蟻ニル
位相日常
アリーは目の前の光景に唖然とした。
所用で家を出たのは、つい数時間前だ。
用事を済ませて帰ってみれば、キッチンに立っているニールは赤ん坊を抱えていた。
「…なんだ?その餓鬼。」
しかめっ面でそう聞くと、ニールは事も無げに答える。
「お隣の旦那さんが預かってくれってさ。なんか大変そうだったから。」
答えながら、彼はミルクを作るべく粉ミルクを量っていた。
赤ん坊は抱っこひもの中で悠々としているが、慣れない重りが身体にくっついているニールは少々動きにくそうだ。
「いつ迎えに来んだよ。」
「んー…それがさ、」
返答に困っている様子に嫌な予感を持ってしまう。
厄介なことに巻き込まれるんじゃないかとアリーはさらに顔を歪めた。
赤ん坊を連れてきた隣の男は、いかにも慌てた風で「必ず迎えに来るから預かってくれ。」と懇願するように言った。
なんでも夫婦げんかの末、奥さんが飛び出して行ったらしい。
行き先の見当は付いているものの、子供の世話に慣れていない父親が連れ歩くには少々遠く、さらに喧嘩を治めて説得をして連れ帰るとなると、子供は預けて行った方が無難だと結論付けたのだろう。
「仲直りする気があるんなら元の鞘に戻れるだろ?ちょっと手伝ってやってもいいかと思ってさ。」
明日の夜には帰ってくると言い置いて男は出て行ったという。
「餓鬼の世話なんて出来んのか?何かあったらどうすんだよ。」
「電話の横のメモ。番号あるだろ?何かあったら掛けてくれって。」
哺乳瓶に作ったミルクを手首に垂らして温度を確かめて、ニールは傍にある育児書に視線を落とす。
何度も読んだ項目をもう一度確認してから、赤ん坊に笑顔を向けた。
「ほーら、ミルクだぞ?」
その楽しげな顔を呆れたように見て、アリーは電話を手に取った。
「…ったく、文句言ってやる。」
メモの番号を押す。
「やめてくれよ、一旦預かっちまったんだからさ。いいじゃないか、一日や二日。」
「一日や二日で済めばな。」
困り顔のニールを余所に、アリーは番号を押し終えて受話器を耳に当てた。
ニールは哺乳瓶に吸いついている赤ん坊を見下ろして、「いーじゃねーか、可愛いし。なぁ?」と拗ねたように話しかけている。
大体こんなことでもなければ子供の世話なんて一生せずに終わるかもしれないのだ。
ほんの少しの間でも親の真似事が出来るなら、してみるのも悪くない。
それに、ニールにとってその赤ん坊は、死んでしまった妹を柔らかな回想で思い出す媒体でもある。
死を思い出すのは苦しい事だが、誕生の記憶は温かい。
家族が増えた喜びを、ニールは思い起こしていた。
カチャ、と静かに受話器が置かれたのを、ニールが不思議そうに見やった。
電話越しに怒鳴り散らすどころか、会話をした様子もない。
もしかして自分の気持ちを察して苦情を言うのをやめてくれたのだろうかと表情がほころびかけたところに、トーンの低い声が発せられた。
「おい…」
「え?」
「…その餓鬼、捨てられたかも知んねえ…。」
「…え?」
「この番号、繋がんねえぞ。」
リビングに置かれたクーファンの中で、赤ん坊はスヤスヤ眠っている。
その傍らで途方に暮れた男が二人、途切れ途切れに会話をしていた。
「だから、警察に連れてけって言ってんだろうが。」
「だってさ…。」
先程からニールは、まだ捨てられたと決まったわけじゃない、電話番号は間違っただけで騙すつもりはなかったかもしれない、と繰り返している。
それに対してアリーは、付き合いの少ない相手に子供を預けていったこと自体おかしい、今頃夫婦そろって羽根を伸ばしているに違いないと言い放った。
「明後日からどうすんだ。仕事だろうが、お前だって。」
「…う…うん、そうだけど…。」
「大体、男二人の家に餓鬼預けるなんて非常識だろうが。」
「慌ててたんじゃねーかな…。」
仕事を持っている相手に子供を預けていけば、早期に警察に身柄が移ってその後施設へと預けられるだろう。その事を見越していたのではないかとアリーは言う。
逆に慣れた主婦に預けてしまうと、数週間、下手をすれば月単位で世話をし続けてしまうことも考えられる。
盛大な溜め息と唸り声を吐きだし、アリーはガシガシと頭を掻いた。
その不機嫌な様子に焦り、ニールが慌てて言った。
「明日…、明日迎えに来なかったら、…警察に連れてく…。」
うん、と自分で納得するために頷く。
仕事があるのだから、そうするしかない、と。
その言葉に今度は安堵の溜め息を吐き、アリーは了承の返事を返した。
そうして次の日。
夜になってもやはり迎えは来なかった。
あれから渡された電話番号に何度か掛けてはみたが、繋がることはなかった。
エリザベス、と赤ん坊の名を呼ぶ。
何処かの女王みたいな大層な名前を付けられて可哀想にとアリーが揶揄した名前だが、それがこの子の名だ。
その名を付けた筈の親が今何を考えているのか、ましてやその名前にどんな思いを込めたのかなど知る由もない。
