ティエ×ライ
風邪
シミュレーションでのトレーニングを終え、マイスター達はそれぞれ思い思いの所に向かう。
いつもとは違い最後に出てきたティエリアが何かに引っかかったかのように不意に姿勢を崩したのを目にして、ライルは咄嗟に手を出した。
すると思いもよらない反応が返ってきた。
「触るな!!」
パシッと手をはたき落とされ、ライルは呆然とした。
ティエリアはライルの顔も見ずに去って行った。
取り残されたライルは、叩かれた手を眺める。
何が気に入らなかったんだ。
触られることが?
転びそうに見えたから支えようと…いや、それ以前に無意識に手が出ただけだ。
触りたいとか思ったわけじゃない。
深い溜め息が出た。
気分はクシャクシャするが、昼食をまだ取っていなかったと思い出してライルは食堂に向かった。
ドアが開くと、中では刹那とアレルヤが訝しげな顔で何やら話している。
「…どうかしたのか?」
ライルの問いにアレルヤが苦笑いを向けた。
「ティエリアがね、メニューが気に入らないとか言って何も食べずに部屋に戻っちゃったんだよ。」
二人の話だと今までそんなことは一度もなかったらしい。
栄養バランスからカロリー摂取量まで、自分で計算して管理しているほどだ。
一食抜くなんてことはありえない。
「何かあったのかと話していたところだ。」
刹那がそう言うと、ライルは苦笑して肩を竦めて見せた。
「俺がさっき怒らせちまったから、機嫌が悪いんだろう。…ちょっと行ってくるよ。」
シミュレーションの事でかい?と訊ねるアレルヤに、まあな、と曖昧に返事をして食堂を後にした。
怒らせるような事をした覚えはない。
さっきの事は置いておいて、だが。
そう思い返して、ライルはまた溜め息を吐いた。
怒るような事じゃないだろうという事で怒るのがティエリアだ。
きっと気付かぬうちに彼の機嫌を損ねることをしてしまったのだろう。
ティエリアの部屋の前で静かに深呼吸をして、ライルはノックした。
昼食のメニューが気に入らないと適当な理由を付けて、ティエリアは自室に向かった。
本当はメニューを見るのも億劫なほど、食欲がないだけだった。
食欲がないどころか気持ちが悪い。
さっきから足下はおぼつかないし、油断すると壁に激突しそうになるし、こんな事は初めてだ。
最悪の気分で部屋を目指している途中、廊下の角で沙慈と出くわした。
と言うか、衝突した。
「うわっ!…あっ!す、すみません!」
「…気を付けて欲しいものだな。」
いつもよりも座った目でティエリアが言ったのを見て、沙慈は引きつった顔で笑う。
「ご、ごめんなさい。…って、あー!ぶつかりますよ!!」
無重力の中、ティエリアは沙慈とぶつかった勢いで跳ね返され、今度は後ろの壁に衝突しそうになっていた。
沙慈が慌てて壁を蹴って傍に行き、ティエリアの後頭部を手で庇う。と、そこで気付いた。
「…もしかして、熱がありますか?」
「…熱?…測っていない…。」
「熱いですよ、絶対。早く医務室に行かないと。」
言って沙慈は二の腕を掴んだ。
医務室に向かおうとしているのだと分かって、ティエリアはその手を振り払った。
「必要ない。」
「必要ないことないでしょう!?かなり熱いですよ。きちんと薬を…。」
「必要ない。」
かたくなに嫌がるティエリアに根負けして、沙慈は仕方なく部屋に連れて行くことにした。
「…ここでいい。」
自室よりもかなり手前でティエリアは言った。
「え…?…ここ…僕の部屋ですけど…。」
余程だるいのだろう。
自分の部屋に行きつくのが待てなかったらしい。
マイスターの部屋とは違い、沙慈の部屋は大部屋だ。ただし今のところ同室の人間はいない。
ベッドは空いているのだし、と思い沙慈は部屋に入れた。
狭い折りたたみのベッドを引き出して壁から寝具を出し、ティエリアを寝かせる。
「ホント、医務室に行くべきだと思うんですけど…。」
「体調を崩すなど、あってはならない事だ。マイスターとして恥じねばならない。」
「…だから隠すんですか?それもどうかと思いますけど。」
