遙か彼の地にいる君

 暇を持て余したアリーが映画館に入ったのは、ほんの気まぐれだった。
 適当に選んだ映画が終わるまでただ淡々と眺めていたが、内容は三文芝居だなと思った。
 暇つぶしにしても失敗だったと後悔しつつ映画館を出ると、同じくその映画館から出てきた青年に目が行った。
 端正な顔立ちの青年が、二人、同じ顔をしていた。
 双子か、と別段何の感慨も無く通り過ぎようとした時、二人の会話が耳に入ってきた。

「期待はずれだったな。」
「…ああ、ライルもそう思ったか?」
「ああ。ああいう奴、嫌いだろ。兄さん。」
「あの主人公か?」

 裏の世界にしか生きられない主人公の人生を描いた映画だった。
 客に感動させようとしているのが手に取るように分かってしまって、それがかえって鼻について入り込めないという欠点のある駄作だ。

「大して悩まずに裏世界にホイホイ入ってっただろ?兄さんの嫌いそうなキャラクターだ。」
「まあな。でも、分からなくもない。」
 え?と弟は意外そうな顔を向けた。
 それに対して兄は苦笑して見せる。
「肯定はしないけど、そうしたい気持ちは分からなくないって話さ。」
「へ~?そういうの絶対理解できないってタイプだと思ってた。」
 やめてくれよ、そんな潔癖症じゃないぜ?と兄は返した。
「俺だって根っから善人ってわけじゃない。それが俺の処世術ってだけだ。ライルだってそうだろ?」

 処世術。
 だから善人ぶっているだけだ、と青年は言ったのだ。
 弟にさえ根っからの善人だと思われている男が、それは生きるための手段であって、本来の自分は違うのだと。

 つまらない物を見たと後悔していたアリーだが、その二人を目にした事はこの上ない収穫の様な気がしていた。






 数日後の昼食時、たまたま入ったレストランでその青年の片方を見つけた。
 彼はウエイターとして働いていた。
 兄か弟かどちらだろう、と観察をしたが、一度見かけただけではその判断は難しかった。
 ただなんとなく兄の方ではないかと思い、声を掛けてみたくなった。
 確かめたかったのもあるが、あの「処世術」の話に興味があった。
 しかし、あの時の会話では弟の名前しか情報はない。
 どう話し掛けようか暫し考え、近くを通りかかった時に軽く手を上げた。
「よお、ライル。」
 一瞬驚いたような顔を見せ、青年は困ったような笑みを向けた。
「すみません、人違いです。俺はライルの兄で…。」
「あ~あ、そうか、双子だったっけかな。わりぃ、そっくりだからよ。…えーっと…。」
「いえ、よくあることですから、気にしないでください。ニールって言います。」
 やはり兄の方だったとほくそ笑む。
「ニール、ね。俺はアリー。アリー・アル・サーシェス。よろしく。」
 席に座ったまま、ヒョイッと右手を出すとニールも握手の為に手を出した。
「よろしく。ライルとはどういう?」
「ああ、酒場で一回会っただけだけどよ。ちょっと話したんでね。」
「…あー…もしかして、駅裏のライラックって店ですか?」
「…どーおだったかな…一回行ったきりだから忘れたな。」
「アイツ、時々行くって言ってましたから。静かな店でしょ?友達と飲みに行ったあと一人で行くんだって。」
 ライラックね、と頭の中で復唱してから、「仕事中に悪かったな。」とまた軽く手を上げる。
 ニールは人の良さそうな笑顔で会釈をして戻って行った。







 ライラックという店は駅裏の少し入り組んだ路地にあった。
 地階に下りて行く階段は狭く、知ったものでなければあまり訪れないだろう。
 入口を開けるとまずカウンター席が目についた。
 そこに座っている青年を見て、アリーは口角を上げる。
 まっすぐに近づいて行き声を掛けた。
「よ。ニール。一人か?」
 ライルはグラスを唇に当てたまま、ちらっとアリーの方を見た。
 少し顔を顰めてぶっきらぼうに返す。
「人違い。アンタの知ってる奴じゃないぜ。」
 アリーはとぼけて「ああ、弟か。」と初めて気付いた風を装う。
「わりぃ、聞いてた通りそっくりだな。」
「ま、みんなそんなもんだ。気にしなくていいさ。」
 そのまま隣に座り、酒を注文した。
「えーっと…名前は…。」
「ライル・ディランディ。アンタは?」
「アリー・アル・サーシェスだ。ここ、よく来んのか?」
 ああ、と返事をしてライルは酒を飲みほした。
 そして立ち上がるべくカウンターに手を付く。
 するとアリーが「おいおい。」と呆れたように声を出した。
「今挨拶したばっかなのに帰るかよ。」
「もともと一杯だけのつもりだったんだ。…アンタが奢ってくれるってんなら付き合わなくもないけどな。」
 ニッと笑った顔はニールの笑顔とはまるで違っていた。
 しゃーねぇなぁ、とアリーも笑って、バーテンにライルの分の酒を頼んだ。










