TALES OF THE ABYSS
その眼に映るもの
「奥様、よろしいのですか?あんな人を家に入れるなんて…。」
カーティス家に勤めだして5年になるメイドが困り顔でそう言った。
「いいのですよ。あの子がそうしたいと言ったのですもの。考えなしにそんなことを決める子ではありませんよ。」
ですが…とメイドは言い淀んだ。
あの子、というのはジェイドの事である。
彼が引き取ることに決めたカシムという男は、弟子に取ってもらえないからと勝手に自らに譜眼を施し、しかも制御できずに暴走を引き起こした。
その暴走を止める過程で、目が見えなくなったのだ。
おまけに譜眼に関する資料を国の閉架図書館から盗み出していたという事実も明らかになっていた。
その事故に関しては誰が見ても自業自得だろう。
ジェイドは取り合わなかったとはいえ、カシムにはその素養が無いと一応の助言はしてあったのだ。
それを無視しての行為なのだから、反省すべきはカシムの筈である。
その男を引き取るというのだ。家の者が困るのも当然だろう。
それでもジェイドの養母は嫌な顔一つ見せなかった。
「あなたには苦労をかけることになると思うけど、どうか許してやって。」
雇い主にそう言われてしまっては何も言えない。
メイドは渋々了承した。
了承はしたものの、全盲の人物の世話などやったことがない。
何をどの程度手伝っていいかわからないから、メイドはあれこれと世話を焼くしかなかった。
突然目が見えなくなったのだ。
歩くこともままならない。
泥棒を働いたというその男の手を取るのは嫌悪感さえ込み上げてくるが、仕事だから仕方がないと無理やり納得をして、彼女は手を引いた。
カシムが連れられてきたその日のうちに、ジェイドは旅の途中ではあるが家に立ち寄った。
「すみません、母上。無理を言って。」
「いいのよ。気にしないで。」
「それで彼は今どこに?」
二階に部屋を与えたと教えられ、ジェイドはカシムのいる部屋に向かう。
ジェイドが入っていくと、丁度メイドが食事を運んできたところだった。
「おやおや。まるで重病人ですね。」
呆れたような言葉にメイドもカシムも眉をひそめる。
メイドとしてはわざわざこの男をダイニングまで連れて行くより食事を運んできた方がずっと楽だし、カシムはまだ慣れない暗闇では食事だろうと何だろうと人前でするのは遠慮したかった。
「食事はダイニングでとらせてください。私が下まで連れて行きますから。」
そう言ってジェイドはメイドに食事を下げさせた。
「…その…お心遣いは嬉しいのですが…見えないことに慣れるまでは…ちょっと…。」
カシムはジェイドの言動を、『一人で食事をさせるのは不憫だ』という思考からなのかと考えていた。
だから、自分なりに気を使って言葉を選んだつもりだった。
しかし帰ってきた言葉は冷たかった。
「勘違いしないでください。同情で言っているのではなく、早く一人で動けるようになりなさいと言っているのです。メイドの手を借りるのも禁止します。」
そんな!とカシムは声を上げた。
確かに自分が悪かったのかもしれない。
あの赤い髪の青年に殴られ、諭されて、一応頭では理解した。
それでも今日目が見えなくなったばかりの自分に、その言いようはないだろうと思ったのだ。
「まだ間取りだって教えてもらっていないんです!一人で歩けるわけ無いでしょう!?」
「間取りは教えます。でも手を引くつもりはありません。障害物は感じ取って避けなさい。」
「そんなこと出来るわけが!!」
「やりなさい。この世界のものは全て音素でできているのですよ。それは知っているでしょう?」
だから出来る筈だ、とジェイドは続けた。
音素を感じ取ることもできないレベルで私の弟子になりたいと言ったのなら、失笑ですね。
音素についての説明を受け、最後にそう言われてカシムは反論を取り下げた。
確かに音素を感じ取ることができれば、どこに何があり、誰がいるのかを把握できるだろう。
それを出来なければジェイドの弟子になりたいと願うことさえ馬鹿げているという彼の言も、その通りなのだろうと思う。
「さあ、行きますよ。」
そう言ってジェイドは部屋を出た。
カシムはゆっくりとドアの方に向かう。
足下に何か落ちているかもしれない。
まだ部屋の中さえ把握していない。
棚の出っ張りにぶつかるかもしれない。
そんな不安に襲われながら、ジェイドの後を追った。
ガツン!