「薬を飲めばすぐによくなる。すぐ治るものを騒ぎたてては迷惑というものだろう。」
「薬はどうするんです?」
「…君が行ってくれれば騒ぎがなくていいのだが。」
「僕医者じゃありませんからどんな薬がいいのか分かりませんよ。…風邪かなーってぐらいの予想しか…。」
「熱があってだるくて食欲がない。」
「咳は?」
「…時々…。」
「取り敢えず、風邪薬貰ってきますね。」
沙慈はそう言って部屋を出た。
廊下を行く沙慈を見掛けたライルは少しスピードを上げて近付き呼びとめた。
はい?といつもと変わらない返事をした沙慈だが、ライルの言葉に微かに頬が引きつった。
「ティエリアを見なかったか?」
「…え…っと…そういえばさっき部屋に帰って行きましたよ?」
「部屋にいなかったから探してるんだ。」
「…行き違いになったんじゃあ…。」
困り顔で視線を泳がせるのを見て、ライルは訝しげに眉をひそめた。
「ホントに部屋に入るのを見たのか?」
「…ろ、廊下ですれ違っただけだから…。じゃ、僕急ぐんで。」
そそくさと帰って行く。
ライルは少し考えてから、その後を追った。
自室に帰ると沙慈は深く溜め息を吐いた。
やっぱり医務室に連れて行けば良かった。
皆に隠し続けるなんて無理な話だ。
「…薬は…?」
ティエリアの声に顔を上げ、沙慈は彼らしい困った笑顔を向けた。
「貰って来ましたよ。取り敢えず、これ飲んでください。…風邪を引いたのが貴方だとは言ってませんけど…やっぱりちゃんと診察して貰った方がいいと思います。それに…。」
差し出された薬を受け取りながら、沙慈の言葉に返す。
「それに…?」
「今そこでライルさんに貴方を見なかったかと訊かれたんです。探してるみたいでしたよ?」
「何か答えたのか…?」
「誤魔化しましたけどね。熱が引くまで秘密にしておくなんて出来ないと思います。」
水も貰って薬を飲み込むと、ティエリアはベッドから立ち上がった。
ふらふらと沙慈に凭れかかる。
「まだ動かない方が…。」
「取り敢えず自分の部屋に帰ることにする。その方が誤魔化しやすい。」
どうせ移動するなら医務室に連れて行きたいところだが、自分が言っても聞かないんだろうと沙慈は口を噤んだ。
それでも放ってはおけない。
「…分かりました。部屋まで連れて行きますよ。」
「必要ない。」
「一人じゃ危ないですって。」
「問題ない。」
ふらっと沙慈から離れ、更に彼の体を突き放すように押した。
「ティエリアさん…。」
「気にするな。君が気に掛けるような事じゃない。」
そういってティエリアは出て行く。
沙慈はドアの所まで出て、その後ろ姿を眺めた。
沙慈が部屋に入って行くのを見て、どうしようか考えあぐねていると、暫くしてドアが開いた。
廊下の角に隠れて様子を窺う。
すると出てきたのはティエリアだった。
先ほどの沙慈の言葉は嘘だったのだと気付けば、今度はその理由が気になった。
沙慈を問い詰めてみるかと思い足を一歩踏み出したところで、今度は沙慈が出てきた。
思わず隠れる。
見ていると、彼はしばらくティエリアの後ろ姿を眺めてからその後を追って行った。
「…なんだってんだ…。」
ボソッと呟いて、仕方なく二人の後を追う。
あの人の良さそうな沙慈が嘘をついていた。
あの二人に共通項なんて見当たらないのに、何か秘密を共有している。
ライルは胸のざわつきを気持ち悪く感じていた。
沙慈がティエリアに追いついた時、丁度彼はまた壁に激突しそうになっていた。
「あ~っ、だから、危ないですってば。」
寸でのところで沙慈が回り込む。
「…君か…。気にしなくていいと言っただろう。」
「気になりますよっ。今もぶつかりそうだったじゃないですかっ。」
「…そうか?」
本当に分かっていないのか、それとも大丈夫だと言い張りたいだけなのかは判別がつかなかったが、どちらにしろ放っておけないと判断して、沙慈はしっかりとティエリアの二の腕を掴んだ。
「離せ。」
「ダメですよ。」
「私の部屋はすぐそこだ。もう心配はいらない。」
「ちゃんとベッドに入るまで見てます。貴方はもっと人を頼るべきだ。」