 ライルが部屋に帰ると、ニールはソファで寛いでいた。
 風呂上りらしく、髪が濡れたままだ。
「…髪、乾かせよな。風邪ひくぜ?」
「ん?…アハハ、面倒臭くってさ。」
 肩に掛かっていたタオルをライルは手にとって、ニールの髪を拭き始める。
 そして先程会ったあのアリーという男の話を持ち出した。
「アリー・アル・サーシェスってヤツ知ってるか?」
「あぁ、今日店で会ったぜ?」
「なんか、気さくなオッサンだよな。俺も今日会ったんだけどさ、酒奢らせちまった。」
「ライラックで?そうか、行ったんだな。」
 店の名前を教えておいて良かった、と独り言を言い、まあ確かに気さくな感じだなと返す。
 その独り言でライルは、あの店はニールが教えたのか、と納得していた。
 だから店に居た自分をニールだと思ったのか、と。
「ちょっと胡散臭いけどな。」
 ライルがそう言うと、ニールは「奢らせといてよく言うぜ。」と笑った。
 お互い相手の知り合いだと思っているから警戒心はゼロに近い。




 次の日もアリーは昼食をとるためにニールがバイトしているレストランに立ち寄った。
 双子がバイトをしながら大学に通う苦学生だという事はライルとの会話で知っていた。
 そしてこの日もバイトが入っているという事も。
「いらっしゃいませ。また来てくれたんですね。」
「ああ、ここのパエリアはなかなか旨いと思うぜ?」
 会釈して礼を言い、それからライルが奢ってもらったことにも礼を言った。
「一人で飲むのは味気ないからな。また相手頼むって言っといてくれ。」
「はい。」
「ところで、今日は講義はないのか?」
 大学の事はライルから聞いているのだろうと特に訝しがることも無く答える。
「午前に一つ。ちゃんと行ってきましたよ?」
「そりゃお疲れさん。…って事は…バイトの後はとくに用事はないのか?」
「え?…ああ、はい。…ありませんけど。」
 流石に何故そんな事を聞かれるのかと思い、ニールの返答は歯切れが悪くなった。
「何時までだ?」
「…あの…。」
「弟だけに奢るのは不公平だろ?夕飯、奢るぜ?」
 そんな世話になるわけにはいきませんから、と断りを言ったが、アリーが適当に時間を見計らって裏口の前で待つと言い張るため、ちゃんとした就業時間を教えることになってしまった。




「あの…喰うのに困ってるほど貧乏じゃないんで、ホントそんなに世話になるわけには…。」
「別に世話しようと思ってるわけじゃねぇよ。暇な時間が合ったんだから付き合えよって話だ。んで、俺の我儘に付き合わせんだから、俺が奢るのは当然だろ?」
「でも…。」
「細けぇなあ。流石お人好しの兄さんだな。」
 兄さん、という言葉が出るという事は、それはライルが言ったことなのだろう。
 そうニールは思った。
「…別に…。」
 誰にでもいい顔をして、何処に居ても素行が良くて、絵にかいたような善人を演じている自分というものに少し嫌気がさしているニールは、そういう目で見られるのをこのところ嫌っていた。
 だからと言ってそのレッテルの払拭の仕方を心得ているわけではない。
 どう返せばいいのかとしばらく考え、少しムッとしてアリーを見た。
「じゃあ、お言葉に甘えて。…高いモン頼むかも知れませんよ。」
「いいぜ?そう来なくっちゃな。」
 アリーはにんまりと笑った。





 アリーに奢って貰った。
 帰ってきてそう言う事が多くなったニールを見て、ライルはアリーがニールにとって気の許せる相手なんだと単にそう思っていた。
 実際、何度も会っているうちにニールはアリーにかなり打ち解け、最初の様な気負いはなくなった。
 携帯の番号も教えてあり、すっかり友人の一人である。
 ニールの友人関係は表面上のものが多いため、むしろアリーが一番の友人と言えるかもしれない。
 アリー相手になら、ニールは「らしくない」言動を自然に出来る。
 アリーといる時が一番楽でいられた。


