奏でる想い



 断崖絶壁の高台の上、海を臨むその宿は湯治の温泉として知られていた。そしてまた、一部の金持ちの間では美人の女を買える湯屋として有名だった。
 その宿から緩やかな坂を下りていくと、小さな漁村がある。宿に泊まる殆どの客がその港を利用しているが、入り江が入り組み、暗礁が多いこの漁村に外から船が来るのは希なことだった。
 陸路はというと港以外の全てを断崖に覆われていて、宿の裏手の絶壁に辛うじて作られている細い小道を上ってくるしかなかった。まさに陸の孤島だ。
 そんな宿が続いているのは、美しい遊女たちとそれを買う富豪のお陰だろう。
 今年で十になる志乃しのはその宿の下働きをしていた。
 幼い頃に両親を亡くした彼女は宿の女将に引き取られ、それ以来そこで暮らしているが、自分を不幸だと思ったことはなかった。なぜなら、女将が彼女をめっぽう可愛がっていたからだ。それに、美しい姐たち(遊女たち)にも可愛がられていた。まだ幼い彼女は姐たちの仕事を理解していなかったし、女将は意図して彼女に気付かせないようにしていた。

かなでねえさま。洗濯物はありますか?」
「ああ、そこのを持ってっておくれ。」
 奏がそう答えると、隣の部屋のふすまが開いてことが顔を出した。
「志乃、こっちもお願いね。」
「はい、琴ねえさま。」
笙子しょうこはさっき自分で持って行ったみたいだけど」
「はい、受け取りました。今、女将さんと何か話してます。」
 志乃は洗濯物をまとめて桶に入れると、よいしょ、と持ち上げて、少々覚束ない足取りで洗濯場に戻っていった。
「あらあら、大丈夫かしら。」
「この間、そこの階段踏み外してたものね。」
 心配そうに見つめる二人の目には、優しさと幾ばくかの陰りが含まれていた。
「真面目で良い子よね…」
 奏のその言葉は本心だ。志乃を末の妹のように思っている。ここの女たちは皆、女将に引き取られてここに来た。同じように可愛がられ、同じように姐を慕って育ってきた。

 …だからこそ…



 洗濯を終えて次の仕事に移ろうと宿の入り口近くを通りかかると、ちょうどお客が入ってきたところだった。
 志乃はまだお客の前に出ないように言われている。さっと身を隠し、自分が出て行っていい頃合いを図る為に聞き耳を立てた。
「あら、笹野様、いらっしゃいませ。お久しぶりでございます。」
 女将が客を笹野と呼んだのが聞こえて、志乃はドキリと身を固めた。
 姿を窺うためにそっと覗いてみる。
 笹野ささの栄助えいすけと名乗るその人は、商人だと言っているがどこかの旗本か大富豪の子息ではないかと噂されている。とても金払いの良い上客だ。
 奏の固定客であり、想い人だと志乃は認識している。そして、栄助の整った顔立ちや立ち振る舞いに、志乃も密かに憧れを抱いていた。いつかあの人のお世話をしたい、と心に秘めている。
「志乃?志乃!」
「は、はい!」
 突然女将が呼んだことに驚き、慌てて物陰から出てしまった。
「そんなとこに居たのかい。まったく、裾をお直しよ。お客様の前だよ。」
「す、すみません。」
「まあいいわ。急いで奏を呼んでおいで。笹野様だって言えばあの子も飛んでくるだろうさ。」
 はい、と返事をして早足で立ち去ると、女将が「すみませんねぇ。まだ躾がなっていませんで。」と謝罪しているのが聞こえた。
 きっとほんの子供だと思われただろう。志乃は少々悔しい面持ちで、でも奏にそんな顔を見せるわけにはいかないと気を取り直す。
「奏ねえさま。笹野様がおいでです。」
 部屋の前でそう声を掛けると、奏はハッと顔を上げて急ぎ足で玄関へ向かった。
 嬉しいんだろうなと思って見ていると、自分の前を横切るその顔は前に見た満面の笑みではなく、どこか悲しげだった。
「…奏ねえさま…どうかしたのかな?」
 なんとなく不安を感じ、しばし後ろ姿を見送る。



