みかのり短編

特別



 主の部屋での所用を終えた三日月は、立ち去ろうとしたところで机の上に置かれた絵に気が付いた。
 鮮やかな青には水を思わせる光の反射が描かれて、魚群とおぼしき影がそこここに落とされている。
「主よ、それは海か?」
「ん?あー、これ?そう、海の絵。水族館のチラシだよ。ちょっといいでしょ。貰ってきちゃった。」
 彼女はその絵が気に入っているようで、きちんと透明なファイルに挟み込んでいた。
「水族館、とは水の生き物を展示している施設だったか?」
「そう。結構面白いよ?興味ある?」
 鞄を探って別バージョンのチラシを見つけて差し出す。
「お休み取るなら早い目に言ってね~。」
「あいわかった。」


 それからしばらく経ったある日、三日月は則宗と連れ立って現世に出かけた。
 都会の喧噪からは離れ、電車に揺られること数十分、目的の場所は海沿いの街にある。この街は時の政府の息の掛かった場所が無いようで、転送装置の使用は許可されていなかった。
「たまには電車もいいもんだな。景色を見るのも楽しかったよ。」
 則宗は改札から出て人混みから外れると、電車の中から見えたものを思い出してはそれを報告する。乗車中、時折面白いものを見つけて声を掛けることもあったが、目を引いてしまうのを気にして二人とも極力口を閉じていたのだ。
「ああ、なかなか面白かったな。だが、今日の目的はこの先だぞ?」
「うはは。分かっているさ。」
 本丸でのんびりと過ごす時間も大事だが、こうして二人で出掛けるのは貴重だ。則宗は少なからず浮かれていた。なにせ普段散歩すら面倒くさがる連れ添いが、自分から誘ってきたのだから。
「あの絵かい?」
 三日月から主の部屋で見たチラシのことを聞いていた則宗は、鮮やかな青を見つけて指を差した。
 水族館に向かう道のりの所々に、あの絵が貼られている。
「ああ。海の街らしくて良いな。」
 土産物屋や食事処の店先にも飾られているところを見ると、水族館はこの街の重要な観光スポットなのだろう。
 到着してみるとその施設は想像よりずっと大きかった。
「これは見応えがありそうだ。」
 博物館や美術館のようなイメージを抱いていた二人は、まず巨大な水槽に驚き、次いで水中回廊に驚き、見知らぬ生物に驚き、傍目に見ても『いい大人が年甲斐もなくはしゃいでいる』様子だ。
 案内板お勧めの順路通りに進んでいくと、展示が続くその途中にレストランのフロアに行き当たる。開館直後に入ると丁度昼に差し掛かる時間にここに辿り着く設計のようだ。
 うまく出来ているなと思いつつ、顔を見合わせた。
「飯にするか。」
「だな。」
 一番空いていたファミリーレストランに入ってメニューを見ると、海の食材を使ったものが目に付く。
 展示しているものがそのまま食材になることはないのだろうが、なんとなく面白く感じて二人して笑った。
「折角海の街にいるのだし、海鮮も良いな。」
「海の幸カレーもあるぞ?…ふむ…迷うな…」
 目移りしてしまって、中々決められない。
 三日月が考えあぐねて「どうする?」と尋ねると、則宗も考え込んでいた。うーん、と唸る。
「お前さんはどうするんだい?」
 何とは無しに聞き返したが、一瞬静まった様に感じて相手の顔を見て気付く。いつもと違う呼び方をしてしまった。
「…す…すまん…間違えた…」
 微かに驚いた色を見せていた三日月は笑い声を立てた。
「何を謝る必要がある。おぬしがそう呼ぶのは気安い相手だろう?また一段と距離が縮まったようで嬉しいぞ?それに…」
 彼は一旦言葉を止め、声を低くして言った。
「人間の夫婦めおとが連れ添いのことをそう呼ぶことがあるだろう?そんな風に聞こえなくもない。」
「な…!?…いや、多分この時代では言わないと思うぞ?」
「そうか?まあ、俺にはそう聞こえたということだ。」
 そんな風に言われると、妙に意識してしまう。いつもの「アンタ」という呼び方さえ夫婦間の呼びかけのようで、則宗は困ってその都度名前で呼びかけた。

