蟻ニル
祭りのあと
ポストに通販のチラシが入っていた。
いつもならそのまま捨ててしまうところだが、丁度思案中だったものが目に付いて、それを眺めながら部屋に戻った。
リビングでいつも通り寛いでいる男にそれを差し出す。
「ほい。」
「ん?」
郵便物が自分のところになど来るわけがないと思っているアリーはキョトンとしてそれを受け取った。
「ベッド。注文すれば?」
チラシを指さしてニールがそう言うと、アリーは訝しげだ。
「…いらねー。」
「ソファじゃ寝心地悪いって言ってたじゃないか。」
「ベッド置くスペースなんて提供しねぇんじゃなかったのか?」
まだこの男が居座る事を快諾したわけではないのだが、度々自分のベッドに入って来られる現状は変えたい。
「俺のベッドに入ってくるよか大分マシだ。」
「いいじゃねーか。愛しい恋人だろ?」
ニールは、はあ、と大袈裟に溜め息をついて肩を落とした。
「それだよ。」
「どれだよ。」
「言っとくけど、俺はアンタの恋人になった覚えはない!」
キッと睨むとアリーは楽しげな笑みを浮かべる。
「こないだ公言しただろうが。嘘はいけねえな。」
ショッピングモールでの出来事を持ち出され、慌てて否定するニール。
「あ、あれは仕方なくだって言ったろ!?」
その様子を眺めるアリーは依然楽しげだ。
それに、とアリーは思い出すそぶりで視線を上げる。
「昨日、俺の背中に爪の痕付けたの、誰だったかねぇ。」
「ばっ!!」
一気にニールの顔が赤く染まった。
それをニヤニヤと眺めて続ける。
「確か、オネダリもしてたよな~?」
否定したいが、嘘ではないのが困ったところだ。
「ぅ~…ア、アンタが言わせたんだろあれはっ!!」
「お前が言いたそうにしてたから、助け舟出してやったんだろ?」
「してねえからっ!!」
勢いよくそう返すと、ニールの腕はアリーに引き寄せられた。
「ちょっ…。」
前のめりになりながら抗議の声を上げる。
アリーが引いた腕の手首を舐めた。
あ、と小さく息を飲む。
「や…やめろよ…。」
最初に関係を持った時、痣が出来た場所だ。
アリーは時折その場所を舐める。
傷をいたわる動物を思わせる行動。もう痣はとっくに消えているのだが。
勝気な目がニールを見た。
「お前が本気で嫌がるならやめるさ。」
アリーはさらに力を込め、グイッと引いた。
されるがままにニールはアリーの上に倒れ込んでしまう。
またコイツの手の内か、と思ってから、相手の言葉を反芻した。
本気で嫌がるなら…。
「…い…嫌に決まってんだろっ!」
無駄だとは思いながら半分投げやりに言う。
するとアリーは「ふーん?」と返した。
またいつもの気のない返事だ、とニールはムキになる。
「嫌だって言ってんだろ!?いつも!」
言って体を起こしたが、それを阻止する力は加えられなかった。
少し違和感を覚えて、じっと相手の顔を見る。
「つまり…。」とアリーは言った。
「関係を解消したいってことか?」
「当たり前だろ!」とニールは即答した。
「解消したいに決まってる!」
引っ込めた腕がするっとアリーの手から離れる。
と同時に、アリーの口からは「了解。」と短く返事が聞こえた。
「じゃあ、これな。」
いつもと違う流れに少々戸惑いながら、ニールは相手の差し出したチラシを受け取って視線を落とす。
アリーは適当に選んだベッドを指さしていた。
「え…あ、…じゃあ、注文しとくぜ?」
「おう。」
釈然としないまま、ニールはベッドを置く場所を確保しなければと物置になっている部屋の片づけを考え始める。
ベッドが来たってきっと、アイツはアイツのままだろうという予想をしながら。
オフィスが華やいでいるのを見て、ニールは「何です?」と席に着くなりスメラギに尋ねた。
「今度お祭があるでしょ?みんなで行こうって盛り上がってるの。あなたもどう?」
「ああ、いいですね。たまには皆で。」
「じゃあ、決まりね。」
そう言って仕事そっちのけで女性たちはまたその日の計画で盛り上がり始めた。
ニールは同僚の男性社員と顔を見合わせて苦笑すると、仕事に取り掛かる。
しばらくするとスメラギから声が掛かった。
「ねえ、あなた河川敷の近くに住んでるわよね?」
「…はあ、そうですね。近いですけど…それが?」
「花火見るのに最適じゃない?お邪魔していいかしら。」
確かに花火会場に近いし、見晴らしもいい。
でも、部屋に来られるのはすごく困る。
返答に困って、ニールは苦し紛れの嘘を吐いた。
「…すみません、今ちょっとルームシェアしてて…。」
「あら、じゃあ、お友達も一緒に飲みましょうよ。」
「あー…いや、そいつちょっと人見知り激しくて…人が来るの嫌がるんで……すみません。」
「…そう、じゃあ仕方無いわね。残念。」
じゃあ花火を見る場所を確保しなくちゃ、とまたスメラギは女性陣の中で相談を始める。
引き下がってくれたことに、ニールはホッと胸をなでおろした。
部屋に帰ると、いつもと違ってアリーはリビングにはいなかった。
ビールの缶も散らかっていない。
その代わり、ローテーブルの上に不動産のチラシが乱雑に置かれていた。
カチャっとドアの音がして、うしろから声が掛かる。
「よう、帰ったのか。お疲れさん。」
振り向くと彼はいつも通り口の開いた缶ビールを持っていた。
どうやらベッドを置いた『自分の部屋』で飲んでいたらしい。
「部屋、汚さないでくれよ…?」
「汚さねーよ。うるせえなぁ。」
そうは言っても、今までのことを考えると部屋中空き缶だらけになるのは目に見えている。
「信用出来ねえんだよ、オッサンは。」
「ひでぇなあ。」
アリーは肩をすぼめて見せたが、そんなのは無視して部屋を覗きに行く。
「………!?」
ニールが言葉を失うほど、そこは予想に反して綺麗だった。
ベッドが来てからまだ数日だが、夜はここで寝ている筈だ。
ソファに寝ている様子はないし、それにあれ以来、ニールのベッドにも入って来ていない。
それなのに、何故かその部屋は生活感が無かった。
「なんか文句あんのか?」
アリーが顔を顰めてそう言った。
「あ…いや、片付いてるならいいんだ。」
バツが悪く、目を逸らして言うと、ニールはリビングに戻った。
そこでまた目に付く不動産のチラシ。
「…これ………?」
何か意味があるのかと指を刺して相手の反応を待つと、アリーは「ああ、」と事も無げに答える。
「いい物件ねえかと思ってよ。」
「え…?」
「いつまでもお前の世話になるわけにもいかねえしな。」
心底驚いて、数秒の間を開けて訊ねた。
「…出てくのか?」
「出てって欲しいんだろ?」
「あ…あぁ…そりゃ、うん。」
「いい物件が見つかりゃあ、出てこうと思ってよ。」
「…そうか…。」
いいのが見つかるといいな、と社交辞令のような言葉を口に出す。
釈然としない。
なんだろう。
何故、自分はこんなにモヤモヤしているんだろう。
改めて思い出してみると、先日ベッドを注文しろと言ったやり取り以降、アリーはニールに一切近付かなくなった。
洗面台の前やダイニングですぐ近くを通り抜ける以外は、測ったように距離を取っていたようにさえ思う。
勿論ベッドにも潜り込んで来ない。注文したベッドが運び込まれる前からだ。
(…俺に興味がなくなったってことなのか?)