「アリー!」
 大学の正門に目立つ赤髪を見つけ、ニールは走り寄った。
 よッとアリーが片手を上げる。
「仕事はいいのか?こんな早い時間にふらついてて。」
 促されるまま車に乗り込みニールがそう言うと、アリーは眉を顰めた。
「仕事サボって来たわけじゃねぇよ。今日はもう上がりだ。」
「証券会社ってそんな自由利くのか?」
「こないだ大きな仕事を成功させたからな、今なら我儘言い放題ってヤツさ。」
「それってサボってるのと大差なく聞こえるぜ?」
 ニッと笑って言うニールに、アリーもフフンと笑って見せる。
「そこはそれ、公認かどうかってのが大きな差だろうが。俺は合法的にサボってんの。」
「サボってるって自分で言ってるし。」
 あはは、と二人で笑い合う。
 今日はバイトを入れるなと言われていたから時間は空けてあった。
 何処に行くんだ?と聞けばアリーは何処にでもと答えた。
「映画でも見に行くか。」
 ニールが特に希望を言わないため、アリーがそう言って映画館に向かった。
 しかし着いてみれば特に面白そうなものはやっていない。
 どうする?と言いつつ二人の目に留まったのは、いつかのつまらない映画だった。
「これさ…。」
 ニールが指差した先を見て、アリーは眉を上げる。
「それ…観たいのかァ?」
「いや?前に観たんだ。面白くなかった。まだやってたんだなと思ってさ。」
「ああ、今日が最終日みたいだな。俺も観たけど、ダメだな、これは。」
 あんたも観たのか、とニールは小さな偶然に素直に驚いた。
 そして、何処がダメだと思ったのかを訊ねた。
 偶然同じ映画を見ていて同じ感想を持ったのだとすると、自分とアリーは似ているところがあるんじゃないだろうか。
 そんな風に感じ、それが少し嬉しかった。



「人間誰しも裏表ってもんはあるだろ?俺だってそうだし、お前だってそうだ。」
 映画の批判を一通り言い合うと、話の流れでアリーがそんな事を言った。
 その言葉に、ニールは救われた気がしていた。
 自分に裏がある事を自然なことだと言ってくれる相手は他に居ないだろう。
 今まで一番近かったライルでさえ、どこか自分を特別視しているように感じていた。
 そんなわだかまりを一瞬で拭われたのだ。
 ニールははにかんだような顔をして頷いた。









 商談が終わり、アリーがソファから立ち上がると商談の相手、リボンズ・アルマークが笑って言った。
「最近、綺麗な子にご執心だそうじゃないか。」
 ニールの事を言われているのだとすぐに分かった。
 アリーは苦笑をして見せた。
「プライベートまで調査済みですか?お人が悪い。」
 リボンズは鈴が転がるような若々しい声で笑う。
「いやだな、偶然見かけただけだよ。」
「そんなに執心してるように見えましたか?」
「うん、それなりにね。」
 リボンズは一人掛けのソファで頬杖をついたまま、美少年の笑みを湛えていた。
 そして、目を細める。
「ボクが彼を手に入れてあげようか?あの双子は身寄りがないみたいだから、アルマークグループの財力でどうにでもできるよ?」
 アリーは営業スマイルを絶やさず、丁寧に断った。
「嬉しいご配慮ですが、遠慮しておきますよ。」
「そうかい?」
「簡単に手に入るモノには興味がないんですよ。根っからのハンター気質でして。」
「それは残念だ。アレハンドロ・コーナー失脚の手伝いをしてくれた件のお礼がしたかったのに。」
 お礼、とは言っているが、それは逆に弱みを握る手段でもある。
 同じ秘密を共有するこの営業マンを裏切らせないために手を回しておきたいのだ。
 アリーはそれも承知しているからこそ、ニールには関わらせたくなかった。
「礼なら、私が困っている時に助けてくださるという約束をしていただければ、それで十分ですよ。」
「なるほど?…わかった。君が困っている時には必ず助けるよ。君とは長い付き合いになるからね。」
「ありがとうございます。」
 丁寧にお辞儀をすると、リボンズがまた楽しそうに笑った。
「そんなにあの青年が大事かい?」
「え?」
「意外だな、君があんな真っ直ぐな生き方をしている子に惹かれるなんて。」
 弱みを見せるのは得策ではない。
 このリボンズ・アルマークという男は恩人であるアレハンドロを落としいれ、更には周りの重役たちの弱みを握って抱き込み、コーナー家の統括していたグループを丸ごと手に入れて会長の座に座ったツワモノだ。
 手駒にされてしまっては、いつ切り離されてしまうかも知れない。
 あくまでも対等に商談できる位置にいなければいけない。
「綺麗なものほど、汚したくなるでしょう?」
 アリーは不敵な笑みを浮かべて見せた。
「うふふ。それなら君らしい。早く彼を手に入れられるよう祈ってるよ。」
 まだ含みのある笑みを纏い、リボンズはアリーを見送る。
 その何処までも裏のある少年の空気を背中に感じながらアリーは部屋を出た。