それにニールにとっても、その名は目の前の赤ん坊の名前以外の意味は持っていない。
「何してんだろうな、お前のパパは。」
面倒くさそうに「警察に連れて行け」とだけ言い置いてバスルームに入って行ったアリーが出てくるまでに出かけた方がいいだろうとは思いながら、ニールは立ち上がれずにいた。
捨てられたなどとは考えたくなかった。
身寄りのない自分と同じ、いや、それ以上に不幸な人生をこの子が歩んでいかなくてはならないのかと思うと不憫でならない。
ニール自身、両親と妹を同時に失って双子の弟と二人で辛い時期を過ごしたが、それを乗り越えられたのは両親に愛されていたという自信があったからだ。
死んでしまった両親は、きっと子の行く末を案じていただろう。
でもこの子は、とニールは溜め息を吐いた。
親が死んだわけではない。
元気に生きていて、もし本当に捨てて行ったとすると、子の行く末など気にも掛けていないだろう。
可哀想過ぎる、と眉根を寄せて目を瞑り、意を決した顔で受話器を取った。
「はい、はい、すみません、急に。はい、では、失礼します。」
アリーが風呂から出てきてもまだ居る赤ん坊に顔を顰めると、ニールは受話器を置いて明るい顔を向けた。
「俺、一週間仕事休むから。」
「はあ!?」
先程の電話は上司に向けてのものだったらしい。
「いいんだよ、今暇な時期だからさ。」
「馬鹿かお前!?なんで仕事休んでまで他人の子供の面倒見なきゃなんねーんだよ!!」
いいんだよ、ともう一度言って赤ん坊を抱き上げる。
「きっと仲直りに時間掛かってんだ。な、パパとママ、喧嘩したんだもんな。」
話しかけ、鼻先で腹のあたりをくすぐると、赤ん坊はきゃらきゃらと笑い声を立てた。
「あと一週間ぐらい待てるよな?」
そう笑いかけるニールに答えるかのように、小さな四肢をバタつかせている。
捨てられたわけじゃないという確証はない。
むしろ、状況的にはアリーの言の方が的を射ているだろう。
それでも淡い期待を持たずにいられなかった。
それに、とニールは思う。
もし捨てていったのだとしても、もしかしたら一週間経つ間に考え直して帰ってくるかもしれない。
それもまた希望的観測にすぎないのだが。
「俺は知らねえぞ。」
「分かってる。俺が面倒みるから。」
チッと舌打ち一つ、アリーは寝室に去って行った。
「仲良くやろうな、エリザベス。」
ニールは愛おしげに赤ん坊を抱き締めた。
一日目の晩は良く寝た赤ん坊が、その夜から何故か夜泣きが始まった。
親がいないことに気付いてしまったのだろうかと、ニールは心を痛めた。
寝室に連れて行くわけにもいかず、リビングに陣取ったクーファンの傍のソファで横になる。
うとうとしては泣き声で起こされるの繰り返しだった。
「とんだお人好しだな。」
朝になって起きてくれば、眠そうにしながらミルクを作るニールがいた。
それを見てのアリーの一言だ。
寝不足の顔でニールは苦笑いとも自嘲の笑みとも取れる表情を向ける。
「わりーけど適当に朝食食ってってくれよ。」
「言われなくても食ってくに決まってんだろ。」
不機嫌にそう返してアリーは食パンをトースターに放り込んだ。
赤ん坊の世話と家事をしつつ仮眠をとろうと横になるものの、泣き声や外からの音に起こされて昼間もろくに眠れない。そんな日が続く。
夜泣きで眠れなかったという話は聞いたことはあったが、こんな苦労するものだとは思っていなかった。
「…まだ…水曜日か…。」
カレンダーを見て唸る。
一週間面倒を見て、それでも親が帰ってこなければ警察に連れて行く。
それは別にアリーと約束したわけではなく、仕事を休もうと思った時に自分で決めたけじめだ。
そう決めた当初は、一週間後も赤ん坊を不憫に思って手放しづらいのではないかと思っていたが、こうなるとそんな情は忘れてしまいそうになる。
いくら不憫でもキツイものはキツイのだ。
「…エリザベス~…頼むから、…夜に寝てくれよ…。」
当の赤ん坊は好きな時に眠っているから、夜中にどれだけ泣いても健康そうだ。
ニールは恨めしげに赤ん坊を眺めつつ、クーファンを抱きかかえるようにしながら睡魔に負けて眠りに落ちて行った。
辺りの薄暗さに自分が深く眠っていたのだと知らされる。
ぼんやりと日が暮れていく外を眺めて数秒、そう言えば赤ん坊の泣き声で起こされなかったと気付き、クーファンの中を見た。
ハッとして身体を起こす。
「!?エリザベス!」
まだ這うことも出来ない赤ん坊が消えていることに動揺して声を上げると、灯りの点いたキッチンの方から声がした。
「こっちだ。」
アリーの声と気配に、ホッと息を吐く。
それにしても、今日は帰りが早い。
「帰ってたのか。わりぃ…寝ちまってた。」
まだボウッとした頭のまま、ニールは声の方に向かった。
アリーが「こっち」と言ったのは赤ん坊のことで間違いないのだろうが、クーファンはリビングに置いたままだ。