それは喜ばしい事じゃないか、とニールは自分で頷いて見せた。
(でも…なんで急に…。)
これまでどれだけ追い出そうとしても、出て行こうとしなかったのに。
(やっぱ…興味の問題なのか?)
散々アイシテルだの何だの言っていたのはやはりその場のノリか。
それはそれで腹が立ってしまう。
数日後、アリーは突然出ていった。
ベッドは要らないからくれてやると言う。以前渡された金についても、慰謝料に取っておけ、などと一方的に言って、ニールが驚いている間にさっさと部屋を後にした。
「…なんだ…あっさりしてら…。」
カレンダーを見て気付く。
祭りは明後日だ。
これなら人を呼んでも良かったじゃないか。
でも一人きりの部屋を満喫できるのだから、まあいいか。
部屋は綺麗に片付いている。
忙しく片付けていた毎日が嘘のようだ。
「よし、飲むかぁ。」
ビールはまだ残っている筈だ。
アイツの為に欠かさないようにしていたから。
冷えたビールとつまみを出し、リビングのソファに陣取る。
くぴっと一口流し込むと、毎日その場所で飲んでいた男の姿を思い出した。
『よお、一緒に飲もうぜ。』
『なんだよ、ツレねえなぁ。』
酒の相手ぐらいしてやっても良かったかな、といまさら思う。
飲んでれば機嫌がいいと思っていたが、誘ってきたということは一人で飲むのも味気なく感じていたのかもしれない。
「…俺、一人の時、どうしてたっけ…。」
あまり一人で晩酌はしなかった。
帰って来て、部屋が静かなのが寂しくてテレビをつけて、ただ音を流して食事をし、朝読みかけていた新聞の続きを読んだり本を読んだり。
あとは片付けだの風呂だので時間は過ぎて、毎日その繰り返しだった。
『愛してるぜ、ハニー。』
ふざけた台詞が甦る。
あんな言葉を信じるつもりはないが、それでも突然降ってきた非日常は強烈にニールの記憶に残っている。
「バーカ…何が愛してるだよ。嘘ばっか。」
そう、まるっきり嘘じゃないか。
こんな風にあっさり出て行ったのがその証拠だ。
「…ムカツク!」
飲み干したビールの缶を、乱暴に床に投げ捨てた。
祭の日は仕事仲間との時間を楽しみ、花火も見終わると、飲みに行こうというスメラギの誘いを断ってニールは部屋へ帰った。
「ただいま…。」
誰もいない場所に挨拶をするのも空しいが、既に癖になっていた。
花火を見ながら充分に飲んだし、今日はもう寝よう。
着替えるのもおっくうで、衣服の首元を緩めてそのままベッドに寝転んだ。
すぐにまどろむ。
少し飲みすぎたかもしれない。
そんな事を考えながら、ぼんやりとした状態で、胸元をもう少し緩めた。
夢うつつの曖昧なところで、ニールは彷徨っていた。
暑いと思って服を脱ごうとすると、誰かの手がそれを手伝っているような気がした。
(アイツだ…。)
武骨な手に捕まえられる。
(なんだよ、もう俺に興味ないんじゃねーの?)
『愛してるぜ?』
呪文の言葉が何処からか聞こえる。
肌蹴た胸にフウッと息が掛かる。
ニールは吐息を零した。
(また…ヤんの?)
好きにすれば?と投げやりな思考で、施されるであろうキスを待った。
ハッと目を開けて置きあがった。
周りに人の気配がないことにホッとしながら、自分の息の荒さを認識する。
「…夢…か…。」
今が現実だということを確かめるために声を出した。
のそのそと起き出し、侵入された形跡がないか確かめる。
アイツは鍵を置いて行った。
窓は破られていない。
風呂場もトイレもリビングも誰もいない事を確かめてから、アリーのベッドを置いた部屋を開けてみた。
もしや彼がそこにいるのではないかと心臓が高鳴る。
それは幽霊のような得体の知れないものをみる緊張に似ている。
電気をつけると、そこは冷たい部屋だった。勿論誰もいない。
誰のものでもない部屋。
何気なくニールは足を踏み入れた。
誰も入らない、整えられたベッドに腰掛ける。
ごろんと体を横たえると、微かに臭いを感じた。
数日しか使わなかったベッドだが、それでも確かにアリーの気配を残していた。
ふぅっと熱い吐息を吐いた。
(…酒の所為だ…体が熱いのは…。)
体温が上がっているのだろうと自分の肌蹴た胸に手を当ててみる。
触れた瞬間、ぞわりと何かが体の中に走った。
「…チクショウ……。」
自分が何かを『求めて』いる風に感じてしまうことが許せない。
自分のベッドへ戻ろうかとも思うが、また同じ夢を見るかもしれない。
それならいっそここで寝た方がいい気がする。
なにせ自分のベッドは何度も関係を持った場所なのだから。
朝になり、朝食をどうしようかと台所を漁ったが、目ぼしいものはなかった。
アリーがいなくなって常に食べ物を置いておく必要がなくなったから、買い忘れてしまったのだ。
仕方なくニールはコンビニに向かった。
街は昨晩の祭が嘘のようにガランとしていた。
特設ステージは解体されているところだ。
大型店舗が店を開けるにはまだだいぶ間がある。
休日だからこの時間に街に出ている人影はまばらだった。
「…祭りのあと…か…。」
祭りの後の侘しさを特に実感した事はない。
でもこの風景はそういうものだろうと思った。
思ってから、自分の部屋を思い出した。
(…そういうことか…。)
自分の胸の中がガランとしているのは、あの非日常が急に消えてしまったからだ。
恋しいからなんかじゃない。
コンビニで適当に食料を買い、帰り道は公園を歩いた。
何となくさっきの道を通りたくなかったからだが、そこもやっぱり祭のあとの侘しさを匂わせていた。
いっときの夢、そんな言葉が脳裏をよぎる。
紙吹雪がちらほらと道に残っているのを見つけ、ここも昨日は飾り付けがされていたのだろうと見回した。
「…侘しい…のかな。」
胸のもやもやをその言葉で片付けようとして、納得しかけた心の隅に何故か苛立ちが生まれる。
チクショウ、と口の中で呟くと同時にすぐ傍のゴミ箱を蹴飛ばした。
ゴミの回収がされた後だったようで、横倒しになってもゴミは散らからなかった。
「…ムカツク…。」
暫しそのまま佇んでいると、うしろから声が掛かった。
「いけねえなぁ、公共のモンをそんなふうにしちゃあよぉ。」
ハッとして振り向く。
「なーに機嫌損ねてんだ?」
そこにはアリーが立っていた。
くわえ煙草の煙をくゆらせながら、ニールを素通りするとゴミ箱を起こすために身をかがめた。
「…別に…。」
不機嫌じゃないとニールは言いかけるが、明らかに不機嫌な自分に気付いて口を噤む。
