霧の向こう

9.さざ波


 マルタは機嫌がよかった。
 この街リンシーに着いてすぐ、門のそばの出店で彼女は当たりくじを引いたのだ。景品自体は大したことのないものだったが、当たったということだけでうきうきとしてしまう。
「ちょっと遊びに行ってくるね。」
 気分もいいことだし、と街を散策することにした。

 グアンドを出てから街らしい街に立ち寄っていなかったから、客引きの声が響く街並みはしばらくぶりだ。
 あちこち気ままに見て回り、ひとしきり見回った後、路地にも入ってみようと大通りを外れた。
「お願いだ、やめてくれ!」
 通っている道からまた少し外れた暗い路地の方から聞こえた声が気になり、マルタは角からその方向を覗いてみた。
「俺の言うことが聞けないってのかぁ?」
「でも、そのお金は孫のために…。」
 見れば若い男が老人の手から財布をもぎ取っているところだった。
「餓鬼に贅沢させるとろくな大人にならねーぞ。俺が代わりに貰ってやるよ。」
 馬鹿にしたような笑い声を立てるその男の脇では、取り巻きであろう同年代の男たちが同じように笑っている。男は数枚の紙幣を取り出すと、もう用はないと言うように財布を地面に落とした。
 マルタは出ていこうか暫し悩んだ。
 男は5人、自分一人であの人数は相手にできない。とてもあのお金を取り返せないだろう。
 考えている間に、男たちは追いすがる老人を突き飛ばして行ってしまった。
「…大丈夫?おじいちゃん。」
「孫の誕生日のためにコツコツ貯めたお金だったのに…。」
 男たちの行った先を眺めたまま、老人は呆然とした様子でそう言った。
「そうなの?じゃあ、あたしが取り返してきてあげるよ。」
 軽い気持ちでマルタは言った。
 老人は驚いて首を横に振る。
「いいんだよ。アイツはこの街の権力者の息子なんだ。逆らえばどんな目に遭うか…。お嬢ちゃんも気にせんでくれ。もう諦めるよ…。」
「大丈夫。うまくやるからさ。任せといて!」
 老人が更に止めようと手を伸ばしたが、マルタは構わず走り出した。



 すぐにさっきの男たちを見つけた。
 人ごみに入って行くのを見て、都合がいいと笑みを浮かべる。
 マルタは意気揚々とその後を追った。
 たまには人助けも気分がいい。今日はとてもツイてる。当たりくじを引いたし、可哀想な老人を助けてあげることができるし、しかもターゲットは抜けてそうな顔だ。力では敵わなくても、このやり方なら絶対にお金は取り返せる。
 数m後ろを歩きながらスキを窺い、市場の一番賑わった場所ですぐ後ろにぴったりと付いた。
 人波は時折重圧を加える。その波に任せてマルタは男にぶつかって、財布を掏るとすぐに離れた。

