サーキュレーション
朝陽を感じて目を開ける。豪華なベッドから起き上がって、外を眺めようとマルタは窓に近付いた。
肌触りの良いパジャマも天蓋付きのベッドも、まだ慣れないでいる。それでもここが自分の今の家なのだと理解するために、彼女は毎朝窓から外を眺めた。
屋敷の裏の小道を彼が上っていくのが見える。マルタは慌てて服を着替えた。
「奥様、どちらへ!?」
部屋のドアから飛び出すと、丁度起こしに来たメイドが驚いて声を掛けた。
「おはよう!ナギさんが裏に行ったから、一緒に行ってくる!」
「お行儀が悪いですよ!そんなに走っては!」
「はーい!」
返事はするものの、急がなくては追いつけないとそのまま走り去る。メイドは溜め息を吐いたがそれ以上小言は言わなかった。
この屋敷の主、ナギ・トワイライトが結婚相手としてマルタを連れてきたのは数か月前のことだ。しかも、その日街で出会ったのだと彼は言った。
執事もメイドも全員がその結婚に反対したのは、出会ったばかりだからというだけではなかった。まず、年齢が違いすぎる。ナギは今年で八十二歳、それに対してマルタはまだ十七歳。加えて、資産家のナギのパートナーになるには彼女は育ちが良くないように見えたし、実際身寄りのない娘だった。
「彼女、行くところがないんだって。僕は奥さんがいないし、いいでしょ?」
主がそう言ってしまえば、雇われている身である執事もメイドも追い出すわけにもいかない。
生活の色々なマナーや立ち振る舞いの教育をメイド長のダーナに、文字の読み書きからナギの仕事の内容に至るまでの教育を執事長のレナードに命じ、ナギは「苛めちゃダメだよ?」と念を押した。
どうせ財産目当てだろうと踏んでいたダーナは、教育と称してマルタを厳しく叱責した。そうしていれば早々に音を上げて出て行くはずだと思ったのだ。
しかし、マルタは素直だった。教えたことは努力して身に付けようとする。失敗を責めれば心から反省しているように見える。そして、どれだけ冷たく当たっても、ダーナを嫌う風が見えなかった。
「…あなたはどうして…。」
「ごめんね、いつも間違えて。」
「…そうではありません。そうまでして、この家に居たいのですか。窮屈な服を着て、慣れない言葉を使って、歩き方から食べ方まで細かく小言を言われて…。今までの気楽な暮らしを捨ててまで、お金が欲しいのですか。」
財産を奪おうというような悪女には見えないマルタが何を考えて従っているのかが分からず、ダーナはつい、そう訊ねた。
マルタは小首をかしげる。
「お金は欲しいよ?でも、お金って働いた分だけ貰えるものでしょ?…私はここでどんな仕事をすればいいの?」
「きちんと奥様らしく過ごすのが貴方の仕事です。」
「奥様らしく…。お料理とか洗濯とか?」
「それは私どもの仕事です。」
そんなことも解らずに結婚に同意したのか、と呆れていると、マルタは言った。
「何でもするから、教えてね。だって、ナギさんは素敵なものをくれたんだもん。お返しできるなら何だって。」
「…素敵なもの、ですか?」
うん、と満面の笑みで頷くマルタ。
「こんなにいっぱい家族がいるの、素敵だと思う!」
ダーナは一瞬なんのことか理解が出来なかった。そして自分たちメイドや執事たちのことを言っているのだと分かって、彼女が孤児だと思い出す。
財産目当てだというのが思い違いだと知り、複雑な心境で言葉を探した。
「もし、その…私どものことを家族とおっしゃっているのでしたら、それは、違います。執事もメイドも、雇われてお仕えしているに過ぎませんから。」
その言葉に、マルタは少しがっかりしたようだったが、すぐに「でも、」と返す。
「ナギさんだけでもいいの。私、家族がいるの嬉しいもん。だから、ナギさんにお返ししたいんだ。」
この日以来ダーナは、厳しさはあっても冷たく当たることはなくなった。
「ナギさん!おはよう!何処行くの?」
マルタは息を切らしながら呼び止めた。
「おはよう、マルタさん。…まだ紹介してなかったね。一緒においで。」
誰かのところに挨拶に行くのかと、少し緊張する。彼の知り合いは皆家柄の良い人ばかりだ。いつも屋敷で注意されている仕草や言葉遣いに気を付けていないと、彼に恥をかかせることになるだろう。
「ふふ。緊張しなくていいよ。ほら、すぐそこだよ。」
彼が指さした先にあったのは、墓標だった。
「…お墓?」
「そう。僕の前の奥さんのね。」
ハッとして、マルタは立ち止まる。
「ごめんなさい。お邪魔しちゃった?」
「いいんだよ。言ったでしょ?紹介するから、ほら、おいで。」
差し出された手にそっと触れて、ゆっくり近づいた。
綺麗な白い石で出来た墓標は、手入れが行き届いているのが見て取れる。周りの植物も墓石に覆い被さらないように整えられていた。
「ミネア。この子がね、僕の新しい奥さんだよ。よろしくね。」
「よ、よろしくお願いします。」
失礼の無いようにと気遣いながらお辞儀をしたマルタを見て、彼はまた「ふふ」と笑った。
「…なんてね、ここに彼女はもういないよ。ずっと前に亡くなったからね。とうに循環に乗ってる。」
墓なんて生きている人間の感傷だ、と彼は言う。
