大学構内にあるテラスで、僕は本を読み耽っていた。
 ふと鼻先に運ばれてきた匂いに気付いて、ページを捲ろうとしていた指を止める。煙草の匂いだというのはすぐに分かった。それでも顔を顰めるということはない。僕は未成年で、今後も喫煙者になるつもりはないけれど、嫌いな匂いではなかった。数年前に他界した祖父が吸っていたから、煙草の匂いには懐かしさが付いて回った。
 祖父の顔を思い起こしながら、今いる場所が建物の外であることに違和感を覚えた。空気が籠らない場所でこんなにはっきりと匂いを感じるなんて、いったいどこからやってきたんだろう。視線を本に落としたまま気配を伺うものの自分の座っている席のすぐ傍のテーブルはどれも開いているようだ。
 妙に気になってしまって、僕は不意に顔を上げた。
「…っ!!」
 ただ真っ直ぐ上げただけの視線の先には一人の人物が座っていた。しかもこちら向きで。
 慌てて視線をおろし、誤魔化すようにページをめくる。
 たった一瞬だったけど目が合ったような気がした。何故こっちを見ていたんだろう。こちら向きの席に腰かけていたから体がこっちを向いているのは分かるけれど、視線が合ってしまったのはどうして?
 文章にはちっとも意識が向かず、ただ意味もなく最初の三文字を繰り返し見る。しばらく考えて、きっとあの人は僕が頭を動かしたから、つられて視線をこちらに向けたのだと結論付けてやっと落ち着くことが出来た。
 わざとらしく視線を逸らせてしまったことを少々気にしながらも、僕はまた本に集中し始める。
 と。
「何を読んでるんだ?」
 テーブルに置かれた手の指の間に煙草が挟まれている。そこからゆらりと煙が出ていた。
 驚いて顔を上げれば、視線の先にいた人だ。しばらく返事をせずにいると、彼は僕の手の下にある本を指さした。
「あ、えっと…哲学系の本です。」
「面白いのか?」
「え…いや、昨日の講義で先生がお勧めの本だって言ってたんで。丁度興味のあるテーマだったし…。」
「で、つまんないのか?」
「え…っと…、まだ序盤なんで…。」
「…面白くねえもんよく読めるな。」
 曖昧な返事ばかりしていた所為か、仕方なく読んでいるように思われてしまったようだ。慌てて返す。
「いや、理屈のこねまわし方は興味深いものがあります。哲学なんて、笑って読むもんでもないでしょう?」
「ふーん?」
 僕の言葉に曖昧な相槌を打ってから、彼は僕の真正面の席を指さした。
「ここ、いいか?」
「え…。あ、はい、どうぞ。」
 椅子を引いてから思い出したようにこちらを向いて、煙草は大丈夫かと問う。僕は大丈夫と答えてしまってから、本を持ち上げて口を隠すように上体を引いた。
「あ、でも、副流煙が体に悪いっていうのは信じてるので、あまり吸い込みたくはないです。」
 体への影響を占いやまじないのように言うのは別に医学を信頼してないわけではなく、物事を曖昧にしようとする僕の悪い癖だ。
 彼は笑った。
「了解。ま、丁度風向きも変わったし、こっち向いて吸うわ。」
 そう言って椅子に横向きに腰かけ、背凭れに片肘を掛けて顔を向こうに向ける。そうして時折、どこの学部だとか他愛のない会話の中、流し目をこちらに寄こす。僕は本を閉じるでもなく、でも読むわけでもなく、視線を本に止めたまま会話に応じて、こちらもまた時折目を上げて彼を見た。
 何度目か目線を上げた時、彼は丁度僕から顔を背けて煙を吐き出したところだった。
 その顎のラインに目が留まり、何故だか僕はどきりとした。
 最初のように慌てて視線を下ろす。
 胸の高鳴りに戸惑っていると、彼は振り返った。
「何?小難しいことでも書いてあんのか?」
「え?」
「さっきから一ページも進んでないだろ?」
 言われてやっと意味もなく本を開いていたのだということに思い至って本を閉じる。
「やっぱ俺、邪魔だったな。」
「いえ、別に急いで読む必要はないんです。…家で読みます。…あの…。」
 本を閉じてしまったことで、手持無沙汰になった。これでは会話に集中するしかないのだけれど、僕は生来コミュニケーションが苦手で、何を言っていいのか分からなかった。苦し紛れに分かりきったことを質問する。
「あの…先輩…ですよね?」
「は?」
 あまりに当たり前すぎたのか、聞き方が悪かったのか、彼は何を聞かれたのか分からない風だ。
「あ、えっと…何年ですか?」
「4年。」
「じゃあ、卒論で大変な時期ですね。どんなのをやるんですか?」
 実のところ、今あったばかりの人が大変な時期だとか卒論の内容だとかに興味はない。話題を探してそこに行きついてしまっただけのことだ。
「ん?『人口の推移と経済』っての。」