 うまくいったと思ったすぐ後に、少し離れたところで「スリだ!」と男の声。
 マルタは背の高い集団の間をすり抜けて、男の視線から逃げ出した。


 路地に入って財布の中を覗き、あのおじいさんの財布から抜かれた枚数を手に取ったとき、視界に人影が映りギョッとする。
「マルタ…お前、何をしたんだ…?」
 そこにいたのはエディンだった。
 彼は人がごった返していた市場の上に架かった橋を丁度通ったところだったらしい。そこでマルタの姿を見たと言った。
「その財布、お前のじゃないよな?」
「あ…あの、さ、これね、うん。えっと…。」
 そこでマルタは初めて自分のしたことが罪になるのだということに気付いた。
「掏ったのか?」
「え…あの、これには訳があってさ…。」
「訳も何もないだろ!?お前、俺たちの仲間になるとき言ったよな!?『もう悪いことはしない』って!!」
「これは…その…悪いことじゃなくって…。」
 そう、あの老人が取られたお金を取り返すためにやっただけだ。この財布はあの男のものだけど、この中にあの老人のお金があって…。
 約束を破ってしまった罪悪感からか、マルタはうまく言葉を紡げなかった。
 自分は悪いことをしようと思ったわけじゃないんだ。人のためになることをしようと思ったんだ。
「悪くないわけがないだろう!?スリってのは泥棒だぞ!?人の金を盗ったんだぞ!?」
「ち、違うんだって、聞いてよ、エディン。これは、泥棒じゃなくて…。」
 エディンの剣幕に圧されて、益々しどろもどろになってしまう。
「どこが違うんだよ!!最低だ。俺はお前を信じて仲間にしたんだぞ!?」
「待ってよ、あたし、ホントに悪いことなんてするつもりは…。」
「人の財布掏っといて悪いことしてないなんて言うつもりか!?」
 憤慨して嫌なものを見るような目で見下ろすエディンの腕に、マルタは縋った。
 しかしすぐに振り解かれてしまう。
「待ってよエディン、聞いてよ。」
「聞きたくない!」
 その時、大通りから数人の男が入ってきた。
「おい、お前、その女を渡してもらおうか。」
 言ったのはさっきの男だった。
 マルタはとっさに手に持っていた財布を体の後ろに隠したが、もうしっかり見られていた。二人の周りを男たちが取り囲む。
「お嬢ちゃん、それ、俺の財布だよなぁ?返してもらおうか。」
 取り巻きが財布を奪い、マルタの手首をしっかりと捕まえた。
 やめてよ、離してよというマルタの声を無視して男はエディンの方を向いた。
「こいつはスリだ。憲兵に渡しても文句はねえよな?」
 エディンが「構わない。」と頷くのを見て、マルタは動揺する。
「エディン!待ってよ、聞いてよ!!」
「見損なったよ、マルタ。」
 エディンは聞く耳を持たず、背中を向けて歩き出した。
 男たちは嫌がるマルタを抱え上げて連れていく。
「待ってよ!助けてよ!エディン!」




 牢屋に入れられるまで、マルタの話を聞いてくれる人はいなかった。
 膝を抱えて泣きながら、マルタは後悔を繰り返していた。

 老人は諦めると言っていたのに、どうしてお節介を焼いたのだろう。あのまま帰ればよかったんだ。報酬なしで働こうとしたことを知ったら、ザイールは馬鹿なやつだと笑うに違いない。
 エディンたちの旅はもうのんびりとしていられるものではない。きっとおいて行かれるだろう。捨てられるのだ。
 どうして、どうして、と何度も自分のやったことを悔いた。

 ひとしきり泣いた後、カタ、と牢番の椅子が鳴ったことに気づき、マルタは柵の方に移動した。
 この後自分がどうなるのか、知っておきたかった。もし可能なら、仲間を追いかけて、事情を話して許してもらいたい。
「ねぇ、憲兵さん…?」
「…なんだ。」
 不愛想な返事が返った。
「…あたし、どうなるの?どのくらい牢屋にいればいいの?」
「…明日公開処刑だ。」
 処刑と聞いて愕然とすると、牢番は笑った。
「処刑と言っても死刑じゃない。百叩きだ。ま、そのあと三日間晒し者にされて、無一文で街の外に放り出されるから、生きていけるかどうかはお前の運次第だけどな。」
 死刑ではないと聞いてホッとしたのもつかの間、その処刑の仕方を聞いてまた絶望が沸き起こる。
 無一文で放り出される、というのは、恐らく荷物も何も持たせてはくれないのだろう。百叩きがどの程度のものかは知らないが、晒されている間食べ物をもらえるとは思えない。体も弱り切っているはずだ。その状態で、モンスターの出没する街の外に放り出されたら、並の人間では生きていけないだろう。運よく旅人に助けられなければ。
 無駄だと知りながら、マルタは弁解を試みる。
「ねえ、…あの財布の持ち主がさ、年寄りから金を取り上げたんだ。それを取り返そうとしただけなんだ。」
「狙った相手が悪かったな。お前が何を言おうと、あのお坊ちゃまの言うことには逆らえないんだよ。」
 他の奴なら何とかしてやらなくもないんだがな、と言って門番は行ってしまった。
『アイツはこの街の権力者の息子なんだ。逆らえばどんな目に遭うか…。』
 老人の言ったことを思い出し、益々気分が沈むばかりだった。