案の定聞こえたドアにぶつかった音に、ジェイドは苦笑した。
「おやおや。」
「閉めなくったっていいでしょう!?」
ドアを開けてすぐ文句を言ったカシムは、恥ずかしさに赤面していた。
「すみません、私は元来気の利かない性質でして。」
「ワザとでしょう!?」
「音素ばかりに気を取られないで、きちんと耳でも情報収集してくださいね。」
ドアが閉まる音ぐらい聞こえた筈だ、と。
そんな具合で、カシムが食卓に着いた頃には食事はとうに冷めていた。
そして食事の時も、最初に皿の配置を教えてもらっただけで、あとは手を借りることはできなかった。
「おいしいですか?冷めたスープ。」
「…不味くはないですよ。料理人の腕がいいんじゃないですか?」
温め直してもらったスープも、四苦八苦して食べているうちにまた冷めてしまったらしい。
ただ夕食を食べに一階に降りただけだと言うのに、部屋に戻ると疲れきって、カシムは早々にベッドに横になった。
ジェイドはすぐにまた旅立つだろう、そうしたら何とかもう少し手を貸してくれるようメイドに頼みこもう。
そんなことを考えながら眠りについた。
数日間は滞在する予定だとジェイドは言った。
それを聞いた時のカシムの顔は得も言われぬ表情だったらしく、ジェイドは苦笑を漏らした。
「期待されると、それに応えたくなる性分でしてね。」
今日も食卓にはカシムとジェイドだけが残された。
「どんな期待をされてるんです?」
皮肉だとわかっていながら、カシムは言葉を返す。
それに対してジェイドも喉の奥で笑いながら返事をする。
「あなたの身から溢れんばかりに出ている期待が私にはありありと見えるんですよ。」
「今の僕から出ているとすると、それはあなたにではなく、ほかの方に向かっていると思いますけどね。」
「いやぁ?間違いなく私に向かってきていますよ。いじめてくださいってね。」
今度ばかりは自分の意思で、思いっきり渋い顔を見せてやった。
その顔を見てまたジェイドは笑う。
その笑い声にも顔をしかめつつ、カシムはナイフとフォークを置いた。
「もう、いいんですか?少し残っていますよ。」
「あなたの言葉でお腹がいっぱいになりましたから。」
そう言って口元を拭いていると、カチャンと小さく音が鳴った。
あれ?とカシムは目を見開く。
開いたところで見えないのではあるが。
今のは食器の音だ。
しかもジェイドのほうから聞こえた。
もしかして、彼も今食事を終えたところなのだろうか。
自分の事で手一杯で人の事を気にかける余裕が無いためカシムは気付かなかったが、ジェイドは彼に合わせて自分の食事のスピードを落としていた。
それはあからさまな気遣いではない。
現にカシムは気付いていなかったのだから。
「どうかしたんですか?」
ジェイドにそう問われ、カシムは首を横に振った。
ジェイドが旅立った後、メイドにもう少し手を貸してくれと頼もうかとも思ったが、それはやめておいた。
音素を感じ取る訓練を本気でしてみようという気になっていた。
もともとジェイドの弟子になりたかったのだ。
なら、音素を完全に感じ取り、まるで目が見えるように動いて見せて、あのとき弟子に取らなかったのは間違いだったと思わせてやろう。
そんなことを考えていた。
それから数週間、物の配置は覚えて耳の感覚も良くなったが、なかなか音素を感じ取ると言うところまでは行かなかった。
ぼんやりと何か見えるような気はしなくもないが、ただそれだけだ。
そんなある日、メイドについてもらって階段を歩いているとき、踊り場に心地よい光が見えた。
何だろうと考え、そう言えばここに花瓶があると聞いたと思いだす。
「…ここに…花瓶があるんでしたよね?」
「はい、ありますけど。」
「今飾ってある花は何ですか?」
「カンナという黄色い花です。」
ああ、と納得がいった。
故郷にたくさん咲いていた花だ。
昔からその花が好きだった。
じっとその方向を見る。
すると花の部分と花瓶の部分で放つ光が違うことに気がついた。