「らしくねぇな。真面目なクセによ。」
よっと声を出し、金属製で少し重量感のあるゴミ箱を元あった場所に戻した。
「じゃあな、物に当たんなよ、青年。」
アリーは片手をあげて向こうに歩いて行く。
そのまま去っていくのを見て、ニールは慌てていった。
「足が痛い。」
「んあ?」
呼びとめたい、と明確に思ったわけではない。
でも、この偶然の出会いを逃すと、もう二度と会えない気がした。
連絡先も何も知らない。彼に繋がるものなど、ニールは何一つ持っていないのだ。
「…今ので…足痛めた…歩けねぇ…。」
バレバレの嘘だと自分でも思っている。
こんな嘘で引き止められるわけはないかと半ば諦めていると、アリーは引き返してきた。
「…しゃーねーなぁ、おぶってやるよ。」
ん、と背中を向けて体を低くする。
ニールが戸惑っていると、アリーは顔を顰めて見せた。
「おら、早くしろ。」
「…お、おう…。」
嘘をついてまで呼びとめたのに、ニールは何を言っていいか分からなかった。
ただ相手の背中に体を預けているだけだ。
「なーにやってんだか。」とアリーは呆れたように言う。
自分でゴミ箱蹴飛ばして足痛めるなんてヤツ初めて見た、とか何とか。
すぐにマンションの前に着いた。
建物に入りもしないでアリーはニールを下ろした。
「じゃあな。」
「え…。」
「痛くねーんだろ?自分で歩け。」
そう言って、また「じゃあな。」と手を軽く上げて見せる。
その執着のなさ気な態度が、ニールは面白くなかった。
「部屋まで…おぶってけよ…。そんぐらいしてもいいくらい、アンタは俺に迷惑かけただろうが。」
立ち止ったアリーが、どんな表情をしたのかは分からない。
ほんの二秒ほどの間のあと、舌打ちが聞こえた。
「しゃーねえな…。こっちは文句の言えない立場だ。」
ほらよ、とまた背中を向けてかがんだ。
再びおぶさって、ニールはボソッと付け加える。
「……階段で。」
流石にそれにはアリーも抗議の声を上げた。
「はぁあ!?」
「そんくらいの迷惑被ったって言ってんだろ!?」
滅茶苦茶な事を言っているのは分かっている。
でも、とニールは自分の思考に理由づけをする。
今自分がこんな嫌な気分なのはコイツの所為だ。
コイツが悪いんだ。
だから、
なんでもいいから罰を与えたい。
子供じみた仕返しでもいい。
「階段~。」
拗ねた子供のようにそう言うと、「…ったく…。」とアリーがぼやいた。
「…わかった。それで、チャラなんだな?」
到底受け入れられるとは思えない要求を、相手が受け入れてしまったことにニールは少し慌てる。
「…え…やんの?」
「オッサンだと思って舐めてんじゃねーぞ。」
そう言って、エレベーターを無視して非常階段に向かうアリー。
戸惑いはするものの、これで要求を引っ込めてしまったら相手をそのまま許すことになる。
限界が来たら許してやろう、そう思ってニールはアリーの背中で傍観することにした。
ゼイゼイという息と共にうめくような声を出しながら、アリーは玄関に一歩入ったところで床に倒れ込んだ。
休み休みではあったが、結局ニールをおぶったまま最上階まで階段を上がってきた。
上り始めてから軽く一時間は超えている。
途中、ニールが何度も「やめていいから」と声を掛けたのだが、その度に「うるさい」「話しかけるな」と返して聞く耳を持たなかった。
「ま、待ってろ、水持ってくる!」
ニールは慌ててキッチンに駆け込み、グラスに水を入れて戻ってくる。
アリーはごろんと一度仰向けになってから、なんとか上体を持ちあげてその水を飲みほした。
「…大丈夫か…?」
遠慮がちなニールの声に、「おー…。」と返事ともつかない声が返る。
息がある程度落ち着くのを待って、ニールは「休んでけよ。」とリビングを示した。
「これ、食うだろ?」
コンビニの袋を上げて見せる。
中身はニールが朝食に食べようと思って買ってきたフライドチキンだ。
一瞥したアリーは、何を思っているのか分からない表情でまた「おー…。」と返して立ち上がった。
フラフラになっているかと思ったが、足取りは案外しっかりとしている。
「…チャラだよな。」
ぼそりと言ったアリーの言葉に、ニールは頷いて見せた。
「…勿論。」
アリー本人に罰を受けているという認識があるかどうかは分からないし、それでニールの被った迷惑がなかったことになるわけではないが、ありえない要求をこなしてくれたことには変わりない。
彼の背中に乗っているだけなのに疲れ始めた辺りから、逆に申し訳なくなってしまって、抱えていた怒りは胸中から消えていた。
「住み心地はいいのか?」
疲れているせいかアリーは出されたものを食べるばかりで何も言わない。
話題に困って、ニールは新しい住みかのことを訊ねた。
ん~?と気だるそうな声のあと、アリーは答える。
「…最悪だ。」
その返答にニールは小さく驚く。
いい物件を探して、見つかったから決めたのではないのか。
「…いい物件、じゃなかったのか?」
「ん?ああ、いい物件だな。申し分ない。」
その言に首を傾げる。
「…騒音でもあるのか?」
「いんや?」
「じゃあ、何が?」
ん?とまた面倒くさそうに相槌が返った。
暫しの間が空く。
ついジッとアリーの顔に視線を置いた。
すると。
「オプションが付いてねえからな。」
「オプション?」
「お前。」
その意味を理解するのに一瞬の間を要し、理解した後は驚きで言葉が出なかった。
もう自分は興味の対象外だと思っていたから、それは意外すぎて判断がつかない。
本心なのか嘘なのか。
そしてそれが自分にとって嬉しいことなのか、不愉快なことなのか。
単純に喜んでいる自分がいる。
それはまるで構って欲しいと拗ねていた子供が、振り向いてもらえたことに喜ぶように。
でもそんな自分を嫌悪している部分も確かにあって、素直に喜べない。
たっぷり数分の沈黙の後、やっと言葉を探す。
「…何言ってんの?」
ニールは顔を曇らせて俯いた。
自分はどうしたいんだろう。
出ていって欲しいと思っていたのは事実で、それが叶ったというのに何故か不愉快で…。
このまま縁が切れてしまうことが不安で立ち去られるのが嫌で…。
傍にいたいんだろうかという思考が上がってはそれを否定する気持ちが前面に出て来て。
どちらが本当の気持ちなのかが分からなくなっていく。
いっそのこと、また戻ってみたら分かるかもしれない、とも思う。
それが正しいことかどうかなんて分からないけれど。