 宿に帰って、エディンは仲間にマルタのことを話した。
 信じられないという面々に、スリを働いたのは事実だ、目撃した、と伝えるエディン。皆暗い表情で押し黙った。
「予定通り明日出発しよう。」
 エディンの言葉に、うん、と返事はしたものの、キャムは「でもさ、」と顔を上げる。
「マルタ、なんでそんなことしたのかな。」
 エディンは「お金が欲しかったんだろう?」とぶっきらぼうに答えた。彼自身、受け入れたくない事実だ。深く考えるほどの心の余裕はなかった。
「もうお金に困ってないじゃん…。なのに何でかな…。」
「そう…ですわね。」
 フェリエもそう言って俯く。
「でも、やったことの償いはしなくちゃいけないだろ?…あの時の分だって、償ってないんだ。いつかは、償わなきゃいけないんだよ、きっと。」
 それがたまたま今だったということだとエディンは締めくくった。
 それぞれ部屋に戻ったが、ザイールだけは「飲みに行く。」と言って出かけ、夜半過ぎになって宿に戻ってきた。

 カードは終始無言だった。部屋に帰ってからも、同室のエディンと言葉を交わすことなくベッドに入った。
 エディンの話の真偽を図りながら、カードの中では『やっぱり』という言葉が浮かんだ。罪に手を染めたものは、中々そこから抜け出せないものだと聞いたことがある。そんな聞きかじりの知識で、ついさっきまで仲間だと思っていた彼女を判断してしまうことに疑問を感じる。でも、そう思ってしまったのだ。エディンもそうなのだろうかと思うが聞けるわけがない。
 カードはもやもやを抱えたまま、眠りについた。


 次の朝、ザイールが皆を呼んだ。
「中央広場に行くぞ。」
 訝しんでいると、ザイールは、事もなげに言う。
「公開処刑だそうだ。」
「…マルタの?」
「ああ。興味ないか?昨日捕まったばかりの、たかだかスリ如きが、いきなり公開処刑だとよ。面白い街だよな。」
 聞けばこの街では度々ショーのような処刑が行われるらしい。普通は凶悪な犯人を完膚なきまで打ち、生きる術を奪って街の外に放り出す、死刑とほとんど変わらない処刑方法だ。
「どうしてマルタがそんなことに…。」
「なんかあんだろ、どう考えても。…ほっとくつもりか?餓鬼。」
 ザイールはいつもの勝気な笑みを浮かべている。
 数秒、エディンは呆けたように動かず、ハッと顔を窓の外に向けて弾かれたように剣を掴んだ。
「中央広場だな!?」
「ああ、もう半刻もねえ。」

 これまでマルタのことを疑ったことは一度もなかった。
 以前泥棒をやっていたということは知っていたが、仲間になってからはモンスターを倒すことを苦に思っている様子もなく、ギルドに行くのも楽しげだった。もうやらないと言ったのは本心だと思っていた。いや、それ以前に、泥棒をやっていたことさえ忘れていたのかもしれない。
 それなのにどうして彼女の言うことを聞いてやらなかったのか。
 それはショックだったからだ。裏切られた気分だった。
 マルタの言葉が全て嘘であるかのような気がしてしまった。
『違うんだ!訳があるんだ!』
 あの男たちに引き渡す前に、少しでも聞いてやるべきではなかったか。
 スリをしたのが事実だとしても、この処刑は裏があるとしか思えない。なら、何があるのか。マルタを殺してしまわなくてはならない理由が、憲兵側にあるのだろうか。
「被害者だって男は、この街の権力者ヴァルツァルのせがれだってよ。憲兵はヴァルツァル家の私兵に成り下がってるらしい。」
 ザイールは昨晩、酒場に行っていた。情報はそこで得たものだ。
「きっと、何かある。」
 心なしか明るい顔をみせるカードの言葉に、エディンは走りながら頷いた。