そうか、これが音素か。
この花はおそらく自分と同じ音素だ。
そして花瓶は違うものなのだろう。
そう感じてからメイドの方を振り返ると、彼女からも光が見えた。
「…これか…。」
「はい?」
「君は優しい光を放っている。」
はあ?とメイドは迷惑そうな声を出した。
カシムは自分の言に吹き出し、謝罪の意味で「失礼」とだけ言って部屋に帰った。
まるで気障な男の口説き文句みたいだ、と一人笑っていた。
その日を境に、カシムの音素に対する感覚は鋭くなっていった。
屋敷の中ならほぼ付き添いなしに歩ける。
調子の良いときには、通りかかった人物が誰かを当てることもできた。
これだけ進歩すればジェイドも見直すだろうと思うと、カシムは嬉しかった。
それからまた少し経って、もう付き添いを必要としないカシムが階段を下りていくと、メイドがバタバタと忙しそうにしていた。
「どうかしたんですか?そんなに慌てて。」
「どうもこうもないですよ。まったく、あの方はいつも突然なんです。」
説明にもなっていない言葉を返し、メイドは行ってしまった。
どうしたんだろうと肩をすくめ、また歩き出そうとした時、カシムはこれまで感じたことの無い大きな気配を感じ取った。
なんだ?これ…。
それは屋敷の外からこちらに向かっている。
「な…何か来ます!」
また通りかかったメイドを呼びとめるとそう言った。
「何かってなんです?…ああもう、すみませんが、私準備で忙しいんです。」
「待ってください!なにか、とてつもないモノが来るんです!…危険…ではないかもしれませんが…。」
その大きな気配に畏怖を感じ、カシムは忙しいと言うメイドの腕をつかんで離せなかった。
気配はますます大きく見え、とうとう玄関にやってきた。
呼び鈴が鳴る。
「ああ、もう、だから時間が無いって言ったのに。私、お出迎えしなくちゃいけませんから、離してください。」
そう言ってメイドは無理やりに手を離して玄関に向かった。
誰だ?こんな気配を放っているのは…。
「おかえりなさいませ。坊ちゃま。」
メイドが深々とお辞儀をした。
「すみませんね、突然で。」
そうメイドに声をかけてから、ジェイドは目の前の階段の途中で呆けているカシムを見つけた。
「おやおや、どうしたんです?そんなところに突っ立って。まだ、一人で歩けないんですか?」
「いいえ、坊ちゃま。カシムさんはもう一人で歩けますよ?」
ジェイドの外套を受け取りながら、メイドがそう答える。
その間もカシムは呆然とするばかりだった。
「奥様はリビングにいらっしゃいます。夕食までお部屋でお休みになりますか?」
「いや、彼と少し話します。下がっていいですよ。」
そう言ってジェイドはゆっくりと階段の下まで歩み寄る。
と、はじかれたようにカシムが走り出した。
転げ落ちそうになりながらジェイドの前に出ると、倒れこんだのかという勢いで膝をついた。
「すみませんでした!僕は…僕は…」
「…どうしたんです?いきなり。」
流石のジェイドも呆気にとられている。
カシムは続けた。
「僕は、自分の力量も知らず、あなたの大きさも知らず、子供のように同じものを欲しがって…。愚かでした…。本当に…すみませんでした。」
こんな大きな気配をまとった人物と同じことができると思い込んでいたのだ。
自分がどれだけ浅はかだったかを思い知らされていた。
「…見えるようになったのですね。」
ジェイドは話をしましょう、とカシムを部屋に促した。
謝ってばかりのカシムに少々手を焼きながら、ジェイドは静かに言った。
「もう過ぎたことです。それより、音素の話をしましょう。」
どんなふうに見えるのか、違いはわかるのか、どんなきっかけで見えるようになったのか。
ジェイドは色々な質問をし、カシムはそれに一つ一つ答えた。
カシムの表情は明るかった。
その顔を見て、ジェイドも淡く笑みを浮かべていた。
「これから、どうしますか?」
「え?」
思いがけない質問にカシムは思考が止まった。