どこに寝かせているのかと少し心配になりキッチンを覗きこむ。
コンロではパスタ用の大鍋が湯気を上げている。
その前にアリー。
ニールは微かに目を見張る。
彼の左胸にうつ伏せにもたれかかるようにくっ付いているのはエリザベスだ。
赤ん坊の面倒など一切見る気はなさそうだったのに、確かに抱えている。
「…あ…れ…?」
「んだよ。」
「…何やってんの?」
アリーは舌打ちをしてあさっての方向を向いた。
「テメーが起きねえから、仕方なく、だ。」
ケプッと赤ん坊から小さなゲップが聞こえると、ちらっと見下ろした後、受け取れと目で訴える。
「…ミルクあげたのか?」
答えるつもりはないのか、さっさと手の中の荷物をニールに渡して自分は棚の中を探り始めた。
ニールは仕方なく周りを見回し、使った形跡のある哺乳瓶から赤ん坊が腹一杯らしいということを推し量る。
ミルクをあげた後は飲み込んでしまった空気を吐き出させなくてはいけない。
それは、赤ん坊と一緒に預けられた育児書を読んで初めて知ったことだ。
傍にその本が見当たらないことを不思議に思う。
そんな事をアリーが事前に知っていたとは思えない。
暫く首を捻ってから、ニールの行動を見ていないようで見ていたのだろうと思い至った。
それだけでも驚いたというのに。
次の朝、ニールが赤ん坊を抱き上げると、横からアリーが手を差し出した。
その真意を読み切れず、もしや痺れを切らして赤ん坊を警察に連れて行こうとしているのかと警戒する風を見せるニール。
アリーは顔を顰める。
「別に捕って喰やあしねえよ。昨日も寝てねえんだろうが。寝て来い。」
「…え?…仕事は?」
もう行かなくてはいけない筈だと思ってそう言うと予想外の答えが返ってきた。
「休みだ。」
それが、休みを取ったという意味なのか、それとも偶々会社が休みになったという意味なのかは解らない。
なんでと聞いてみてもそれには返答はなかった。
まだアリーの行動を訝しんでいるニールは寝室に籠る気になれず、ソファーに横になった。
「…ったく。泣き声で起こされたって知らねえからな。」
そう言ってリビングから出て行ったアリーは洗濯機のスイッチを入れたようだ。
普段は生活のほとんどの雑事をニールに任せているというのに、どういう風の吹きまわしなのか、見当がつかない。
寝ていないことを心配してくれているのかもしれない。
でも元はと言えばそれは自分の我儘から始まったことだし、とニールは一人思案しつつ、うつらうつらし始める。
その時、赤ん坊が声を上げた。
「あー、うー、きゃあー、」
その高い声は機嫌の良さを表していた。
眠りに引き込まれながら、ニールは彼女の心情を慮る。
今日は二人とも家に居るから喜んでいるのだろうか。
何も分からない筈の赤ん坊が、この家の空気を感じ取っているかのように思える。
外から切り取られた空間に、自分と、アイツと、もう一人。
睡魔の見せる夢に、ニールは幸せを見出していた。
ドタドタドタドタ!!
一気に眠りから引き戻された。
何事かと目を開ければ、アリーが慌てた様子でクーファンを覗きに来ていた。
「…っテメエ!紛らわしい声上げてんじゃねえ!泣き出したかと思ったじゃねえか!!」
何かをやりかけのまま来たふうに袖をまくりあげたその右手は、行き場のない拳を作っている。
流石のアリーも0歳児を殴るつもりはないようだ。
その光景を見て目を丸くしていたニールは、次の瞬間、吹き出していた。
「ぷっ…ははははは。」
「な…なんだよっ!」
「だって、…あんたがそんなちっこいの相手に振り回されるなんて、」
そう言ってまた笑う。
それに呼応するように赤ん坊も楽しげな声を上げた。
「泣く気がねえなら寝てろっ!」
また怒りをぶつけるアリーを見上げて、赤ん坊はバタバタと四肢を振る。
今日はとことん機嫌がいいようだ。
そのやり取りにクスクスと笑い声を立ててニールはクーファンを覗きこんだ。
「アンタが怒っても怖くないってさ。なー、エリザベス?」
「こんのクソ餓鬼っ。」
きゃあっとまた一声。
ニールは赤ん坊の脇の下を掴むと、高く抱き上げた。
折角機嫌がいいのだ。目も冴えてしまったし、相手をしてやろう。
アリーの不機嫌な声にも怯える風もなく、彼女は愛嬌をふりまく。
「あはは、大物になりそうだ。」
ニールが愛おしそうに抱きかかえる傍らで、アリーはケッと喉を鳴らした。
「どうせならどっかの王族の嫁にでもなりゃあいいんだ。そうすりゃ親も名乗り出るだろうよ。」
確かに、子供を捨てていくような自分本位な親なら、玉の輿に乗った娘の金や地位に目がくらんで名乗り出るかもしれない。
でも、とニールは微かに表情を曇らせる。
「…そんなんで出てきたって嬉しくもなんともないだろ…。」
アリーはニッと歯をむいて笑った。
「出てきたら財力と権力を駆使して復讐してやりゃあいいじゃねーか。んで、俺達にはたんまり謝礼をだな…。」