 次の日の早朝、志乃はいつも通り宿の中を見回っていた。
 まだ皆が起き出す前に、何か問題が無いか、酔い潰れた客が廊下で粗相をしていないかなどを確認する見回りだ。部屋を覗くわけでもない。ぐるっと決められた順路を歩き回るだけの役目だった。
 その途中、ある客室の手前で彼女は足を止めた。栄助の部屋だ。
 少し覗きたい衝動に駆られながらも、そんな失礼なことをしたことがバレれば女将にも姐たちにも、そして栄助本人にも嫌われるだろうと思い留まる。
 誘惑に引きずられないように足早に通り過ぎようとしたとき、入り口のふすまが開いた。
 ビクッと身を震わせそちらを向くと、栄助が立っている。
「やあ、おはようさん。早いな。」
 栄助は別段気にすることなく、気さくに声を掛けた。
「あ…おはようございます。お早いですね。」
 見ればもう旅支度を調えている。こんな早くに発つのだろうか。そう思って彼の後ろに奏の姿を探した。
「ああ、今日は急ぎの用があってね。…もう出たいんだが奏が見当たらなくて…申し訳ないが、嬢ちゃんが見送ってくれるかい?」
 いつも客と共に夜を過ごすのに、何処に行ってしまったのだろうか。
「奏ねえさまを探してきましょうか。」
「いや、本当にもう時間が無いんだ。奏が戻ってきて、私が荷物を持って部屋を出たと知ればすぐ追いかけてくるだろう。それまで嬢ちゃんに頼むよ。」
「分かりました。では、お荷物お持ちしますね。」
 奏が何故ここにいないのか気になってはいたが、それよりも栄助の見送りが出来ることに心が躍る。
「どうぞ。」
 荷物を持ってお客を玄関まで案内するべく、手先とお辞儀で促した。足元を確認しつつ、時折振り返る仕草は姐たちの所作を見て覚えたものだ。
 帳場の前まで行き女将に声を掛ける。
「笹野さまがお発ちです。」
 志乃が見送りの立場にいることを見て取って、女将はいぶかしげな顔をした。
「笹野様お早いんですね。奏はどうしました?」
「それが見当たらなくてね。急ぐんで顔を見るのは諦めるよ。」
「まあ、あの子ったら大事な人を放っておくなんて。きつく言っておきますね。」
 ハハハと笑い声を立て、栄助は「たまには構わないさ」とだけ返した。
 志乃は精算のあいだ控えて立っていたが、なぜか風呂場へ続く廊下が気になり、そちらをチラッと振り返った。途端何やら嫌な予感が身体を包み込む。
(…何?…ねえさま…風呂場にいるの?)
 黒いもやのようなものに包まれ、ある情景が頭に浮かび上がった。

 風呂の湯船の前で血を流して倒れている奏。その近くには短刀が落ちている。

 ゾクッとして前を向けば、栄助が振り返って玄関に促す。
 急いで発つのは何故だろう。
 奏を探しに行こうとしたのを止めたのは何故だろう。
 まだ接客を許されていない下働きに見送りを言いつけたのは何故だろう。
 そんな疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡り、思いついたひとつのこと。

