蟻ニル

虚実皮膜


「今からどう?ニール。」
 上司であるスメラギに飲みに誘われ、即答でOKの返事をしそうになって笑顔のまま固まった。
「あ…あ~、すみません、ちょっと…。」
「あら、最近付き合い悪いのね。」
「すみません。」

 スメラギと別れてから、ニールは一人溜め息を吐いた。
 飲みに行くのは嫌いではないし以前なら喜んで付き合っていたのだが、今はそういうわけにもいかない。
 少しでも早く部屋に帰りたいのだ。
 いや、本当は帰りたくない。
 帰らなくてはいけない、と言った方が正確だろう。

「ただいま。」
 暗い気分で部屋に帰ると、案の定そこは他人の城と化している。
 綺麗好きで常にきちんと片づけてあった以前の部屋とは違い、床にはビールの空き缶が散乱し、洗濯前の服が散らばり、灰皿代わりにされてしまったお気に入りの皿は吸い殻だらけ。
「なんだよ、お前いっつも早いなぁ。飲みにでも行ってくりゃあいいじゃねぇか。」
 原因の人物はそんなことはお構いなしだ。
 怪我をしたこの人物と関わってしまったばっかりに、ニールの部屋は乗っ取られてしまった。
「あんたが出て行ったらそうするよ。」
 無駄だとは思いながらもそう言う。
 これまで何度も出て行ってくれと言ったのだが、常識のないこの男にはどんな苦言も通じなかった。
「メシは?」
「…作るよ、今から。」
 本当は部屋の片づけを優先させたい。
 でも腹が減ったと喚き散らす奴がいるからそうもいかない。
 ニールはダイニングの椅子に鞄を置いて、キッチンに入った。


 部屋を散らかした男、アリー・アル・サーシェスが彼の部屋に転がり込んだのは数週間前のことだ。
 何をしたか知らないが、腹に怪我をした状態でこの部屋のベランダに下りてきた。
 ニールはすぐに救急車を呼び、それで解決すると思っていたのだが、あれよあれよという間に男の画策にはまり、連れ帰るはめになってしまったのだ。
 それでも当初は動けるようになるまでの辛抱だと思っていた。
 しかしそれは大きな間違いだった。

 怪我の原因は話さないが、恐らく誰かに刺されたのだろう。
 その所為か、アリーは帰ろうとしない。それどころか部屋から一歩も出ようとしない。
 家に帰れば『敵』が待っている可能性が高い。
 見失った場所を探しているかもしれないからこのマンションの周りも危ない。
 そういうことだろう。

 おまけに警察沙汰にしないがために吐いた嘘で、ニールはアリーの恋人だという話にされてしまっていた。
 その場だけの嘘ではあるが、心底迷惑だ。
 そしてこの部屋の散らかりようである。
 ビールは買ってこないつもりだったが、手持無沙汰で居させると余計な事を始めるから仕方なく与えた。
「世話になってるから」と殊勝なことを言って洗濯をし始めたと思ったら、何でもかんでも洗濯機に放り込むから禁止した。
 煙草は与えないととことん不機嫌になるから許可したのだが、灰皿を買い忘れて皿が犠牲になった。

 この男が出て行ったとして、煙草の臭いは取れるだろうか、とニールは肉を焼きながら考える。
「あとで傷口の消毒してくれよ。」
 ソファから早々にダイニングチェアに移動して、アリーはビールをちびちび飲みつつそう言った。
 不機嫌に「分かったよ。」と返して、腹いせにフライ返しで肉をギュッとフライパンに押しつける。
 なんで俺がコイツの為に何から何までやってやらなきゃならないんだ、とひとりごちながら。