「不注意で体調を崩したんだ。人に迷惑をかけるべきではない。」
「それじゃあ、周りは心配するばかりでしょう?今だって貴方が姿を消したから心配してる人がいる。」
ライルの事を言っているのだと分かり、ティエリアは目を伏せた。
「心配…?…してるのか?…部屋にいないだけで?」
「部屋にいないだけじゃなくて、他にも何か気になることがあったんじゃないですか?わざわざ探しまわっているって事は。」
言われて、ライルの手を払い除けたことを思い出した。
不調の所為でシミュレーションは散々だった。
他の者から見ればいつもの調子が出ていないという程度のものだったのだが、彼にとってはイラつく程だった。
さらに外に出てみればみっともなく体のバランスを崩し、たまたまそこにライルが居たために羞恥心も手伝って、つい八つ当たりの勢いで出された手を払いのけてしまったのだ。
ライルの顔は見ていないが、ハッと息を飲んだのは分かった。
チクリと胸が痛んで、余計に彼の顔が見れなくなった。
なるべく顔を合わせたくないと思うのはその所為かとティエリアは自分で納得がいった。
黙ってしまったティエリアの顔を覗きこみ、沙慈は声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「…すまない…。取り敢えず、君を頼ることにする…。」
そう言うと、ティエリアは沙慈に預ける様に体の力を抜いた。
今まで気を張っていたのだろう。
頼ろうと決めた途端、姿勢を保てなくなったらしい。
かぶさるようになったティエリアの体をしっかりと抱え、沙慈は優しく笑った。
「いいですよ。そのつもりでしたから。」
抱きつくように沙慈に凭れかかったティエリアを目にして、ライルの中の邪推が確信に変わってしまった。
さっきから何か言い合っていたようだったが、それが終ると二人は抱き合い…沙慈は笑っていて…。
胸に苦しさを覚え、ライルはその場を立ち去った。
そう言えばティエリアを探し回っていた所為で昼食を取っていない。
そう思い出して食堂に行ってみると、もうアレルヤも刹那もそこにはいなかった。
今は人と話す気分じゃない。
丁度良かったと思い、味気ない食事を取った。
ティエリアに好かれていると思ったのは、勘違いだったのだろうか。
散々からかって気のある素振りをして見せたのは、単に楽しんでいただけだったのか。
いくら考えても落ち込む一方で、何の好転もない。
堂々巡りに疲れ、ライルはガシガシと頭を掻いた。
やめよう。
もともと脈がないと諦めていたじゃないか。
もし一時的に俺の方を見ていたとしても、今は違うのだから仕方がない。
食堂は禁煙だと知っていながら、ライルは煙草に火を付けた。
どうせ誰もいない。
咎める人間はいないのだ。
食器も片付けず、ただボーっとしてたばこを吸う。
その煙草が短くなった頃、ドアが開いた。
入ってきたのは沙慈だった。
気まずくて視線を逸らせたまま、彼の方を見ようとはしなかった。
それなのに沙慈は近付いてくる。
いったい何の用だろう。
煙草を咎められるだろうか。
そう思っていると、沙慈はいつものように笑顔で話し掛けてきた。
「ライルさん、ここにいたんですか。」
「……ああ、いたけど?」
さっき嘘を吐いたくせに、よくそんな顔で話しかけられるもんだ、と顔を顰める。
「ティエリアさん、部屋にいますよ。」
「知ってるよ。」
つい冷たい言い方になってしまう。
彼が悪いわけではない、いや、嘘を吐いたんだから悪いのか?と頭の中であれこれ考えていた。
その様子を沙慈はなんだか機嫌が悪いなとだけ理解して、話を続けた。
「…もう知ってたんですか?…じゃあ任せていいかな…。出来るだけの事はやっておきましたから、後はよろしくお願いしますね。僕は仕事に戻るんで。」
部屋にいることをどうして知ってるんだろう、通信でも入れたのだろうか。と沙慈は考え、だとしたら不調の事も知っている筈だと勝手に思い込んでいた。
キョトンとして沙慈を見返す。
「後はって…?」
「あー!しまった。医務室にはまだ連絡してなかったんだった。それもお願いします。じゃあ。」