 弱みを持つつもりはない。
 ニールを手に入れたとしても、それが弱みになるようであれば自分で切り離すだろう。
 いざとなれば殺したって構わないのだ。
 と、アリーは己に強がってみた。




 そろそろ寝ようかとライルが歯磨きをしているとき、ニールは居間でがさごそと何やら探しものをしていた。
「何やってんら?」
 歯ブラシを銜えたままそう訊くと、ニールは振り向きもせずに「ん~?」と返事ともとれない声を返した。
「あ、あったあった。」
 取り出したのはいつだったか友人からもらった映画のDVD。
 ニールはやっと振り向いて、笑顔を見せた。
「アリーがさ、これ観たいって言ってたから。明日持ってくんだ。」
「明日?」
 明日は休みでバイトも入れていない筈だ。
 何処で渡すんだろうと疑問符を返した。
「明日、アリーんちに遊びに行くことになってんだ。」
 へーっと相槌を打ち、ライルはうがいをしに洗面所に戻った。
 そして戻ってきてまた訊ねる。
「何処に住んでるんだ?」
「山の手の方。高級マンション並んでるだろ?あそこ。」
「え!?そんないいとこ住んでんのか、アイツ。」
「みたいだな。」
 苦笑するニールにライルは顔を顰めて見せる。
「何か怪しい商売でもしてんじゃねーの?」
「いや?俺のバイト先のすぐ近くに証券会社があるの知ってるか?」
 ああ、あれね。と視線を上げて答えると、ニールはあそこだよと教えた。
 またライルは眉を顰めた。
「ホントかぁ?」
「ホントだって。…てか…お前ってアリーの事、殆ど知らないんだな。」
 不思議そうなニールの言葉に、ライルは肩を竦めて見せる。
「当然だろ?俺一回会ったきりだぜ?」
 あれ?とニールは笑みを消した。
 その表情に「どうかしたのか?」と返す。
「え…二回は会ってるだろ?」
「一回だって。」
 当然のごとくそう答えるライルに、ニールは少々ムキになって返した。
「だってさ、ほら、お前言ってたじゃないか。俺が初めて会った日に、ライラックで奢って貰ったって。」
「…だからそれ一回きりだって。」
 話が合わないことに頭を悩ませながら、ニールは「えっとさ、」とまた記憶の確認を取ろうと訊ねる。
「ライラックで声掛けられたのが最初だろ?」
「ああ。」
「で、俺が初めて会った日にも会ったんだよな?」
「だから、その日に声掛けられたんだって。」
 そんなわけないだろ?とニールは少し弱気に返して、考えに入った。
 ライルも記憶を辿って何がおかしいのかと考える。
「…兄さんがその日初めて会ったんだったら、俺、その前に会ってるわけないだろ?何が違ってるって言うんだ?」
「…アリーがさ…」
 ニールは表情を曇らせた。
「あの時、俺の事をライルって呼んだんだ。…で、人違いですよって返してさ…。」
 え?とライルも表情を固めた。
 それはおかしい。
 自分だってニールと間違って呼ばれたんだ。
「アイツ…俺に声掛けた時の第一声が『ニール』だったぜ?…だから、兄さんの知り合いだと思って…。」
「俺だって…お前の知り合いだと思ってたんだ。」
 暫しの沈黙が流れ、ライルが怒気を含んだ声色で言った。
「騙されてたんだ。胡散臭いっての当たってたな。証券会社の社員だって話も眉唾もんだぜ。」
 その言葉に何も返さないニールが戸惑ってるのが分かり、ライルは諭すように言った。
「何か変なもん売りつけられたりするかもしんねーから、もう付き合いやめろよ?兄さん。」
「…え…でも…さ、…どうしよう…明日…。」
「馬鹿っ、付き合いやめるんだからそんなモンすっぽかせばいいんだよっ!」
 ああ、と返事はしたものの、ニールはあからさまに落ち込んでいた。
 信じ切っていた相手が嘘をついていたことがかなり応えたらしい。
 ライルは心配げにその顔を覗きこんで「まあ、金取られる前に気付いてよかったじゃん。」と笑って見せた。