「ゆっくり…してけば?………疲れたろ。」
遅い朝食を終えたところでそう言ってみる。
「いんや、長居する気はねえよ。『お前の部屋』だからな。」
アリーが立ちあがると同時にニールも立ち上がった。
出て行こうとしている相手に立ちはだかるように前に出る。
「どうせ暇だろ?」
「…ひでぇな。……ま、暇だけどよ。」
アリーはニールが立っている場所から二歩ほど退いたところで立ち止まっている。
その距離は図られたものなのか。
それとも無意識なのだろうか。
確かめたくて、ニールは一歩近づいた。
「ビールでも…飲む?」
アリーは動かず、見上げるニールの目を薄い笑みで見返している。
もう一歩近づくと、触れあう距離になった。
これまで自分からそんなに近づいたことはない。
躊躇いながらそっとアリーの胸に手を当てた。
「それとも………。」
微かに唇が震える。
「…………する…?」
自分から誘うだなんて考えもしなかったのに、口を衝いて出ていた。
すぐに抱き寄せられるかと思えば、その予想ははずれた。
「やめとけ。お前が言ったんだろ?『関係を解消したい』ってよ。」
アリーの手が、ニールを押しのけようと二の腕を掴む。
ニールはハッとした。
あの一言だったのか。
出て行ってくれとか迷惑だとか散々言っても応じてくれなかったのに、たったそれだけの言葉で出て行ったのか。
気付いた途端に焦りが生まれ、相手を留める言葉を探した。
「嘘………だって言ったら?」
「…嘘?」
コクリと頷く。
「解消したいってのを撤回する。……って言ったら?」
暫しの沈黙の後、二の腕を掴んでいたアリーの手はスッと滑った。
手首を掴んで自分の顔に引き寄せると、ぺろっと手首を舐める。
「後悔するぜ?」
一旦手元に落とされた視線が、赤い髪の間からニールの方を向く。
見据えるような眼差しは、ニールの動向を観察するかのように感じられた。
「……後悔……しない…。」
その言葉を待っていたかのように抱き寄せられる。
アリーの前髪がニールの鼻先をくすぐった。
ニールが気だるさから身を起こすと、そこにアリーの姿はなかった。
自分が寝ている間にまた出ていったのかと慌てて起き上がる。
寝室のドアを開けたところでリビングに気配を感じ、ホッとした。
ホッとして、自分の慕情に気付く。
(…なんか…腹立つ…。)
いつの間にか、アリーという存在に侵食されていた。
何故、なんて考えてみたところで答えは出ない。
とにかくそうなってしまったのだ。
「…ああ、…おう、世話になったな。」
リビングで、アリーは何処かに電話を掛けていた。
ニールが入っていくと同時に受話器を置いた。
「誰?」
「ああ、ダチだ。」
ふうん、と特に疑問もなくニールは納得した。
そのまま近付いて行く途中、「ところでよ。」とアリーが言う。
「ん?」
アリーが陣取っているソファの隣に座っていいものか考えながら短く聞き返すと、アリーは口角を上げた。
「俺とお前の関係は?」
「え…。」
ドギマギとしてしまう。
関係、と言ってもあの単語しか浮かんでこない。
解消すると一旦は言ったものの、それは撤回することにしたのだし、やはりあれしかないのか?
考えつつソファにすとんと座ると、顔を背けて言った。
「………恋……人?」
だよな、と言ったアリーの口調は楽しげだ。
「じゃあ、ここに住んでも問題ねえよな?」
あ、とニールは声を上げる。
「う…うん。」
ちらっと上目遣いでアリーを窺う。
出て行けと言ったのはニールだ。それなのにこんなことになって、少々バツが悪い。
借りた部屋もすぐ解約となると違約金が発生するのではないだろうか。
「…借りた部屋の金…半分出そうか?」
おずおずとそう聞いてみると、アリーは「んあ?」ととぼけたような声を返した。
「何の話だ?」
「あ、だから、アンタが借りた部屋だよ。家賃とか、二ヶ月分ぐらい入れてあるんじゃないのか?」
「誰が何を借りたって?」
まるで何の話か分からないと言った風だ。
「だから、…。」
もう一度言おうとしたところで気付く。
「…ま…まさか…、借りてないのか?」
アリーはニヤァと歯を剥いて笑っている。
つまり、ニールの心情を揺さぶる為に出ていったふりをしたという事だろう。
パクパクと言葉が出ずに口を動かしてからやっと言う。
「チラシ見てたじゃないか!借りてないのか!?だって……いい物件見つかったから出てったんじゃないのか!?いい物件だって、言ってたよな?住み心地はともかく…。」
何から問いただしていいか分からない。
とにかく、不動産のチラシを見て、いい部屋が見つかったら出ていくと宣言して、実際出て言ったじゃないか、とこれまでの事を並べ立てた。
「全部嘘かよっ!」
そう締めくくると、アリーは肩をすくめる。
「嘘吐いた覚えはねぇなあ。」
「嘘じゃねーか!」
いきり立ってもどこ吹く風だ。
「俺はチラシを見てただけだ。まあ、いい物件ねえかな~ぐらいは考えてたな。『じゃあな』っつって『出かけ』はしたが、部屋借りたなんてひとっ言も言ってねえだろうが。」
「じゃあ、この数日何処にいたんだよ!」
「ダチんとこだがなんか問題あるか?…ああ、日当たりのいい角部屋、しかも駅から5分。いい物件だな、あの部屋は。」
確かに嘘はついていない。
でも確実にハメられた。
揺さぶりにまんまと引っ掛かり、苛立ちや焦りに思考の出口が無くなっていた。
勿論、揺さぶられるだけの想いが既に存在していた所為ではあるが。
「ぅ~~~~。」
文句が言いたいが言葉が出てこない。
もう一度出て行けと言いたいくらいだが、この数日のイライラを思うとそれも言えなくなってしまう。
恨みたっぷりに見上げれば、そこにはやはり勝気な笑み。
「わりぃな、ニール。俺は欲しいもんは確実に手に入れる主義なんでな。」
うー、とニールはもう一度唸った。
そして浮かんだ疑問をぶつける。
「どっちだよ!」
は?とアリーが気の抜けた顔になった。
どっち、とは何のことなのか。
「…何が?」
訊ねてみると、ニールは拗ねたような顔をして見上げる。
「欲しいもんってのは、この部屋か俺か、どっちだ!?」
アリーはプッと吹き出した。
そんなもの決まっている。聞くまでもない筈だ。
圧し掛かるようにして包み込み、耳元で囁く。
「白状すりゃあ、オプション目当てだ。こんないい物件、他にゃあねえな。」
もう抵抗の素振りを見せないニールは、表情を隠すようにアリーの胸に顔を埋めた。
「…じゃあ、許す。」
fin.