「それが目的かよっ!」
ニールの目一杯の抗議にも、アリーは楽しげな笑みを見せる。
「あったりめーだろうが。利害関係の一致って奴?」
一致してないから、と文句を言ってもアリーは先を続けた。
「玉の輿に乗せるにゃあ、それなりの教育を受けさせなきゃな。英才教育で5カ国語ぐらい身につけさせるだろ?んで、エレベーター式のお嬢様学校入れてだな…まあ、とにかく金は掛かるんだ。それなりの謝礼を貰わねーと割にあわねーだろうが。」
そんなレールの敷かれた人生を与えるのは可哀想だと思ってから、ニールはまじまじとアリーの顔を眺めた。
「…あの…さ…。」
「んあ?」
「…マジで玉の輿に乗せるつもりなのか?」
つまり、本気で育てる気になったのかと。
するとアリーは呆れたように息を吐き、肩をすぼめた。
いきなり現実に戻るなあ、とあさっての方向を向く。
「現実的な話をしてほしいならしてやるが、まず、俺達がこいつを育てるとなるとだ、近所で噂が立つだろうな。こいつがどういう経緯でここに居るか、って話だ。親が捨ててったと知ってる奴がいようがいまいが、公的な福祉機関に知れたら子供の保護が最優先される。明らかに、子供を育てるに適した環境じゃねえからな、うちは。」
二人とも仕事を持っていて、しかも親権はない。勿論夫婦でもない。
「一度保護されちまったら、俺達には手も足も出ねえ。里親になるには、条件があるからな。まあ、親としての実績を作っちまえば可能性がないじゃないぜ?こいつが自分の意志で、ここに居たいと言うようになるまで、隠れて育て続けりゃあな。」
「…あ…いや…その…。」
解ってるよ、とニールは苦笑いを向けた。
「あんたがあんまり楽しそうに玉の輿の話をするからさぁ…。」
軽く信じかけたことを恥じて、照れ隠しに「なあ、」と赤ん坊に話しかける。
横からアリーが赤ん坊の頬をつまんだ。
「玉の輿に乗って、掛かった金の倍額返してくれるんなら、育ててやらなくもねーぞ、って話だ。」
それに答えるように、エリザベスは「あぶー。」と声を上げる。
同時にバタつかせた腕が、アリーの手を払った。
「あはは、ヤダってさ。」
「ちっ、交渉決裂かよ。」
残念そうに舌打ちをしつつ背中を向け、リビングを出ていく。ドアのところで足を止めた。
「寝ろよ。」
突然向けられた気使いに驚きつつ、ニールは苦笑する。
「…目ぇ冴えちまったし…。」
答えるとアリーは小さくぼやいて行ってしまった。
「休み取った意味ねーじゃねーか。」
辛うじて耳に届いたその言葉で、今日の休みは寝ていないニールの為にわざわざ取ったものだということが分かった。
じんわりと染み込むような温かさが胸に湧き上がる。
「…サンキュ…。」
穏やかな笑みを浮かべ、ニールも小さく呟いた。
赤ん坊を挟んでの非日常は、意外にあっさりと終わった。
アリーが休みを取った日の晩、親が迎えに来たのだ。
母親は深々と頭を下げて謝った。
「こちらに預けてあるって今日知ったんです。てっきり右隣のおばさんのところだと…。」
仲のいい年配の主婦に預けてあると思い込んでいた彼女は、心おきなく夫婦喧嘩を続けていたようだ。
「あの…電話が通じなかったんですけど…。」
そう言ってメモを見せると、彼女は傍らに立つ旦那を肘でつついた。
「もうっ!番号間違ってるじゃない!…それに、こちらの電話番号を聞いて行くのを忘れたらしくって、ほんとにすみませんでした。」
旦那は恐縮しきりで小さくなっている。
そう言えば教えていなかった、とニールもバツが悪そうに頬を掻いた。
あー災難だった、とアリーはソファになだれ込んだ。
それはニールも同じ感想だが、少し淋しさも残る。
アリーを押しのけるように無理やり隣に座ると、柔らかく笑った。
「…でもさ、いい経験できたんじゃねーの?こんなことでもなけりゃやる機会なかったろ。」
親の真似事。
きっとこの先、そんな機会はないだろう。
そう感慨に耽っているとアリーがボソッと呟いた。
「俺は経験済みだ。」
意味が分からずポカンとなって、数秒後、思い至る。
「…あんた…子供いんの…?」
まだ若いニールと違い、アリーの年齢なら可能性は大いにある。
自分の知らない過去と知らない人間関係を垣間見たように感じ、チクリと胸が痛む。
赤ん坊を抱く様子が何処か慣れた風に感じたのは、その所為だったのか。
「バーカ。」
アリーに頭を小突かれ、恨めしそうな目を向ける。
「何だよ…。」
「いねえよ、餓鬼なんざ。」
え?とまた疑問符を頭に浮かべると、アリーは呆れたような溜め息と共に立ち上がって伸びをした。
「昔はいろんな仕事したって話だ。」
珈琲でも飲むか、とキッチンに立つアリーの背中を呆然と見る。
過去の話は聞いたことがなかった。
特に気にならなかったから訊ねたこともない。
(経歴不詳だな…コイツ…。)
機会があったら聞いてみよう、と考える。
そんなことも、小さな楽しみになるのだ。
fin.
