蟻ニル
祭り
ニールは待ち合わせ場所であるバーに向かい、一人歩いていた。
今日はこの近くで祭りがあるらしい。
何処からか太鼓の音が聞こえてくる。
印象としては、音というよりも振動と言った方がいいくらいの低音だ。
ドッドッとゆっくりとした一定のリズムが心音にあっているようで心地好い。
ここの祭りはどういうものだろう。
街を練り歩いたり、踊ったりするのだろうか。
祭りが目的で出てきたわけではないのだが、そういうイベントを見て歩くのも悪くはない。
久々のデートにウキウキしながら目的地を目指した。
しばらく歩いて繁華街へ出る頃、ハタと気付く。
街が異様に静かだ。
あの太鼓の音以外、普段聞こえてくる街の音も殆どしない。
車も通らなければ人の足音も聞こえない。
祭りがあるというのにこの静けさはなんだろう。
考えてみれば、もう10分は人とすれ違っていない。
急に不安が湧きあがってきた。
何だ?
どういう事だ?
繁華街だというのに街灯以外の光源が見当たらない。
どの店も真っ暗で、普通の家の明かりも一つも見えない。
いつの間にか太鼓の音は速くなっていた。
まるで不安を煽るかのように。
祭りと言えば普通は人で賑わって、稼ぎ時じゃないのか?
人がいないなんておかしい。
店が何処も休みなんておかしい。
その角を曲がれば確かコンビニがある筈だ。
そう思って角を曲がっても、そこは真っ暗だった。
嘘だろ?
ドンっとひときわ大きな音がした。
太鼓の音に釣られるようにニールの心臓は高鳴った。
異世界にでも迷い込んだみたいだ。
メルヘンな思考などする脳は持ち合わせていない筈なのに、そんな風に感じてしまう。
ニールは歩調を速めた。
目的地はもうすぐだ。
待ち合わせのバーはすぐそこだ。
店が見えれば安心感が起こり、瞬時にそれは消えた。
その店にも灯りはなく、扉は閉ざされていた。
ドクドクと心音は早まり、それとそっくりな早さの太鼓の音が耳に付く。
何だ。
ここは何処だ。
本当にどこかに迷い込んでしまったのか。
そんな馬鹿な、と考えても不安は拭えない。
取り敢えず人の居る所まで戻ることにした。
早足で道を戻っていると、太鼓の音に混じって何か聞こえた気がした。
コツ、コツ…。
足音?
自分のはるか後方で足音らしきものが聞こえる。
ほら、ちゃんと人は居るじゃないか。
ホッとしたのもつかの間、その足音が自分の後をつけているように感じた。
自然と歩調は速くなる。
自分は男だし、もしその人間がひったくりだの何だのだったとしても、負けるほどか弱くはない。
でも。
もしそれが人間じゃなかったら?
異形の者だったら?
そんな事を考えてしまうほど、街の様子はおかしかった。
ニールは走り出した。
この街に知り合いはいない。
ならわざわざ関わる必要はないのだ。
人間なら、撒いてしまえば事は済む。
ドドドドドドドドッ。
太鼓の音は更に激しさを増した。
走っているニールの心臓もドクドクと速く打つ。
そして、
自分の足音と、後を追う足音もどんどん速くなっていく。
おかしい。
全力疾走している筈のニールに、後ろの足音は迫っていた。
体力には自信がある。
その辺の男に負けるような足ではない。
その速さについてきている。
いや、追いつこうとしている。
不安は大きくなる一方だ。
人間じゃないのか?
何か、別の物なのか?
走っても走っても、何処の家も明かりは消えている。
逃げ惑う様に光を探し、不用意に知らない道に入り込んでしまった。
やばい、道が分んねぇっ!