ポストに通販のチラシが入っていた。
いつもならそのまま捨ててしまうところだが、丁度思案中だったものが目に付いて、それを眺めながら部屋に戻った。
リビングでいつも通り寛いでいる男にそれを差し出す。
「ほい。」
「ん?」
郵便物が自分のところになど来るわけがないと思っているアリーはキョトンとしてそれを受け取った。
「ベッド。注文すれば?」
チラシを指さしてニールがそう言うと、アリーは訝しげだ。
「…いらねー。」
「ソファじゃ寝心地悪いって言ってたじゃないか。」
「ベッド置くスペースなんて提供しねぇんじゃなかったのか?」
まだこの男が居座る事を快諾したわけではないのだが、度々自分のベッドに入って来られる現状は変えたい。
「俺のベッドに入ってくるよか大分マシだ。」
「いいじゃねーか。愛しい恋人だろ?」
ニールは、はあ、と大袈裟に溜め息をついて肩を落とした。
「それだよ。」
「どれだよ。」
「言っとくけど、俺はアンタの恋人になった覚えはない!」
キッと睨むとアリーは楽しげな笑みを浮かべる。
「こないだ公言しただろうが。嘘はいけねえな。」
ショッピングモールでの出来事を持ち出され、慌てて否定するニール。
「あ、あれは仕方なくだって言ったろ!?」
その様子を眺めるアリーは依然楽しげだ。
それに、とアリーは思い出すそぶりで視線を上げる。
「昨日、俺の背中に爪の痕付けたの、誰だったかねぇ。」
「ばっ!!」
一気にニールの顔が赤く染まった。
それをニヤニヤと眺めて続ける。
「確か、オネダリもしてたよな~?」
否定したいが、嘘ではないのが困ったところだ。
「ぅ~…ア、アンタが言わせたんだろあれはっ!!」
「お前が言いたそうにしてたから、助け舟出してやったんだろ?」
「してねえからっ!!」
勢いよくそう返すと、ニールの腕はアリーに引き寄せられた。
「ちょっ…。」
前のめりになりながら抗議の声を上げる。
アリーが引いた腕の手首を舐めた。
あ、と小さく息を飲む。
「や…やめろよ…。」
最初に関係を持った時、痣が出来た場所だ。
アリーは時折その場所を舐める。
傷をいたわる動物を思わせる行動。もう痣はとっくに消えているのだが。
勝気な目がニールを見た。
「お前が本気で嫌がるならやめるさ。」
アリーはさらに力を込め、グイッと引いた。
されるがままにニールはアリーの上に倒れ込んでしまう。
またコイツの手の内か、と思ってから、相手の言葉を反芻した。
本気で嫌がるなら…。
「…い…嫌に決まってんだろっ!」
無駄だとは思いながら半分投げやりに言う。
するとアリーは「ふーん?」と返した。
またいつもの気のない返事だ、とニールはムキになる。
「嫌だって言ってんだろ!?いつも!」
言って体を起こしたが、それを阻止する力は加えられなかった。
少し違和感を覚えて、じっと相手の顔を見る。
「つまり…。」とアリーは言った。
「関係を解消したいってことか?」
「当たり前だろ!」とニールは即答した。
「解消したいに決まってる!」
引っ込めた腕がするっとアリーの手から離れる。
と同時に、アリーの口からは「了解。」と短く返事が聞こえた。
「じゃあ、これな。」
いつもと違う流れに少々戸惑いながら、ニールは相手の差し出したチラシを受け取って視線を落とす。
アリーは適当に選んだベッドを指さしていた。
「え…あ、…じゃあ、注文しとくぜ?」
「おう。」
釈然としないまま、ニールはベッドを置く場所を確保しなければと物置になっている部屋の片づけを考え始める。
ベッドが来たってきっと、アイツはアイツのままだろうという予想をしながら。
オフィスが華やいでいるのを見て、ニールは「何です?」と席に着くなりスメラギに尋ねた。
「今度お祭があるでしょ?みんなで行こうって盛り上がってるの。あなたもどう?」
「ああ、いいですね。たまには皆で。」
「じゃあ、決まりね。」
そう言って仕事そっちのけで女性たちはまたその日の計画で盛り上がり始めた。
ニールは同僚の男性社員と顔を見合わせて苦笑すると、仕事に取り掛かる。
しばらくするとスメラギから声が掛かった。
「ねえ、あなた河川敷の近くに住んでるわよね?」
「…はあ、そうですね。近いですけど…それが?」
「花火見るのに最適じゃない?お邪魔していいかしら。」
確かに花火会場に近いし、見晴らしもいい。
でも、部屋に来られるのはすごく困る。
返答に困って、ニールは苦し紛れの嘘を吐いた。
「…すみません、今ちょっとルームシェアしてて…。」
「あら、じゃあ、お友達も一緒に飲みましょうよ。」
「あー…いや、そいつちょっと人見知り激しくて…人が来るの嫌がるんで……すみません。」
「…そう、じゃあ仕方無いわね。残念。」
じゃあ花火を見る場所を確保しなくちゃ、とまたスメラギは女性陣の中で相談を始める。
引き下がってくれたことに、ニールはホッと胸をなでおろした。
部屋に帰ると、いつもと違ってアリーはリビングにはいなかった。
ビールの缶も散らかっていない。
その代わり、ローテーブルの上に不動産のチラシが乱雑に置かれていた。
カチャっとドアの音がして、うしろから声が掛かる。
「よう、帰ったのか。お疲れさん。」
振り向くと彼はいつも通り口の開いた缶ビールを持っていた。
どうやらベッドを置いた『自分の部屋』で飲んでいたらしい。
「部屋、汚さないでくれよ…?」
「汚さねーよ。うるせえなぁ。」
そうは言っても、今までのことを考えると部屋中空き缶だらけになるのは目に見えている。
「信用出来ねえんだよ、オッサンは。」
「ひでぇなあ。」
アリーは肩をすぼめて見せたが、そんなのは無視して部屋を覗きに行く。
「………!?」
ニールが言葉を失うほど、そこは予想に反して綺麗だった。
ベッドが来てからまだ数日だが、夜はここで寝ている筈だ。
ソファに寝ている様子はないし、それにあれ以来、ニールのベッドにも入って来ていない。
それなのに、何故かその部屋は生活感が無かった。
「なんか文句あんのか?」
アリーが顔を顰めてそう言った。
「あ…いや、片付いてるならいいんだ。」
バツが悪く、目を逸らして言うと、ニールはリビングに戻った。
そこでまた目に付く不動産のチラシ。
「…これ………?」
何か意味があるのかと指を刺して相手の反応を待つと、アリーは「ああ、」と事も無げに答える。
「いい物件ねえかと思ってよ。」
「え…?」
「いつまでもお前の世話になるわけにもいかねえしな。」
心底驚いて、数秒の間を開けて訊ねた。
「…出てくのか?」
「出てって欲しいんだろ?」
「あ…あぁ…そりゃ、うん。」
「いい物件が見つかりゃあ、出てこうと思ってよ。」
「…そうか…。」
いいのが見つかるといいな、と社交辞令のような言葉を口に出す。
釈然としない。
なんだろう。
何故、自分はこんなにモヤモヤしているんだろう。
改めて思い出してみると、先日ベッドを注文しろと言ったやり取り以降、アリーはニールに一切近付かなくなった。
洗面台の前やダイニングですぐ近くを通り抜ける以外は、測ったように距離を取っていたようにさえ思う。
勿論ベッドにも潜り込んで来ない。注文したベッドが運び込まれる前からだ。
(…俺に興味がなくなったってことなのか?)
