蟻刹
約束
わだかまりが消えたわけじゃない。
でも、俺はこの男といることを選んだ。
刹那はベッドの脇に立ってしばし呆然としていた。
(…どう…しよう…)
ベッドの主は気持ち良さそうに寝息を立てている。
その主を起こすかどうかを迷っているのだ。
(…起こしたら…怒るかな…でも…)
そろそろ限界だ、と思って刹那は声を掛けた。
「おい、起きろ。」
そっと揺すってみる。
「おい、朝だ。…アリー。」
「…ん…だよ…もーちょっと寝かせろ。」
サーシェスは上掛けを深く掛け直した。
一向に起きる様子はない。
刹那は戸惑いながらその上掛けをツンと引いた。引き方は弱かったが、手はしっかりと上掛けを掴んでいる。
起こさなければならない、と決意でもしているように。
「起きろ。」
「……。」
「起きろ。でないと…」
何を言おうか迷ったのか、刹那はそこで一旦言葉を区切った。
その様子が気になり、サーシェスは上掛けの隙間から片目で窺う。すると…。
「…腹が減って死にそうだ。」
ベッドの中から深い溜め息。続いてくぐもった声。
「…なんかあんだろ。勝手に食え。」
それに応えて刹那は言った。
「食えそうなものはない。」
「嘘付くな。卵だのハムだの…食パンもあったはずだ。」
今だ被ったままの上掛けから少し顔を覗かせて、機嫌悪くサーシェスは声を出した。
それに呼応するように刹那の眉間に少ししわが寄る。
「そのまま食えそうなものはない。卵もハムも、過熱したものがいい。パンはトーストがいい。」
「…そのくらい自分でやれ。」
「無理だ。」
「バカか。そのくらい出来るだろうが。」
「やったことがない。」
「…嘘付くな。」
「本当だ。」
最後の言葉にも嘘をついているような含みは感じられず、サーシェスは顔を出した。
「…嘘…だろ?」
「本当だと言っている。」
「…お前、一人暮らししてただろうが。」
「店に行けばすぐ食べられるものが買える。プトレマイオスでは食事は準備されていたし。」
驚いたのと呆れたのとで、サーシェスは数秒間呆けた。
そして一度しっかりと瞬きをすると気を取り直して言った。
「…わかった。取り敢えず、トースターにパン放り込めばトーストは出来る。」
自分で何とかしろ、とでも言うようにドアを指差しまた上掛けを被る。
それを阻止すべく刹那は上掛けを掴んだ手をぐっと引いた。
「…んだよ。寝かせろっつってんだろーが。」
「トースターの使い方が分からない。焦がすと困る。」
「知るか。」
「焦げたパンは食いたくない。」
今どきトースターでパンを焦がすやつなんか聞いたことがない。そう思いながらサーシェスは体を起こした。
もうすっかり目は覚めてしまっている。
「…ったく。起きりゃいーんだろ。」
憮然とした顔で服を着始めたサーシェスを見て刹那はぼそりと呟いた。
「…お前…いつも裸で寝てるのか…。腹を壊すぞ…。」
「俺の体はそんなヤワじゃねーよ。」
サーシェスは肩をすくめた。
ぶつぶつと文句を言いながらキッチンにやってくると、サーシェスは冷蔵庫を開けた。
ふと後ろを振り返ると傍についてきたはずの刹那がいない。
冷蔵庫のドアに手を掛けたまま顔を上げ周りを見る。
「…てめ。何くつろいでやがんだ。上げ膳据え膳決め込むつもりかよ。」
刹那はちゃっかりと席に着いていた。
くいくいっと人差し指で刹那を呼び、食器を指差す。
「出来ることぐらい手伝え。」
「…分かった。」
簡単に準備した朝食を食べながら、サーシェスは新聞に目を通していた。
微かに目を細める。
刹那はそれに気付き、立ち上がると覗き込んだ。
「…また、戦争をするつもりか。」
新聞にはある国の緊迫した情勢が報じられていた。
内乱の恐れがある、と。
サーシェスはニッと笑う。
「いや? 今はまだ手ェ出してもつまんねーからな。」
「贅沢しなければ、働かなくったって暮らせるくらいの金は持っているはずだ。」
「まあな。でも、俺は嫌だね、そんなつまんねー人生は。」
「普通に仕事すればいいじゃないか。」
「他に面白そうな仕事は思いつかねーな。」
睨む刹那にふふんと笑ってみせる。
「嫌ならそう言ったらどうだ? お前の言うことなら聞いてやるぜ? 『約束』してやる。」
