蟻ニル

a token of love


 もう日の高い時間、ニールはふらふらとベッドから起き出した。
 リビングに行ってみると、アリーは悠々とソファで寛いでいる。
 その姿を恨めしく思ってしまうのは、昨晩のことがあるからだ。
「よお。動けるのか?」
 ニッと歯を剥いてアリーは振り返った。
「…まあな。」
 週末はいつも手加減がない。
 平日を避けているだけまだマシだが、それにしたって毎週くたくたになるまでセックスに付き合わされるのは勘弁してもらいたい。
 ニールはゲンナリしながら冷蔵庫を開けた。
 ミネラルウォーターを出してカウンターに凭れかかる。
 ぐびっと一口飲むと唸った。
「なあ…。」
「ンあ?」
 いつも通りの面倒臭そうな返事が返る。
「…一晩に何回もすんの…やめねえ?」
「はあ?何でだよ。」
 何でだよじゃねーよ、とニールはむくれた。
「つれえんだよ、次の日が。毎週じゃねーか。折角の休みが少なくとも半日は潰れちまう。」
「別にいいじゃねえか。もう一日あるだろうが。大体それ、俺の所為か?」
 シレっとそんな事を言う。
「アンタの所為に決まってんだろ!?いつも好き勝手しやがって!」
 怒りにまかせて、凭れていた体を起すと脱力によろけてしまった。
 それをアリーは楽しげな目で見て、揶揄するように言う。
「お前のイク回数が多いのは、堪え性がないからだろ?」
「!!」
 ニールの顔がカッと赤くなった。
 ニヤニヤとそれを眺めるアリーはさらに続ける。
「『イかせてくれ』ってせがむからなぁ、仕方ねえよな?」
「ばっ………。う…うるせえよ!」
 否定できないのが悔しくて、ニールは近くにある空のペットボトルをアリーに向かって投げつけた。
 アリーはクッションを盾にして難なく避ける。
「まあ、おかげで楽しませてもらってるけどよ。」
 ニヤニヤ顔の治まらない相手に苦りきった顔を向けつつ、体を休めようとニールはソファに辿り着いた。
 これ以上何か言ってもからかわれるだけだと解ったから、言いたい文句も口に出せない。
「なんだよ。もうぐうの音も出ねえってか?」
「いいよもう…。」
 まだ言葉の攻防を続けようとしていたアリーは少々残念そうだ。小さく肩を竦めてからテレビのリモコンを操作し始めた。
 特に興味の湧かない番組がいくつか映し出され、最後のチャンネルをそのまま流し続ける。
 BGMでしかないその音は無視して、アリーは新聞に手をやった。
 その様子を眺めるにつけ、ニールは自分の疲労感からかけ離れた相手の快調っぷりに呆れる。
 この男の相手を対等にできる人間なんているんだろうかとさえ思う。
 自分よりかなり長い人生を送っているのだから、過去に恋人の一人や二人、いや、10人だっていてもおかしくない。
 一体どんな奴と付き合ってきたんだろう、と素朴に疑問がわいた。
「…アンタさ、…女を相手にすることもあるのか?」
 突然の問いに、アリーは不意を突かれたような顔をした。
「…まあ、気に入りゃあな。」
 他意なさげに返ってきた答えに、単純に「そうなんだ。」と相槌を打つ。
 別に男限定ってわけじゃないのか、とひとりごち、それが解ってしまうと急にライバルが増えたような気分になってきた。
「…もしさ…。」
「んあ?」
「…今、『気に入る女』と出逢ったらどうする?」
「はあ?…ん~…まあ、気にいりゃあヤるんじゃねえの?」
 あっさりと思ったとおりの答えが返ってきた。
(…やるのか、やっぱ。)
「…で?」
「…でって?」
「…だから、そのあと…俺と別れたり………。」
 拗ねたようにそう言うと、アリーは意外そうな顔を向けた。
「なんだよ、そういう話か。」
「…だって、気に入った女、だろ?」
「一夜限りの相手の話かと思ったんだよ。」
 そういう話だと思い込んだのは、ニール以上の相手に出逢うとは思っていないからだ。
 でもそれを言う気はさらさらない。
 そうとは知らず、ニールが首を傾げた。
「…気に入った相手が一夜限りなのか?」
 気に入るということは、それなりに相手に想いを寄せるということで、それがどうして一夜限りなのだろう。そんな風にニールは思う。
 その疑問がアリーには理解できないらしく、訝しげな顔をする。
「だから、性欲処理によさげな相手って話かと思ってよ。」
 性欲処理と聞き、ニールは眉を顰めた。
「…そういうの、良くねえと思う。」
「なんでだよ。別に無理やりやるわけじゃねえぞ?意気投合して、納得ずくでってことだ。問題ねえだろうが。」
 浮気という観点からいえば問題大有りなのだが、会話の流れでニールは道徳的な話に気を取られている。
「良くねえだろ!?そういうのは、大事な相手とするもんじゃねえの?」
「性欲処理は別にいいだろうが。」
 やっぱそういう奴だよなとは思うのだが、納得がいかない。
「だから、そういうことを好きでもない奴とやるってのどうかと思う。」
 はあ!?とまるっきり言っている意味が解らないというような声を返され、何か間違ってるか?とムキになって言い返してしまった。
 数秒の沈黙で互いに意見の相違を認識する。
「じゃあ…アンタはどっかで性欲処理してくれば?そうすりゃ俺は疲れなくて済むし。」
「…そうかよ。」
 返された言葉が短いことにドキリとした。
 怒るだろうと思ってはいたが、それは怒って否定してくれればいいと思っての事だ。
『お前以外にそんな相手はいない』と言って欲しかっただけだ。
 しかしアリーは不機嫌に立ち上がった。
 バサッと捨てるように新聞を投げ落とし、ドアの方に歩いて行く。
「………アリー…?」
 呼びとめるほどの強さの無い声で名を呼ぶと、アリーは足を止めた。
「…つまり…お前にとっちゃセックスってのは性欲処理なわけだ。」
 何を言われたのか解らなかった。
 確かにそういう欲求を満たす行為がセックスなわけで、アリー自身そういう目的で誰かを抱くのだと言ったばかりだ。
『浮気をしてくれば?』というさっきの言葉に怒っているのではないらしいアリーの不機嫌の原因が、ニールには解らない。
「…そういう言い方はないだろ?」
 まるで愛の無いセックスをしているかのような言われ様に、ニールは少なからず傷付き、それ以上何も言えなかった。