それは喜ばしい事じゃないか、とニールは自分で頷いて見せた。
(でも…なんで急に…。)
これまでどれだけ追い出そうとしても、出て行こうとしなかったのに。
(やっぱ…興味の問題なのか?)
散々アイシテルだの何だの言っていたのはやはりその場のノリか。
それはそれで腹が立ってしまう。
数日後、アリーは突然出ていった。
ベッドは要らないからくれてやると言う。以前渡された金についても、慰謝料に取っておけ、などと一方的に言って、ニールが驚いている間にさっさと部屋を後にした。
「…なんだ…あっさりしてら…。」
カレンダーを見て気付く。
祭りは明後日だ。
これなら人を呼んでも良かったじゃないか。
でも一人きりの部屋を満喫できるのだから、まあいいか。
部屋は綺麗に片付いている。
忙しく片付けていた毎日が嘘のようだ。
「よし、飲むかぁ。」
ビールはまだ残っている筈だ。
アイツの為に欠かさないようにしていたから。
冷えたビールとつまみを出し、リビングのソファに陣取る。
くぴっと一口流し込むと、毎日その場所で飲んでいた男の姿を思い出した。
『よお、一緒に飲もうぜ。』
『なんだよ、ツレねえなぁ。』
酒の相手ぐらいしてやっても良かったかな、といまさら思う。
飲んでれば機嫌がいいと思っていたが、誘ってきたということは一人で飲むのも味気なく感じていたのかもしれない。
「…俺、一人の時、どうしてたっけ…。」
あまり一人で晩酌はしなかった。
帰って来て、部屋が静かなのが寂しくてテレビをつけて、ただ音を流して食事をし、朝読みかけていた新聞の続きを読んだり本を読んだり。
あとは片付けだの風呂だので時間は過ぎて、毎日その繰り返しだった。
『愛してるぜ、ハニー。』
ふざけた台詞が甦る。
あんな言葉を信じるつもりはないが、それでも突然降ってきた非日常は強烈にニールの記憶に残っている。
「バーカ…何が愛してるだよ。嘘ばっか。」
そう、まるっきり嘘じゃないか。
こんな風にあっさり出て行ったのがその証拠だ。
「…ムカツク!」
飲み干したビールの缶を、乱暴に床に投げ捨てた。
祭の日は仕事仲間との時間を楽しみ、花火も見終わると、飲みに行こうというスメラギの誘いを断ってニールは部屋へ帰った。
「ただいま…。」
誰もいない場所に挨拶をするのも空しいが、既に癖になっていた。
花火を見ながら充分に飲んだし、今日はもう寝よう。
着替えるのもおっくうで、衣服の首元を緩めてそのままベッドに寝転んだ。
すぐにまどろむ。
少し飲みすぎたかもしれない。
そんな事を考えながら、ぼんやりとした状態で、胸元をもう少し緩めた。
夢うつつの曖昧なところで、ニールは彷徨っていた。
暑いと思って服を脱ごうとすると、誰かの手がそれを手伝っているような気がした。
(アイツだ…。)
武骨な手に捕まえられる。
(なんだよ、もう俺に興味ないんじゃねーの?)
『愛してるぜ?』
呪文の言葉が何処からか聞こえる。
肌蹴た胸にフウッと息が掛かる。
ニールは吐息を零した。
(また…ヤんの?)
好きにすれば?と投げやりな思考で、施されるであろうキスを待った。
ハッと目を開けて置きあがった。
周りに人の気配がないことにホッとしながら、自分の息の荒さを認識する。
「…夢…か…。」
今が現実だということを確かめるために声を出した。
のそのそと起き出し、侵入された形跡がないか確かめる。
アイツは鍵を置いて行った。
窓は破られていない。
風呂場もトイレもリビングも誰もいない事を確かめてから、アリーのベッドを置いた部屋を開けてみた。
もしや彼がそこにいるのではないかと心臓が高鳴る。
それは幽霊のような得体の知れないものをみる緊張に似ている。
電気をつけると、そこは冷たい部屋だった。勿論誰もいない。
誰のものでもない部屋。
何気なくニールは足を踏み入れた。
誰も入らない、整えられたベッドに腰掛ける。
ごろんと体を横たえると、微かに臭いを感じた。
数日しか使わなかったベッドだが、それでも確かにアリーの気配を残していた。
ふぅっと熱い吐息を吐いた。
(…酒の所為だ…体が熱いのは…。)
体温が上がっているのだろうと自分の肌蹴た胸に手を当ててみる。
触れた瞬間、ぞわりと何かが体の中に走った。
「…チクショウ……。」
自分が何かを『求めて』いる風に感じてしまうことが許せない。
自分のベッドへ戻ろうかとも思うが、また同じ夢を見るかもしれない。
それならいっそここで寝た方がいい気がする。
なにせ自分のベッドは何度も関係を持った場所なのだから。
朝になり、朝食をどうしようかと台所を漁ったが、目ぼしいものはなかった。
アリーがいなくなって常に食べ物を置いておく必要がなくなったから、買い忘れてしまったのだ。
仕方なくニールはコンビニに向かった。
街は昨晩の祭が嘘のようにガランとしていた。
特設ステージは解体されているところだ。
大型店舗が店を開けるにはまだだいぶ間がある。
休日だからこの時間に街に出ている人影はまばらだった。
「…祭りのあと…か…。」
祭りの後の侘しさを特に実感した事はない。
でもこの風景はそういうものだろうと思った。
思ってから、自分の部屋を思い出した。
(…そういうことか…。)
自分の胸の中がガランとしているのは、あの非日常が急に消えてしまったからだ。
恋しいからなんかじゃない。
コンビニで適当に食料を買い、帰り道は公園を歩いた。
何となくさっきの道を通りたくなかったからだが、そこもやっぱり祭のあとの侘しさを匂わせていた。
いっときの夢、そんな言葉が脳裏をよぎる。
紙吹雪がちらほらと道に残っているのを見つけ、ここも昨日は飾り付けがされていたのだろうと見回した。
「…侘しい…のかな。」
胸のもやもやをその言葉で片付けようとして、納得しかけた心の隅に何故か苛立ちが生まれる。
チクショウ、と口の中で呟くと同時にすぐ傍のゴミ箱を蹴飛ばした。
ゴミの回収がされた後だったようで、横倒しになってもゴミは散らからなかった。
「…ムカツク…。」
暫しそのまま佇んでいると、うしろから声が掛かった。
「いけねえなぁ、公共のモンをそんなふうにしちゃあよぉ。」
ハッとして振り向く。
「なーに機嫌損ねてんだ?」
そこにはアリーが立っていた。
くわえ煙草の煙をくゆらせながら、ニールを素通りするとゴミ箱を起こすために身をかがめた。
「…別に…。」
不機嫌じゃないとニールは言いかけるが、明らかに不機嫌な自分に気付いて口を噤む。