「まさか、仕事もせずに一生ここで居候を続けるつもりですか?」
「…仕事…。」
カシムの中にはまだ未来の事はなかった。
「屋敷の中を自由に動けるのだから、外にも出られるようになるでしょう。物の本質を見ているのだから、できることもいろいろある筈です。そういうことも考えて置いてください。」
「はい…。」
少しトーンを落とした返事だったが、別に暗くなったわけではない。
真面目に考えている証拠だ。
その様子にまたジェイドは笑った。
「随分と素直になりましたね。おかしなものです。」
「そう言わないでください。もう自分の愚かさは身に染みました。」
恐縮するカシムに「違いますよ。」とジェイドは返す。
「関わればこうやって分かりあえるのに、私はそれを避けてしまう癖がある。未熟なのは私も同じなのでしょう。」
「未熟だなんて。あなたの気配はとんでもなく大きくて、眩しい。僕はあなたに憧れたことを誇りに思います。」
思いつく限りの絶賛をしたつもりのカシムにジェイドはいつもの調子で「おやおや。」と肩を竦めた。
「今見ている私が本当の私だと思っているなら、あなたはもう少し修業が必要ですね。」
本当の、と聞いてカシムはじっとジェイドを見つめた。
今まで眩しくてよく形が見えなかったが、その眩しい光を纏った中に、人の形がうっすらと見えた。
そしてそれは憂いを携えている。
「…まさか、この光…ご自分で?」
「あまりテリトリー内に人を入れる気はないんですよ。付け入られるのは好きではないのでね。」
それが壁になって分かりあう機会を逃しているのでしょうけどね、とジェイドは締めくくった。
自ら大きな気配を纏い、本当の自分を隠して生きているジェイドの力は計り知れない。
その力の本質よりも、カシムはうっすらと見えた憂いを想った。
いつか、彼の力になりたいと。
fin.
「奥様、よろしいのですか?あんな人を家に入れるなんて…。」
カーティス家に勤めだして5年になるメイドが困り顔でそう言った。
「いいのですよ。あの子がそうしたいと言ったのですもの。考えなしにそんなことを決める子ではありませんよ。」
ですが…とメイドは言い淀んだ。
あの子、というのはジェイドの事である。
彼が引き取ることに決めたカシムという男は、弟子に取ってもらえないからと勝手に自らに譜眼を施し、しかも制御できずに暴走を引き起こした。
その暴走を止める過程で、目が見えなくなったのだ。
おまけに譜眼に関する資料を国の閉架図書館から盗み出していたという事実も明らかになっていた。
その事故に関しては誰が見ても自業自得だろう。
ジェイドは取り合わなかったとはいえ、カシムにはその素養が無いと一応の助言はしてあったのだ。
それを無視しての行為なのだから、反省すべきはカシムの筈である。
その男を引き取るというのだ。家の者が困るのも当然だろう。
それでもジェイドの養母は嫌な顔一つ見せなかった。
「あなたには苦労をかけることになると思うけど、どうか許してやって。」
雇い主にそう言われてしまっては何も言えない。
メイドは渋々了承した。
了承はしたものの、全盲の人物の世話などやったことがない。
何をどの程度手伝っていいかわからないから、メイドはあれこれと世話を焼くしかなかった。
突然目が見えなくなったのだ。
歩くこともままならない。
泥棒を働いたというその男の手を取るのは嫌悪感さえ込み上げてくるが、仕事だから仕方がないと無理やり納得をして、彼女は手を引いた。
カシムが連れられてきたその日のうちに、ジェイドは旅の途中ではあるが家に立ち寄った。
「すみません、母上。無理を言って。」
「いいのよ。気にしないで。」
「それで彼は今どこに?」
二階に部屋を与えたと教えられ、ジェイドはカシムのいる部屋に向かう。
ジェイドが入っていくと、丁度メイドが食事を運んできたところだった。
「おやおや。まるで重病人ですね。」
呆れたような言葉にメイドもカシムも眉をひそめる。
