蟻ニル

困った客


 真夜中過ぎ、ニールがもう寝ようかと寝室に入ると、その部屋のベランダから何か物音が聞こえた。
 ドサリ、と重さを感じられる音だった。

 泥棒ではないかと警戒しながらニールは窓に近づく。
 カーテンの隙間からそっと覗いても動くものは見えなかった。
(…なんだ?)
 ここはマンションの最上階だ。
 上の階から洗濯物が降ってくる、なんてことはあり得ない。
 可能性を考えてもやはり屋上から何者かが下りてきたというくらいのことしか思い浮かばなかった。

 何にしてもこのままでは眠るに眠れない。
 うん、と頷いてニールは鍵を開けた。

「誰か…いるのか?」
 ゆっくりと開けながら声を掛ける。
 ズルっと何かを引きずるような音がする。
 ドクンとニールの心臓が鳴り、緊張に身を固くした。
 一歩踏み出すと、エアコンの室外機のあたりに何かが見えた。

 鼓動が一層大きくなる。
 人だ。
 やはり泥棒や強盗の類か。
「誰だ!」
 舐められないようにと強気を装って怒鳴りつけた。
 刃物を持ってかかってきても対処できるように、身構える。
 しかしそれは微動だにしなかった。
「…おい…。」
 一歩近づいてみる。
 すると室外機にもたれていたその体が傾いて、どさりと倒れた。
 雲が晴れて月明かりが『それ』を照らす。

 ニールは息をのんだ。
 その人物は腹のあたりを血で濡らし、瞼を閉じていた。
「お、おいっ!どうした!」
 よく見えるようにと部屋の電気をつけてまた戻る。

 力なく倒れている肩を持ちあげてずるずると窓のすぐ外まで連れてくるとその男の髪が赤いことに気がついた。
 無造作に伸ばされた赤髪と同色の髭を蓄えている。
 痛みに歪んだ表情で分かりにくいが歳はそう取って無いように見受けられた。
「傷は…。」
 タンスから数枚のタオルを引っ張り出してきて傷口を観察した。
 刃物らしきものは刺さっていない。
 とにかく押さえて止血だ。
 専門的なことはわからないから救急車を呼ぶしかないだろう。
 タオルで傷を抑えながらポケットから携帯電話を出したところで、男がうなった。
「…よ…お…。邪魔するぜ…兄ちゃん…。」
「よかった、生きてるな?今救急車呼ぶから、心配しなくていいぜ。」
 そう言ってボタンを押そうとすると、男は血まみれの手をその携帯に伸ばす。
 携帯が濡れて壊れることと電話を邪魔されることを危惧してニールはその手を避けたが、男はまだ血の止まらない体を起してまで携帯を持つ手を捕まえた。
「呼ぶんじゃねぇ…。」
「なに言ってんだよ!そんな怪我、放っとけるわけないだろ!?」
「押さえときゃ血ぃぐらい止まる。」
「なにバカなことを!もし血が止まって外側の傷が治ったって、内臓やられてたら死んじまうだろうが!!」
「うるせぇ…寝てりゃ治る…。」
「んなわけねぇだろ!!」
 そんなやり取りをして、やっとニールは男が警察沙汰になるのを嫌がっているのだと気付いた。
 恐らくまともな理由でつけられた傷ではないのだろう。
 この男が悪事を働いたのかもしれない。
「死なれちゃ俺が迷惑なんだよ!死んだら警察呼ぶからな!」
「なら…どこにも掛けなくていいじゃねぇか。…俺ぁ死なねぇ…。」
「死ぬだろ!このままじゃ!」
 どっちにしたって警察沙汰にはなるんだよと諭すように言って、電話を持つ手を引き剥がそうと持ちあげた。
 しかし男の手の力は緩まない。
「病院なんて行かねぇ…からな…。用はねぇ…。」
「あのなあ!!」
「俺が用が無いってんだ…放っとけ。」
「あんたがなんと言おうと連れてくからな!」
「用がねぇのに…何で…出向かなきゃなんねぇンだ…。用があるなら…自分から来るのが…筋って…もんだろ……来いって…言ってやれ…。」
 ダメだコイツ、とニールは口を閉じた。
 病院を呼ぶなら行くのと同じじゃないか。
 いやそれ以前に、救急車が来てくれるんだから、向こうが出向いてくれてると言えなくもない。
 まともな思考力が残っていないのだろうか。
 取りあえず、しばらく待ってこの手が自由になったら電話を掛けてしまおう。
 こいつが何を言おうがプロに任せてしまえば問題はない。

