蟻ニル

愛しているということ




 チャイムの音に立ちあがったライルは、時計を見てふと足を止めた。
 もう夜の10時を過ぎたところだ。こんな時間に部屋を訪れる相手に心当たりはない。
 訝しがりながら玄関まで行き、念の為チェーンを掛けて扉を開いた。
「………!?」
 開けてすぐ目に付いた人影の風貌に、おや?と思う。
 そこにいたのは兄のニールだった。
「ちょっと待ってくれ。」と一旦チェーンを外すためにドアを閉める間にも、頭の中にハテナが浮かぶ。
 今のは確かに兄さんだったよな?と自問してしまうのは、兄が連絡もなしにこんな時間に押しかけるような非常識な人間ではないと知っているからだ。
 隣に誰か立っていただろうかとさっき見た兄の姿を思い出すが、ほんの少し開いただけのドアの隙間からはニールの右半身しか見えなかった。
 まさか誰かに脅されてやしないか、と一瞬嫌な想像が頭をよぎり、次にノブを回す時に少しの覚悟を要する。
 が、しかし、それは杞憂だった。
「よぉ、どうしたんだ?兄さん。」
 ニールは、ちょっとな、と言ってバツが悪そうに笑った。
 ともかく部屋の中に招き入れると、ニールは出張に行くかのような泊まり支度の風体である。益々訳が分からず、ライルは訝しげな顔を向けた。
 気まずそうなニールは、少し言い淀みつつ口を開く。
「…あ…のさ、わりぃんだけど、泊めてくんねぇか?」
「…え…まあ…別に構わないけど?」
「…ってか、しばらく置いてくんねぇかな…?」
「…え?」
 出てきたのか?アイツと別れたのか?何があったんだ?
 矢継ぎ早に頭に浮かんだ質問は、驚きのあまりすぐに口には出せなかった。

 兄の恋人であるアリーという男がどういう人物かはよく知っている。速攻別れたって不思議ではないとライルは思っていたが、何故だか二人は気が合うようで、のろけ話こそ聞かないものの、それなりにうまくやっているようだった。
 何度喧嘩をしてもその度にニールの方が折れて元の鞘に戻る、の繰り返し。それはそれで二人が繋がりを切らないためのレクリェーションになっていて、アリーを良く思っていないライルから見ても二人の関係は良好に思えた。
 何より、こんな風に家を飛び出してくるなんて初めての事だ。

 どうしたんだよ、という弟の問いにもニールは暫く黙っていた。
 出されたビールをちびちびと飲む様子はやはり暗い。
「…ま、いいけどな。俺はアイツのこと気に入らねえし。」
 興味無さ気にライルが質問を引っ込めると、何か言いたそうに視線を泳がせる。
「…そ…か…そだな。あんな奴…。」
 兄の言葉に少々面食らいながらも、ライルは促すでもなく肩をすくめて立ち上がった。つまみになるものがないかと冷蔵庫の中を探る。
 そのライルの背中に、届くか届かないかというくらいの声で、ニールはポツポツと喋り出した。
「…出ていくって、言って…出てきた。」
「ふーん?」
「…止めもしなかったんだ…アイツ…。」
「ふーん?」
「…もう…いいや…。どうせ…その程度なんだ…。」
「そうか。なら、いいんじゃねえの?あんなオッサンに兄さんは勿体ないよ。」
「…あはは…だよな…。」
 力なく笑うニールに、ライルはつまみを差し出した。
「食べて飲んで忘れちまえ。」
「…ん。サンキュ。」