 食事のあとも、二人は水族館を満喫した。
 イルカやペンギンのショー、小さな生き物との触れ合いコーナー、深海の生物を扱ったミニシアター。どれも興味を引くものばかりだった。
「海の底にはあんなのがいるのか。知らないことはいくらでもあるもんだなあ。」
「ああ、驚くことばかりだな。鶴丸にも教えてやったら喜ぶかもしれん。」
「それなら短刀の坊主たちも喜びそうだ。ヤドカリやヒトデに触れるのも楽しかった。」
 それぞれの場所に置いてあった案内チラシを、誰某に渡そうと言い合って手に取る。それからひととおり見終えて、出口手前の土産屋に寄った。
 色々見て回っている中、則宗はぬいぐるみの前で足を止めた。
「これはイロワケイルカだったか。可愛かったな。」
 そう言って白と黒のイルカを手に取った。則宗はしばらく思案したあと、苦笑を浮かべて棚に戻す。
 と、三日月がそれを手に取ってレジに向かった。
「お、おい…」
「気に入ったのだろう?連れて帰ろうではないか。」
 確かに気には入ったが、部屋に飾るのもどうかと思ったのも事実だ。もちろん子供のように持ち歩くわけでもない。欲しいか欲しくないかと言えば、まあ、ちょっと欲しい、ぐらいの気持ちだろうか。
 則宗は、いらないとも言えず声を掛けそびれてしまった。
「皆への土産も買ったことだし、そろそろ帰るか。」
 ぬいぐるみは則宗が抱え、三日月は菓子の箱が入った手提げを持って帰路につく。



 部屋で一息吐いたところで、三日月が笑んで言った。
「今日は良い日だ。」
 傍らのぬいぐるみに目をやりながら、則宗も笑った。
「ああ、楽しかったな。」
「無論それもそうだが」と三日月は目を細める。
「新たな呼び方をされて、胸がときめいた。」
 則宗は焦ったように「あれは…」と言い訳を探すが、うまく言葉が出てこない。
 三日月は気にせず続けた。
「それに、沢山名前を呼ばれた気がするぞ?」
 それは『お前さん』とも『アンタ』とも呼びにくくなってしまったせいで、自然と名前で呼ぶ回数が増えただけのことだ。だが、それを嬉しく感じているのだと思うと、反論も憚られる。
「そ、そうかい?」
「ああ。願わくば…もう一度…いや、何度でも、あの呼び方をしてくれると嬉しいのだが。」
 ニッコリ顔を向けられて、則宗は返答に困った。
「いや…あれは間違えただけで…」
「それは分かっているが、俺は嬉しかったぞ?呼んでみてくれるか。」
「それはちょっと…」ともごもご口の中で断る文句を探していると、三日月は苦笑を見せた。
「いつも他の者をそう呼んでいるではないか。何を嫌がることがある。」
 夫婦のようだ、と言われたことが最大の原因なのだが、言った本人は知ってか知らずか気にも留めず詰め寄った。身を寄せて、顔を覗き込む。
「さ、呼んでくれ?」
 頬を染めて、則宗は観念したようにボソッと声を出す。
「…お…お前さん…」
「それでは言っただけだろう?こちらを見て、呼んでくれ?」
 抱き寄せるようにされて、則宗は相手の身体を押し返した。身体を離して、顔を背けて諦めたように言う。
「わかった。アンタが…その、お前さんがそれが嬉しいのなら、そう呼ばなくもない。…が、二人きりの時だけだぞ?」
 三日月はフフッと笑って、胸の辺りを押している則宗の手を掴んで、引き寄せた。そしてしっかりと抱き寄せる。
「また一歩近付いたな。」
 則宗は拗ねたような怒り顔で見上げた。
「距離なんて疾うに無いだろう?」
「あっはっは。そうかそうか。」
 余裕で笑う三日月の様子に、自分ばかりが動揺させられているように感じる。少々の不服を抱えながら、則宗は相手の胸に顔をうずめた。
「お前さんは狡い。」
「そうかそうか。」



fin.
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