刹那はいったん目を伏せるとまたキッと睨んだ。
「戦争はするな。」
「ふふ。ああ、今はな。」
くっと言葉に詰まり、また別の約束を探す。
「もう人を殺すな。」
口元に笑みをたたえたまま、サーシェスは目を伏せた。
「ワリィがその約束はできねーな。」
「どうしてだ。」
「それは…」
サーシェスは立ち上がると刹那の間近に立ち、首に手をやった。
「そのうちお前を殺すからさ。」
右手で刹那の首を掴み、左手は腰にまわして引き寄せる。首を掴む手に力を入れた。
刹那が眉をひそめる。
「…今殺せばいい。」
「ん?」
「…今殺せ。ただし、ちゃんと約束をしろ。」
「何を約束すりゃいいんだ?」
「…俺を殺したら、その後はもう誰も殺さないって。」
くくっと笑ってサーシェスは答えた。
「その約束なら、してもいいぜ? 誓ってもいい。」
「本当か?」
「ああ、誓ってやる。お前を殺したら、もう二度と人を殺さない。」
覚悟を決めたように目を閉じる刹那。
サーシェスは右手にさらに力を込めながら、唇を合わせた。
そっと唇を離すと同時に手の力を抜く。
「でも今は殺さねぇ。つまんねぇからな。」
「でも、約束はした。誓った。」
「ああ。」
返事をしてサーシェスは楽しそうに笑った。
「つまり、お前を殺さなければどんだけ人殺してもいい訳だ。」
「!! お前!!」
「お前が言ったことだろ?」
口元をこぶしで隠し、くくっと笑う。
刹那はムッとして言葉を探した。
「…い…言っておくが…、うっかり俺を殺してもさっきの約束は有効だからなっ!!」
また、ブッと噴き出して苦しそうに笑いをこらえながらサーシェスは答えた。
「うっかり…ね。くくっ…わ…分かった。うっかり殺さねーように気をつけとこう。」
今はいい。近くに居れば監視が出来る。
この男が戦争に加担しないように。
罪のない人を殺さないように。
できる限り傍に居て、
そうして
そのうち俺の為に俺の望みを聞いてくれるようになれば…
でもそれが叶わないなら…
その時は俺が…
fin.
わだかまりが消えたわけじゃない。
でも、俺はこの男といることを選んだ。
刹那はベッドの脇に立ってしばし呆然としていた。
(…どう…しよう…)
ベッドの主は気持ち良さそうに寝息を立てている。
その主を起こすかどうかを迷っているのだ。
(…起こしたら…怒るかな…でも…)
そろそろ限界だ、と思って刹那は声を掛けた。
「おい、起きろ。」
そっと揺すってみる。
「おい、朝だ。…アリー。」
「…ん…だよ…もーちょっと寝かせろ。」
サーシェスは上掛けを深く掛け直した。
一向に起きる様子はない。
刹那は戸惑いながらその上掛けをツンと引いた。引き方は弱かったが、手はしっかりと上掛けを掴んでいる。
起こさなければならない、と決意でもしているように。
「起きろ。」
「……。」
「起きろ。でないと…」
何を言おうか迷ったのか、刹那はそこで一旦言葉を区切った。
その様子が気になり、サーシェスは上掛けの隙間から片目で窺う。すると…。
「…腹が減って死にそうだ。」
ベッドの中から深い溜め息。続いてくぐもった声。
「…なんかあんだろ。勝手に食え。」
それに応えて刹那は言った。
「食えそうなものはない。」
「嘘付くな。卵だのハムだの…食パンもあったはずだ。」
今だ被ったままの上掛けから少し顔を覗かせて、機嫌悪くサーシェスは声を出した。
それに呼応するように刹那の眉間に少ししわが寄る。
「そのまま食えそうなものはない。卵もハムも、過熱したものがいい。パンはトーストがいい。」
「…そのくらい自分でやれ。」
「無理だ。」
「バカか。そのくらい出来るだろうが。」
「やったことがない。」
「…嘘付くな。」
「本当だ。」
最後の言葉にも嘘をついているような含みは感じられず、サーシェスは顔を出した。
「…嘘…だろ?」
「本当だと言っている。」
「…お前、一人暮らししてただろうが。」
「店に行けばすぐ食べられるものが買える。プトレマイオスでは食事は準備されていたし。」
驚いたのと呆れたのとで、サーシェスは数秒間呆けた。
そして一度しっかりと瞬きをすると気を取り直して言った。
「…わかった。取り敢えず、トースターにパン放り込めばトーストは出来る。」