体も魂も、死ねば循環に乗って新しい命の材料になる。それを解っていても残された者は死者を忘れられない。だから生きている人間を慰めるために墓は存在するのだ、と彼は話した。
マルタは少し考えて、でも、と口を開く。
「私、挨拶したかったからお墓があって良かったと思う。」
「ふふ。そうかい?ありがとうね。」
また優しい笑みを浮かべた彼の手を、マルタは両手で掴んで、くるっと彼の方に体を向けた。
「ね、ナギさん、奥さんの話聞きたい。どんな人?」
「僕の今の奥さんはキミだよ。」
「前の奥さんの話!」
そうだねえ、と言いながら、彼はあたりの草花から綺麗に咲いた花を選んで摘み始める。マルタもそれに倣ってひとつふたつ、花を折った。
マルタが摘んだ花を手渡すと、彼は自分が摘んだものと併せて整え、お墓の前にそっと置く。
「花が好きだったね。そして、とても優しい人だったよ。」
「だからここはお花でいっぱいなの?」
「そうだね。元々、彼女が大事にしてた花が根付いたんだ。」
「素敵なお庭だね。」
「そう、彼女の作った庭だ。」
「じゃあ、私も大事にするね。」
「うん、ありがとね。」
その日からお墓までの散歩がマルタの日課になった。ナギと連れ立っていく日もあれば、一人で行ってお墓の前で少しお喋りをすることもある。どんな人なのかは分からなかったが、それでもマルタは彼女のことを自分の家族のように感じていた。
「旦那様は、前の奥様、ミネア様のことを、それはもうお大事になさっておりました。お子が出来ないのを奥様が気になさらないように養子も取らない徹底ぶりでございました。」
ダーナはよく知っているかのように話したが、実のところ前任の高齢のメイド長から聞いた話だ。自分の仕える夫婦がどれほど素晴らしいかを切々と説かれ、その話を知った上で身の回りの世話をしていると納得せずにいられない話ばかりだった。
ナギはミネアを深く愛していた。身ごもるのが難しい身体だと分かると、子供などいらないから二人で楽しく生きようと言った。跡継ぎなんていらないと言い続け、実際に跡継ぎがいないまま高齢になってしまった。ミネアが他界して二十年になるが、それでもずっと養子を取ることを拒否し続けたのだ。
「だから、旦那様がマルタ様を連れてきたときは本当に驚きました。あちこちから来る縁談もずっと断っていたんですよ。」
「どうして、私に奥さんにならないかっていったのかな…」
「さあ、それは私にも分かりません。ですが、マルタ様がこの家の資産を自分勝手に使うような人ではないと判断なさったのだと思います。」
ある日、ナギと二人でお墓に向かっていると、その途中で小鳥の骸を見つけた。
「…可哀想。」
「酷い怪我は見当たらないから、年老いたのかもしれないね。」
そう言ってナギはすぐ近くに亡骸を埋める穴を掘った。
「ここに埋めてあげよう。新しい命になるように。」
土をかぶせ終わったのを見て、マルタはパッと明るい顔になった。
「私が土に返してあげる。」
可哀想な小鳥の為に、自分には出来ることがある、と思いついたのだった。そしてサーキュレーションを唱えようとしたところで、ナギに止められる。
「ダメだよ。精霊は人間が魔法を使わなくても、自然を整えてくれている。放っておいてもやってくれることを、急かしてはいけないよ。」
「でも、狩りをした後は土に返さなくちゃいけないって聞いたよ?」
「それは、人間の都合で動物を殺めたからだね。こうして自然の中で死んだ生き物は、埋めるだけで充分。無駄に魔法を使うのは、精霊に失礼だと僕は思っているよ。」
今まで聞いたことのない話にマルタは少し戸惑ったものの、ナギの言うことがおかしいとは少しも思わなかった。
「これ、マルタさんが作ったの?…ふむ…。」
食事の時に出された小皿の料理を特に躊躇うこともなく、ナギは口に入れた。
毎日礼儀作法や仕事に関する勉強ばかりしているマルタが何かしたいとメイドに頼み込んだのは、退屈が理由ではなかった。今は勉強することが自分の仕事だとは言われているが、何も役に立っていないのを気にしてのことだ。
「…どう?」
「うん、素朴でおいしい。あまり食べたことのない味付けだ。」
おいしいと言ったのだから褒められたのだと判断して、マルタは嬉しそうに笑った。
「旅でね、ザイールに教えてもらったの。」
旅で野宿するときに作るものだから、勿論粗野な料理だった。本来なら豪華な食卓に並べるものではないだろう。でもナギは嫌な顔もせず優しく微笑む。
「いろんな経験をしたんだね。楽しそうだ。」
「うん。…そうだ!今度二人で遠出しない?モンスターは私が倒せば良いし、おいしい料理作ってあげる!外で食べるのも楽しいよ!」
それには近くに居たメイドが苦言をこぼした。
「奥様、お二人でなんて危険です。遠出なさるならお供を付けますし、お食事だって供の者が作った物か、でなければお泊まりのホテルでお済ませくださいまし。」
ダメなの?としょんぼりするマルタを見て、ナギはクスリと笑った。
「僕ももう歳だからね。…そうだなあ、街の外にピクニックに行くぐらいなら出来ると思うよ。」
「ピクニック!?行きたい!」
「じゃあ、今度時間を作ろう。」
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