 次の日、ニールが自分の鞄にあのDVDを入れているのを見て、ライルは慌てて声を掛けた。
「兄さん、まさか行くつもりじゃないよな?」
「…確かめてくる。」
 そう言って玄関に歩き出す後を追ってライルは語調を強めた。
「待てよ!行かない方がいいって!嘘ついて近付いたってだけで充分怪しいだろ!?」
「何で嘘吐いたか、ちゃんと聞いてくる。」
「嘘吐くような奴が素直に答えるかよ!!ゼッテー誤魔化そうとするって!」
 ライルがニールの二の腕を掴むと、哀しげな笑みを向けた。
「でも確かめたいんだ。」
「ダメだ!」
「気を付けるから、心配すんなよ。」
「気を付けるったって…。言いくるめられるのがオチだ。兄さんは人がいいんだから。」
 人がいいと言われた瞬間、ニールは表情を固めた。
 そして不機嫌にライルの手を払い除ける。
「そんな馬鹿じゃねーよ。」
 それだけを言うと、プイっと顔を背けて出て行った。
「待てよ!兄さん!!」
 ニールの不機嫌の真意を知らぬままライルはその背中に呼び掛けたが、その直後、玄関のドアが二人を隔てていた。








 沈んだ気分のまま、ニールはアリーの部屋を目指した。
 信頼度で言えばライルに対しての方がはるかに上で、ライルの言ったことを疑う気など微塵もない。
 でも、ライルには解らないのだ、とニールは思ってしまう。
 ライルには解らない自分の気持ちを、アリーだけが理解してくれる。
 そこだけは真実だ、と。

 ピピッと携帯が鳴って、目をやるとライルからのメールだった。
 あまりみたくなかったが、開いてみれば「変な書類にサインなんかしちゃダメだからな。」と入っていた。
 心配しての事だというのは分かる。
 しかし、今のニールには馬鹿にされてるようにも感じてしまう。
「わかってら…。」
 ボソッと呟いて携帯を仕舞った。

 アリーの住まいは流石高級なだけあり、家人が正面玄関を開かないとマンション自体に入れないようになっていた。
 インターホンでアリーと話し、開けてもらう少しの時間に不安がよぎる。
 もし何かあって、ライルに助けを求めたとしても、ライルは簡単には入って来れないだろう。
 カチャっと鍵が開いてそのドアを潜る瞬間、えいっと覚悟を決めて足を踏み入れた。