 広場には多くの人が集まっていた。
 中央に杭が立てられていて、その横で憲兵が罪状を読み上げる。続いて罪人が、連行された。
 マルタは青い顔で、引かれるまま歩いていた。
 道具の確認をしているのか、憲兵が鞭を振るい、ピシンっと音が響いた。見れば電気が通っているようで、一振りごとにバチバチと光を出していた。
「…うそ…だろ?」
 助けを求めるように憲兵に声をかけるが、誰一人マルタの声に反応する者はいない。
 杭に抱きつく向きで立たされ、手首を杭の向こうで縛られる。
 その時。
「待った!!」と声が上がった。
 広場にいる全員が声の方向に視線をやる、と、それはあの権力者の息子、コンラート・ヴァルツァルだった。
「その女を訴えたのは間違いだった。」
 コンラートは、まるで演説でもするように言葉をつづけた。
 この女が財布をすったのは財布に仕込まれた毒針に気付いたからだ。自分を守ってくれた恩人を、間違って犯人として突き出してしまった。と。

 エディンの前に立っていた一般人が呆れたように肩をすくめて踵を返した。
「また猿芝居が始まった。」
「どういうことだ?」
 呼び止めてみると、彼は少々面倒臭そうにしながらも答えてくれた。
 コンラートは罪人の女を気に入ると、適当に理由をつけて処刑から救い出して恩を着せ、自分のものにするのだと言う。
「女はあいつに従うしかないのさ。刑を受ければ解放されても生きてはいけないからな。」

 マルタを救い出すための口上を一通り言った後、「そうだな?」と男は聞いた。
 それに縋ってしまえば助かる。もう、仲間は行ってしまったかもしれないのだ。
 でも、嫌だと思った。こいつになんか。マルタはグッ奥歯をかみしめた。覚悟を決めるために。
 ごくりと唾を飲み込んで口を開く。
「違う!!あたしは、この男が年寄りから金を巻き上げたから、取り返すためにスリをしたんだ!!」
 場が静まり返った。
 帰ろうとしていた人々も足を止め、振り返る。
 一瞬の称賛の空気とその後の憐みの空気。これまでコンラートの自由にならなかった女はいなかった。あの暴君のようなドラ息子に反旗を翻したいという気持ちはあっても、誰も出来ずにいた。だから、マルタの決断に拍手を送りたい気分なのだ。しかし、コンラートの言葉を否定すれば刑を受けるしかない。
「あ~ぁ、どうやら勘違いだったようだ。邪魔してすまない。処刑を続けてくれ。」
 コンラートはとぼけた声でそう言って、刑場に背を向けた。
 その前にエディンが立ち塞がる。
「今の話、聞き捨てならないな!」
 剣を抜き、切っ先でコンラートを指し示す。
 その顔を見てコンラートは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「こいつはスリの仲間だ。捕まえろ。」
 憲兵がエディンに襲い掛かり、コンラートはさっさと立ち去ってしまった。
「憲兵が罪人を逃がす手伝いをするのか!!」



「ネェちゃん、宿に帰ってチェックアウトしろ。北門の外で落ち合うぞ。」
 ザイールが小声でフェリエに指示を出し、キャムとともに宿へ向かわせる。
「行くぞ、ニィちゃん!」
「ああ!」
 ザイールとカードがエディンに加勢すると、刑場は大騒ぎになった。
 次々と襲い来る憲兵を薙ぎ払う。
「マルタ!!」
 エディンが憲兵を蹴散らし、縛られているマルタの縄を解いて手を差し出した。
「エディン!!」
 マルタは縋るようにその手に掴まる。
「マルタ、信じてやらなくて悪かった。本当にごめん…。」
「いいよ、助けに来てくれてありがと。」
「ボーっとすんな!!」
 ザイールの声で憲兵が迫っていることに気付き、エディンはマルタの両手をしっかりと握った。マルタの弓は荷物の中だ。今は素手で戦うしかない。
「マルタ!蹴飛ばせ!!」
 言ってエディンはマルタを振り回して旋回した。
「きゃーっ!!」
 叫び声を上げながら、マルタは憲兵たちに蹴りを食らわせた。