アリーは目の前の光景に唖然とした。
所用で家を出たのは、つい数時間前だ。
用事を済ませて帰ってみれば、キッチンに立っているニールは赤ん坊を抱えていた。
「…なんだ?その餓鬼。」
しかめっ面でそう聞くと、ニールは事も無げに答える。
「お隣の旦那さんが預かってくれってさ。なんか大変そうだったから。」
答えながら、彼はミルクを作るべく粉ミルクを量っていた。
赤ん坊は抱っこひもの中で悠々としているが、慣れない重りが身体にくっついているニールは少々動きにくそうだ。
「いつ迎えに来んだよ。」
「んー…それがさ、」
返答に困っている様子に嫌な予感を持ってしまう。
厄介なことに巻き込まれるんじゃないかとアリーはさらに顔を歪めた。
赤ん坊を連れてきた隣の男は、いかにも慌てた風で「必ず迎えに来るから預かってくれ。」と懇願するように言った。
なんでも夫婦げんかの末、奥さんが飛び出して行ったらしい。
行き先の見当は付いているものの、子供の世話に慣れていない父親が連れ歩くには少々遠く、さらに喧嘩を治めて説得をして連れ帰るとなると、子供は預けて行った方が無難だと結論付けたのだろう。
「仲直りする気があるんなら元の鞘に戻れるだろ?ちょっと手伝ってやってもいいかと思ってさ。」
明日の夜には帰ってくると言い置いて男は出て行ったという。
「餓鬼の世話なんて出来んのか?何かあったらどうすんだよ。」
「電話の横のメモ。番号あるだろ?何かあったら掛けてくれって。」
哺乳瓶に作ったミルクを手首に垂らして温度を確かめて、ニールは傍にある育児書に視線を落とす。
何度も読んだ項目をもう一度確認してから、赤ん坊に笑顔を向けた。
「ほーら、ミルクだぞ?」
その楽しげな顔を呆れたように見て、アリーは電話を手に取った。
「…ったく、文句言ってやる。」
メモの番号を押す。
「やめてくれよ、一旦預かっちまったんだからさ。いいじゃないか、一日や二日。」
「一日や二日で済めばな。」
困り顔のニールを余所に、アリーは番号を押し終えて受話器を耳に当てた。
ニールは哺乳瓶に吸いついている赤ん坊を見下ろして、「いーじゃねーか、可愛いし。なぁ?」と拗ねたように話しかけている。
大体こんなことでもなければ子供の世話なんて一生せずに終わるかもしれないのだ。
ほんの少しの間でも親の真似事が出来るなら、してみるのも悪くない。
それに、ニールにとってその赤ん坊は、死んでしまった妹を柔らかな回想で思い出す媒体でもある。
死を思い出すのは苦しい事だが、誕生の記憶は温かい。
家族が増えた喜びを、ニールは思い起こしていた。
カチャ、と静かに受話器が置かれたのを、ニールが不思議そうに見やった。
電話越しに怒鳴り散らすどころか、会話をした様子もない。
もしかして自分の気持ちを察して苦情を言うのをやめてくれたのだろうかと表情がほころびかけたところに、トーンの低い声が発せられた。
「おい…」
「え?」
「…その餓鬼、捨てられたかも知んねえ…。」
「…え?」
「この番号、繋がんねえぞ。」
リビングに置かれたクーファンの中で、赤ん坊はスヤスヤ眠っている。
その傍らで途方に暮れた男が二人、途切れ途切れに会話をしていた。
「だから、警察に連れてけって言ってんだろうが。」
「だってさ…。」
先程からニールは、まだ捨てられたと決まったわけじゃない、電話番号は間違っただけで騙すつもりはなかったかもしれない、と繰り返している。
それに対してアリーは、付き合いの少ない相手に子供を預けていったこと自体おかしい、今頃夫婦そろって羽根を伸ばしているに違いないと言い放った。
「明後日からどうすんだ。仕事だろうが、お前だって。」
「…う…うん、そうだけど…。」
「大体、男二人の家に餓鬼預けるなんて非常識だろうが。」
「慌ててたんじゃねーかな…。」
仕事を持っている相手に子供を預けていけば、早期に警察に身柄が移ってその後施設へと預けられるだろう。その事を見越していたのではないかとアリーは言う。
逆に慣れた主婦に預けてしまうと、数週間、下手をすれば月単位で世話をし続けてしまうことも考えられる。
盛大な溜め息と唸り声を吐きだし、アリーはガシガシと頭を掻いた。
その不機嫌な様子に焦り、ニールが慌てて言った。
「明日…、明日迎えに来なかったら、…警察に連れてく…。」
うん、と自分で納得するために頷く。
仕事があるのだから、そうするしかない、と。
その言葉に今度は安堵の溜め息を吐き、アリーは了承の返事を返した。
そうして次の日。
夜になってもやはり迎えは来なかった。
あれから渡された電話番号に何度か掛けてはみたが、繋がることはなかった。
エリザベス、と赤ん坊の名を呼ぶ。
何処かの女王みたいな大層な名前を付けられて可哀想にとアリーが揶揄した名前だが、それがこの子の名だ。
その名を付けた筈の親が今何を考えているのか、ましてやその名前にどんな思いを込めたのかなど知る由もない。
