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何処かでヒグラシが鳴く。一日の終わりを告げるその声はどこか悲しげで、まるで落ちていく陽を惜しむかのように遠く響いていた。差し込んでくる光は眩しい夕陽に彩られ、格子越しに見上げた空も既に朱く染まっている。
空を往く鳥たちが騒がしく帰路を急いでいる姿をぼんやりと眺めた。
……もうそんな時間か。自分以外の人気のない図書室はまるで時が止まったように静かだった。いつの間にか読み終えた本が高く積み上がっている。それだけ没頭していたのだろう。
蔵本を点検するのは図書委員の務めだ。新しく入った本は乱丁や落丁を、既存の本は汚れやほつれを、見つけ出し修繕するにはきちんと中身まで確認する必要がある。大変な作業だと言われるが、元々読書が好きだから苦でない。例え点検だとしても、学園で一番本を読むことが出来るというのは役得だと思う。これも生き地引などと呼ばれるようになった理由ではないだろうか。
何とも言えない優越感と読み終えた充実感はいつ味わってもいいものだ。 ……もっとも、今積み上がっている本の大半は点検ではなく、個人的に読みたいと思ったものが占めているから、図書委員がどうというのは関係無いのだが。
チリン、風鈴を鳴らしていく風は裏山からは宵の気配、食堂からは夕食の匂いを運ぶ。そんな間にも陽は落ちていく、宵を導く黄昏時、空にはまだ朱が残されている。
――もうしばらくこの余韻に浸っていたいところだが、もう少しで夕食の時間になる。あまり遅くなると夕食を食べ損ねてしまうだろう。何せ学園は育ち盛りばかりだ。早い者勝ち、上級生であろうが下級生であろうが関係無い。のんびりしていれば後輩たちに先を越され、あっという間に無くなってしまうかもしれない。こちらは学園の食堂で食事が出来る回数はもう限られているのだ。残された中の一回を食べ損ねるわけにはいかない。
……その前に、まずは積み上げた本を戻すこと。棚へ戻しながらその高さと冊数を改めて見ると、すぐ片付ければよかったか。後悔先立たず、少し苦笑した。
「長次いるかい?」
「伊作」
丁度本を戻し終える頃、戸の向こうから私を呼ぶ声がした。返事代わりにその声の主の名を呼ぶと、静かに戸が開いた。
声の主、伊作は図書室の中に入ると後ろ手で戸を閉めた。見れば深緑の忍装束ではなく、薄紅梅の小袖――私服だ。外出していたのだろう。その髪や着物から山野の匂いが微かにしたから、恐らく裏山あたりに薬草を採りに行っていた、というところか。
「ねぇ長次 、これ見て」
そう言って差し出したのは、釣鐘のような形の花。正面から見ると星を形取ったように開いた花弁が特徴的だ。薄紫と純白の花をそれぞれ何輪か束ねている。
「桔梗か」
「そう。前に裏山で群生してるところを見つけてさ。もう散ってるかなって思ったんだけど」
確かに花の時期が長い桔梗もそろそろ終わる頃のはずだが、伊作が手にしたその花たちの中には、まだ開かない丸い風船のような蕾もいくつか見られる。咲いているものも季節終わりの花とは思えない程、凛として美しい。
「多分、これが最後の花だろうね」
最後の。その言葉に伊作は長い睫毛を伏せ、そっと花弁に触れる。そんなことはないが、その小さな釣鐘を鳴らすように見えた。その姿を夕陽が朱く照らす。
「だから君にも見せてあげたくて。綺麗でしょ?」
そう言って眉を下げて笑う。
言葉の意味を見いだすより先に――ドクン、胸が脈打ち、息を飲んだ。
「……あぁ、綺麗、だな」
一瞬言葉が詰まる程、夕陽に照らされた姿が眩しい程綺麗だった。どちらが?いや、どちらも。気付かれてしまうのではないかという程、胸の奥が動揺して鼓動が早くなった。
でしょう?と伊作はまるで自分が褒められたかのように、誇らしげに笑う。こちらの様子には気が付いていないようだ。
「僕が使うのは根っこだけなんだ、良かったら貰ってくれるかい?」
「……勿論だ」
桔梗の根は薬になる、そう言えばそんな話を聞いた気がする。伊作らしい言い訳だ。人に花を渡す理由を上手く作ったものだ。差し出されたそれを受け取る。……断る訳がないだろう、呟いたそれは、音にはならず飲み込んだ。
ゴーンゴーン、と夕刻を知らせる鐘の音が響いた。それが鳴り終えるのと同じくらいに、ぐぅ、と腹の虫が鳴く。
「……あはは、お腹すいたね」
虫が鳴き終えれば、伊作は気まずそうに控えめに言う。やっぱり格好つかないや、なんて残念そうな下がり眉。顔を見合わせて笑った。