「珈琲でいいか?」
 そう言ってキッチンに立つアリーに、ニールはいらないと答えた。
 答えてから、喉が渇いている事に気付く。
 緊張しているのだと自覚する。
「…ごめん、水…くれるか?」
「水かよ。…まあ、いいけどよ。」
 カウンターの向こうから差し出されたグラスを受け取り、すぐにごくごくと飲みほすと、視線を落としたまま言った。
「あのさ…話があんだけど…。」
「何だよ…。」
 アリーはキッチンから出て、ニールの隣でカウンターに凭れる。
「あのさ、」
 また言って、ニールは口を噤んだ。
 なんて切りだしていいか分からなかった。
「何だァ?」
 俯いていたが語調から思いっきり顔を顰めたのが分かって、ニールは慌てた。
「あの…ライルがさ…。」
 そう言って無理やり笑顔を作って顔を上げた。
「ライルが、おかしなこと言うんだ。」
「はぁ?」
「アンタと会ったの一回だけだって。おかしいだろ?」
 アリーが何も答えないことが不安で、捲し立てる様に続ける。
「俺がアリーに声掛けられた日に初めて会ったって言うんだ。そんなわけないだろ?だってアリーは俺の事ライルだと思って声掛けたんだから、その前に会ってる筈だよな?なのにそんなこと言うからさ、変だなって…。」
 ゆっくりとした動きで、アリーは煙草に火を付けた。
 そして煙を吐き出すと同時に言葉を出した。
「ライルの奴、記憶力ねぇなあ。」
 その言葉でニールはホッとした。
 ライルが勘違いしてるんだ、と。
 しかし次の瞬間アリーの口から出た言葉は。
「とでも言えば満足か?」
 ニールの顔が愕然とした表情に変わる。
「…なんだよ…それ…。」
「ライルの言ったことは事実だ。」
「じゃあ…、嘘吐いたのか…?」
「吐いたっちゃあ吐いたな。吐いてないって言えなくもねえが。」
「何だよ!それ!」
 語気を荒げても、アリーの余裕はいつものままだ。
「俺はお前をライルと呼んだだけだ。嘘はついてないぜ?」
「酒場で会ったって言ったじゃないか!」
「会っただろ?その後。」
「そんなの詭弁じゃないか!!」
「ま、そうだな。」
 事も無げに肩を竦める。
 その態度にも怒りがこみ上げ、ニールはふるふると拳を震わせた。
「何でだよ!!何でそんな嘘ついて近付いたんだよ!何の目的で!?金でも騙し取ろうってのか!?生憎うちに騙し取る金なんてないぜ!!そんなことして近付いたって!アンタに得なことなんて一つもないじゃないか!!」
「あるぜ?」
 そう言ってアリーはカウンターから体を離した。
 シンクに煙草を押しつけて火を消すと、ニールにゆっくりと歩み寄る。
「何があるってんだよ!!アンタは俺達の持ってないもんを一杯持ってるじゃないか!こんないい部屋に住んで!でかいテレビもオーディオも高そうな家具も!俺たちみたいな貧乏学生から絞りとろうったって何も取れないだろ!?」
「あるんだよ、手に入れたいもんが。」
 距離を詰めるアリーに気圧され、ニールは後ずさった。
 すぐに壁に背中が当たる。
「だから何だよ!そう簡単に取られてたまるもんか!もう騙されないからな!!」
 足を踏ん張り、ムッとした顔を向けた。
 そのニールに覆いかぶさるように、壁に手を付き、アリーは顔を近付けた。
「お前だ。」
「…え…?」
 何を言われたか分からず、呆然と返す。
「だから、お前だって言ってんだろうが。」
「何…が…?」
「手に入れたいもんの話だ。」
「お…れ…?」
「そうだ。」
 混乱する頭を必死に整理する。
「俺…?…だからってなんで嘘ついて…。」
「お前に声掛けようにも、俺はライルの名前しか知らなかったからな。」
「嘘吐く必要なんてないじゃないか。」
「嘘吐くなってんなら、『映画館でお見かけしましたよ。』とか言って営業スマイルで近付いた方が良かったってか?お前はそっちの方が胡散臭いと思ったんじゃねぇか?表の顔を持つことを処世術にしてるお前だ。そんな声の掛け方をしてくる奴の方が信用ならないって思ったんじゃねぇのか?人の第一印象ってのはその後の関係に大きく影響する。仕事柄その辺は心得てるからな、そんな不利なことする気はねぇんだよ。」
 映画館、処世術、と訊いて、あの映画を観た時か、と思い至る。
 あの時、アリーもあそこに居たのか。
 そう言えばあの映画をアリーも観たと言っていた。
 つまらなかったと。
 その話をして、そして、アリーだけが自分を理解してくれると、思ったんだ。
「あ…あの…。」
「ん?」
「ごめん…。」
「何でお前が謝んだよ。」
「勝手に思い込んで怒って…ごめん。」
 ここで謝ってしまうところがお人好しなんだよと思うが、それを言っては今度は別の次元で機嫌を損ねるだろう。
 それを言う代わりに、アリーはさらに顔を近付けた。
「ところで、お前、分かってるか?」
「え?」
「今の状況。」
 気付けばニールは壁に追い詰められ、そこに覆いかぶさるようにアリーが迫っているため身動きがとれない。
「…なんか…顔が…近い…。」
「そりゃあな、キスしようとしてるからな。」
「!?キ…ちょ、ちょっと待って。」
「やだね。」
「え、映画見ようぜ!折角持ってきたんだし!」
「あれは映画館で観た。」
「観たことないって言ってたじゃんかっ!」
「バーカ、お前をここに呼ぶ口実に決まってんだろ?」
「ちょ、とにかく、ちょっと!待てって!」
「待てと言われて大人しく待つ性格してると思うか?」
「思わない…けどっ!ちょっ!…ま…。」
 次の瞬間、アリーは震えるニールの唇をしっかりと塞いでいた。




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