そう思った直後に曲がった先は袋小路だった。
しまったと思った瞬間、腕を取られ、ニールはヒャアというような叫び声をあげた。
「バーカ、何逃げてやがんだ。」
身を屈めて目を閉じた時、降ってきたのはよく知る声。
パチクリと瞬きをして、顔を上げた。
「…アリー…。」
「馬鹿だろ、お前。」
呆れ顔を向けられ、ニールは恥ずかしさを隠すように膨れて見せる。
「バカバカ言うなよっ!…なんか街が変だから…。」
ちょっと怖かっただけだ、とそっぽを向いた。
「今日は祭りらしいな。さっきバーのオーナーから聞いた。」
店が休みだと知って馴染みのオーナーに連絡を付けたらしい。
何でもこの祭りは魔物を鎮めるためのもので、昔からその日は家の明かりを消す習わしになっているそうだ。
魔物から身を守るために外にも出ないというのがしきたりだ。
「…そんな古い風習守ってんのか?向こうのコンビニも真っ暗だった。」
「祭りにかこつけて、この日は休んじまえって事らしいぜ?今頃、駅近くに人が集まってる筈だ。」
「…何だ…そんな事か…。」
心底ホッとして、ニールは促されるまま並んで歩いた。
「魔物を鎮めるための祭りねぇ。」
その所為であんな考えが浮かんでしまったのだろうか。
ここは異世界で、追いかけて来るのは異形の者で、なんて。
そんな話をしていると、アリーがふと足を止めた。
そして煙草に火を付けながら言う。
「お前さァ、インキュバスって魔物、知ってるか?」
ニールは首を横に振った。
「愛しい相手の姿に化けて取り殺すんだってよ。」
ニッと笑って見せるアリーを見て、苦笑いをする。
「やめようぜそんな話。もうさっきの追いかけっこで懲り懲りだ。」
アリーがニールを怖がらせようとしているのは分かった。
太鼓の音しかしない、こんな二人だけの空間で、そんな想像はしたくない。
アリー以外にこれが現実だと実感できるものがまだないのだ。
アリーはふふっと笑ってニールの体を引き寄せた。
「そうだな。せっかく二人きりだしな。」
キスをしようとしているのだと分かったが、場所が場所だけにニールは少し身を引いた。
「ちょ…こんなとこで…。」
「言ったろ?誰も出てきやしねぇ。」
「そうかもしれねーけどさ…。」
軽い抵抗を見せるニールの腰を抱き寄せ、さっき火を点けたばかりの煙草を道に落とすと強引に顎を掴んだ。
「誰もいねーよ。」
「…っ、アリー…。」
そして唇が触れる寸前に、アリーはこう言った。
「この異空間に迷い込んだのはお前一人だ。」
「!?」
え、と声を上げようとした唇はもう塞がれている。
いつもの煙草の匂いが襲いかかった。
キスの仕方も、匂いも、抱き寄せる腕も、すべてアリーのものだと分かる。
それでもさっきの言葉でニールの頭の中は混乱した。
俺一人?アリーと二人だろ?
いや、それより異空間って…
そこに俺一人?
じゃあ、コイツは?
インキュバスという魔物は愛しい相手に化けてとり殺すという。
突如襲いかかる恐怖に身を震わせたその瞬間。
パアっと辺りが明るくなったかと思うと同時にドンっと大きな音が鳴った。
太鼓の音ではない。
唇を解放され、腰にまわされていた腕の力が抜けたのを感じ、ニールは目を開けた。
空には大きな花火が散っていた。
「お、始まったな。」
そう言ってアリーは歩き出す。
ニールが呆気にとられていると、辺りにぽつぽつと明かりが点き始めた。
「解禁だ。人が出てくるぞ。」
そう言って顎で進行方向を示す。
「え?」
「祭りの本番はこれからだ。さっきまで太鼓が鳴ってたろ。あれが魔物を封じるんだとよ。だから、今からは人間の時間だ。」
納得のいかないまま横に並んで歩くニールに、アリーは顔を近付けた。
ニッと笑う。
「お前、さっき震えてたろ。」
「あっ…アンタなあっ!」
怖がらせようとしていると分かっていたのにあっさりと引っかかってしまったことが悔しい。
ぷーっと膨れて顔を背けた。
「アンタは不安になんなかったのかよっ。」
「俺かぁ?」
「もし俺がニセモノだったら、とか…。」
そんな事を考えるような性格はしていないだろうというのは分かっているが。
まともな返事が返ってくるとは思っていなかったのに、意外にアリーは真顔になった。
「別に…いいんじゃねぇか?」
「いいって何が。」
「お前に取り殺されてもさ。」
「それ俺じゃないからッ。ニセモノだろ!?俺はアンタのニセモノなんかに取り殺されたくないっ。」
それでもよ、とアリーは続けた。
「最後の最後まで、お前だと信じて死んでいくなら、それはそれでいいんじゃねぇか?」
それはそれで幸せな死に方だと。
ニールは足を止めた。
「それって…。」
「何だよ。」
「…いや、いい。」
訊ねてみたい気はするが、どうせまた「バーカ。」とか返されるだけだ。
先を歩くアリーの背中をしばし眺めてから、小走りに後を追ってまた隣に並んだ。
それって、俺にベタ惚れってことじゃね?
fin.