それにニールにとっても、その名は目の前の赤ん坊の名前以外の意味は持っていない。
「何してんだろうな、お前のパパは。」
面倒くさそうに「警察に連れて行け」とだけ言い置いてバスルームに入って行ったアリーが出てくるまでに出かけた方がいいだろうとは思いながら、ニールは立ち上がれずにいた。
捨てられたなどとは考えたくなかった。
身寄りのない自分と同じ、いや、それ以上に不幸な人生をこの子が歩んでいかなくてはならないのかと思うと不憫でならない。
ニール自身、両親と妹を同時に失って双子の弟と二人で辛い時期を過ごしたが、それを乗り越えられたのは両親に愛されていたという自信があったからだ。
死んでしまった両親は、きっと子の行く末を案じていただろう。
でもこの子は、とニールは溜め息を吐いた。
親が死んだわけではない。
元気に生きていて、もし本当に捨てて行ったとすると、子の行く末など気にも掛けていないだろう。
可哀想過ぎる、と眉根を寄せて目を瞑り、意を決した顔で受話器を取った。
「はい、はい、すみません、急に。はい、では、失礼します。」
アリーが風呂から出てきてもまだ居る赤ん坊に顔を顰めると、ニールは受話器を置いて明るい顔を向けた。
「俺、一週間仕事休むから。」
「はあ!?」
先程の電話は上司に向けてのものだったらしい。
「いいんだよ、今暇な時期だからさ。」
「馬鹿かお前!?なんで仕事休んでまで他人の子供の面倒見なきゃなんねーんだよ!!」
いいんだよ、ともう一度言って赤ん坊を抱き上げる。
「きっと仲直りに時間掛かってんだ。な、パパとママ、喧嘩したんだもんな。」
話しかけ、鼻先で腹のあたりをくすぐると、赤ん坊はきゃらきゃらと笑い声を立てた。
「あと一週間ぐらい待てるよな?」
そう笑いかけるニールに答えるかのように、小さな四肢をバタつかせている。
捨てられたわけじゃないという確証はない。
むしろ、状況的にはアリーの言の方が的を射ているだろう。
それでも淡い期待を持たずにいられなかった。
それに、とニールは思う。
もし捨てていったのだとしても、もしかしたら一週間経つ間に考え直して帰ってくるかもしれない。
それもまた希望的観測にすぎないのだが。
「俺は知らねえぞ。」
「分かってる。俺が面倒みるから。」
チッと舌打ち一つ、アリーは寝室に去って行った。
「仲良くやろうな、エリザベス。」
ニールは愛おしげに赤ん坊を抱き締めた。
一日目の晩は良く寝た赤ん坊が、その夜から何故か夜泣きが始まった。
親がいないことに気付いてしまったのだろうかと、ニールは心を痛めた。
寝室に連れて行くわけにもいかず、リビングに陣取ったクーファンの傍のソファで横になる。
うとうとしては泣き声で起こされるの繰り返しだった。
「とんだお人好しだな。」
朝になって起きてくれば、眠そうにしながらミルクを作るニールがいた。
それを見てのアリーの一言だ。
寝不足の顔でニールは苦笑いとも自嘲の笑みとも取れる表情を向ける。
「わりーけど適当に朝食食ってってくれよ。」
「言われなくても食ってくに決まってんだろ。」
不機嫌にそう返してアリーは食パンをトースターに放り込んだ。
赤ん坊の世話と家事をしつつ仮眠をとろうと横になるものの、泣き声や外からの音に起こされて昼間もろくに眠れない。そんな日が続く。
夜泣きで眠れなかったという話は聞いたことはあったが、こんな苦労するものだとは思っていなかった。
「…まだ…水曜日か…。」
カレンダーを見て唸る。
一週間面倒を見て、それでも親が帰ってこなければ警察に連れて行く。
それは別にアリーと約束したわけではなく、仕事を休もうと思った時に自分で決めたけじめだ。
そう決めた当初は、一週間後も赤ん坊を不憫に思って手放しづらいのではないかと思っていたが、こうなるとそんな情は忘れてしまいそうになる。
いくら不憫でもキツイものはキツイのだ。
「…エリザベス~…頼むから、…夜に寝てくれよ…。」
当の赤ん坊は好きな時に眠っているから、夜中にどれだけ泣いても健康そうだ。
ニールは恨めしげに赤ん坊を眺めつつ、クーファンを抱きかかえるようにしながら睡魔に負けて眠りに落ちて行った。
辺りの薄暗さに自分が深く眠っていたのだと知らされる。
ぼんやりと日が暮れていく外を眺めて数秒、そう言えば赤ん坊の泣き声で起こされなかったと気付き、クーファンの中を見た。
ハッとして身体を起こす。
「!?エリザベス!」
まだ這うことも出来ない赤ん坊が消えていることに動揺して声を上げると、灯りの点いたキッチンの方から声がした。
「こっちだ。」
アリーの声と気配に、ホッと息を吐く。
それにしても、今日は帰りが早い。
「帰ってたのか。わりぃ…寝ちまってた。」
まだボウッとした頭のまま、ニールは声の方に向かった。
アリーが「こっち」と言ったのは赤ん坊のことで間違いないのだろうが、クーファンはリビングに置いたままだ。