メイドとしてはわざわざこの男をダイニングまで連れて行くより食事を運んできた方がずっと楽だし、カシムはまだ慣れない暗闇では食事だろうと何だろうと人前でするのは遠慮したかった。
「食事はダイニングでとらせてください。私が下まで連れて行きますから。」
そう言ってジェイドはメイドに食事を下げさせた。
「…その…お心遣いは嬉しいのですが…見えないことに慣れるまでは…ちょっと…。」
カシムはジェイドの言動を、『一人で食事をさせるのは不憫だ』という思考からなのかと考えていた。
だから、自分なりに気を使って言葉を選んだつもりだった。
しかし帰ってきた言葉は冷たかった。
「勘違いしないでください。同情で言っているのではなく、早く一人で動けるようになりなさいと言っているのです。メイドの手を借りるのも禁止します。」
そんな!とカシムは声を上げた。
確かに自分が悪かったのかもしれない。
あの赤い髪の青年に殴られ、諭されて、一応頭では理解した。
それでも今日目が見えなくなったばかりの自分に、その言いようはないだろうと思ったのだ。
「まだ間取りだって教えてもらっていないんです!一人で歩けるわけ無いでしょう!?」
「間取りは教えます。でも手を引くつもりはありません。障害物は感じ取って避けなさい。」
「そんなこと出来るわけが!!」
「やりなさい。この世界のものは全て音素でできているのですよ。それは知っているでしょう?」
だから出来る筈だ、とジェイドは続けた。
音素を感じ取ることもできないレベルで私の弟子になりたいと言ったのなら、失笑ですね。
音素についての説明を受け、最後にそう言われてカシムは反論を取り下げた。
確かに音素を感じ取ることができれば、どこに何があり、誰がいるのかを把握できるだろう。
それを出来なければジェイドの弟子になりたいと願うことさえ馬鹿げているという彼の言も、その通りなのだろうと思う。
「さあ、行きますよ。」
そう言ってジェイドは部屋を出た。
カシムはゆっくりとドアの方に向かう。
足下に何か落ちているかもしれない。
まだ部屋の中さえ把握していない。
棚の出っ張りにぶつかるかもしれない。
そんな不安に襲われながら、ジェイドの後を追った。
ガツン!
案の定聞こえたドアにぶつかった音に、ジェイドは苦笑した。
「おやおや。」
「閉めなくったっていいでしょう!?」
ドアを開けてすぐ文句を言ったカシムは、恥ずかしさに赤面していた。
「すみません、私は元来気の利かない性質でして。」
「ワザとでしょう!?」
「音素ばかりに気を取られないで、きちんと耳でも情報収集してくださいね。」
ドアが閉まる音ぐらい聞こえた筈だ、と。
そんな具合で、カシムが食卓に着いた頃には食事はとうに冷めていた。
そして食事の時も、最初に皿の配置を教えてもらっただけで、あとは手を借りることはできなかった。
「おいしいですか?冷めたスープ。」
「…不味くはないですよ。料理人の腕がいいんじゃないですか?」
温め直してもらったスープも、四苦八苦して食べているうちにまた冷めてしまったらしい。
ただ夕食を食べに一階に降りただけだと言うのに、部屋に戻ると疲れきって、カシムは早々にベッドに横になった。
ジェイドはすぐにまた旅立つだろう、そうしたら何とかもう少し手を貸してくれるようメイドに頼みこもう。
そんなことを考えながら眠りについた。
数日間は滞在する予定だとジェイドは言った。
それを聞いた時のカシムの顔は得も言われぬ表情だったらしく、ジェイドは苦笑を漏らした。
「期待されると、それに応えたくなる性分でしてね。」
今日も食卓にはカシムとジェイドだけが残された。
「どんな期待をされてるんです?」
皮肉だとわかっていながら、カシムは言葉を返す。
それに対してジェイドも喉の奥で笑いながら返事をする。
「あなたの身から溢れんばかりに出ている期待が私にはありありと見えるんですよ。」
「今の僕から出ているとすると、それはあなたにではなく、ほかの方に向かっていると思いますけどね。」