急いでいたのか、沙慈はライルの疑問には答えずに行ってしまった。
「…医務室…?」
ハッとして立ち上がった。
拍子に持っていた煙草を落とし、慌てて手で受け止めてしまった。
「うわっち!」
急いで火を消して、食器を片づけるとティエリアの部屋に向かう。
ティエリアが病気なのだとやっと気付いた。
「…ったく…バカヤロ…。」
それは自分に対してなのか、ティエリアに対してなのか、それとも沙慈に対してなのか、ライル自身分からなかった。
「遅い…。」
ティエリアは開口一番そう言った。
「は?」
「沙慈ばかりに世話になるのは悪いから、君を呼ぶように言った。一時間程待った。」
本当は30分も経ってはいないのだが。
「…それはアイツが俺を見つけるまでに時間がかかったってことだろ?」
「私を探していたなら、またここに来ても良かっただろう?」
そんな事を言われても、もう探していなかったわけだし。
「…昼飯食ってたんだよ。」
「…許せないな。」
「は?」
「私は今日摂取しなければならないカロリーの3分の1も口にしていないというのに。」
「腹減ったのか?何か持ってこようか…。何がいい?」
「減ってはいない。気持ち悪くて食べたくない。」
じゃあどうしろと言うのだろう。
「何か欲しいものは?」
「…喉が渇いている…。」
「じゃあ、水かスポーツ飲料だな。」
「必要ない。」
「は?」
「今日摂取する予定の水分はもう摂ってしまった。だからいらない。」
唖然としてティエリアを見た。
彼の中では数字がすべてなのだろうか。
実際に今、喉が渇いているなら、それは体が水を欲しがっているという事で…。
「…喉…渇いてんだろ?」
「ああ、張り付いた感じで気持ちが悪い。」
「水が必要だろうそれはっ!」
「摂取量はもう越えている。」
「あのなぁ、病気の時と健康な時とは必要量が違うんだ。」
「…そうか。病気になる気はなかったから、そういう時の知識は入れていない。」
それにしても知らなさすぎるだろうと思いつつも、ライルは部屋にある小さな冷蔵庫から水を出した。
「ほら。」
「助かる。」
受け取って一口飲むと、ティエリアは何やら考え込んだ。
「どうかしたのか?」
「食事は今日後2食摂らなくてはいけない計算なのだが…。」
「気持ち悪くてそんなに喰えないんだろ?」
「…ああ、だが、栄養は病気にもいい筈だ。」
「一日ぐらい飯抜いたって死にやしないよ。それに、そういう時は栄養ドリンクだの最悪点滴なんて方法だってあるだろ。」
「…病気の時は気分で変えていいのか?」
「まあ、あんまり食べないのもよくねーだろうけどな。気持ち悪いときに喰うより寝てた方がいいさ。」
「…そうか。分かった。」
返事をすると、ティエリアは目を瞑った。
ライルは安堵の溜め息を吐く。
そのまま寝入ってしまうかと思っていたら、またティエリアの目が開いた。
「…気分でいいんだな。」
「…んー、まあ、大体はな。」
「手を貸せ。」
「え?」
「お前の手を、貸せ。」
おずおずと手を差し出すと、ティエリアはその手をガシッと掴んで上掛けの中に引き込んだ。
「!?」
「しばらく借りる。」
ベッドの中に片腕を引き込まれ、ライルの態勢はかなり辛いものになっている。
「あの、さ…ちょっと…。」
「寝る。話しかけるな。」
言ってすぐ、寝息を立て始めた。
タヌキ寝入りかと小さく声を掛けて見るが反応はない。
しかし、ライルは困りながらも少し嬉しく思っていた。
(…せめて椅子が欲しい…;)
シミュレーションでのトレーニングを終え、マイスター達はそれぞれ思い思いの所に向かう。
いつもとは違い最後に出てきたティエリアが何かに引っかかったかのように不意に姿勢を崩したのを目にして、ライルは咄嗟に手を出した。
すると思いもよらない反応が返ってきた。
「触るな!!」
パシッと手をはたき落とされ、ライルは呆然とした。
ティエリアはライルの顔も見ずに去って行った。
取り残されたライルは、叩かれた手を眺める。
何が気に入らなかったんだ。
触られることが?