 フェリエとキャムは荷物をもって急いで門の外に出た。
 キャムがそこから見える小高い丘を指さす。
「あそこからグライダーで飛べないかな?」
 フェリエは空を見上げた。高いところで何かが風に飛ばされているのが見える。いい風が吹いているようだ。
「そうですね。準備しましょう!」

 外に出たエディンはフェリエとキャムがいないことに気付くと門を振り返った。
「まさか、仲間だってばれて足止めをされてるんじゃ…。」
 カードも不安げに門の中を窺う。
 この状況で街に戻るのは危険だ。だからと言って二人を置いていくわけにもいかない。
「…チッ…仕方ねぇ、俺が戻る。お前ら先に行け。」
 ザイールが言って戻ろうとしたところでキャムが走ってきた。
「みんな!こっちこっち。グライダー使うよ!」
 言って踵を返して丘に走っていく。
 よっしゃ、とザイールが口角を上げ、エディンとカードに先に行けと指示を出す。
「俺達よりマルタだろ!?」
「全員飛び上がるのに時間がかかるだろ!足の速い奴から行け!」
 走り出してすぐ、門から追手が出てきた。街から出たマルタをわざわざ連れ帰る理由があるとは思えないが、面子の問題なのかもしれない。
 ザイールが前の数人を縛り魔法で足止めすると、後ろについてきている憲兵たちは勢いでつんのめって倒れた。
「行け!マルタ!ここは任せろ!」
 丘ではエディンが飛び上がるところだ。高度が足りないため、フェリエが風の魔法で高いところまで上げなくてはいけない。
 エディンが上がり、カードが上がったところでマルタが到着した。
「マルタ!先に行くからね!すぐに来て!」
 準備の終っているキャムが言って飛び立った。
「急いで!!」
 言われるままにグライダーを身に付けて、マルタも上がった。
 憲兵を蹴散らしたザイールが到着して、二人用のグライダーを装着する。
「上げろ!!」
「クーランテ!!」
 ぶわっと気流が沸き起こり、グライダーに風を孕ませていく。
「ほかのより重いんだ!!もっと強く!!」
「くっ…!!」
 フェリエが気を集中させると、風は強くなりグライダーが上がり始めた。
「待てー!!」
 憲兵が追いついてギリギリのところでフェリエの足を掴む。ガクンとグライダーが揺れた。
 人ひとりの重みがフェリエの片足にかかり、痛みに声を漏らす。
 ザイールが叫んだ。
「蹴飛ばせ!」
「は、はいっ!」
 エイッと足を動かすものの、うまくけれなくて振りほどけない。
 チッと舌打ちをして、ザイールが小さなナイフを憲兵に投げつけた。
「うわああ!!」
 手が離れた途端、グンと高度が上がる。すぐに上空の風に乗ることができた。




「もう大丈夫だ。」
 街から充分離れた草原で着地した6人は、ほうっと息をついて地面に座りこんだ。
 息が切れたわけではないが、心理的な疲労で自然と呼吸が深くなる。しばらくは全員の呼吸音しか聞こえなかった。
 マルタが腰を持ち上げて膝で立つと、皆、チラッとそちらを向いた。
「…あの…さ、みんな…ありがと…ホントに…助けに来てくれて………ありがと…。」
 ウッと嗚咽を漏らした。ぽろぽろと零れ落ちる涙を両手で拭うが、あとからあとからそれは零れた。
 フェリエが包み込むように彼女を抱きしめ、横からキャムも抱きついた。
「仲間ですもの。」
「うん。」