「いやぁ?間違いなく私に向かってきていますよ。いじめてくださいってね。」
今度ばかりは自分の意思で、思いっきり渋い顔を見せてやった。
その顔を見てまたジェイドは笑う。
その笑い声にも顔をしかめつつ、カシムはナイフとフォークを置いた。
「もう、いいんですか?少し残っていますよ。」
「あなたの言葉でお腹がいっぱいになりましたから。」
そう言って口元を拭いていると、カチャンと小さく音が鳴った。
あれ?とカシムは目を見開く。
開いたところで見えないのではあるが。
今のは食器の音だ。
しかもジェイドのほうから聞こえた。
もしかして、彼も今食事を終えたところなのだろうか。
自分の事で手一杯で人の事を気にかける余裕が無いためカシムは気付かなかったが、ジェイドは彼に合わせて自分の食事のスピードを落としていた。
それはあからさまな気遣いではない。
現にカシムは気付いていなかったのだから。
「どうかしたんですか?」
ジェイドにそう問われ、カシムは首を横に振った。
ジェイドが旅立った後、メイドにもう少し手を貸してくれと頼もうかとも思ったが、それはやめておいた。
音素を感じ取る訓練を本気でしてみようという気になっていた。
もともとジェイドの弟子になりたかったのだ。
なら、音素を完全に感じ取り、まるで目が見えるように動いて見せて、あのとき弟子に取らなかったのは間違いだったと思わせてやろう。
そんなことを考えていた。
それから数週間、物の配置は覚えて耳の感覚も良くなったが、なかなか音素を感じ取ると言うところまでは行かなかった。
ぼんやりと何か見えるような気はしなくもないが、ただそれだけだ。
そんなある日、メイドについてもらって階段を歩いているとき、踊り場に心地よい光が見えた。
何だろうと考え、そう言えばここに花瓶があると聞いたと思いだす。
「…ここに…花瓶があるんでしたよね?」
「はい、ありますけど。」
「今飾ってある花は何ですか?」
「カンナという黄色い花です。」
ああ、と納得がいった。
故郷にたくさん咲いていた花だ。
昔からその花が好きだった。
じっとその方向を見る。
すると花の部分と花瓶の部分で放つ光が違うことに気がついた。
そうか、これが音素か。
この花はおそらく自分と同じ音素だ。
そして花瓶は違うものなのだろう。
そう感じてからメイドの方を振り返ると、彼女からも光が見えた。
「…これか…。」
「はい?」
「君は優しい光を放っている。」
はあ?とメイドは迷惑そうな声を出した。
カシムは自分の言に吹き出し、謝罪の意味で「失礼」とだけ言って部屋に帰った。
まるで気障な男の口説き文句みたいだ、と一人笑っていた。
その日を境に、カシムの音素に対する感覚は鋭くなっていった。
屋敷の中ならほぼ付き添いなしに歩ける。
調子の良いときには、通りかかった人物が誰かを当てることもできた。
これだけ進歩すればジェイドも見直すだろうと思うと、カシムは嬉しかった。
それからまた少し経って、もう付き添いを必要としないカシムが階段を下りていくと、メイドがバタバタと忙しそうにしていた。
「どうかしたんですか?そんなに慌てて。」
「どうもこうもないですよ。まったく、あの方はいつも突然なんです。」
説明にもなっていない言葉を返し、メイドは行ってしまった。
どうしたんだろうと肩をすくめ、また歩き出そうとした時、カシムはこれまで感じたことの無い大きな気配を感じ取った。
なんだ?これ…。
それは屋敷の外からこちらに向かっている。
「な…何か来ます!」
また通りかかったメイドを呼びとめるとそう言った。
「何かってなんです?…ああもう、すみませんが、私準備で忙しいんです。」
「待ってください!なにか、とてつもないモノが来るんです!…危険…ではないかもしれませんが…。」
その大きな気配に畏怖を感じ、カシムは忙しいと言うメイドの腕をつかんで離せなかった。
気配はますます大きく見え、とうとう玄関にやってきた。
呼び鈴が鳴る。
「ああ、もう、だから時間が無いって言ったのに。私、お出迎えしなくちゃいけませんから、離してください。」
