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いつもより幾分か明るい月夜だった。
花見をしよう、そう誘ったのは僕の方からだった。
川を沿って佇む桜の並木はどれも見事に咲き誇り、今まさに見頃といったところだろう。
辺りは黄昏から宵へと移り変わったが昇り始めた月明が花を優しく照らし、流れる水面は光を反射させキラキラと輝く。昼間暖められた空気は既に冷やされ少し肌寒いが、川のせせらぎと花を揺らす風が心地良い。
「まさか半兵衛から花見に誘われるなんてなぁ」
少し前を歩く彼がそう言った。その声色はとても明るく楽しげで鼻歌まで聞こえてきそうだ。機嫌がいいのがよく分かる。
思えば僕から誘うのはいつぶりだろうか。いや、こうして逢うのはいつぶりか。恋仲となってから重ねた逢瀬もほとんどが彼から。今や彼も国を背負う身となり、今までのような自由も儘ならなくなった。単に花に浮かれているだけではないと自惚れてもよさそうだ。
「これだけ見事な桜を一人で見るのは勿体ないだろう?」
明確な理由なんてない。ただ何となく。今まで過ぎ去るだけだった季節を少し立ち止まって見ただけなのだ。せっかくならそれを誰かと分かち合いたい。その誰かが、彼であって欲しかった。
嬉しいよ、そう言って笑う。後姿から表情が見えないのは残念だ。月光の弱い逆光は輪郭だけを浮かばせ花弁を透かした。
一度会話は途切れ、しばらくお互い黙って花を眺めていた。
月明かりは美しい花を儚くもどこか妖しく見せる。それは最早美しいという言葉すら 陳腐になってしまう程に。花弁を拐かす夜風すら惑わせているように錯覚させた。
(どうして)
――華奢とは程遠いはずのこの大男が、時折酷く脆く見えるのは何故だろうか。
「慶次君」
思わず名前を呼んでしまう。振り返る際に結われた髪が大きく揺れた。その肩越しに見える桜も風にそよぐ。
万朶の桜が風に拐かされ散りゆくように、このまま攫われてしまいそうだ、そう思った。言葉と同様に意図せず伸びた手は、彼の腕をぐいと引いた。強引だったからか少しバランスを崩し身体が前のめりになるところをそのまま抱き寄せた。突然のことに状況が飲み込めないまま、彼は固まっている。
「……はんべ?」
「君は桜に攫われてしまいそうだから」
抱き寄せている腕を緩めた。ようやく間近に見れた表情は目を丸くしてまだ固まったまま。あれだけ他人に恋せよなどと謳うくせに、自分の色沙汰には疎い。戯けたままの顔は実に彼らしく愛おしい。
「だからこうして、僕が先に攫ってしまおうと思ってね」
どうかしてる。ようやく言葉を理解した彼の唇がそう告げたが、音になる前に言葉ごと塞いでやった。
浮かれてるのは僕も同じなのだ。
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