ニールは待ち合わせ場所であるバーに向かい、一人歩いていた。
今日はこの近くで祭りがあるらしい。
何処からか太鼓の音が聞こえてくる。
印象としては、音というよりも振動と言った方がいいくらいの低音だ。
ドッドッとゆっくりとした一定のリズムが心音にあっているようで心地好い。
ここの祭りはどういうものだろう。
街を練り歩いたり、踊ったりするのだろうか。
祭りが目的で出てきたわけではないのだが、そういうイベントを見て歩くのも悪くはない。
久々のデートにウキウキしながら目的地を目指した。
しばらく歩いて繁華街へ出る頃、ハタと気付く。
街が異様に静かだ。
あの太鼓の音以外、普段聞こえてくる街の音も殆どしない。
車も通らなければ人の足音も聞こえない。
祭りがあるというのにこの静けさはなんだろう。
考えてみれば、もう10分は人とすれ違っていない。
急に不安が湧きあがってきた。
何だ?
どういう事だ?
繁華街だというのに街灯以外の光源が見当たらない。
どの店も真っ暗で、普通の家の明かりも一つも見えない。
いつの間にか太鼓の音は速くなっていた。
まるで不安を煽るかのように。
祭りと言えば普通は人で賑わって、稼ぎ時じゃないのか?
人がいないなんておかしい。
店が何処も休みなんておかしい。
その角を曲がれば確かコンビニがある筈だ。
そう思って角を曲がっても、そこは真っ暗だった。
嘘だろ?
ドンっとひときわ大きな音がした。
太鼓の音に釣られるようにニールの心臓は高鳴った。
異世界にでも迷い込んだみたいだ。
メルヘンな思考などする脳は持ち合わせていない筈なのに、そんな風に感じてしまう。
ニールは歩調を速めた。
目的地はもうすぐだ。
待ち合わせのバーはすぐそこだ。
店が見えれば安心感が起こり、瞬時にそれは消えた。
その店にも灯りはなく、扉は閉ざされていた。
ドクドクと心音は早まり、それとそっくりな早さの太鼓の音が耳に付く。
何だ。
ここは何処だ。
本当にどこかに迷い込んでしまったのか。
そんな馬鹿な、と考えても不安は拭えない。
取り敢えず人の居る所まで戻ることにした。
早足で道を戻っていると、太鼓の音に混じって何か聞こえた気がした。
コツ、コツ…。
足音?
自分のはるか後方で足音らしきものが聞こえる。
ほら、ちゃんと人は居るじゃないか。
ホッとしたのもつかの間、その足音が自分の後をつけているように感じた。
自然と歩調は速くなる。
自分は男だし、もしその人間がひったくりだの何だのだったとしても、負けるほどか弱くはない。
でも。
もしそれが人間じゃなかったら?
異形の者だったら?
そんな事を考えてしまうほど、街の様子はおかしかった。
ニールは走り出した。
この街に知り合いはいない。
ならわざわざ関わる必要はないのだ。
人間なら、撒いてしまえば事は済む。
ドドドドドドドドッ。
太鼓の音は更に激しさを増した。
走っているニールの心臓もドクドクと速く打つ。
そして、
自分の足音と、後を追う足音もどんどん速くなっていく。
おかしい。
全力疾走している筈のニールに、後ろの足音は迫っていた。
体力には自信がある。
その辺の男に負けるような足ではない。
その速さについてきている。
いや、追いつこうとしている。
不安は大きくなる一方だ。
人間じゃないのか?
何か、別の物なのか?
走っても走っても、何処の家も明かりは消えている。
逃げ惑う様に光を探し、不用意に知らない道に入り込んでしまった。
やばい、道が分んねぇっ!
