅多に授業に姿を見せない生徒。
いつもと違うのは、消毒液を持った手と反対に氷のうを後頭部に当てていたことだけだ。

「か…がや…。」
「何してんすか先生。暑さにやられたんですか?」

聞こえた声にぼんやりと前に向き直った。

加賀屋を見ているうちに体操着を着たらしく、もう一度柴を見た時には、ジャージを着ていないことを抜けば、朝見た姿と同じ姿でそこに立っていた。

「…3階から、落ちたって」
「えっ、まぁ…そうですね。落ちた先はプールでしたけど」

プール。
だから髪が濡れていたのか。

電話の内容を全然聞いていなかった自分に気付いて呆れた。

赤くした顔に怪訝そうな表情を浮かべていたが、俺が口を開いてからは心配を瞳に乗せて俺を覗き込んだ。
「……大丈夫ですか?」
「………あぁ」

深呼吸をして目を閉じた。
落ち着いたところで、周囲の静けさに違和感を感じた。

……ん?
ハッとして目を開き辺りを見回す。

生暖かい視線が複数。

「美月先生。あなたが柴さんから心配されてどうするんですか」
腕を組んで呆れたようにかぶりを振る塩島。

「先生〜僕も落ちました」
丸椅子に座って俺に向かって手を挙げる遠坂は元気そうだった。

「やっぱり、うーたんの担任のままにするには危なくない?」
「お前が言えた立場かよ」
どういう繋がりがあるのか、柴の横に付いて俺の方を見てコソコソと話す加賀屋。

俺はよっぽど動揺していたのか、ベッドに寝ている2人のことも目に入っていなかった。
神庭と南部だ。

「2人はどうしたんだ?」
塩島の方を見ると、腕を組んだまま俺をじっと見据え、口を動かした。

「美月"先生"。…聞きますか?」

強調された"先生"に、塩島が言いたいことが分かった。
逸らすように目を伏せる。

「……いや、いい。"これ"はお前らの領分だったか」

顔を上げ、首を傾げる柴と遠坂をもう一度見てから扉に向かう。
2人の安否が確かめられたことで俺の目的は果たしていた。

ああ、そうだ。
伝え忘れていたことを思い出し、廊下に一歩足を出したまま振り返った。

「柴、遠坂、今日の晩は腹空かせとけよー」

一方は瞬きを繰り返し、一方は僅かに見える表情である口元を嬉しそうに弧を描かせていた。

それを見て満足した俺はもう一歩足を踏み出し、扉を後ろ手で閉めて今度こそ振り返ることなく廊下を歩いていった。
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