「でも、もういいんじゃないか?傷口も綺麗になってきただろ。」
 確か数日前、消毒はもう必要ないと言っていなかったか。
 だからそれ以来、傷の手当てはしていない。
「あー…それが、ちと痛むんだよな…。」
 やっと部屋も片付け終わり、風呂に入ろうかと着替えを取りに寝室に入ると、そこにアリーがついてきた。
 無遠慮にベッドに腰掛けてシャツをたくし上げる。
 他の部分より微かに赤く色づいた手術痕がちらりと見えた。
「…マジかよ…。やっぱ病院行った方がいいんじゃないか?俺には医学の知識なんて…。」
 金が払えないと言って無理に退院してきたから、手術以外はろくに治療を受けなかった。
 その手術費用だってニールが立て替えたままだ。当然通院もしていない。
 迷惑な相手ではあるが、怪我が悪化したらと思うと心配になってしまう。
 金の問題はあるが、後で請求することにして何とか病院に行くように説得しなくては、と言葉を探していると、「思うんだけどよ。」とアリーが覇気のない声を出した。
「やっぱ、原因はアレかなと思ってよ。」
「アレ?」
 普段横柄な男の不安げな低い声を不思議に思い、ニールは真面目な顔を向ける。
 するとアリーは言う。
「…バチがあたったかなってな。…お前に迷惑かけてるし…嘘も吐いたし…。」
 ニールはあまりの驚きに返事が出来なかった。
 この男がそんな風に考えるなんて想像もしなかったことだ。
 ここに居ついてから、いやそれ以前、怪我をしたのをニールが見つけた時から好き勝手なことをしてきたのだ。
 それが当たり前かのような態度で、少しも反省の色もなく、今日だって好きなだけビールを飲んで。
「悪かった。」
 少し目を逸らして出された謝罪の言葉にまた驚いてニールは言葉を探す。
「…とにかく、見せろよ。見ても分かんねえだろうけど…。痛むんなら化膿してるかも知れないし。」
 皮膚の辺りで化膿しているなら素人目にも解りやすいだろうが、深部だと外から見ただけでは解らないだろう。
 内臓に何かあったら、こいつは死んでしまうかもしれない。
 そう思うと普段の不満は意識から消えていた。
 シャツを脱いだアリーの腹部に顔を近づける。
「やっぱ、嘘はいけねえよな。…反省して直さねぇと、痛みが消えないかもな…。」
 まだ殊勝なことを言い続けているのが気の毒になり、ニールは顔を上げて優しい笑みを向けた。
「大丈夫だって。明日病院行こうぜ。金は立て替えるしさ。」
「いや、きっとこれは治らねえな…嘘を取り消さねえと。」
 怪我や病気はこんなにも人を不安にさせてしまうのだろうか、と思いながらまた傷口を見る。
 傷は綺麗に塞がっていた。特に化膿している様子もない。
「…やっぱ…わかんねぇな…。な?病院行こうぜ。」
「俺の吐いた嘘で一番の罪ってどれだろうな。」
「そんなんどうでもいいよ。病院行けば治るから。」
 元気づけようと言ったニールの言葉には無反応で、アリーはまだ続ける。
「アレだな、お前が俺の恋人だって言ったヤツ。まるっきりの嘘だもんな。」
「だから、いいって。気にすんなよ。」
「嘘は取り消さなきゃなぁ…。」
 最後の言葉の語尾のトーンが微かに上がったことに気付いてニールは傷口を見ていた視線をアリーの顔に移した。
 するとニンマリと笑っている。
「え?」
「お前も嘘は嫌いだろ?」
 そう言うが早いか、アリーはニールの二の腕を引く。
「ちょっ!?何す…。」
 ベッドの前に跪いていたのに、強い力で腕を引かれた痛みに自ら立ち上がろうと体重移動した次の瞬間にはもうベッドの方に引っ張られていた。
 成す術なく転がるニール。
 何が起こったか解らないでいるうちに、ニールは組み敷かれてしまった。
「おい!おっさんっ!」
「その呼び方はねえよなあ、愛しい恋人相手によお。」
「誰が恋人だ誰が!!」
「嘘はいけねえな。俺はお前の恋人だ。そうだよな?」
「んな訳あるか!!意味分かんねえぞ!!」
「何が分かんねえんだよ。少なくともあの病院じゃ、公認の仲だろうが。」
 言い合っている間にも、アリーはニールの服を肌蹴させていく。
「あれはアンタが嘘ついた所為だろ!?」
「こうすれば嘘じゃなくなるよな。痛みを消すために協力しろよ。」
 嵌められたのだとニールは今さらながら気付いた。
「痛みなんかねえんだろ!?結局嘘ばっかじゃねえか!!」
「痛ぇ痛ぇ。やっぱ嘘ついた罰かな~。」
 さっきまでの殊勝な態度はきれいさっぱり消え去り、アリーはしたり顔で『恋人』の身体を弄る。
「やめろっ!」
「嘘から出た実って言うだろ?往生際が悪いぜ。」
「どこがマコトだよっ!」
「愛してるぜ、マイハニー。」
「嘘吐くなっ!」
 本気だのなんだの言いながらアリーは愛撫を施すが、そんな言葉が信じられるわけがない。
 必死で抵抗しているというのに身体の自由は依然奪われたままだ。
「このッ…ンッ…。」
 まとめて掴まれている手首を外そうともがいていると、かぷ、と耳に噛みつかれる。
 耳や首筋に掛かる熱い吐息にピクンと身を震わした。
『初めてか?』という囁き声にドキリとする。
「…ったり前だろ…。」
 そんな趣味はないという抵抗の意味で答えたというのにアリーはニッと笑って見せた。
「そりゃあ調教のし甲斐があるってもんだ。」
「!!」
 するっと抜き取ったニールのベルトで、アリーは手中にある白い手首をきつく縛った。









