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『海の底ってのはなァ、お天道様の光が届かない真っ暗闇なんだよ。そんな場所じゃ、陸じゃあんなに目立つ赤も底の闇に溶けちまうのさ』

いつか、兄貴達から聞いた話だ。
深い海に生きる魚に赤い鱗を持つものが多いのはその為だという。そそぐ太陽の光は底まで届かない。沈むほど遠ざかる。


深くて暗い海の底は、赤すらも溶かすのだ。


(だとしたら、俺も、)

すぅ、と息を多く吸い、大きな飛沫も上げずに静かに潜った。海面には不自然な波が起きてすぐ消える。波を立てずに泳ぐことは、敵に知られることなく海中を探索するため。俺にとって、それは癖でもあり何てこともないことだった。

元々泳ぐのは得意だったが、潜るのはそれほどでもなく。だが、より深く潜れるようになればいつか海の底へ行ける、そう思えば、厳しい訓練も息苦しいのにも堪えられた。

……別に陸が嫌いと言うわけではない。
確かに陸の上では様々なことがあった。赤い髪ーー人とは違うなりで生まれただけで疎まれたこともあったし、謂われもないことで虐げられたこともある。
この赤い髪と産み落とした親を何度恨んだかも分からない。
この生はまだそれほど長くない尺だが、消し去りたいことの方が多かっただろう。
その果てに辿り着いたこの場所では、居場所と生きる意味を貰った。この赤を誰一人として疎まなかったのが、嬉しかった。いつの間にか消し去りたくないことの方が大きくなったのだろう。
だから、今となってはもうどうでも良かった。

ただ純粋に『海になりたい』と、そう思っていたのは事実。常に胸のどこかに居座り続けている。
だが、こちらがどんなに海を愛そうと、海になることなんて出来やしない。分かっている。
でも、もし本当に溶けてしまうことが出来るのなら。

(これ以上望むことはない)

気付けば息継ぎも忘れ、落ちていくように潜った。目の前に広がる美しい青。目が眩む光と漏れた息の泡が上っていくのをただただ見送った。ゆっくりと遠退いていく視界と意識。


そうやって、俺は溺れた。





「海になりたい、そう言ったら兄貴たちにどやされたよ」
「当ったり前ですよ!兄貴が言うと洒落にならないし」
重は呆れたように苦笑いをした。

気がついた先は、海の底ではなく水軍館の自室。
潜った後、なかなか海面へ上がってこない俺を不審に思った重が海中で沈んでいく俺を見つけて、急いで引き上げたらしい。見つかったのが早かったため大事には至らなかった。
兵庫水軍一の水練の者が溺れた、それはまぁ大騒ぎで大変でしたよ、と重は口を尖らせて言った。
目が覚めてすぐ、乱暴に音を立て襖が開かれると義丸の兄貴が怖い顔をして部屋に入ってきた。それから間髪いれずに頬を叩かれ怒鳴られた。罵声を浴びせられたというのは正しくないがそれに近い。いきり立つ兄貴を制止しながら理由を問う鬼蜘蛛丸の兄貴の声色も落ち着いてこそいるもの、相当苛立っている。それだけ心配させたのかと少し驚いた。(そんな顔をしていたら、疾風の兄貴に小突かれたのだが)
挙げ句、お頭に大泣きされてしまったから、さすがにこれはまずかったなと反省した。

あとから聞いた話だが、今回のことは皆何となく予期していたらしい。何でも、最近一人でぼんやり海を見ることが多かったと。自分では全く気付かなかったが、それが今回のようなことの前兆だという。昔から時々この『発作』を起こし、その度に大騒ぎだったというのも聞いた。ここしばらくは落ち着いていたから少し油断した、昔と違って、今は追い付くことすら儘ならないから、兄貴たちが怒っていた理由はそれらしい。
もし間に合わなければどうなっていたか。さすがにそれは考えずとも分かる。無意識とは言え、自分の身勝手を悔いた。

(でも別に消え去りたい訳じゃない)

……なんて説得力の欠片もない言い訳だろう。


頭を冷やすようにと、今は自室に押し込まれているところだ。重は所謂見張り役。ほっといたらまた潜りに行きそうだから、そう言われてしまった。そんなことはないと否定したかったが、正直自信はない。かつてお守りをしていた弟に、今度は俺がお守りをされている。情けない話だ。

「なぁ、重」

「はい?」

「海になりたいと思うことは、悪いことか?」

我ながらなんて子供染みた問いかけだろうかと思う。それも、弟分にそんな問いかけをするなんて俺もどうかしている。それでも、目の前のこの男に問いたかった。
重は驚いたように目を見開いて(もしかしたら呆れていたのかもしれない)俺を見る。澄んだ薄い色の瞳に捕らわれた。そこに映る自分の赤い髪が目に留まる。重にはこう見えているのか、ぼんやり思った。

「そりゃあ……兄貴はうちで一番の水練の者ですから。兄貴は、自分で思っている以上に必要とされてる。そこは自惚れてくださいよ」
「……そうだな」

想定した答えが返ってきた。分かってる、先程痛いほど体感してきたから尚更。

「でも、悪くはないと思いますよ、俺は。本心、でしょ?」

思いもよらない言葉に今度は俺が目を見開いた。
六つも下に離れた弟分は、折々年不相応な表情をする。真っ直ぐ見つめるその目は、俺をどんな風に捉えているのか。まるで全てを見透かされているようで、それが苦手だった。
居心地が悪いというのに、視線を逸らすことが出来ないのは何故だろう。

「だけど俺は許さない」

指を絡めるように俺の手を掴み、ぎゅ、と握った。記憶している幼い頃の手はもっと小さくて弱々しかったのに、今俺の手を握るそれはやけに大きく力強く感じた。

「あんたが溶けようと沈むなら、どこまでも追いかけてやる」

――逃がしはしない。少なくとも、俺の手が届く限りは。

後を付いてくるだけだった子供が、いつの間にか俺の横に並ぶようになった。どんなに引き離しても食らい付いてくるのだから、おそらく、追い抜かれるまでそう遠くはない。だというのに、まだ俺の手を引く。とっくに離れてもいいだろうに、その我が儘に甘えてる自分がいることに気付く。引き留める手を振り払うには、生憎、愛着が湧いてしまった。


こちらがどんなに海を愛そうと、海になることなんて出来やしない。そうだ、分かっている。
ならば許されるまで、引き留める手があるまで、ここで我が儘に甘えてしまうのも有りか。そう思った。
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