 カレルの宿屋は田舎町らしくのんびりとした雰囲気だ。温泉もあって皆思い思いに疲れを癒していた。

 エディンは風呂から戻るところだったマルタを見つけ、呼び止めた。
「ちょっと、いいかな。」
「ん?…うん、なに?」
 リンシーでの一件以来、どうもぎこちなくなってしまっている。互いにどこか遠慮しているところがあった。
 もう一度ちゃんと謝りたいんだとエディンは言った。
 マルタは首を横に振る。
「あたしが悪かったんだもん。…約束破ったんだから…。」
「うん、スリをしたことを肯定する気はないよ。でも、俺は事情を聴こうともしないで一方的にマルタを悪者だと決めてかかった。自分でも情けないよ。」
「いいよ。仕方ないもん。泥棒やってたのは事実だし、あたしが悪いことするんじゃないかって思われたって…。」
「違う!」
 勢いよく遮られて、マルタは目を丸くしてエディンを見た。
 すると彼は少し視線をそらし、恥じ入るような表情をしている。
「違う、と思う。俺、マルタがまだ悪いことをするんじゃないかなんて考えたことなかったんだ。それなのに、あの時のマルタの言葉を聞かなかったのは…俺の落ち度だ…と思う。正直ショックだったから……マルタがそんなことをするなんて思ってなかったから…ショックだったのかな…。頭ン中真っ白でさ、なんにも考えたくなかった…。」
 信じていたから悲しかったのだと、そう言っているのが分かって、マルタはまた泣きそうになった。
 プイッと横を向く。
「…ありがと…。」
「許してくれるか?」
「…当たり前でしょ?」
 視界の端でエディンが破顔したのが分かり、マルタも笑顔になる。
 えへへ、と笑ってエディンの腕に絡みついた。それは家族のいないマルタが覚えた唯一の甘え方だ。キャムが時折やるしぐさが、いつの間にかマルタにうつっていた。
 エディンは照れ臭そうに笑って、思い出したように付け加える。
「あ、でも、今度からはあんなことやる前に俺たちに相談してくれよ?」
 釘を刺されて、マルタはぷうっと拗ねた顔を向けた。
「分かってるよぉ~だ。」
「あー!!マルタ!!」
 声の主はキャムだ。
「エディンにくっついていいのは私だけなんだよ!?」
 言って駆け寄り、マルタを引き剥がそうとする。
「えー!?キャムはいっつもくっついてるんだから、たまにはいいでしょ!?」
「やだー!!」
「キャムずるいよォ!」
 二人はグイッと押し合って腕の取り合いをしている。
 自分の腕を取り合って喧嘩する二人に困って、エディンは何とか宥めなくてはと言葉を探した。
「あ、キャム!ほら、こっち空いてるぞ。」
 エディンがもう片方の腕を示すと、キャムはしばし考えて、その腕の絡みついた。
「うーん…じゃあ、今日はこれで許してあげる~。」
 拗ねたように言ったキャムに、マルタは笑顔を向ける。
「あはは、これで仲好しだね。」
 キャムもつられて笑った。