 そう言えばさっきから自分が質問されて答えていただけだったから、彼がどの学部にいて何を専攻してるのか知らなかった。
 テーマを聞いて、社会学だろうか経済学だろうかと考える。
「…哲学より…難しそうですね。…大変ですね。」
 大変だと言ってから、さっきそれは言ったばかりだと思いだして僕は苦笑いになった。でもそれは気にならなかったらしく、彼はすんなり返してくれた。
「別にそうでもないさ。資料集めして、後は自分の論調にどう絡めてくかってとこ。別に主席狙ってるわけじゃねえし。」
 そう言ってから、一拍おいてから「そっちは一年?」と僕を指さした。
「はい。…え、どうしてわかるんですか?」
 学部は答えたけど学年の話は出なかったから何も言ってなかった筈だ。
 すると彼は、暫く考えてこう言った。
「教授お勧めの本読んでるし、真面目だなって思ってさ。」
 短くなった煙草に最後にもう一度口をつけてから、彼はすぐそこの灰皿で火を消す。
 僕は今の言葉を最後に立ち去ってしまうのだと思い、ムッとした。なんとなく言い逃げのような気がして。
「そういうものの見方ってどうかと思いますけど。」
 言い方に棘が混じってしまったのは自分で分かった。でも、真面目なのを揶揄する人種には常々鬱憤が溜まっていたのだ。
 彼は立ち去らず、面白そうにニィっと歯を剥いて笑った。
「そういう決めつけもどうかと思うぜ?」
「決めつけ…?」
「そう、今のお前の言葉は、俺が真面目なやつを馬鹿にする奴、若しくはそういう風潮に毒されてる奴だという決めつけから出たもんだろ。」
 確かにそうだ。でもそれ以外に何があるのだろうとボソッと返す。
「…そういう風に聞こえました。」
 真面目だから一年生だと判断したということは、学年が上がるにつれ皆不真面目になっていく、ということだ。それはつまり、そういうことじゃないのだろうか。
「それも偏見だな。俺は統計的な見方で判断しただけだ。お前が一年か二年なのは俺に対して敬語を崩さなかったことで分かる。俺を年上だと判断したのが煙草か、あるいはこのキーホルダー。」
 キーホルダーには気付いていなかった。それについている大学のロゴは古いものだった。
「で、統計的に見て教授の勧めに従う人数が多いのは一年だ。当てずっぽうで言うなら人数が多い方を言った方が当たるだろ。それだけのことだ。」
 僕は二の句を継げずに下を向いた。彼の言ったことに不本意ながら納得せざるを得なかった。
「…すみません。生意気なことを言いました。」
 気にするな、と彼は言う。
「統計っつっても別に実際に計上したわけじゃない。統計取ったらそうなるんじゃないかって俺の予想だ。そういう予想をすること自体、風潮に毒されてるのかもしれないし、お前がそう受け取ったのは、それが口調なり言い回しなりに現れたせいかもしれない。だとしたら、それは俺の所為だ。」
 どう返事をしたものか迷って「いえ。」とだけ返す。
「だからお互いさまってことだよ。」
「あ…りがとうございます…。」
 今の論争がドローだということにしてもらった礼を言うと、今度は「ワリィな。」と彼は笑った。
「え?」
「一方的にやり込められんの、好きじゃねえんだ。」
 だから論争に持ち込んだということだろう。不用意な自分の発言にまた暗くなる。
 気まずくてもう話題探しどころではなくなっていると、彼は「いいんじゃねえの?」と言った。
「真面目でいいじゃねーか。学問に真面目に取り組むってのは、いいことだと思うぜ。…ま、俺は不真面目に過ごしてきた人間だけどさ、だからってみんな不真面目になれなんて思わねえし。」
 ああ、この人は物事を分かっている人だ、と気付く。さっきの言葉に揶揄が含まれていると感じてしまったのは僕の問題だ。
 そう自戒しつつ視線を落とせば自分の手の中にはさっきまで読んでいた本。
 面白いかと問われて面白いですと答えなかったのは、面白くなかったからではない。こういう本を読んで楽しめてしまう真面目で堅物な人間だと思われてしまうのが嫌だったからだ。
「あの…。」
「ん?」
「この本、面白いです。…あ、興味のない人にはきっと全然面白くないんだと思いますけど、僕は面白いと思います。」
「へぇ?」
 さっきと言っていることが違うと指摘されるんじゃないかとドキドキしていると、彼はテーブルに肘を付けて乗り出すように覗き込んできた。
「じゃあさ、」
「え?」
「読み終わったら貸してくれよ。俺も興味が湧いた。」
 前を向けば目の前に彼のニッと笑った顔。
 優しさを含んだその悪戯な笑顔がどういう意味なのか、この時の僕にはまだ分からなかった。


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