転びそうに見えたから支えようと…いや、それ以前に無意識に手が出ただけだ。
触りたいとか思ったわけじゃない。
深い溜め息が出た。
気分はクシャクシャするが、昼食をまだ取っていなかったと思い出してライルは食堂に向かった。
ドアが開くと、中では刹那とアレルヤが訝しげな顔で何やら話している。
「…どうかしたのか?」
ライルの問いにアレルヤが苦笑いを向けた。
「ティエリアがね、メニューが気に入らないとか言って何も食べずに部屋に戻っちゃったんだよ。」
二人の話だと今までそんなことは一度もなかったらしい。
栄養バランスからカロリー摂取量まで、自分で計算して管理しているほどだ。
一食抜くなんてことはありえない。
「何かあったのかと話していたところだ。」
刹那がそう言うと、ライルは苦笑して肩を竦めて見せた。
「俺がさっき怒らせちまったから、機嫌が悪いんだろう。…ちょっと行ってくるよ。」
シミュレーションの事でかい?と訊ねるアレルヤに、まあな、と曖昧に返事をして食堂を後にした。
怒らせるような事をした覚えはない。
さっきの事は置いておいて、だが。
そう思い返して、ライルはまた溜め息を吐いた。
怒るような事じゃないだろうという事で怒るのがティエリアだ。
きっと気付かぬうちに彼の機嫌を損ねることをしてしまったのだろう。
ティエリアの部屋の前で静かに深呼吸をして、ライルはノックした。
昼食のメニューが気に入らないと適当な理由を付けて、ティエリアは自室に向かった。
本当はメニューを見るのも億劫なほど、食欲がないだけだった。
食欲がないどころか気持ちが悪い。
さっきから足下はおぼつかないし、油断すると壁に激突しそうになるし、こんな事は初めてだ。
最悪の気分で部屋を目指している途中、廊下の角で沙慈と出くわした。
と言うか、衝突した。
「うわっ!…あっ!す、すみません!」
「…気を付けて欲しいものだな。」
いつもよりも座った目でティエリアが言ったのを見て、沙慈は引きつった顔で笑う。
「ご、ごめんなさい。…って、あー!ぶつかりますよ!!」
無重力の中、ティエリアは沙慈とぶつかった勢いで跳ね返され、今度は後ろの壁に衝突しそうになっていた。
沙慈が慌てて壁を蹴って傍に行き、ティエリアの後頭部を手で庇う。と、そこで気付いた。
「…もしかして、熱がありますか?」
「…熱?…測っていない…。」
「熱いですよ、絶対。早く医務室に行かないと。」
言って沙慈は二の腕を掴んだ。
医務室に向かおうとしているのだと分かって、ティエリアはその手を振り払った。
「必要ない。」
「必要ないことないでしょう!?かなり熱いですよ。きちんと薬を…。」
「必要ない。」
かたくなに嫌がるティエリアに根負けして、沙慈は仕方なく部屋に連れて行くことにした。
「…ここでいい。」
自室よりもかなり手前でティエリアは言った。
「え…?…ここ…僕の部屋ですけど…。」
余程だるいのだろう。
自分の部屋に行きつくのが待てなかったらしい。
マイスターの部屋とは違い、沙慈の部屋は大部屋だ。ただし今のところ同室の人間はいない。
ベッドは空いているのだし、と思い沙慈は部屋に入れた。
狭い折りたたみのベッドを引き出して壁から寝具を出し、ティエリアを寝かせる。
「ホント、医務室に行くべきだと思うんですけど…。」
「体調を崩すなど、あってはならない事だ。マイスターとして恥じねばならない。」
「…だから隠すんですか?それもどうかと思いますけど。」
「薬を飲めばすぐによくなる。すぐ治るものを騒ぎたてては迷惑というものだろう。」
「薬はどうするんです?」
「…君が行ってくれれば騒ぎがなくていいのだが。」
「僕医者じゃありませんからどんな薬がいいのか分かりませんよ。…風邪かなーってぐらいの予想しか…。」