 はあ、とニールが溜め息を吐くと、近くのデスクで仕事をしているスメラギがこちらを向いた。
「どうしたの?今日は仕事に身が入らないみたいね。」
 すみません、と言いながら誤魔化すように苦笑して見せる。
「悩みがあるなら、相談に乗るわよ?」
「…いや…その…。」
 悩みは前から抱えているが、人に話せることではなくなってしまったから性質が悪い。
 仕事に支障が出ているというのに「悩みはない」と言い張るのも無理があるだろう。
 暫く考えて、「実は…。」とニールは話しだした。
 知り合いのところに、男が居ついてしまって追い出そうにも追い出せなくて困っている。
 自分のことを他人のことのように相談するのはありがちでばれてしまうかもとは思いながら、なるべくぼかして話した。
 するとスメラギは、何か思い当たることがあるかのように「ああ、」と笑みを向けた。
「あなたも相談されたの?二課のミサカさんでしょ。いるのよねぇ。女のところに転がり込んでヒモになっちゃう男。」
「え?…あ、ええ、そうなんです。ホント、困った男ですよね。」
「今日一緒に飲みに行く約束してるのよ。まあ、私なりのアドバイスはするつもり。人のことでそんなに思い悩むことないわ。結局解決するのは本人なんだから。」
 苦労性ね、と付け加えて、スメラギは仕事に戻った。
 自分の事だとバレなかったことにホッとして、ニールも仕事に集中すべく書類に目を通す。
 仕事をしながら、自分と同じ状況で悩んでいる人に親近感がわき、次にスメラギのアドバイスはどういうものだろうかと気になってしまった。


 次の日、スメラギが他の課の女性と話しているのを偶然見かけ、ニールは近付いてみた。
 声を掛けるべきか迷っていると、スメラギの方が気付いてこちらを向いた。
「ねえ、聞いてよ。この子ったら…。」
 スメラギは少し怒った様子だ。
 思ったとおりスメラギと話していたのは前日名前が出たミサカという女性だった。
 彼女はスメラギに相談してアドバイスを貰ったのに、結局何もしていないという。
「だから、閉め出しちゃえばいいのよ!お金がないのはソイツの自業自得でしょ!?」
「…でも…それはあんまり…。」
「出てって欲しいんでしょ!?」
「は…はい…それは、そうなんですが…。」
 ぷんぷんと絵に描いたように怒るスメラギをまあまあと宥めて、ニールはミサカに苦笑いを向けた。
「気持ちは分かるけど、やっぱり毅然とした態度ってのは必要だと思うよ?」
「…はい…そう…ですよね…。…今日は…頑張ってみます…。」
 聞けばその男は特に暴力をふるうような横暴な性格ではないらしい。
 それならやっぱり彼女がきっぱり追い出せば解決するのではないかと思われた。



 その日の帰り、ニールは気を引き締め、決意を新たに帰路に着いた。
 もうアイツは怪我が治っているんだ。追い出したって問題はない筈。
 そう、スメラギのアドバイスを実行するのだ。上手く行くかどうかは分からないが。




「そう、ダメだったの…。」
 酒の入ったグラスを傾けながら、スメラギは難しい顔をした。
 その向こうでミサカが「すみません。」と小さくなっている。
 今日はニールも付き合って飲みに来ていた。
「言われた通りにやったんです。でも…。」
 男の荷物を勝手に纏め、その荷物と共に追い出して鍵を閉めた。
 そこまでは良かったのだが。
「ドアの前で泣き付かれたからって鍵開けちゃダメじゃないの。」
「…でも…『愛してるよ』とか『心入れ替えるから』とか…。」
「何?結局、あなたその人のこと好きなの?」
「…それは…その…。」
「もうっ、はっきりしないわね。」
 もともと好きで付き合い始めたのだから、仕事をして自立してくれれば問題はないのだ、というところに落ち着く。
 わかったわ、とスメラギはグラスを置いた。
「次の作戦ね。」