自分で何とかしろ、とでも言うようにドアを指差しまた上掛けを被る。
それを阻止すべく刹那は上掛けを掴んだ手をぐっと引いた。
「…んだよ。寝かせろっつってんだろーが。」
「トースターの使い方が分からない。焦がすと困る。」
「知るか。」
「焦げたパンは食いたくない。」
今どきトースターでパンを焦がすやつなんか聞いたことがない。そう思いながらサーシェスは体を起こした。
もうすっかり目は覚めてしまっている。
「…ったく。起きりゃいーんだろ。」
憮然とした顔で服を着始めたサーシェスを見て刹那はぼそりと呟いた。
「…お前…いつも裸で寝てるのか…。腹を壊すぞ…。」
「俺の体はそんなヤワじゃねーよ。」
サーシェスは肩をすくめた。
ぶつぶつと文句を言いながらキッチンにやってくると、サーシェスは冷蔵庫を開けた。
ふと後ろを振り返ると傍についてきたはずの刹那がいない。
冷蔵庫のドアに手を掛けたまま顔を上げ周りを見る。
「…てめ。何くつろいでやがんだ。上げ膳据え膳決め込むつもりかよ。」
刹那はちゃっかりと席に着いていた。
くいくいっと人差し指で刹那を呼び、食器を指差す。
「出来ることぐらい手伝え。」
「…分かった。」
簡単に準備した朝食を食べながら、サーシェスは新聞に目を通していた。
微かに目を細める。
刹那はそれに気付き、立ち上がると覗き込んだ。
「…また、戦争をするつもりか。」
新聞にはある国の緊迫した情勢が報じられていた。
内乱の恐れがある、と。
サーシェスはニッと笑う。
「いや? 今はまだ手ェ出してもつまんねーからな。」
「贅沢しなければ、働かなくったって暮らせるくらいの金は持っているはずだ。」
「まあな。でも、俺は嫌だね、そんなつまんねー人生は。」
「普通に仕事すればいいじゃないか。」
「他に面白そうな仕事は思いつかねーな。」
睨む刹那にふふんと笑ってみせる。
「嫌ならそう言ったらどうだ? お前の言うことなら聞いてやるぜ? 『約束』してやる。」
刹那はいったん目を伏せるとまたキッと睨んだ。
「戦争はするな。」
「ふふ。ああ、今はな。」
くっと言葉に詰まり、また別の約束を探す。
「もう人を殺すな。」
口元に笑みをたたえたまま、サーシェスは目を伏せた。
「ワリィがその約束はできねーな。」
「どうしてだ。」
「それは…」
サーシェスは立ち上がると刹那の間近に立ち、首に手をやった。
「そのうちお前を殺すからさ。」
右手で刹那の首を掴み、左手は腰にまわして引き寄せる。首を掴む手に力を入れた。
刹那が眉をひそめる。
「…今殺せばいい。」
「ん?」
「…今殺せ。ただし、ちゃんと約束をしろ。」
「何を約束すりゃいいんだ?」
「…俺を殺したら、その後はもう誰も殺さないって。」
くくっと笑ってサーシェスは答えた。
「その約束なら、してもいいぜ? 誓ってもいい。」
「本当か?」
「ああ、誓ってやる。お前を殺したら、もう二度と人を殺さない。」
覚悟を決めたように目を閉じる刹那。
サーシェスは右手にさらに力を込めながら、唇を合わせた。
そっと唇を離すと同時に手の力を抜く。
「でも今は殺さねぇ。つまんねぇからな。」
「でも、約束はした。誓った。」
「ああ。」
返事をしてサーシェスは楽しそうに笑った。
「つまり、お前を殺さなければどんだけ人殺してもいい訳だ。」
「!! お前!!」
「お前が言ったことだろ?」
口元をこぶしで隠し、くくっと笑う。
刹那はムッとして言葉を探した。
「…い…言っておくが…、うっかり俺を殺してもさっきの約束は有効だからなっ!!」
また、ブッと噴き出して苦しそうに笑いをこらえながらサーシェスは答えた。
「うっかり…ね。くくっ…わ…分かった。うっかり殺さねーように気をつけとこう。」
今はいい。近くに居れば監視が出来る。
この男が戦争に加担しないように。
罪のない人を殺さないように。
できる限り傍に居て、
そうして
そのうち俺の為に俺の望みを聞いてくれるようになれば…
でもそれが叶わないなら…
その時は俺が…
fin.
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