 アリーは飲みに行くと言ってあのあと出掛けてしまった。
 夜になっても帰ってくる様子もなく、連絡もない。
 きっと誰かの家に泊まるのだろうと、ニールは諦めて寝ることにした。
 ベッドの中で丸まると、暗い思考ばかりが頭の中を駆け巡る。
「なんだよ…。」

 何か悪いことを言ったのだろうかと考えても思い当たらない。
 どちらかというと、堂々と浮気を宣言したのはアリーの方で、怒るべきは自分の方なのではないかとさえ思う。
 そりゃ別の人間なんだから、考え方の違いぐらい予想はしていた。元よりアリーは自分本位なのだ。
 だからって、気に入った相手が見つかればセックスをすると言った奴が、それは間違っていると正そうとした恋人に腹を立てるのはお門違いというものではないのか。

 そんな事ばかりを考えて、うとうととしては目覚め、目覚めてはまた睡魔に襲われ、の繰り返しだった。
 そして夜半過ぎ。


 ガチャリと鍵の音がして、ニールはまた覚醒した。
 朝まで帰らないだろうと思っていた恋人は意外に早い時間に帰ってきた。
 少し悩んでからベッドから起き上がる。
「おかえり。」
 寝室のドアを開けて通り過ぎる相手に声を掛けると、向こうは一瞥しただけだった。
 まだ怒っているらしい。
 ニールは溜め息をつきつつその後ろに続いた。
「…どこで飲んできたんだ?…今日は帰らないかと思った。」
 反応の薄い恋人に、一言でも返してほしくて言葉を掛ける。
 するとアリーは不機嫌な顔のまま振り向いた。
「性欲処理してきただけだ。…じゃあな。寝る。」
 そう言って隣の部屋に入る。有無を言わせずドアは閉められた。
 ふるふると唇が震えた。

 何でこんな拒絶されてんの?