 いつもの事だけどさ、とニールは夜半過ぎになってから、ようやく喋り出した。
 アイツの気持ちが分からない、好きとも愛してるとも言ってくれない、自分の思うようにしか動かない様子は大事にされているとは思えない。
 そういう愚痴は度々言っていたことだった。だから別段今回の事が特別な事態だと、ライルには思えない。それがどうして別れ話にまでなってしまったのか、単にニールの我慢の限界が来てしまったということだろうか。
『そんな言葉を言ったところでどうなるってんだ。』とアリーが言ったという。それにニールが喰い下がり、『俺が言って欲しいんだから言ってくれたっていいだろ。』と怒りを向けた。
「…したらさ、アイツ、『へいへい、愛してる愛してる。』って、面倒臭そうに言って行っちまうから、また腹が立って…。」
 その後は、ちゃんと言え、言っただろうが、の応酬だ。まあ、よくある話だと言えるだろう。
 普段ならそこでニールが諦めて、次の日には喧嘩もなかったことのように日常が繰り返される。
 しかし、この日ニールはふと思ってしまったのだ。
 別れ話を持ち出せばアリーも少しは分かってくれるんじゃないか、と。
「…なんだよ…。引き止めて欲しかったのか。」
「当たり前だろ!?」
 ライルはこっそりと呆れた溜め息を吐いた。
 もう随分長く共同生活をしているくせに、相手の性格を分かっていないのか、とライルは思う。
 あの男の事だから、そんな駆け引きめいた行動はすぐに見抜いてしまい、芝居掛かった馬鹿げたやり取りになど付き合わないだろう。かえって意固地になりそうなものだ。
「…んー…まあ、気持ちは分かる。気が済むまでここにいていいぜ。」
 ニールは拗ねているだけだろう。もしかしたら1日2日で帰る気になるかもしれない。
 数日の事なら兄の我儘に付き合ってやってもいいか、とライルは味方になってやることにした。



 ガチャッと玄関が開く音に、ソファーで寛いでいたアリーは少し身を起こした。
 見慣れた姿に一瞬頬が弛みかけるが、すぐにむすっとした表情に変わる。
「…てめー、人んちに勝手に入ってくんじゃねぇよ。」
「わりぃな、兄さんに忘れ物取って来てくれって頼まれちまってさ。」
 チッという舌打ちと共に「好きにしろ。」と一言言うと、アリーはソファにだらしなく寝転がった。
 構わずライルは目的を果たすべく部屋の中をうろうろする。
 こまごまとあれこれ頼まれたものが本当にわざわざ取りに来なくてはいけないものだとは思えなかったが、多分アリーの様子を探ってきて欲しいということだろう。
「なー、兄さんの枕どこだ?」
「ベッドに乗ってんじゃねーのか。」
 言われて寝室に行き、枕を持ち上げると、すぐ後ろからアリーが何やら差し出した。
「これ…持ってけ。」
「ん?」
 受け取ってみれば、それはピローケースだ。
「アイツの気に入りだからよ。」
 言ってまたリビングに戻っていく。
 ライルはクスリと笑ってその後を追った。
「なあ、迎えに来てやってくれよ。兄さん、拗ねてるだけだからさ。」
「ンでだよ。餓鬼じゃねえんだ。戻りたかったら自分で帰ってくりゃいいだろうが。」
「それが、なんか今回頑固でさ。全然帰ろうとしないんだって。」
 ふーん、とアリーは興味無さ気に相槌を返す。
 ライルは肩を竦めた。
「大体アンタもさ、一言『愛してる』って言ってやりゃあ納得する相手に、なんで言ってやらないかねぇ。」
「うるせーな。テメーにゃ関係ねーだろうが。」
「関係なくないね。家に押しかけられて、プライバシーの侵害だっての。」
「兄弟だろ。大目に見ろ。」
「まあね、でも連日愚痴を聞かされる身にもなってくれよ。」
 半分は本音だ。気ままな一人暮らしをしていたライルにとって、部屋に誰かいるというのはどうも居心地が悪い。勿論、傷心の兄を放り出す気はさらさらないのだが。
 ライルの身になって考えたわけではないだろうが、アリーは暫し黙った。
 そしてボソッと呟く。
「アイツが好きで出て行ったんだ。好きにすりゃあいい。」
「だから、それは…。」
「このままアイツが戻る気をなくして違う生き方を選ぶんなら、その程度だったってこった。なら、新しい相手見つけたほうがアイツの為だ。」
 あれ?とライルは目を見開く。なんだか別人の言を聞いているかのようだ。
 ププっと笑って見せて、ライルは言った。
「あんたがそんなセンチメンタルだったとはな。『俺はアイツを幸せにしてやれないから身を引きます』ってか?」
「ばっ!!ふざけんな!!俺は好きで出ていった奴を迎えに行ってやる気はねえって言ってんだ!!」
 はいはい、といい加減な返事をすると、アリーは思いっきり顔を顰めた。
「用が済んだならさっさと帰りやがれ。」
 あはは、と笑いながらライルは背中を向けた。ドアを開けて振り返り「伝言あったら伝えるけど?」と聞いてみる。
「…じゃあ、『お幸せに』とでも言っとけ。」
 ライルは肩を竦め、何も返事をせずに部屋を出る。