「らしくねぇな。真面目なクセによ。」
よっと声を出し、金属製で少し重量感のあるゴミ箱を元あった場所に戻した。
「じゃあな、物に当たんなよ、青年。」
アリーは片手をあげて向こうに歩いて行く。
そのまま去っていくのを見て、ニールは慌てていった。
「足が痛い。」
「んあ?」
呼びとめたい、と明確に思ったわけではない。
でも、この偶然の出会いを逃すと、もう二度と会えない気がした。
連絡先も何も知らない。彼に繋がるものなど、ニールは何一つ持っていないのだ。
「…今ので…足痛めた…歩けねぇ…。」
バレバレの嘘だと自分でも思っている。
こんな嘘で引き止められるわけはないかと半ば諦めていると、アリーは引き返してきた。
「…しゃーねーなぁ、おぶってやるよ。」
ん、と背中を向けて体を低くする。
ニールが戸惑っていると、アリーは顔を顰めて見せた。
「おら、早くしろ。」
「…お、おう…。」
嘘をついてまで呼びとめたのに、ニールは何を言っていいか分からなかった。
ただ相手の背中に体を預けているだけだ。
「なーにやってんだか。」とアリーは呆れたように言う。
自分でゴミ箱蹴飛ばして足痛めるなんてヤツ初めて見た、とか何とか。
すぐにマンションの前に着いた。
建物に入りもしないでアリーはニールを下ろした。
「じゃあな。」
「え…。」
「痛くねーんだろ?自分で歩け。」
そう言って、また「じゃあな。」と手を軽く上げて見せる。
その執着のなさ気な態度が、ニールは面白くなかった。
「部屋まで…おぶってけよ…。そんぐらいしてもいいくらい、アンタは俺に迷惑かけただろうが。」
立ち止ったアリーが、どんな表情をしたのかは分からない。
ほんの二秒ほどの間のあと、舌打ちが聞こえた。
「しゃーねえな…。こっちは文句の言えない立場だ。」
ほらよ、とまた背中を向けてかがんだ。
再びおぶさって、ニールはボソッと付け加える。
「……階段で。」
流石にそれにはアリーも抗議の声を上げた。
「はぁあ!?」
「そんくらいの迷惑被ったって言ってんだろ!?」
滅茶苦茶な事を言っているのは分かっている。
でも、とニールは自分の思考に理由づけをする。
今自分がこんな嫌な気分なのはコイツの所為だ。
コイツが悪いんだ。
だから、
なんでもいいから罰を与えたい。
子供じみた仕返しでもいい。
「階段~。」
拗ねた子供のようにそう言うと、「…ったく…。」とアリーがぼやいた。
「…わかった。それで、チャラなんだな?」
到底受け入れられるとは思えない要求を、相手が受け入れてしまったことにニールは少し慌てる。
「…え…やんの?」
「オッサンだと思って舐めてんじゃねーぞ。」
そう言って、エレベーターを無視して非常階段に向かうアリー。
戸惑いはするものの、これで要求を引っ込めてしまったら相手をそのまま許すことになる。
限界が来たら許してやろう、そう思ってニールはアリーの背中で傍観することにした。
ゼイゼイという息と共にうめくような声を出しながら、アリーは玄関に一歩入ったところで床に倒れ込んだ。
休み休みではあったが、結局ニールをおぶったまま最上階まで階段を上がってきた。
上り始めてから軽く一時間は超えている。
途中、ニールが何度も「やめていいから」と声を掛けたのだが、その度に「うるさい」「話しかけるな」と返して聞く耳を持たなかった。
「ま、待ってろ、水持ってくる!」
ニールは慌ててキッチンに駆け込み、グラスに水を入れて戻ってくる。
アリーはごろんと一度仰向けになってから、なんとか上体を持ちあげてその水を飲みほした。
「…大丈夫か…?」
遠慮がちなニールの声に、「おー…。」と返事ともつかない声が返る。
息がある程度落ち着くのを待って、ニールは「休んでけよ。」とリビングを示した。
「これ、食うだろ?」
コンビニの袋を上げて見せる。
中身はニールが朝食に食べようと思って買ってきたフライドチキンだ。
一瞥したアリーは、何を思っているのか分からない表情でまた「おー…。」と返して立ち上がった。
フラフラになっているかと思ったが、足取りは案外しっかりとしている。
「…チャラだよな。」
ぼそりと言ったアリーの言葉に、ニールは頷いて見せた。
「…勿論。」
アリー本人に罰を受けているという認識があるかどうかは分からないし、それでニールの被った迷惑がなかったことになるわけではないが、ありえない要求をこなしてくれたことには変わりない。
彼の背中に乗っているだけなのに疲れ始めた辺りから、逆に申し訳なくなってしまって、抱えていた怒りは胸中から消えていた。
「住み心地はいいのか?」
疲れているせいかアリーは出されたものを食べるばかりで何も言わない。
話題に困って、ニールは新しい住みかのことを訊ねた。
ん~?と気だるそうな声のあと、アリーは答える。
「…最悪だ。」
その返答にニールは小さく驚く。
いい物件を探して、見つかったから決めたのではないのか。
「…いい物件、じゃなかったのか?」
「ん?ああ、いい物件だな。申し分ない。」
その言に首を傾げる。
「…騒音でもあるのか?」
「いんや?」
「じゃあ、何が?」
ん?とまた面倒くさそうに相槌が返った。
暫しの間が空く。
ついジッとアリーの顔に視線を置いた。
すると。
「オプションが付いてねえからな。」
「オプション?」
「お前。」
その意味を理解するのに一瞬の間を要し、理解した後は驚きで言葉が出なかった。
もう自分は興味の対象外だと思っていたから、それは意外すぎて判断がつかない。
本心なのか嘘なのか。
そしてそれが自分にとって嬉しいことなのか、不愉快なことなのか。
単純に喜んでいる自分がいる。
それはまるで構って欲しいと拗ねていた子供が、振り向いてもらえたことに喜ぶように。
でもそんな自分を嫌悪している部分も確かにあって、素直に喜べない。
たっぷり数分の沈黙の後、やっと言葉を探す。
「…何言ってんの?」
ニールは顔を曇らせて俯いた。
自分はどうしたいんだろう。
出ていって欲しいと思っていたのは事実で、それが叶ったというのに何故か不愉快で…。
このまま縁が切れてしまうことが不安で立ち去られるのが嫌で…。
傍にいたいんだろうかという思考が上がってはそれを否定する気持ちが前面に出て来て。
どちらが本当の気持ちなのかが分からなくなっていく。
いっそのこと、また戻ってみたら分かるかもしれない、とも思う。
それが正しいことかどうかなんて分からないけれど。