どこに寝かせているのかと少し心配になりキッチンを覗きこむ。
コンロではパスタ用の大鍋が湯気を上げている。
その前にアリー。
ニールは微かに目を見張る。
彼の左胸にうつ伏せにもたれかかるようにくっ付いているのはエリザベスだ。
赤ん坊の面倒など一切見る気はなさそうだったのに、確かに抱えている。
「…あ…れ…?」
「んだよ。」
「…何やってんの?」
アリーは舌打ちをしてあさっての方向を向いた。
「テメーが起きねえから、仕方なく、だ。」
ケプッと赤ん坊から小さなゲップが聞こえると、ちらっと見下ろした後、受け取れと目で訴える。
「…ミルクあげたのか?」
答えるつもりはないのか、さっさと手の中の荷物をニールに渡して自分は棚の中を探り始めた。
ニールは仕方なく周りを見回し、使った形跡のある哺乳瓶から赤ん坊が腹一杯らしいということを推し量る。
ミルクをあげた後は飲み込んでしまった空気を吐き出させなくてはいけない。
それは、赤ん坊と一緒に預けられた育児書を読んで初めて知ったことだ。
傍にその本が見当たらないことを不思議に思う。
そんな事をアリーが事前に知っていたとは思えない。
暫く首を捻ってから、ニールの行動を見ていないようで見ていたのだろうと思い至った。
それだけでも驚いたというのに。
次の朝、ニールが赤ん坊を抱き上げると、横からアリーが手を差し出した。
その真意を読み切れず、もしや痺れを切らして赤ん坊を警察に連れて行こうとしているのかと警戒する風を見せるニール。
アリーは顔を顰める。
「別に捕って喰やあしねえよ。昨日も寝てねえんだろうが。寝て来い。」
「…え?…仕事は?」
もう行かなくてはいけない筈だと思ってそう言うと予想外の答えが返ってきた。
「休みだ。」
それが、休みを取ったという意味なのか、それとも偶々会社が休みになったという意味なのかは解らない。
なんでと聞いてみてもそれには返答はなかった。
まだアリーの行動を訝しんでいるニールは寝室に籠る気になれず、ソファーに横になった。
「…ったく。泣き声で起こされたって知らねえからな。」
そう言ってリビングから出て行ったアリーは洗濯機のスイッチを入れたようだ。
普段は生活のほとんどの雑事をニールに任せているというのに、どういう風の吹きまわしなのか、見当がつかない。
寝ていないことを心配してくれているのかもしれない。
でも元はと言えばそれは自分の我儘から始まったことだし、とニールは一人思案しつつ、うつらうつらし始める。
その時、赤ん坊が声を上げた。
「あー、うー、きゃあー、」
その高い声は機嫌の良さを表していた。
眠りに引き込まれながら、ニールは彼女の心情を慮る。
今日は二人とも家に居るから喜んでいるのだろうか。
何も分からない筈の赤ん坊が、この家の空気を感じ取っているかのように思える。
外から切り取られた空間に、自分と、アイツと、もう一人。
睡魔の見せる夢に、ニールは幸せを見出していた。
ドタドタドタドタ!!
一気に眠りから引き戻された。
何事かと目を開ければ、アリーが慌てた様子でクーファンを覗きに来ていた。
「…っテメエ!紛らわしい声上げてんじゃねえ!泣き出したかと思ったじゃねえか!!」
何かをやりかけのまま来たふうに袖をまくりあげたその右手は、行き場のない拳を作っている。
流石のアリーも0歳児を殴るつもりはないようだ。
その光景を見て目を丸くしていたニールは、次の瞬間、吹き出していた。
「ぷっ…ははははは。」
「な…なんだよっ!」
「だって、…あんたがそんなちっこいの相手に振り回されるなんて、」
そう言ってまた笑う。
それに呼応するように赤ん坊も楽しげな声を上げた。
「泣く気がねえなら寝てろっ!」
また怒りをぶつけるアリーを見上げて、赤ん坊はバタバタと四肢を振る。
今日はとことん機嫌がいいようだ。
そのやり取りにクスクスと笑い声を立ててニールはクーファンを覗きこんだ。
「アンタが怒っても怖くないってさ。なー、エリザベス?」
「こんのクソ餓鬼っ。」
きゃあっとまた一声。
ニールは赤ん坊の脇の下を掴むと、高く抱き上げた。
折角機嫌がいいのだ。目も冴えてしまったし、相手をしてやろう。
アリーの不機嫌な声にも怯える風もなく、彼女は愛嬌をふりまく。
「あはは、大物になりそうだ。」
ニールが愛おしそうに抱きかかえる傍らで、アリーはケッと喉を鳴らした。
「どうせならどっかの王族の嫁にでもなりゃあいいんだ。そうすりゃ親も名乗り出るだろうよ。」
確かに、子供を捨てていくような自分本位な親なら、玉の輿に乗った娘の金や地位に目がくらんで名乗り出るかもしれない。
でも、とニールは微かに表情を曇らせる。
「…そんなんで出てきたって嬉しくもなんともないだろ…。」
アリーはニッと歯をむいて笑った。
「出てきたら財力と権力を駆使して復讐してやりゃあいいじゃねーか。んで、俺達にはたんまり謝礼をだな…。」