「熱があってだるくて食欲がない。」
「咳は?」
「…時々…。」
「取り敢えず、風邪薬貰ってきますね。」
沙慈はそう言って部屋を出た。
廊下を行く沙慈を見掛けたライルは少しスピードを上げて近付き呼びとめた。
はい?といつもと変わらない返事をした沙慈だが、ライルの言葉に微かに頬が引きつった。
「ティエリアを見なかったか?」
「…え…っと…そういえばさっき部屋に帰って行きましたよ?」
「部屋にいなかったから探してるんだ。」
「…行き違いになったんじゃあ…。」
困り顔で視線を泳がせるのを見て、ライルは訝しげに眉をひそめた。
「ホントに部屋に入るのを見たのか?」
「…ろ、廊下ですれ違っただけだから…。じゃ、僕急ぐんで。」
そそくさと帰って行く。
ライルは少し考えてから、その後を追った。
自室に帰ると沙慈は深く溜め息を吐いた。
やっぱり医務室に連れて行けば良かった。
皆に隠し続けるなんて無理な話だ。
「…薬は…?」
ティエリアの声に顔を上げ、沙慈は彼らしい困った笑顔を向けた。
「貰って来ましたよ。取り敢えず、これ飲んでください。…風邪を引いたのが貴方だとは言ってませんけど…やっぱりちゃんと診察して貰った方がいいと思います。それに…。」
差し出された薬を受け取りながら、沙慈の言葉に返す。
「それに…?」
「今そこでライルさんに貴方を見なかったかと訊かれたんです。探してるみたいでしたよ?」
「何か答えたのか…?」
「誤魔化しましたけどね。熱が引くまで秘密にしておくなんて出来ないと思います。」
水も貰って薬を飲み込むと、ティエリアはベッドから立ち上がった。
ふらふらと沙慈に凭れかかる。
「まだ動かない方が…。」
「取り敢えず自分の部屋に帰ることにする。その方が誤魔化しやすい。」
どうせ移動するなら医務室に連れて行きたいところだが、自分が言っても聞かないんだろうと沙慈は口を噤んだ。
それでも放ってはおけない。
「…分かりました。部屋まで連れて行きますよ。」
「必要ない。」
「一人じゃ危ないですって。」
「問題ない。」
ふらっと沙慈から離れ、更に彼の体を突き放すように押した。
「ティエリアさん…。」
「気にするな。君が気に掛けるような事じゃない。」
そういってティエリアは出て行く。
沙慈はドアの所まで出て、その後ろ姿を眺めた。
沙慈が部屋に入って行くのを見て、どうしようか考えあぐねていると、暫くしてドアが開いた。
廊下の角に隠れて様子を窺う。
すると出てきたのはティエリアだった。
先ほどの沙慈の言葉は嘘だったのだと気付けば、今度はその理由が気になった。
沙慈を問い詰めてみるかと思い足を一歩踏み出したところで、今度は沙慈が出てきた。
思わず隠れる。
見ていると、彼はしばらくティエリアの後ろ姿を眺めてからその後を追って行った。
「…なんだってんだ…。」
ボソッと呟いて、仕方なく二人の後を追う。
あの人の良さそうな沙慈が嘘をついていた。
あの二人に共通項なんて見当たらないのに、何か秘密を共有している。
ライルは胸のざわつきを気持ち悪く感じていた。
沙慈がティエリアに追いついた時、丁度彼はまた壁に激突しそうになっていた。
「あ~っ、だから、危ないですってば。」
寸でのところで沙慈が回り込む。
「…君か…。気にしなくていいと言っただろう。」
「気になりますよっ。今もぶつかりそうだったじゃないですかっ。」
「…そうか?」
本当に分かっていないのか、それとも大丈夫だと言い張りたいだけなのかは判別がつかなかったが、どちらにしろ放っておけないと判断して、沙慈はしっかりとティエリアの二の腕を掴んだ。
「離せ。」
「ダメですよ。」
「私の部屋はすぐそこだ。もう心配はいらない。」
「ちゃんとベッドに入るまで見てます。貴方はもっと人を頼るべきだ。」