 今見た情景が本当のことなら、殺したのはこの人だ。

 固まっている志乃の様子に首をかしげ、栄助は微笑んだ。
「見送ってくれるんじゃなかったのかい?」
 ハッとして玄関に足を向ける。
 ただ嫌な空想をしてしまっただけだ。ありえない。そう言い聞かせて。
「す、すみません。ぼうっとしちゃって…」
 栄助の履き物を用意し、彼が足元を整えるのを待って、荷物を渡す。
「お越しいただきありがとうございました。またお待ちしておりますね。」
 決まり切った文言を言い、最後に「お気を付けて」と添えたところで、志乃は小声になって言った。
「お早くお隠れなさいまし。」
 何故そんなことを言ったのか、彼女自身分からなかった。
 もし先程の情景が本当のことなら、大事な姐を殺されて恨みこそすれ、逃がそうなどと。
 栄助は一瞬ハッとした顔を向けたが、すぐに優しげな笑顔に戻った。そして志乃の二の腕をそっと掴む。
「女将さん、この子に表まで見送ってもらってもかまわないかい?」
 そう言って帳場の方を向いた。
 女将は和やかに了承する。
「さあ、表まで来てくれ。」
 言われるまま志乃は草履を履きついて行く。物腰柔らかなその男の手は、優しく掴んでいるようでいて振りほどけないのがわかった。
 表に出て女将の死角に入った途端、栄助はぐいっと引っ張って宿の裏手の断崖の小道に志乃を連れて行く。
 元よりこの道を通る人は少ない。その上まだ早朝だ。誰の目にも触れず、早足で断崖を下った。人一人がやっと通れる細い道。志乃は崖の高さに怯え、足をもつらせながらやっとついて行く。
 途中、人が行き違えるように作られたくぼみに入ると、栄助は乱暴に志乃を壁に押しつけた。
「何を見た!」
 睨み付けられて、恐怖に身を震わせて志乃は答える。
「何も…」
「ならさっきのは何だ!何故あんなことを言った!」
「わ…わかりません…勝手に口から…」
 それだけを言うと青ざめてもう喋れない風だった。
 チッと舌打ちをして、栄助は一旦目を瞑るともう一度睨み付けた。
「選べ。ここから突き落とされるのと、このまま俺について行くのとどっちがいい。」
 心が決まるのは早かった。口がうまく動かなかったが、志乃は「ついていく」と答えた。



 程なく宿では大騒ぎが起こった。
 風呂場で三人の遊女が死んでいるのが見つかったのだ。
 現場をあらために来た役人は死体が見つかる直前にいなくなった栄助を下手人としたが、素性を調べても何処にもそんな人物は見つからなかった。身分も名前もすべてが嘘だった。
 共に姿を消した志乃は誘拐されたか殺されたのだろう、と結論付けられた。
「それにしてもおかしな現場だな。」
 役人は言った。
「血の量からいって三人が死んだのは風呂場の中央だ。なのに、死体は三方向にバラバラに置かれていた。下手人は殺した後わざわざ死体を移動させ、さらにそこで死体を切りつけている。意味が分からん。」
 死体に弄んだあとは無かった。頭のおかしな人間が起こす事件には度々出くわすが、誰に聞いても栄助という男がそういう人物だとは思えなかった。
 事件は未解決のまま、年月ばかりが過ぎた。






「よう、耕六。ややこは出来たか?」
「ばーか。祝言あげたばっかだぞ。出来るわきゃねえだろうが。」
 先日夫婦になったばかりの耕六を、農夫仲間の八郎が揶揄う。馬鹿にしているわけではなく、めでたいことをいつまでもネタに笑いたいといったところだ。
「まだ手も出せねえか。この前まで妹だったもんなぁ。」
 耕六の嫁は、今まで妹として共に暮らしてきた小夜という女だ。元々血が繋がっていないことは周知の事実だった。
 耕六はもう八郎の軽口には慣れていて、ふふっと笑って答えた。
「そう。んで今は新妻だ。いきなり母親にしちまったらつまんねえだろ?」
 八郎も笑って「違いねえ」と言う。
「母は強しってな。うちのも子供が出来たら鬼のように強くなっちまって怖いのなんのって…」
「あんた!?」
 後ろから聞き慣れた声で怒鳴られて、八郎はビクッと背を伸ばした。恐る恐る振り向くと、そこには八郎の女房が腕組みをして立っていた。
「ななな何だ?」
「今なんてった!?」
「いや、アレだ。お前は強くて頼れる女んなったってぇ…」
「そうは聞こえなかったけどねえ?」
「誤解だ、誤解!よし、今日はこのくらいにするか。」
 分が悪いと判断して、八郎は野良仕事を切り上げた。「じゃあな」と耕六に声を掛けると農具を片付けに走る。
「ちょっと!あんた!」
 ぶつくさ言いながらも八郎の女房は、耕六に会釈をし「あの馬鹿がごめんねぇ」と苦笑いを残して帰って行った。