「それが目的かよっ!」
ニールの目一杯の抗議にも、アリーは楽しげな笑みを見せる。
「あったりめーだろうが。利害関係の一致って奴?」
一致してないから、と文句を言ってもアリーは先を続けた。
「玉の輿に乗せるにゃあ、それなりの教育を受けさせなきゃな。英才教育で5カ国語ぐらい身につけさせるだろ?んで、エレベーター式のお嬢様学校入れてだな…まあ、とにかく金は掛かるんだ。それなりの謝礼を貰わねーと割にあわねーだろうが。」
そんなレールの敷かれた人生を与えるのは可哀想だと思ってから、ニールはまじまじとアリーの顔を眺めた。
「…あの…さ…。」
「んあ?」
「…マジで玉の輿に乗せるつもりなのか?」
つまり、本気で育てる気になったのかと。
するとアリーは呆れたように息を吐き、肩をすぼめた。
いきなり現実に戻るなあ、とあさっての方向を向く。
「現実的な話をしてほしいならしてやるが、まず、俺達がこいつを育てるとなるとだ、近所で噂が立つだろうな。こいつがどういう経緯でここに居るか、って話だ。親が捨ててったと知ってる奴がいようがいまいが、公的な福祉機関に知れたら子供の保護が最優先される。明らかに、子供を育てるに適した環境じゃねえからな、うちは。」
二人とも仕事を持っていて、しかも親権はない。勿論夫婦でもない。
「一度保護されちまったら、俺達には手も足も出ねえ。里親になるには、条件があるからな。まあ、親としての実績を作っちまえば可能性がないじゃないぜ?こいつが自分の意志で、ここに居たいと言うようになるまで、隠れて育て続けりゃあな。」
「…あ…いや…その…。」
解ってるよ、とニールは苦笑いを向けた。
「あんたがあんまり楽しそうに玉の輿の話をするからさぁ…。」
軽く信じかけたことを恥じて、照れ隠しに「なあ、」と赤ん坊に話しかける。
横からアリーが赤ん坊の頬をつまんだ。
「玉の輿に乗って、掛かった金の倍額返してくれるんなら、育ててやらなくもねーぞ、って話だ。」
それに答えるように、エリザベスは「あぶー。」と声を上げる。
同時にバタつかせた腕が、アリーの手を払った。
「あはは、ヤダってさ。」
「ちっ、交渉決裂かよ。」
残念そうに舌打ちをしつつ背中を向け、リビングを出ていく。ドアのところで足を止めた。
「寝ろよ。」
突然向けられた気使いに驚きつつ、ニールは苦笑する。
「…目ぇ冴えちまったし…。」
答えるとアリーは小さくぼやいて行ってしまった。
「休み取った意味ねーじゃねーか。」
辛うじて耳に届いたその言葉で、今日の休みは寝ていないニールの為にわざわざ取ったものだということが分かった。
じんわりと染み込むような温かさが胸に湧き上がる。
「…サンキュ…。」
穏やかな笑みを浮かべ、ニールも小さく呟いた。
赤ん坊を挟んでの非日常は、意外にあっさりと終わった。
アリーが休みを取った日の晩、親が迎えに来たのだ。
母親は深々と頭を下げて謝った。
「こちらに預けてあるって今日知ったんです。てっきり右隣のおばさんのところだと…。」
仲のいい年配の主婦に預けてあると思い込んでいた彼女は、心おきなく夫婦喧嘩を続けていたようだ。
「あの…電話が通じなかったんですけど…。」
そう言ってメモを見せると、彼女は傍らに立つ旦那を肘でつついた。
「もうっ!番号間違ってるじゃない!…それに、こちらの電話番号を聞いて行くのを忘れたらしくって、ほんとにすみませんでした。」
旦那は恐縮しきりで小さくなっている。
そう言えば教えていなかった、とニールもバツが悪そうに頬を掻いた。
あー災難だった、とアリーはソファになだれ込んだ。
それはニールも同じ感想だが、少し淋しさも残る。
アリーを押しのけるように無理やり隣に座ると、柔らかく笑った。
「…でもさ、いい経験できたんじゃねーの?こんなことでもなけりゃやる機会なかったろ。」
親の真似事。
きっとこの先、そんな機会はないだろう。
そう感慨に耽っているとアリーがボソッと呟いた。
「俺は経験済みだ。」
意味が分からずポカンとなって、数秒後、思い至る。
「…あんた…子供いんの…?」
まだ若いニールと違い、アリーの年齢なら可能性は大いにある。
自分の知らない過去と知らない人間関係を垣間見たように感じ、チクリと胸が痛む。
赤ん坊を抱く様子が何処か慣れた風に感じたのは、その所為だったのか。
「バーカ。」
アリーに頭を小突かれ、恨めしそうな目を向ける。
「何だよ…。」
「いねえよ、餓鬼なんざ。」
え?とまた疑問符を頭に浮かべると、アリーは呆れたような溜め息と共に立ち上がって伸びをした。
「昔はいろんな仕事したって話だ。」
珈琲でも飲むか、とキッチンに立つアリーの背中を呆然と見る。
過去の話は聞いたことがなかった。
特に気にならなかったから訊ねたこともない。
(経歴不詳だな…コイツ…。)
機会があったら聞いてみよう、と考える。
そんなことも、小さな楽しみになるのだ。
fin.