 そんな伝言を伝えたら関係修復がさらに難しくなりそうだ。
「…別に…俺はそれでも構わねえけどな。」
 別れさせるなら、伝えるのもいいかもしれない。
 そんなことを考えてから、その思考を笑った。
「…ねぇな。」
 たとえ自分があの男を気に入らなくても、兄が幸せなら何も言うまいと心に決めたのは数年前の事だ。
 自分が関わるべき問題ではない、とライルは確認するように胸の中で唱えた。



 一週間が過ぎた週末、ライルは帰るなりニールに「話がある。」と切り出した。
「わりぃんだけど、俺も俺の生活があるからさ、…出てってくれねーかな…。」
 心を鬼にしてそう言ったのは、部屋に居座られることに嫌気がさしたわけではなく、兄を気遣ってのことだった。
 ニールは意地になってアリーに会おうとしないため、日に日に暗い思考が溜まっていくように見えた。
 別れて、すっぱり気持ちを切り替えて生きていくというのなら、どれだけでも協力するつもりはあるが、今のニールにその意思はない。ならこの状態が続くのは、ニールにとっていいわけがないのだ。
「…そ、そうか、そうだよな。わりぃ、世話になりっぱなしで…。」
 ニールは苦笑いで頭を掻いた。
「明日にでも部屋探しに行ってくるよ。ほんと、悪かったな。」
 ライルは「その必要はない。」と首を振った。
 訝しげなニールに、種明かしをする。
「部屋を探さなくても、今日迎えが来る。荷物を纏めて待ってろよ。」
「え…?」
「来るって言ってたから。準備しとけよ。」
 途端、ニールが複雑な表情になった。
 不安と期待、意地と本音。
「…マジで…迎えに来るって言ってたのか?」
「ああ。」
 夕飯もそこそこに、ニールは荷物をまとめ始めた。
 纏めておいて一息つくと、「口だけで、来ないんじゃねーの?」と笑った。


「…期待した俺が馬鹿だった…。」
 そう言ってニールは荷物を蹴飛ばした。
 もう夜も遅いのに、アリーは一向にやって来ない。
「おかしいな…。」
「別におかしかねえよ。いつも通り、気が向かないから来ないだけだろ。」
 ニールはすっかりしょげてしまった。
「ちょっと電話してみるから。」
「いいよ。ンなの。」
 どうせ俺のことなんて、とぶつぶつ言っているニールを余所に、ライルは電話を掛ける。

 数回のコールでアリーは電話口に出た。
「おい、来いって言っただろ。」
 開口一番そう言うと、受話器からの反応が薄い。
「聞いてんのか?…おい、オッサン………おい、……アリー?」
 様子がおかしい事に気が付き、ニールはライルの方を振り向いた。
「もしもーし!…ああ、聞こえてんのか。どうかしたか?」
「…どうかしたのか?アリー。」
 話しかけたニールを手で制して、ライルは受話器にしっかりと耳を当てる。
「え?…熱?んなもんちょっとぐらい……はあ!?」
 突然ライルの声が大きくなり、ニールは嫌な予感に立ちあがった。
「わかった!!すぐ行くから!待ってろよ!?」
 ガチャンとライルは乱暴に受話器を置くと、即座に車の鍵を手に取った。
「兄さん、荷物持てよ!行くぞ!」
「ど…どうしたってんだよ。」
「アイツ、40度の熱で動けねえって。」



 どうやらライルが迎えに来いと電話した時から、アリーは調子が悪かったらしい。
 一方的にまくしたてるライルに断りの返事をする気力もなく、了解してしまったのだろう。
 二人が部屋に着くと、アリーはベッドにも入らず、ソファの上で毛布をかぶって寝ていた。
「…よお…わりぃな。迎え行けなくって…。」
 朦朧とした様子でそんな事を言う。
「んな状態で車の運転なんて出来ねーだろ。」
「…んー………?」
 ライルが返した言葉は理解できなかったようで、唸るような声を上げただけで目を閉じてしまった。
「ア…アリー…?大丈夫か?」
 おずおずとニールが声を掛けるが、もう反応はない。
「アリー!」
 ゆり起しそうな勢いのニールの肩を、ライルが掴んで止める。
「取り敢えず、ベッドに運ぼう。ここじゃ寒い筈だ。」
「あ、ああ。そだな。」