 家に帰ると、ゆうげの準備が出来ていた。
「耕六さん。お帰りなさい。」
 少し前まで「兄さん」と呼んでいた相手を名前で呼ぶのは気恥ずかしいらしく、もじもじとそう言った。
「ああ、ただいま、小夜。」
 手を洗って家に上がり、定位置に腰掛ける。
 いつもの食卓だ。
 この村に来てから数年が経ち、農民として溶け込んでいるが、二人は秘密を持っていた。『あの宿』から姿を消した栄助と志乃である。
 あの後、遠く離れたこの地でたまたま開墾のために農民が集められているのを知り、名も経歴も偽ってこの村に紛れた。両親と兄弟を流行病で失い、借金のせいで住んでいた家からも追い出された、ということになっている。
 結婚したのは余計な厄介ごとを抱えないためだ。なるべく、他人を家に立ち入らせたくなかった。加えて耕六からしてみれば、いつ小夜が昔のことを漏らしてしまうかもわからないまま、どこかに嫁に出すなどできなかった。

 それにしても、と耕六は思う。
 小夜は従順だった。
 慕っていた姐たちが殺されたと思っているはずなのに、疑わしい男に付き従い、何も言わず、すべてを言われるがままに受け入れている。
 そう、あれ以来、あのことについて口に出したことがないのだ。お互いに。
 すぐ側にいる相手が何を考えているか分からないというのは、薄ら寒い恐怖が常につきまとう。それなのにそれを打開する方法を思いつかない。
 だが、追っ手は付かなかったのだ。ならこのままでいいかと思うこともあれば、あの時連れてこなければと思うこともある。
 この数年、同じ事をぐるぐると考えながら、一番妥当な安全策として今がある。
「いつまで続けるつもりだ?」
 時折、耕六はそう自分に問いかけた。


 その年、流行病が猛威を振るい、死人が多数出ていると噂が流れてきた。
 そして程なくこの村にも感染者が出て、幾人かが死に、とうとう小夜も病に倒れてしまった。
 下がらない熱にうなされ、食事もろくに取れないまま数日が経ち、小夜は徐々に弱っていった。
「…お前も死ぬのか…まあ、それもいいかもな。あいつらに会えるんだから。」
 死んでくれたほうが都合が良い。そうすれば昔みたいに悠々自適な暮らしに戻れる。いろんな人間になりすまし、いろんな人間から金をかすめ取り、ときには危ない橋を渡って。
「楽しかったなあ…」
 そう呟いた耕六の顔には、笑みはなかった。
 ふいに楽器の音が聞こえた気がした。
「なんだ?」
 この村に楽器なんて無いはずだ。流行病のことを知らずに訪れた旅人だろうか。
 耕六は妙に気になって、小窓を開けて外を窺った。
 もう真夜中だ。月明かりで辺りがよく見えたが、人影は見当たらない。耳を澄ましても、何も聞こえなかった。
「気のせいか…?」
 そう思って部屋の中に向き直ると、小夜の周りに三人の女の影が見えて腰を抜かした。
 影は小夜にのしかかるようにして彼女の顔を覗き込んでいた。
 奏たちだ、と思った耕六は、その場に座り込んだまま、声を絞り出した。
「…そいつを…連れて行くのか?…呪い殺す気か?…大事な妹じゃねえのかよ…」
 そう言ってから、あの日のことを思い出す。