 ドアの前でニールは立ちつくす。
 立ち去ることも出来ず、ただ、ドアを見つめた。






 アリーは最悪な気分でベッドに寝転んだ。
 気晴らしに遊びに行き、適当な女を見つけたまでは良かったが、それが意外に気に障る女だった。
 顔はいいが化粧の濃い淫乱女。
 普段なら行為の最中だろうが何だろうが、気に食わないと思った時点で放置して出ていく。
 しかし今日はニールへの苛立ちが帰る気を殺いでしまった。
 性欲処理にしたって最低な状態だ。

 暫くそういう事から遠ざかっていたせいで人を見る目が落ちたのかもしれない。
 チッと舌打ちして目を瞑る。
 寝てしまおう。そう思った矢先。

 カチャっとドアが開いた。
 開けたのは当然ニールだ。
 アリーは眠りについたふりをして、無視をした。
 寝ていれば何も言わずに立ち去るだろう、と見越して。

 ベッドに掛かった重みにアリーは思わず目を開けた。
「…何か用か…。」
 振り向きもせずそう問う。アリーの背中側にニールは膝をついていた。
 やや間が空いてニールが答える。
「…ここで寝る。」
 そう言ってもぞもぞと潜り込んでくる。
 アリーは唖然として少し身を起こして振り向いた。
 浮気をしてきたと言ったばかりだというのに、何でそんな事が出来るのか。少々神経を疑いたくなる。
 勿論浮気をしてきた手前そんな事は言えないのだが。
 そんな思考には少しも気づかない様子で、ニールはぺとっと寄り添った。
「…変なにおい…。」
 そんな事を呟く。
 しっかりとベッドに入ってしまった恋人を追い出す気にもなれず、アリーは仕方なく元のように体を沈めた。
「…ケバい女だったからな。」
 行為の後にシャワーは浴びてきたのだが、別れ際まで女はべったりと寄り添ってきた。
 そんな女の行動も、気分の悪さの原因だ。
 その臭いにニールは何も感じないのだろうか。
 だとしたら益々不愉快だ。

 浮気をしてこいというような事を言ったのは強がりだと思っていたが、もし本心だったら。
 そして少しの嫉妬心も起こらないのだとしたら。
 いや、それ以前に。

 ニールにとって、自分との関係が、浮気のそれとなんら違わないのだとしたら。

 また胸の奥がざわつくようなイライラが甦ってくる。

 ベッドから抜け出して酒でも飲もうかと思い始めた時、背中がじんわりと濡れた感触がした。
 ひくっと嗚咽が漏れる。
 ニールが泣いているのだと分かり、体を起こすのを諦めた。
「…ンだよ…。」
 少なくとも嫉妬はしているようだと少し安心しながら声を掛ける。
 ニールの返事は途切れ途切れで聞き取りにくかった。
「…れじゃ…なのか?」
「ん?」
「俺じゃ…満足……でき…」
 なんとなく言いたいことが解って、アリーは肘をついてニールの方を向いた。
「なんだって?」
「俺じゃ…ダメなの?…俺とやっても…性欲処理にもなんねえの?…だから…他の奴と…やんの?」
 馬鹿だろお前、と言いそうになる。
 ベッドで執拗に攻め立てるのは、そんな理由じゃない。
 アリーにとって性欲処理とニールとの関係は全く別物だ。
 それを口に出して言わなくてはいけないのかとアリーは溜め息を吐いた。
 あれだけ全身全霊で『愛して』いるのに何故伝わらないのか、と。
「…ニール…。」
 泣き顔を伏せて見せないようにしているニールの前髪を指に絡めて顔を上げさせる。
 こっちを見ろ、と鼻先を眉間にすり寄せた。
 涙にぬれた瞳が遠慮がちに向けられた。
「お前の体で性欲処理なんて勿体なくて出来ねえよ。」
 瞳が不安に揺れる。
 まだ理解には程遠い。
「…バーカ。お前は別格だって言ってんだよ。他の奴なんて足元にも及ばねえって。」
「…馬鹿だよ…どうせ…。」
 拗ねてそう返しながら、ニールはアリーの言葉を反芻していた。
 暫く考えに入り、そしてようやく納得したらしい。
「何か言うことあんだろ?」
 言って抱き寄せてキスをしようとしたアリーの顎を、ニールはグイッと押し上げて阻止する。
 ニッと笑って見せるアリーに、ニールはぷうっと膨れて見せた。
「今度浮気してきたら、エッチさせてやらないからな!」
「了解。つまり、今回はいいってことだよな。」
 また近づいてきた顔を再び阻止。
「ンな変な臭いさせて俺にくっつくな!!」
「くっ付いてきたのお前じゃねーか。…しゃーねーなぁ…。」
 めんどくせー、とボヤキながら、アリーはベッドを抜け出した。
「シャワー浴びてくるから、寝ちまうなよ?」
「知らねー。寝ちまうかもー。」
 ニールは枕を抱き寄せて丸まった。
 枕には幸い臭いは移ってない。
 いつものアリーの匂いに安心して、ニールはまどろみ始めた。


fin.
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