そう思った直後に曲がった先は袋小路だった。
しまったと思った瞬間、腕を取られ、ニールはヒャアというような叫び声をあげた。
「バーカ、何逃げてやがんだ。」
身を屈めて目を閉じた時、降ってきたのはよく知る声。
パチクリと瞬きをして、顔を上げた。
「…アリー…。」
「馬鹿だろ、お前。」
呆れ顔を向けられ、ニールは恥ずかしさを隠すように膨れて見せる。
「バカバカ言うなよっ!…なんか街が変だから…。」
ちょっと怖かっただけだ、とそっぽを向いた。
「今日は祭りらしいな。さっきバーのオーナーから聞いた。」
店が休みだと知って馴染みのオーナーに連絡を付けたらしい。
何でもこの祭りは魔物を鎮めるためのもので、昔からその日は家の明かりを消す習わしになっているそうだ。
魔物から身を守るために外にも出ないというのがしきたりだ。
「…そんな古い風習守ってんのか?向こうのコンビニも真っ暗だった。」
「祭りにかこつけて、この日は休んじまえって事らしいぜ?今頃、駅近くに人が集まってる筈だ。」
「…何だ…そんな事か…。」
心底ホッとして、ニールは促されるまま並んで歩いた。
「魔物を鎮めるための祭りねぇ。」
その所為であんな考えが浮かんでしまったのだろうか。
ここは異世界で、追いかけて来るのは異形の者で、なんて。
そんな話をしていると、アリーがふと足を止めた。
そして煙草に火を付けながら言う。
「お前さァ、インキュバスって魔物、知ってるか?」
ニールは首を横に振った。
「愛しい相手の姿に化けて取り殺すんだってよ。」
ニッと笑って見せるアリーを見て、苦笑いをする。
「やめようぜそんな話。もうさっきの追いかけっこで懲り懲りだ。」
アリーがニールを怖がらせようとしているのは分かった。
太鼓の音しかしない、こんな二人だけの空間で、そんな想像はしたくない。
アリー以外にこれが現実だと実感できるものがまだないのだ。
アリーはふふっと笑ってニールの体を引き寄せた。
「そうだな。せっかく二人きりだしな。」
キスをしようとしているのだと分かったが、場所が場所だけにニールは少し身を引いた。
「ちょ…こんなとこで…。」
「言ったろ?誰も出てきやしねぇ。」
「そうかもしれねーけどさ…。」
軽い抵抗を見せるニールの腰を抱き寄せ、さっき火を点けたばかりの煙草を道に落とすと強引に顎を掴んだ。
「誰もいねーよ。」
「…っ、アリー…。」
そして唇が触れる寸前に、アリーはこう言った。
「この異空間に迷い込んだのはお前一人だ。」
「!?」
え、と声を上げようとした唇はもう塞がれている。
いつもの煙草の匂いが襲いかかった。
キスの仕方も、匂いも、抱き寄せる腕も、すべてアリーのものだと分かる。
それでもさっきの言葉でニールの頭の中は混乱した。
俺一人?アリーと二人だろ?
いや、それより異空間って…
そこに俺一人?
じゃあ、コイツは?
インキュバスという魔物は愛しい相手に化けてとり殺すという。
突如襲いかかる恐怖に身を震わせたその瞬間。
パアっと辺りが明るくなったかと思うと同時にドンっと大きな音が鳴った。
太鼓の音ではない。
唇を解放され、腰にまわされていた腕の力が抜けたのを感じ、ニールは目を開けた。
空には大きな花火が散っていた。
「お、始まったな。」
そう言ってアリーは歩き出す。
ニールが呆気にとられていると、辺りにぽつぽつと明かりが点き始めた。
「解禁だ。人が出てくるぞ。」
そう言って顎で進行方向を示す。
「え?」
「祭りの本番はこれからだ。さっきまで太鼓が鳴ってたろ。あれが魔物を封じるんだとよ。だから、今からは人間の時間だ。」
納得のいかないまま横に並んで歩くニールに、アリーは顔を近付けた。
ニッと笑う。
「お前、さっき震えてたろ。」
「あっ…アンタなあっ!」
怖がらせようとしていると分かっていたのにあっさりと引っかかってしまったことが悔しい。
ぷーっと膨れて顔を背けた。
「アンタは不安になんなかったのかよっ。」
「俺かぁ?」
「もし俺がニセモノだったら、とか…。」
そんな事を考えるような性格はしていないだろうというのは分かっているが。
まともな返事が返ってくるとは思っていなかったのに、意外にアリーは真顔になった。
「別に…いいんじゃねぇか?」
「いいって何が。」
「お前に取り殺されてもさ。」
「それ俺じゃないからッ。ニセモノだろ!?俺はアンタのニセモノなんかに取り殺されたくないっ。」
それでもよ、とアリーは続けた。
「最後の最後まで、お前だと信じて死んでいくなら、それはそれでいいんじゃねぇか?」
それはそれで幸せな死に方だと。
ニールは足を止めた。
「それって…。」
「何だよ。」
「…いや、いい。」
訊ねてみたい気はするが、どうせまた「バーカ。」とか返されるだけだ。
先を歩くアリーの背中をしばし眺めてから、小走りに後を追ってまた隣に並んだ。
それって、俺にベタ惚れってことじゃね?
fin.