 風呂を済ませ部屋に戻ると、奏は栄助にすがるように泣いた。
「いつまで待てば良いの?もう、耐えられない…」
「まあ待て。今金の工面をしているんだ。金さえ貯まれば、お前を買い上げてここから連れ出してやれる。」
 宥めようとそう言っても、奏は泣き止まなかった。
「言ったでしょう?私だけ逃げるわけにはいかないの。妹たちがいるのよ。」
「だからって…」
「お願い。もう耐えられないの。早く殺してちょうだい。」
 以前から同じ事を懇願されていた。その度に宥めすかして時を稼いできた。惚れた女だ。殺す気にはなれなかった。
 さめざめと泣く奏をどうすることも出来ずにいると、そこに妹が二人入ってきた。琴と笙子だ。
「姐さん!聞いてよ!」
 そう言いながらなだれ込んできた二人も、涙に濡れていた。
「あの子は違うの!違ったのよ!」
 聞けば、それは志乃のことだった。
 女将は末の妹を自分の後継者に育てる心積もりだったらしい。それをその日、笙子に話してしまったのだ。
「あの子は客を取らないの。あの子は、私たちとは違うのよ!」
 それは裏切られたという絶望。
 この宿の遊女たちは、子供の頃にどこかから引き取られて大事に育てられた者ばかりだ。自分の運命に気付いた時には逃げる場所もなく、恩も感じているせいで刃向かうことも出来ず、ただただ受け入れるしかなかった。
 彼女らの将来は決まっていた。とうが立てば漁村の男たちにあてがわれる。
 女将は臆面も無く言う。「娘たちを心から愛している」と。そして遊女として使えなくなる頃には、その口で言うのだ。「その歳では何処に行ったって貰い手なんてあるものか。男を見繕ってもらうんだから感謝しな。」
「あの子を哀れむことなんてないのよ!」
 三人は互いに抱き合って一層泣いた。
 ひとしきり泣いて少し落ち着いてきたのを見計らって、栄助はまた言った。
「三人まとめては無理だが、一人ずつなら連れ出してやれる。もう少し待ってくれ。いいな?」
「本当に?」
「ああ、本当だ。」
 栄助がそう答えると、三人は涙を拭った。納得したのだと思い、栄助は「厠に行く」と言って落ち着くためにその場を離れた。
 正直、三人を助け出す手立てはなかった。せいぜい奏ひとりだけだ。嘘を吐いて信じ込ませ、奏だけを連れ出そう。そう思っていた。
 そろそろ三人とも落ち着いただろうと部屋に戻ると、彼女らの姿はなかった。そして、栄助の護身用の短刀が消えていることに気がついた。
 慌てて探したが、宿の者に気付かれないように気を配りながらだったため、見つけるのに時間が掛かった。
 風呂場で見つけたときには、三人は短刀で首を突いて事切れていた。
 寄り添うように死んでいる三人を見て、栄助は思った。これは不味い。自害したと知ったら、あの子はどう思うだろうか。何もかも知ってしまったら、それが自分のせいだと思わずにいられるだろうか。
 別段、志乃に思い入れがあるわけではなかった。ただ、奏が可愛がっていた、それだけだ。それだけだったが、無視できなかった。
 栄助は、この三人の死が自害にも三人のいさかいにも見えないよう、他の誰かに殺されたように見せかけなければならない、と心に決めた。
 だから死体を移動させ、さらに身体に傷を付けた。
 そうして、あの凄惨な現場ができあがった。



「そいつが許せないのか?そいつは何も悪くないだろ。呪い殺すなら女将にしろよ!」
 強く言葉を投げかけると、途端に影は耕六に向かって近づいてきた。
 恐ろしくて逃げだそうにも、立ち上がることも出来ない。
 間近に迫ったのを感じて身を縮めると、声が聞こえた。
『ありがとう』
 ふっと気配が消えた。
 目を開けるともうそこに影は居なかった。
 ありがとう、と聞こえたが、それが何の礼なのか見当が付かない。しばし呆然としていると、小夜の身体が動いた。
「小夜!?」
 てっきり命を取られたと思っていたから心底驚き、慌てて這い寄った。
「う…ん…」
「小夜!大丈夫か!?」
「…耕六…さん……今ね、…ねえさまたちが…夢に…。…元気かなあ…会いたい…なぁ…」
 それを聞いてハッとする。
「お前…まさか…」
 知らないのか?何も。三人が死んだことすら。


『何を見た!』
『何も』
『何故あんなことを言った!』
『勝手に口から…』


「アレを言わせたのは、奏、お前たちか…」
 あの時、志乃は何も知らなかった。それなのに『お早くお隠れなさいまし』なんてことを言った。
 今考えれば、当時の志乃の口調ではなかったように思う。
「何だよ…あんな恨み言言っといて、大事な妹なんじゃねーか。」
 さっきの礼は、志乃をあの宿から連れ出したことに対してだろう。

 その夜を境に、小夜は容態を持ち直した。流行病が嘘のように消え、何事もなかったかのように元気になった。



『その子をよろしくね』



 耕六はまたどこかから楽器の音が聞こえた気がした。



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