 一晩寝ずの看病をして、朝方やっと体の熱さが退いてきたようだった。
「大丈夫か?兄さん。ちっとは寝ろよ。俺はさっき仮眠したからさ。」
「ん…。」
 返事はするものの、ニールはそこを動こうとしない。
「…言っとくけど、兄さんの所為じゃないと思うぜ?」
「…でも…。」
「いい大人が、一人だからって不摂生して体壊したんだろ?自業自得。」
「…う…うん…。まあ…な。」
 それでもニールはベッドから離れる気になれなかった。
 自分が意地張って留守にしてたから、生活のリズムを崩して病気になったんじゃないだろうか。
 確かに体調管理は自己責任だけれど、病気になるような状況を作り出したのは、他ならぬ自分だとニールは思う。
「…ここにいたいんだ…。」
 そう言って、椅子に腰かけたまま、ベッドに突っ伏した。
 また泣くのだろうと、ライルは哀しげな眼で見遣ったが、次の瞬間、ニールは眠りに落ちていた。



 アリーが起き出してきたのは昼近くなってからだった。
 悪かったな、とだけ言って、食べる物を漁り始める。
「腹減ってんのか?…粥ぐらいのが良くねぇ?昨日ロクに喰ってないだろ。」
「…あー………まあ、な。」
 ライルに気使いを向けられるのが居心地悪いのか、アリーの返事は歯切れが悪い。
「兄さんまだ寝てたか?」
「ああ、ちゃんと自分のベッドで寝ろって言ってやれよ、弟。」
「俺が言ったって聞かねえんだから、仕方ないだろ。誰かさんが一言声掛けてやりゃあ…。」
「俺は寝込んでただろうが。」
「昨日の事じゃなくってさ。」
 例の件だと分かり、アリーはチッと舌打ちをした。
 カウンターの椅子に腰かけているライルは頬づえをついてニヤついている。ここぞとばかりに痛いところを突くつもりだろう。
 大体な、とアリーは不機嫌な顔を向けた。
「俺のものじゃねえ言葉をこの口から出して、意味あんのかって話だ。」
「知らねーよ。あるんだろ、兄さんには。」
「俺が思ってもいねえ事を言わされて言って、それを俺が思ってる事だって信じるのか?」
 おいおい、とライルは顔を顰める。
「それってつまり、アンタは兄さんを愛してないってことになるぜ?問題発言だな。」
 また、チッと舌打ち。
「んな取って付けたような言葉で済むもんかよ。」
 訝しげに首を傾げているライルはアリーの言葉を理解できないらしい。
「…んー…つまり?」
「お前は分からなくてケッコウ。」
 何だよ、とライルが言い返すのと同時にリビングのドアが開いた。
 気まずそうにニールが入ってくる。
「…おはよ。…アリー、大丈夫なのか?」
 返事をしないアリーの代わりに、ライルが「ああ。」と答えた。
「放っといても良かったかもな。」
「言ってろ。」
 ライルの揶揄には即言い返すアリー。
 その様子から、アリーも実は拗ねていたのではないかとライルは思う。じゃなければ、もっと普通に接することが出来る筈なのだ、この男なら。
 そんな事を考えていると、すぐ傍まできたニールがカウンターを挟んでアリーに向かって立つ。
 緊張した面持ちで、頭を下げるように少し俯いた。
「アリー、…その…やっぱ…ここにいていいか?…アンタの…傍にいたい…。ここに居たい。」
 一分ほどの沈黙が流れ、重苦しい空気を崩すようにアリーがキッチンから出てきた。
「好きにしろ。」
 ポイッと車の鍵をライルに向かって投げる。スタスタと歩く様子は、何もなかったかのようだ。
「運転しろ。旨い中華料理屋がある。」
「…だから、アンタ病み上がりだろって。」
「もう動けるし腹も減ってる。あそこの粥なら喰ってもいいって気分だ。」
 慌ててニールが後を追う。
「だ、大丈夫なのか?」
「腹が減って死にそうだ。行くぞ。」
 二人の後を、呆れたようにライルは付いていく。…と、アリーは心配そうに追いすがるニールから顔を背けたまま、手を掴んだ。

 後ろで見ていたライルも呆気にとられたが、ニールはさらに驚いた様子だ。
 ボソッとアリーが言った。
「嫌なら振りほどきゃあいい。」
 驚きと喜びで、ニールは破顔する。
「OK。」
 ギュッと握り返したその手を、ライルは見逃さなかった。


「ま、お幸せにってとこかな。」



fin.
18/24ページ
スキ