何処か遠くで、ヒグラシが鳴いている。
今日の夕食は何だろうか。
(終)
2017/09/01
空を往く鳥たちが騒がしく帰路を急いでいる姿をぼんやりと眺めた。
……もうそんな時間か。自分以外の人気のない図書室はまるで時が止まったように静かだった。いつの間にか読み終えた本が高く積み上がっている。それだけ没頭していたのだろう。
蔵本を点検するのは図書委員の務めだ。新しく入った本は乱丁や落丁を、既存の本は汚れやほつれを、見つけ出し修繕するにはきちんと中身まで確認する必要がある。大変な作業だと言われるが、元々読書が好きだから苦でない。例え点検だとしても、学園で一番本を読むことが出来るというのは役得だと思う。これも生き地引などと呼ばれるようになった理由ではないだろうか。
何とも言えない優越感と読み終えた充実感はいつ味わってもいいものだ。 ……もっとも、今積み上がっている本の大半は点検ではなく、個人的に読みたいと思ったものが占めているから、図書委員がどうというのは関係無いのだが。
チリン、風鈴を鳴らしていく風は裏山からは宵の気配、食堂からは夕食の匂いを運ぶ。そんな間にも陽は落ちていく、宵を導く黄昏時、空にはまだ朱が残されている。
――もうしばらくこの余韻に浸っていたいところだが、もう少しで夕食の時間になる。あまり遅くなると夕食を食べ損ねてしまうだろう。何せ学園は育ち盛りばかりだ。早い者勝ち、上級生であろうが下級生であろうが関係無い。のんびりしていれば後輩たちに先を越され、あっという間に無くなってしまうかもしれない。こちらは学園の食堂で食事が出来る回数はもう限られているのだ。残された中の一回を食べ損ねるわけにはいかない。
……その前に、まずは積み上げた本を戻すこと。棚へ戻しながらその高さと冊数を改めて見ると、すぐ片付ければよかったか。後悔先立たず、少し苦笑した。
「長次いるかい?」
「伊作」
丁度本を戻し終える頃、戸の向こうから私を呼ぶ声がした。返事代わりにその声の主の名を呼ぶと、静かに戸が開いた。
声の主、伊作は図書室の中に入ると後ろ手で戸を閉めた。見れば深緑の忍装束ではなく、薄紅梅の小袖――私服だ。外出していたのだろう。その髪や着物から山野の匂いが微かにしたから、恐らく裏山あたりに薬草を採りに行っていた、というところか。
「ねぇ長次 、これ見て」
そう言って差し出したのは、釣鐘のような形の花。正面から見ると星を形取ったように開いた花弁が特徴的だ。薄紫と純白の花をそれぞれ何輪か束ねている。
「桔梗か」
「そう。前に裏山で群生してるところを見つけてさ。もう散ってるかなって思ったんだけど」
確かに花の時期が長い桔梗もそろそろ終わる頃のはずだが、伊作が手にしたその花たちの中には、まだ開かない丸い風船のような蕾もいくつか見られる。咲いているものも季節終わりの花とは思えない程、凛として美しい。
「多分、これが最後の花だろうね」
最後の。その言葉に伊作は長い睫毛を伏せ、そっと花弁に触れる。そんなことはないが、その小さな釣鐘を鳴らすように見えた。その姿を夕陽が朱く照らす。
「だから君にも見せてあげたくて。綺麗でしょ?」
そう言って眉を下げて笑う。
言葉の意味を見いだすより先に――ドクン、胸が脈打ち、息を飲んだ。
「……あぁ、綺麗、だな」
一瞬言葉が詰まる程、夕陽に照らされた姿が眩しい程綺麗だった。どちらが?いや、どちらも。気付かれてしまうのではないかという程、胸の奥が動揺して鼓動が早くなった。
でしょう?と伊作はまるで自分が褒められたかのように、誇らしげに笑う。こちらの様子には気が付いていないようだ。
「僕が使うのは根っこだけなんだ、良かったら貰ってくれるかい?」
「……勿論だ」
桔梗の根は薬になる、そう言えばそんな話を聞いた気がする。伊作らしい言い訳だ。人に花を渡す理由を上手く作ったものだ。差し出されたそれを受け取る。……断る訳がないだろう、呟いたそれは、音にはならず飲み込んだ。
ゴーンゴーン、と夕刻を知らせる鐘の音が響いた。それが鳴り終えるのと同じくらいに、ぐぅ、と腹の虫が鳴く。
「……あはは、お腹すいたね」
虫が鳴き終えれば、伊作は気まずそうに控えめに言う。やっぱり格好つかないや、なんて残念そうな下がり眉。顔を見合わせて笑った。
何処か遠くで、ヒグラシが鳴いている。
今日の夕食は何だろうか。
(終)
2017/09/01
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