 この日ニールが二人に付き合ったのは、自分も失敗してしまったからだ。
 とは言っても彼女の状況とはかなり違うのだが。

 ニールも彼女と同じように、アリーの荷物を纏めて外に閉めだした。
 ところが。
 アリーは最初にニールの部屋に来た時のように屋上から寝室のベランダに下り、さらに窓の鍵を壊して簡単に侵入してしまった。
 油断していたニールは当然寝室で眠っていたから、あっさりアリーの手に落ちてしまったのは言うまでもない。




 次の作戦は説得だった。
 彼女の場合、仕事をしてくれれば取り敢えずは解決する。
 将来のことや自分の抱えている問題をとことん膝を突き合わせて話し合いなさいとスメラギは言った。

 ニールはどう説得すべきかが悩みどころだったが、今のままずっとということは恐らくアリーも考えてはいないだろうと説得の糸口を探しながら帰る。
 部屋に着くとすぐ、ニールは「話がある。」とビールを取り上げた。
「んだよ。」
 ニールは領収書や給与明細などを引っ張り出して来て、アリーの前に置いた。
 自分の将来設計、それに掛かるお金。とにかく、自分には自分の人生があって人の人生まで面倒みている場合じゃないということ。
 それにいい加減、自分の家に帰ったらどうだと言ってみた。
 問題はあるかもしれないけど放っておいていいのか、と。
 それに外に出ないと身体にも悪いぞ、とも。
「………了解。」
 意外にあっさりとアリーはニールの言葉を受け入れた。
 ように見えた。
 反論されないのを不思議に思いつつ、分かってくれたなら文句はない、とニールは胸をなでおろす。






 翌朝、まだ早い時間にドアの音がして、ニールは目が覚めた。
 なんだろう、と起きて行くとアリーの姿が消えていた。
「…え…?」
 あちこちドアを開けて確かめる。
「おーい…おっさん。」
 トイレも風呂場も、クローゼットや机の下まで覗いてみたが、やはりいなかった。
「…マジ?」
 ウソだろ?マジ?と何度も繰り返し、昨日のことを思い返してみる。
 アリーはニールの言葉に何も言い返さなかった。そして「了解。」とだけ言った。
「…マジ…かも…?」
 何も言わずに出て行ったのは、ニールが立て替えた金を踏み倒すためかも知れない。
 でもそのくらいのことには目を瞑ってもいい。
 本当のところは立て替えた手術費用だけでなく、今までの生活費、更には迷惑を被った分の慰謝料だって払ってもらいたいと思ってはいたのだが、この際水に流そう。
 出て行ってくれれば、万々歳だ。
 あまりの高揚に、ニールの目はすっかり冴えてしまった。
 休日だからゆっくり寝ているつもりだったが、折角だから掃除をしようと思い立った。
 何せアリーがいる間、休日もろくに掃除が出来なかったのだ。毎日散らかった空き缶やゴミを片付けてはいたが、とても掃除まで手が回らなかった。
「よっしゃ、やるかぁ。」
 久々に晴れやかな気持ちで、ニールは袖をまくった。