「…なにやってんだ?お前ら。」
 通りかかったザイールが呆れ顔を向けてそう言った。




「あら、そんなことが?二人とも、可愛いですね。」
「困っちゃったよ。マルタも結構子供っぽいからさ。」
「子守のお兄さんのようですわね。」
 エディンの話にフェリエは柔らかく笑みを浮かべた。
 彼女はエディンの衣服のほつれを直すために、裁縫道具を出したところだ。
「直る?」
「はい、問題ありません。目立たないところですし、私にでもできますよ?」
 裁縫は得意ではないというのは彼女の謙遜なのだろうとエディンは作業を眺めた。
 その証拠に、手の動きは淀みなく、慣れているように見える。
 またマルタとキャムの話になると、フェリエは「そういえば、」と首をかしげた。
「ん?」
「キャムが以前、エディンとの合わせ技はずっと小さい時に編み出したから、その時のことは覚えていないと言っていましたが、そうなのですか?」
 ああ、とエディンは懐かしむ目をして視線を上げた。
「そうだな、キャムは覚えてないだろうな。…だからさ、城でいろいろ聞かれたんだけど、返事のしようがなかったんだ。どうやって編み出したのか、とか、精霊との交信があるのか、とか。…ホント、わかんないんだよな、あれができた理由がさ。」
「モンスターに襲われた時にできたみたいだとキャムが仰っていましたわ?」
「ああ、子守してる時に俺が村の外に連れ出したんだ。ホントちょっとした冒険のつもりが大変なことになっちゃって。もう必死だった。キャムは大泣きしてるしさ。怖かったな、あの時は。…キャムを死なせちゃうんじゃないかって、子供ながらに思ってさ…。」
 そう言って遠くを見るエディンの表情に憂いを見て取って、フェリエはその情景に思いを馳せる。
 まだ10歳前後の少年が、モンスターを前に剣を構え、後ろに小さい子供を守る。きっと想像しつくせない恐怖が襲ったに違いない。
 それを切り抜けるために、あの合わせ技は編み出されたのだろう。本人たちの意識の外で。
「あッ…。」
 考え事をしていたせいで、フェリエは自分の指を針でついてしまった。
「大丈夫か?」
「は、はい。」
「血が出てるじゃないか。」
 隠そうと思っていた手を取られ、フェリエは慌てる。
「すみません。大丈夫。大したことはありませ…!?」
 パクッとエディンの口に指が咥えられてしまった。
「あ、あのっ!」
 半ばパニックで手をひっこめると、エディンはフェリエの様子を不思議そうに見やる。
「なめると治るって言うだろ?聞いたことないのか?」
「き…聞いたことは…あります…。…が…。」
 人に傷をなめられるなんて、小さいころに母親にされて以来だ。ましてや異性にそんなことをされるとは思いもしなかった。
 ドギマギして上目使いにエディンをみると、彼はまだ不思議そうに覗き込んでいる。
「…あの…私は…ヒーラーですから…。」
「ああ、そっか。魔法で治せばいいのか。」
 納得した様子にホッとして、フェリエは明るい顔を上げた。
「はいっ。」
 すると覗き込んでいたエディンに顔を寄せるような形になってしまってまた慌てる。
 と、今度は流石にエディンもドキリとした。
 真正面で向かい合った顔をここまで間近で見たのは初めてではないだろうか。
 数秒間呆けて、エディンは静かに言った。
「…フェリエ…。…えっと……手、大丈夫か?」
「はい…。すぐ、…治ります。」
 間近にある彼女の顔はとても綺麗だった。まつげは長くてしっとりとした質感、瞳は潤んで戸惑うように揺れ、頬が微かに染まって、唇は何か言いたげに震えていた。
 湧き上がった何かの衝動を隠すように、エディンは身を起こして背中を向けた。
「あはは、だよな、ヒーラーだもんな。…俺って馬鹿だな。」
「いえ…。小さな怪我にはあまり魔法を使いませんもの。忘れていても仕方ありませんわ。」
 二人で静かに笑って、恥ずかしそうに視線を合わせる。

 部屋のドアは開け放たれている。
 そのドアの外にはキャムが隠れるように立っていた。






「どしたの?キャム。」
 どんより沈んだ顔をして歩いているキャムに、マルタが訊ねた。
「えへへ、別に?ちょっとね。」
 そう答えて、マルタの顔をじっと見るキャム。
「…?なに?やっぱ何かあったの?」
「ううん?…マルタは…エディンのことどう思う?」
 聞かれたマルタは意外な質問に腕組みをして考え始める。「え~?どうっていわれても…いい奴だよね?」
 その様子をホッとして眺め、「だよね。ごめんね、急に。」と言って立ち去った。

