蟻ニル

お返し


 残業を終えて帰路につき、家に着いたのはもう日付が変わる頃だった。
 灯りを期待して玄関を開けたアリーは、その暗さに顔を顰めた。
 所々、帰ってくる彼を気遣っての照明が点けられてはいるが、リビングの蛍光灯は消えている。
「…んだよ。…寝ちまったのか…。」
 別にその事を責めるつもりはない。
 それでも、いつもならどんなに遅くなってもテレビやらパソコンやらで暇をつぶしながらニールが待っているのにその様子がないことに違和感を感じる。
 まあいいか、とリビングに入って行くと、ダイニングに一つ照明が灯っていた。
 その明りがテーブルの上にあるものを気付かせるためのものであることはすぐに分かった。
 平皿にドーム型の半透明のフタが被せられている。
 予想は付く。今日は2月14日だ。
 近付いて皿で押さえるように置かれていたカードを手に取る。
 思ったとおり、そこには「St.Valentine」と書かれていた。
 開いてみると「お仕事お疲れさん」という丁寧な文字の下に、ミミズが這ったような走り書きが書き足してある。
 少し眉を顰めてゆっくり読む。
「…『悪い、眠いから寝る』…?」
 フタを取って中のものを見ると、ハート型のチョコレートケーキだった。
「全く…自分だって仕事で疲れてるだろうに…余計なことを…。」
 こんな労力を使うから眠くなるんだ、と鼻息を吐きだす。
 しかし、こういう『余計なこと』を楽しげにやるニールの事も嫌いではない。
「…こんなもん、酒にゃ合わねえじゃねえか。」
 文句ばかり出る口元は微かに笑みの形をとっている。
 仕方ない、とインスタントの珈琲を淹れるためにお湯を沸かし始めた。

 お湯が沸くのを待つ間、アリーは皿の上のケーキを眺めていた。
 ハート形の焼き型を使ったのか、丸いスポンジケーキをハート形に切ったのかは知らないが、確かに手作りだと見てとれる。
 はみ出したコーティング用のチョコレートをフォークで皿から剥がして口に運んだ。
 ビターだがやはり甘い。
 全く、とまたぼやくように言った。
 自分の為に作られたものだと明白である以上、礼をしなくてはならない。
 そんなことを考える。
 礼、とは言ってもアリーの礼と言ったら一つしかないのだが。
 その『礼』をいつしようかと思案するが、今はもう寝てしまっていて流石に起こすのは忍びない。
 かといって週末まで、ましてやホワイトデーまで持ち越しなんていうのは興ざめだ。
 明日が休みなら、一日かけてたっぷり可愛がってやるというのに。
 今日が週の中日だということを恨めしく思いつつ、沸騰したお湯をカップに注いだ。

 ガチャッとドアの音がしたのと同時に、眠そうなニールの声。
「ん~…わり、寝てた。」
 振り向くと、彼は大欠伸を隠すように顔を背けた。
「何だよ、寝てりゃいいのに。」
「なんか目ぇ覚めた。俺も珈琲。」
 しゃーねえなぁ、と面倒臭そうにアリーが新しいカップに珈琲を淹れるのを眺めつつ、ニールはケーキの前に腰かけた。
「晩飯は?」
「店屋もん。」
 ニールの問いに短く答えながら、カップと共にペティナイフを差し出す。
「喰うだろ?お前も。」
 ケーキを切る為のナイフだという事を理解して、ニールはぷうっと膨れた。
「これは切らねぇの。ハートだから。」
「ったく、妙なとこ拘るよな、お前。」
 はいはい、とアリーはペティナイフを片付けると、普段向かい合わせに置いてある椅子を隣に寄せた。
 テーブルを挟んでいては二人でケーキをつつきにくい。
 単にそんな理由だったが、その行動がニールを喜ばせる。
「えへへ…どっかのカフェでお茶するみてぇ…。」
「どこがだよ。」
 馬鹿にした笑いを零しながら、アリーはケーキにフォークを突き刺した。
 一口食べて言う。
「甘ぇよ、バーカ。」
「チョコレートケーキなんだから当たり前だろ?」
 甘い甘いと文句を言いながらばくばくと口に放り込むアリー。
 それを嬉しそうに眺めながら、ニールはケーキを作って良かったと満足していた。

「夜中にこんなもん喰っちゃ、カロリー消費しねえとな?」
 アリーがそう言ってニッと笑った意味を、ニールは瞬時に理解してゲッと顔を顰める。
「…こんなもん作るんじゃなかった…。」



fin.
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