「不注意で体調を崩したんだ。人に迷惑をかけるべきではない。」
「それじゃあ、周りは心配するばかりでしょう?今だって貴方が姿を消したから心配してる人がいる。」
ライルの事を言っているのだと分かり、ティエリアは目を伏せた。
「心配…?…してるのか?…部屋にいないだけで?」
「部屋にいないだけじゃなくて、他にも何か気になることがあったんじゃないですか?わざわざ探しまわっているって事は。」
言われて、ライルの手を払い除けたことを思い出した。
不調の所為でシミュレーションは散々だった。
他の者から見ればいつもの調子が出ていないという程度のものだったのだが、彼にとってはイラつく程だった。
さらに外に出てみればみっともなく体のバランスを崩し、たまたまそこにライルが居たために羞恥心も手伝って、つい八つ当たりの勢いで出された手を払いのけてしまったのだ。
ライルの顔は見ていないが、ハッと息を飲んだのは分かった。
チクリと胸が痛んで、余計に彼の顔が見れなくなった。
なるべく顔を合わせたくないと思うのはその所為かとティエリアは自分で納得がいった。
黙ってしまったティエリアの顔を覗きこみ、沙慈は声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「…すまない…。取り敢えず、君を頼ることにする…。」
そう言うと、ティエリアは沙慈に預ける様に体の力を抜いた。
今まで気を張っていたのだろう。
頼ろうと決めた途端、姿勢を保てなくなったらしい。
かぶさるようになったティエリアの体をしっかりと抱え、沙慈は優しく笑った。
「いいですよ。そのつもりでしたから。」
抱きつくように沙慈に凭れかかったティエリアを目にして、ライルの中の邪推が確信に変わってしまった。
さっきから何か言い合っていたようだったが、それが終ると二人は抱き合い…沙慈は笑っていて…。
胸に苦しさを覚え、ライルはその場を立ち去った。
そう言えばティエリアを探し回っていた所為で昼食を取っていない。
そう思い出して食堂に行ってみると、もうアレルヤも刹那もそこにはいなかった。
今は人と話す気分じゃない。
丁度良かったと思い、味気ない食事を取った。
ティエリアに好かれていると思ったのは、勘違いだったのだろうか。
散々からかって気のある素振りをして見せたのは、単に楽しんでいただけだったのか。
いくら考えても落ち込む一方で、何の好転もない。
堂々巡りに疲れ、ライルはガシガシと頭を掻いた。
やめよう。
もともと脈がないと諦めていたじゃないか。
もし一時的に俺の方を見ていたとしても、今は違うのだから仕方がない。
食堂は禁煙だと知っていながら、ライルは煙草に火を付けた。
どうせ誰もいない。
咎める人間はいないのだ。
食器も片付けず、ただボーっとしてたばこを吸う。
その煙草が短くなった頃、ドアが開いた。
入ってきたのは沙慈だった。
気まずくて視線を逸らせたまま、彼の方を見ようとはしなかった。
それなのに沙慈は近付いてくる。
いったい何の用だろう。
煙草を咎められるだろうか。
そう思っていると、沙慈はいつものように笑顔で話し掛けてきた。
「ライルさん、ここにいたんですか。」
「……ああ、いたけど?」
さっき嘘を吐いたくせに、よくそんな顔で話しかけられるもんだ、と顔を顰める。
「ティエリアさん、部屋にいますよ。」
「知ってるよ。」
つい冷たい言い方になってしまう。
彼が悪いわけではない、いや、嘘を吐いたんだから悪いのか?と頭の中であれこれ考えていた。
その様子を沙慈はなんだか機嫌が悪いなとだけ理解して、話を続けた。
「…もう知ってたんですか?…じゃあ任せていいかな…。出来るだけの事はやっておきましたから、後はよろしくお願いしますね。僕は仕事に戻るんで。」