「こんなもんかな。」
 隅々まで掃除をして、やっと自分の城を取り戻せた。
 もう午後になってしまったが、今日はのんびりリビングで寛ごう。
 そう思っていた矢先。
 ガチャッと玄関のドアが開いた。
 ソファに寝ころんだところだったニールが起き上がる前に、ズカズカと足音が近づいてくる。
 唖然としてそちらを見ると、それはアリーだった。
「ほらよ。」
 アリーは持っていた紙袋から、リビングの小さなテーブルに向けて無造作に何かを投げてよこした。
 バサバサと紙の束が降ってきたと思ったら札束だ。
「な!?…何…これ…?」
「何じゃねえだろ、金だよ、金。」
 いや、そうじゃなく、なんだこの金額は。どこから手に入れた。大体出て行ったんじゃないのか。もしかして、金を返すためだけに戻ってきたのか。
 聞きたいことが山ほどあって何から聞いて良いのか解らない。
「……えーっと…。」
 何を言おうか考えあぐねていると、アリーは当然のように冷蔵庫からビールを出してきた。
「やっぱ借りたまんまじゃワリィかなと思ってよ。」
 そう言ってソファに座りこんで飲み始める。
「…ちょっと…多すぎると思うんだけど…。」
 これまで掛かった金額の軽く三倍はありそうだ。
 慰謝料にしたって多い気がする。
 受け取ることに躊躇してしまうのは、そんな額の現金を見たことがなかったからだ。
「これからの分も入ってるからよ、そっから適当に使ってくれや。」
「はあ!?」
 これからの分、と聞いてニールは思いっきり不服な声を出した。
 それに対してアリーは顔を顰める。
「…ンだよ。住むとこねえんだ。」
「住むとこがないってどういうことだよ!…ってか、出てったんじゃないのかよ!昨日『了解』って言ったよな!?」
「了解?…だから、金持ってきただろうが。部屋は引き払ったんだよ。」
「引き払…。」
 ニールはがっくりと項垂れた。
 なんだコイツ、言葉が通じねえ。金払えばいいって話じゃないだろ。これまで散々出て行ってくれって言った筈だ。何でわざわざ部屋引き払うんだ。そんな金あるんならそっちで暮らせばいいじゃないか。その場所がまずいなら他で借りればいい話だろう。
「…ここだって見つかる可能性があるんじゃないのか?」
 だからこの数週間、一歩も外に出なかったんじゃないのか。
「んあ?ああ、その問題なら解決済みだ。」
「んじゃあ帰れよ!!」
「だから、もう住む部屋はねえんだって。」
「他で探せよっ!!」
「ここが気に入っちまったんでな。ベッドは欲しいけどよ。」
 ソファはやっぱ体が痛くなっちまう、とアリーはぼやく。
「ベッド置く場所なんて提供しないからな。」
 いい環境で住みたかったら自分で部屋を借りろ、とニールは睨んだ。
 するとアリーは歯を向いて笑う。
「ああ、ベッドは要らねえか。お前ので充分だな。」







 結局、追い出せなかった。
 いい天気とは反対に、ニールはどんより曇り空だ。
 気晴らしに買いものでもしようと一人で街に出る。数時間だけでも抱えている問題を忘れ去りたい。
 お気に入りのショッピングモールを見て回っていると、偶然、ミサカと出くわした。
「あ…こんにちは。」
「ああ、どうも。」
 もともと顔ぐらいしか知らない相手だったが、今回のことでなし崩しに知り合いということになってしまっている。
 彼女も少々不思議には思いながらも全く繋がりのない課でもないから自分が知らなくても相手に知られていることはあるだろうと納得している風だ。
 互いに微妙な笑みを向ける。
「…で…、どう?あれから。好転したかい?」
 会釈だけで離れるのもどうかと思い、ニールはそう聞いてみた。
「…ええ…まあ…好転した…ような…しないような…。」
 曖昧な返事で溜め息を吐く彼女に、なんとなく現状の想像がついてしまう。
「…キミも大変だね…。」
 苦笑いと共にニールも溜め息を吐いた。
「…あ、ディランディさんも、何か困りごとですか?」
「ン…うーん…まあ、ね。」
『キミも』と言ったことが彼女に余計な気を回させてしまったようだ。
 仕舞ったと思いつつまた苦笑いをして見せた。

 じゃあ、と言って別れようとした時、ミサカが驚いた顔をしているのに気付いてその視線を追うと、そこには見知らぬ男が立っていた。
 その男も唖然としてこちらを見ていたかと思ったら、すぐにその表情は怒りに変貌した。
「なんだよその男は!!」
 男の言葉でそれが彼女の恋人なのだと気付く。
「ち、違うの、この人は…」
「そうか、そいつがいるから俺のこと追い出そうとしてたんだな!?」
「違うからっ、会社の…」
「デートしといて何が違うんだよっ!!」
 まるで彼女の話を聞こうとしない様子にニールも困って横から声を掛けた。
「ちょっと、落ち着けって。俺と彼女はそういう関係じゃないから。」
「お前!人の彼女取っといて偉そうな口聞くな!!」
 耳には入っているだろうに、全然理解はしていないようだ。
「だから、違うって!」
「うるさいっ!俺がプーだからって馬鹿にしてるんだろ!!ちょっと背が高くて顔がいいぐらいで威張んなよ!」
 いや威張ってないだろうと思うが何を言っても聞きそうにない男をどう宥めていいものか。
 彼女が弁解をしようと何度も「違うの」と繰り返してはいるがそれも効果がない。
 完全に自分は裏切られて捨てられるんだと思い込んでいる。
「あのなぁ…。」
「馬鹿にしやがって!コイツ!」
 呆れた風に溜め息を吐いたのがまた気に食わなかったのか、男はニールに掴みかかってきた。
「お、おいっ…。」
 男が握りこぶしを作ったのが目の端に映り、咄嗟にニールは目を瞑った。

 ガシッ!