 まったく、厄介なことに巻き込んでくれる。

 ニールは呆れて大きなため息をついた。









 救急隊員を部屋に入れ、男が倒れているところまで連れて行くと、場数を踏んでいるであろう彼らでさえ一瞬の躊躇を見せた。
 それがどういう意味なのかというところまではニールの考えも及ぶ余裕が無い。
 応急処置をする隊員とは別の隊員がニールに名前を尋ねた。
「ニール・ディランディです。」
「それで、彼の名は?」
「え…あ、いや、それは知らないんです…。」
「知らない?」
「ええ、寝ようと思ってこの部屋に来たら、ベランダに…。」
 説明を始めたところで、男が小さく唸った。
 隊員が声を掛ける。
「聞こえますか!?お名前は!?」
 名前が分からないと呼び掛けにくいのだろう。反応を促す意味でも何か質問をする必要がある。
「アリー…アル…サーシェス…。」
「サーシェスさんですね!?」
 コクリと頷いた。
 意識を取り戻したことにニールも少しほっとする。
 見ず知らずの人間が自分の部屋で死ぬなんて気味が悪い。
 とにかく早々に連れて行ってもらいたかった。

 ニールに質問をしていた隊員もしばし言葉を止めてそのやり取りに見入っていたが、名前がわかったことで次の質問へ移った。
「それで、どういう状況で怪我をされたんですか?」
「…いや、その…それも知らないんだけど…。」
「知らない?」
 怪訝そうな顔を向けられ、何か疑われているんじゃないかとニールは慌てて弁解をしようとした。
「あの、だから、俺はその人の事は何も…。」
「…痴話喧嘩…だ。」
 割り込んだのは、怪我をしている本人だ。
「え?」
 皆一様に頭にハテナを浮かべて聞き返す。
 すると今度は先程よりはっきりと答えた。
「ただの痴話喧嘩だ。…俺が…浮気して帰ってきたんで…そいつが半狂乱になって…。」
 一斉に隊員がニールを見た。
 その視線を受けて慌ててニールも口を開く。
「お前っ!なに言ってんだよっ!!」
「ナイフ持ちだしたそいつを落ち着かせようとして…。」
「俺は今日初めてお前に会ったんだからな!!…ホントです。俺が刺したんじゃありませんから。」
 その言葉に返すようにアリーは続けた。
「…そう、刺すつもりなんてなかったんだよな?…俺が…悪いんだ、ヒステリー起こしてんの分かってたのに近づいたりしたから…よ。」
「お前なぁ!!黙れよ!!」
「なあ…頼むからよ…事故ってことで処理してくんねぇか…。警察呼ばれちゃあ、コイツ明日から生活しにくいだろうし…。」
「滅茶苦茶なこと言ってんじゃねぇよ!俺を巻き込むな!」
 いきり立って一歩踏み出そうとしたニールを、傍にいた隊員が立ちふさがって止めた。
「まあまあ、ディランディさん、落ち着いて。」
「落ち着いていられるかっての!あんたら、そいつの言うこと真に受けんなよ!?なんで俺がこんなおっさんとデキテなきゃいけないんだ!!」
「分かりましたから、ゆっくり、話しましょう。」
 ニールが暴れることを危惧してか、隊員は肩を抱くようにしてニールの体の向きを変える。

 焦って声を大きくすればするほど、見様によっては自分の犯行を誤魔化そうとしている風にもとれる。
 怪我人とその傍らにいた人物。
 どちらの証言を信じるかといえば、今は弱者である怪我人の言うことに耳を傾けてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。

 そして、こともあろうにアリーはトドメの言葉を投げかけた。

「ニール…悪かった…本気で愛してるのは…お前だけだ…許して…くれ…。」

 部屋にいる隊員たち全員、アリーの側に立っていると空気が物語っていた。
「…畜生…。」
 小さくそう呟いてしまったこともニールの立場を悪くする。
 どうあがこうが、もう自分の罪から逃れようと支離滅裂なことを口走っている犯人にしか見えないだろう。
「あーもうっ!分かったよ!好きにしろ!でも俺は刺してないからな!!」
「…ああ、…事故だ。…俺がそう言ってんだから…いいだろ?」