部屋にいることをどうして知ってるんだろう、通信でも入れたのだろうか。と沙慈は考え、だとしたら不調の事も知っている筈だと勝手に思い込んでいた。
キョトンとして沙慈を見返す。
「後はって…?」
「あー!しまった。医務室にはまだ連絡してなかったんだった。それもお願いします。じゃあ。」
急いでいたのか、沙慈はライルの疑問には答えずに行ってしまった。
「…医務室…?」
ハッとして立ち上がった。
拍子に持っていた煙草を落とし、慌てて手で受け止めてしまった。
「うわっち!」
急いで火を消して、食器を片づけるとティエリアの部屋に向かう。
ティエリアが病気なのだとやっと気付いた。
「…ったく…バカヤロ…。」
それは自分に対してなのか、ティエリアに対してなのか、それとも沙慈に対してなのか、ライル自身分からなかった。
「遅い…。」
ティエリアは開口一番そう言った。
「は?」
「沙慈ばかりに世話になるのは悪いから、君を呼ぶように言った。一時間程待った。」
本当は30分も経ってはいないのだが。
「…それはアイツが俺を見つけるまでに時間がかかったってことだろ?」
「私を探していたなら、またここに来ても良かっただろう?」
そんな事を言われても、もう探していなかったわけだし。
「…昼飯食ってたんだよ。」
「…許せないな。」
「は?」
「私は今日摂取しなければならないカロリーの3分の1も口にしていないというのに。」
「腹減ったのか?何か持ってこようか…。何がいい?」
「減ってはいない。気持ち悪くて食べたくない。」
じゃあどうしろと言うのだろう。
「何か欲しいものは?」
「…喉が渇いている…。」
「じゃあ、水かスポーツ飲料だな。」
「必要ない。」
「は?」
「今日摂取する予定の水分はもう摂ってしまった。だからいらない。」
唖然としてティエリアを見た。
彼の中では数字がすべてなのだろうか。
実際に今、喉が渇いているなら、それは体が水を欲しがっているという事で…。
「…喉…渇いてんだろ?」
「ああ、張り付いた感じで気持ちが悪い。」
「水が必要だろうそれはっ!」
「摂取量はもう越えている。」
「あのなぁ、病気の時と健康な時とは必要量が違うんだ。」
「…そうか。病気になる気はなかったから、そういう時の知識は入れていない。」
それにしても知らなさすぎるだろうと思いつつも、ライルは部屋にある小さな冷蔵庫から水を出した。
「ほら。」
「助かる。」
受け取って一口飲むと、ティエリアは何やら考え込んだ。
「どうかしたのか?」
「食事は今日後2食摂らなくてはいけない計算なのだが…。」
「気持ち悪くてそんなに喰えないんだろ?」
「…ああ、だが、栄養は病気にもいい筈だ。」
「一日ぐらい飯抜いたって死にやしないよ。それに、そういう時は栄養ドリンクだの最悪点滴なんて方法だってあるだろ。」
「…病気の時は気分で変えていいのか?」
「まあ、あんまり食べないのもよくねーだろうけどな。気持ち悪いときに喰うより寝てた方がいいさ。」
「…そうか。分かった。」
返事をすると、ティエリアは目を瞑った。
ライルは安堵の溜め息を吐く。
そのまま寝入ってしまうかと思っていたら、またティエリアの目が開いた。
「…気分でいいんだな。」
「…んー、まあ、大体はな。」
「手を貸せ。」
「え?」
「お前の手を、貸せ。」
おずおずと手を差し出すと、ティエリアはその手をガシッと掴んで上掛けの中に引き込んだ。
「!?」
「しばらく借りる。」
ベッドの中に片腕を引き込まれ、ライルの態勢はかなり辛いものになっている。
「あの、さ…ちょっと…。」
「寝る。話しかけるな。」
言ってすぐ、寝息を立て始めた。
タヌキ寝入りかと小さく声を掛けて見るが反応はない。
しかし、ライルは困りながらも少し嬉しく思っていた。
(…せめて椅子が欲しい…;)