 殴るような音が聞こえたのに痛みはない。
 訝しげにそっと目を開くと男の手は力なく離れていった。

 痛みに倒れたのは男の方だった。
 突然のことに、男も彼女も、そしてニールも唖然とする。
「人のモンに勝手に傷つけんじゃねー。」
 どすの利いた声で男に睨みを利かせているのはアリーだ。
「…な…何だよ…あんた…。」
 痛む頬を片手で押え、少々逃げ腰になりながらも男は不服げに見返した。
「なんか文句あるのかよ。」
 長身のアリーが凄みのある視線で見下ろすと、それだけで威力がある。
 言葉が静かなことが返ってその怖さを際立たせている。
 その場が、周りにいる関係ない人たちまで巻き込んで凍りついた。
 アリーが一歩踏み出すのを見てニールはハッと我に返る。
「ちょ…、待てって、やめろ。」
「はあ!?お前、今殴られそうになってたじゃねーか。」
「誤解だから、話せば分かるって。」
 ニールが間に割って入ったことで男も少し余裕が出たのか、立ち上がって「なんだよアンタ。」と顔を顰めた。
 ギロッとアリーが睨む。
 男がビクンと身を震わせた。
 順を追って説明する間にも喧嘩が始まりそうでニールは慌てて言った。
「コイツは俺の恋人だ!!」
 しん、と周りが静かになって、モールに流れる音楽だけが聞こえる。
「え…?」
「だから、コイツが俺の恋人だから、俺は彼女とは何の関係もない。ただの同僚だ。分かったか。」
 数秒の間が空いて、男は「マジで?マジで?」と繰り返してから、自分が誤解していたことをやっと理解した。
「あ、…そーなんスか、そか、…す、すいません。間違えちゃって…。」
「いや、分かってくれたならそれでいいよ。」
 じゃあ、と立ち去ろうとすると、ミサカがこちらを見て祈るように手を胸の前で組んでいた。
「そうだったんですか…。頑張ってくださいね、ディランディさん!」
 先程の「困りごと」が同性愛ゆえだと思ったようだ。
 自分で宣言してしまった手前、明らかに誤解をしている彼女に反論するすべもなく、ニールは誤魔化すように笑って立ち去った。






「嬉しいねぇ。」
 部屋に帰る途中、ニールの後ろを歩くアリーがニヤニヤと笑いながらそう言った。
「…何だよ…。」
 おおよその見当はつきながら、他に返す言葉もなくニールが聞き返す。
「『俺の恋人だ』なんてなぁ、あんなとこで言うかねぇ普通。」
「仕方ねえだろ、誤解解くには…。」
 時間を掛ければ普通に説明するだけで解決しただろうが、喧嘩になりそうだと見て咄嗟に言ってしまったのだ。
 アリーが足を速めてニールの隣で歩く。
 ニールは心底楽しげに歯を見せて笑う隣の男をうんざりとして横目で見た。
「何だよ…。」
「やっと想いが通じ合ったなあってな。」
「…どこに想いがあるんだか…。」
「そういうのは虚実の狭間にあるもんだ。」
「…また訳の分かんねぇことを…。」
 眉を顰めて視線を下げると、肩にアリーの腕が被さってきた。
「お前の嘘と、俺の真実。その間ってこった。教えてやるよ、今夜また。」
 囁き声に色を感じてニールは慌てて身を離す。
「断るっ!俺のベッドに入って来んなよ!?」
「そりゃねぇだろうが、愛しい恋人をいつまでソファで寝かせるつもりだよ。」
「愛しくねえし恋人でもねえ!!」
「嘘吐きにはお仕置きしねえとなあ。」
 一層楽しそうな顔に、ニールはしかめっ面を返して足早に部屋を目指した。



続く
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