 アリーの交渉で何とか警察への連絡は免れ、怪我は悪い偶然が重なった事故だということにされた。
 それでももしこのまま彼が死ねば、ニールは取り調べを受けることになるだろう。
 最悪の事態だけは避けたいと、同乗した救急車の中でニールはつい十字を切った。
 何か祈りたいことがあるときの単なる癖なのだが、それはどうやら恋人を心配する姿に見えたようだ。
 先程ニールに質問していた隊員が、『大丈夫ですよ』と優しく笑いかけた。






 怪我は幸い急所をそれていたようで、内臓にも大きな傷はなかった。
 出血は多かったが回復は早いだろうとのことだ。
 不本意にも『恋人』という立場にされてしまったニールは、仕方なく入院に必要なものを持って病院を訪れた。
 部屋に入ろうとしたところで中の話し声が聞こえて、彼はドアを開ける手を止めた。

「部屋で転んで、運悪く散らかった工具の中にナイフがあって、それが刺さったんですね?」
「ああ、そういうこった。」
「ご自分でナイフを抜いてしまったと。」
「ああ、つい、な。このまま死んだらアイツが疑われちまうって思ったもんだから。…あー…そのナイフ…あの時ベランダから捨てちまった様な気がすんだけどよ…。通行人とかに当たってねえかな。」
「大丈夫ですよ。そういう事故は起こっていません。」

 平気で大ウソをついていることに呆れてゲンナリしていると、後ろからナースがやってきた。
「どうぞ、入っても大丈夫ですよ?」
 そう言って彼女はドアを開けた。
 そして…。
「サーシェスさん、コイビトさんがいらっしゃいましたよ。」
 余計なことを言ってくれるな!と文句を言いたいが、彼女に悪気がないことは分かっている。
 ぐっと堪えて作り笑顔で病室に入った。


「さっきのは…警察か?」
 二人っきりになってから、ニールはそう訊ねた。
「ああ。」
 命に別状はなかったとはいえ、大怪我であることは変わりない。
 疑わしいところが無くても警察に連絡するのが通例らしい。
「心配しなくてもお前に迷惑はかけねぇよ。」
 ビクビクすんじゃねぇ、と馬鹿にするように言われてニールは不機嫌に返す。
「もう充分迷惑だよ。」
 思いっきり苦情を言ったつもりなのに相手は「ちげぇねえ。」と笑うだけだ。
 ニールはあからさまに顔をしかめて見せた。
「入院費まで面倒みる気はねぇからな。必要なもんは持ってきてやったから、もういいだろ。二度と俺に関わらないでくれ。」
 そう言って立ち去ろうとするとアリーは「ちょっと待て。」とベッドわきのナースコールを押した。
『どうされました?』とナースの柔らかい声が聞こえる。
 そしてアリーは言った。
「退院するから手続きをしてくれ。」


 慌ててやってきた医者とナースが出て行こうとしていたニールに詰め寄り、退院はまだ無理だと説明を始めた。
「いや、それは本人に言ってください。」
 俺は帰るんで、と逃げようとしたが、アリーが「入院費が払えない。」と言った所為でまた足止めを食らう。
 アリーは「金が無いから退院する。」の一点張りで、医者は「今は安静にしなければいけない。」と何度も言い、ナースはお金の工面がなんとかならないのかとニールに訴えた。
「家で寝てりゃ問題ねぇんだろ?看病してくれる奴もいる。」
 そう言ってアリーはニールを示す。
 病院としても費用が払えない患者を抱え込むのは歓迎できる事態ではない。
 どうしても払えないと言うならあとは安静を約束させて退院させる以外仕方が無いというものだ。
「分かりました。では、傷の処置の仕方を説明します。」
 結局ニールはその説明も聞く羽目になり、最終的に、帰りの車にはちゃっかりアリーが同乗していた。



「で?どこまで乗せてきゃいいんだよ。」
「ん?お前んちでいいぜ?」




続く
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