そう言ってメイドは無理やりに手を離して玄関に向かった。
誰だ?こんな気配を放っているのは…。
「おかえりなさいませ。坊ちゃま。」
メイドが深々とお辞儀をした。
「すみませんね、突然で。」
そうメイドに声をかけてから、ジェイドは目の前の階段の途中で呆けているカシムを見つけた。
「おやおや、どうしたんです?そんなところに突っ立って。まだ、一人で歩けないんですか?」
「いいえ、坊ちゃま。カシムさんはもう一人で歩けますよ?」
ジェイドの外套を受け取りながら、メイドがそう答える。
その間もカシムは呆然とするばかりだった。
「奥様はリビングにいらっしゃいます。夕食までお部屋でお休みになりますか?」
「いや、彼と少し話します。下がっていいですよ。」
そう言ってジェイドはゆっくりと階段の下まで歩み寄る。
と、はじかれたようにカシムが走り出した。
転げ落ちそうになりながらジェイドの前に出ると、倒れこんだのかという勢いで膝をついた。
「すみませんでした!僕は…僕は…」
「…どうしたんです?いきなり。」
流石のジェイドも呆気にとられている。
カシムは続けた。
「僕は、自分の力量も知らず、あなたの大きさも知らず、子供のように同じものを欲しがって…。愚かでした…。本当に…すみませんでした。」
こんな大きな気配をまとった人物と同じことができると思い込んでいたのだ。
自分がどれだけ浅はかだったかを思い知らされていた。
「…見えるようになったのですね。」
ジェイドは話をしましょう、とカシムを部屋に促した。
謝ってばかりのカシムに少々手を焼きながら、ジェイドは静かに言った。
「もう過ぎたことです。それより、音素の話をしましょう。」
どんなふうに見えるのか、違いはわかるのか、どんなきっかけで見えるようになったのか。
ジェイドは色々な質問をし、カシムはそれに一つ一つ答えた。
カシムの表情は明るかった。
その顔を見て、ジェイドも淡く笑みを浮かべていた。
「これから、どうしますか?」
「え?」
思いがけない質問にカシムは思考が止まった。
「まさか、仕事もせずに一生ここで居候を続けるつもりですか?」
「…仕事…。」
カシムの中にはまだ未来の事はなかった。
「屋敷の中を自由に動けるのだから、外にも出られるようになるでしょう。物の本質を見ているのだから、できることもいろいろある筈です。そういうことも考えて置いてください。」
「はい…。」
少しトーンを落とした返事だったが、別に暗くなったわけではない。
真面目に考えている証拠だ。
その様子にまたジェイドは笑った。
「随分と素直になりましたね。おかしなものです。」
「そう言わないでください。もう自分の愚かさは身に染みました。」
恐縮するカシムに「違いますよ。」とジェイドは返す。
「関わればこうやって分かりあえるのに、私はそれを避けてしまう癖がある。未熟なのは私も同じなのでしょう。」
「未熟だなんて。あなたの気配はとんでもなく大きくて、眩しい。僕はあなたに憧れたことを誇りに思います。」
思いつく限りの絶賛をしたつもりのカシムにジェイドはいつもの調子で「おやおや。」と肩を竦めた。
「今見ている私が本当の私だと思っているなら、あなたはもう少し修業が必要ですね。」
本当の、と聞いてカシムはじっとジェイドを見つめた。
今まで眩しくてよく形が見えなかったが、その眩しい光を纏った中に、人の形がうっすらと見えた。
そしてそれは憂いを携えている。
「…まさか、この光…ご自分で?」
「あまりテリトリー内に人を入れる気はないんですよ。付け入られるのは好きではないのでね。」
それが壁になって分かりあう機会を逃しているのでしょうけどね、とジェイドは締めくくった。
自ら大きな気配を纏い、本当の自分を隠して生きているジェイドの力は計り知れない。
その力の本質よりも、カシムはうっすらと見えた憂いを想った。
いつか、彼の力になりたいと。
fin.
1/4ページ