「ゆっくり…してけば?………疲れたろ。」
遅い朝食を終えたところでそう言ってみる。
「いんや、長居する気はねえよ。『お前の部屋』だからな。」
アリーが立ちあがると同時にニールも立ち上がった。
出て行こうとしている相手に立ちはだかるように前に出る。
「どうせ暇だろ?」
「…ひでぇな。……ま、暇だけどよ。」
アリーはニールが立っている場所から二歩ほど退いたところで立ち止まっている。
その距離は図られたものなのか。
それとも無意識なのだろうか。
確かめたくて、ニールは一歩近づいた。
「ビールでも…飲む?」
アリーは動かず、見上げるニールの目を薄い笑みで見返している。
もう一歩近づくと、触れあう距離になった。
これまで自分からそんなに近づいたことはない。
躊躇いながらそっとアリーの胸に手を当てた。
「それとも………。」
微かに唇が震える。
「…………する…?」
自分から誘うだなんて考えもしなかったのに、口を衝いて出ていた。
すぐに抱き寄せられるかと思えば、その予想ははずれた。
「やめとけ。お前が言ったんだろ?『関係を解消したい』ってよ。」
アリーの手が、ニールを押しのけようと二の腕を掴む。
ニールはハッとした。
あの一言だったのか。
出て行ってくれとか迷惑だとか散々言っても応じてくれなかったのに、たったそれだけの言葉で出て行ったのか。
気付いた途端に焦りが生まれ、相手を留める言葉を探した。
「嘘………だって言ったら?」
「…嘘?」
コクリと頷く。
「解消したいってのを撤回する。……って言ったら?」
暫しの沈黙の後、二の腕を掴んでいたアリーの手はスッと滑った。
手首を掴んで自分の顔に引き寄せると、ぺろっと手首を舐める。
「後悔するぜ?」
一旦手元に落とされた視線が、赤い髪の間からニールの方を向く。
見据えるような眼差しは、ニールの動向を観察するかのように感じられた。
「……後悔……しない…。」
その言葉を待っていたかのように抱き寄せられる。
アリーの前髪がニールの鼻先をくすぐった。
ニールが気だるさから身を起こすと、そこにアリーの姿はなかった。
自分が寝ている間にまた出ていったのかと慌てて起き上がる。
寝室のドアを開けたところでリビングに気配を感じ、ホッとした。
ホッとして、自分の慕情に気付く。
(…なんか…腹立つ…。)
いつの間にか、アリーという存在に侵食されていた。
何故、なんて考えてみたところで答えは出ない。
とにかくそうなってしまったのだ。
「…ああ、…おう、世話になったな。」
リビングで、アリーは何処かに電話を掛けていた。
ニールが入っていくと同時に受話器を置いた。
「誰?」
「ああ、ダチだ。」
ふうん、と特に疑問もなくニールは納得した。
そのまま近付いて行く途中、「ところでよ。」とアリーが言う。
「ん?」
アリーが陣取っているソファの隣に座っていいものか考えながら短く聞き返すと、アリーは口角を上げた。
「俺とお前の関係は?」
「え…。」
ドギマギとしてしまう。
関係、と言ってもあの単語しか浮かんでこない。
解消すると一旦は言ったものの、それは撤回することにしたのだし、やはりあれしかないのか?
考えつつソファにすとんと座ると、顔を背けて言った。
「………恋……人?」
だよな、と言ったアリーの口調は楽しげだ。
「じゃあ、ここに住んでも問題ねえよな?」
あ、とニールは声を上げる。
「う…うん。」
ちらっと上目遣いでアリーを窺う。
出て行けと言ったのはニールだ。それなのにこんなことになって、少々バツが悪い。
借りた部屋もすぐ解約となると違約金が発生するのではないだろうか。
「…借りた部屋の金…半分出そうか?」
おずおずとそう聞いてみると、アリーは「んあ?」ととぼけたような声を返した。
「何の話だ?」
「あ、だから、アンタが借りた部屋だよ。家賃とか、二ヶ月分ぐらい入れてあるんじゃないのか?」
「誰が何を借りたって?」
まるで何の話か分からないと言った風だ。
「だから、…。」
もう一度言おうとしたところで気付く。
「…ま…まさか…、借りてないのか?」
アリーはニヤァと歯を剥いて笑っている。
つまり、ニールの心情を揺さぶる為に出ていったふりをしたという事だろう。
パクパクと言葉が出ずに口を動かしてからやっと言う。
「チラシ見てたじゃないか!借りてないのか!?だって……いい物件見つかったから出てったんじゃないのか!?いい物件だって、言ってたよな?住み心地はともかく…。」
何から問いただしていいか分からない。
とにかく、不動産のチラシを見て、いい部屋が見つかったら出ていくと宣言して、実際出て言ったじゃないか、とこれまでの事を並べ立てた。
「全部嘘かよっ!」
そう締めくくると、アリーは肩をすくめる。
「嘘吐いた覚えはねぇなあ。」
「嘘じゃねーか!」
いきり立ってもどこ吹く風だ。
「俺はチラシを見てただけだ。まあ、いい物件ねえかな~ぐらいは考えてたな。『じゃあな』っつって『出かけ』はしたが、部屋借りたなんてひとっ言も言ってねえだろうが。」
「じゃあ、この数日何処にいたんだよ!」
「ダチんとこだがなんか問題あるか?…ああ、日当たりのいい角部屋、しかも駅から5分。いい物件だな、あの部屋は。」
確かに嘘はついていない。
でも確実にハメられた。
揺さぶりにまんまと引っ掛かり、苛立ちや焦りに思考の出口が無くなっていた。
勿論、揺さぶられるだけの想いが既に存在していた所為ではあるが。
「ぅ~~~~。」
文句が言いたいが言葉が出てこない。
もう一度出て行けと言いたいくらいだが、この数日のイライラを思うとそれも言えなくなってしまう。
恨みたっぷりに見上げれば、そこにはやはり勝気な笑み。
「わりぃな、ニール。俺は欲しいもんは確実に手に入れる主義なんでな。」
うー、とニールはもう一度唸った。
そして浮かんだ疑問をぶつける。
「どっちだよ!」
は?とアリーが気の抜けた顔になった。
どっち、とは何のことなのか。
「…何が?」
訊ねてみると、ニールは拗ねたような顔をして見上げる。
「欲しいもんってのは、この部屋か俺か、どっちだ!?」
アリーはプッと吹き出した。
そんなもの決まっている。聞くまでもない筈だ。
圧し掛かるようにして包み込み、耳元で囁く。
「白状すりゃあ、オプション目当てだ。こんないい物件、他にゃあねえな。」
もう抵抗の素振りを見せないニールは、表情を隠すようにアリーの胸に顔を埋めた。
「…じゃあ、許す。」
fin.