 キャムは自分の感情を持て余していた。
 マルタがエディンにくっついていたときは何と思わなかった。いや、焼きもちは焼いたけど、ちょっと違う。文句を言って、引き離せばいいと思っただけだ。結局二人でくっついても、さほど不服じゃなかった。
 でも、なんだろう。…どうしてフェリエは許せないんだろう。
 フェリエにも、マルタに言ったみたいに「エディンにくっつかないで」と言えばいいのに、なぜ言えないんだろう。
 これは焼きもちだ。嫉妬だ。それは分かる。
 でも、この暗い気持ちは何だろう。どうすればいいんだろう。

 何度考えても答えは見えず、キャムは皆の中で笑うことができなくなりそうで、ひとり外へ出た。




「いたか?」
 カードに問われてエディンは首を横に振った。
「…どこ行っちゃったのかな…。」
 夕食時になっても帰らないキャムを心配して、皆で手分けして探しているところだ。
 後ろ振り返りつつ戻ってきたマルタが、ボソッと呟く。
「やっぱりなんかあったのかなぁ…。」
「やっぱりって、何か心当たりあるのか?」
 エディンの問いに、マルタは少し困った顔をして答えた。
「うーん…なんかちょっと…元気なかったっていうか…笑ってたんだけど…泣きそうな顔してた…かな…?」
 朝は元気だった。普通に笑っていたはずだ、とエディンは思い出す。
 何があったのだろうと考え始めて、いやそれよりも今は探すのが先だとまた顔を上げると、視線の先にザイールの姿が見えた。
「…まったく…あのオッサン…。」
 キャムを探してみんな駆け回っているというのに、ザイールは出店で何やら買っていた。もう夕食時を随分ぎてしまったから腹が減ってのことだろうとは思ったが、やはり気に障る。
 近づいてきたザイールに、エディンは思い切り不機嫌な顔を向けた。
「みんなキャムのことを心配してんのに、あんたは呑気だよな。どうせどうでもいいとか思ってんだろ?あんたとは関わりないもんな。」
 へいへい、といういい加減な返事に続けてザイールは言う。
「村の裏手に山への入り口がある。そっちに入ってったのを見たヤツがいた。探しに行くぞ。」
「え?」
 ポン、と買ったものを投げ渡されて、エディンは慌てて受け取った。
「腹減っちゃあ山歩きはキツイだろうが。…あいつも腹減らしてるだろうしな。」
 金は払えと毎度の念押しをして、ザイールはさっさと歩いていく。
 丁度宿の裏手から戻ってきたフェリエは、事態が分からず首をかしげていた。


 村の裏手の入り口には門はなく、村と外を隔てる背の低い柵の一部が人ひとり通れる程度に開けられている。そのすぐ手前の家の前で、薬草の選別をしていた村人がキャムを見たらしい。
「武器もなしに山に入るのは危ないよって声をかけたんだけど、あの子、珍しい武器を持ってたね。ナイフみたいな。『平気だよ』なんて言ってそれを見せたから、2,3匹狩ったら帰るんだよって言ったのにまだ戻らないみたいだから、気になってね。」
 村の子供たちも時折そんな風にモンスターを狩りに出ることがあるらしい。だから特に変だとも思わず見送ってしまったという。
「上の方まで一本道が続いてる。」
「足を踏み外しそうな場所ってのはあるかい?」
「峠のこっちは道の脇にぎっしり木が生えてるから、多分大丈夫だと思うけどなぁ…。」
 教えてくれた村人に礼を言って、山に足を踏み入れた。
 他の道に降りるには峠を超えるしかない。それなりに標高のある山だから、どちらに向かっているにしてもまだ山の中だろう。
「キャムー!!」
「おーい!!」
 呼びながら坂道を上る。
 少し行くと、なだらかになったところが少し開けていて、湧水が流れていた。
「ちょっと水飲んでいい?」
 マルタが皆から離れて綺麗な湧水が流れ落ちているところに走っていく。かがんで手のひらで水を受けたところで、マルタは動きを止めた。
「…これ…。」
 水の中に、鈍く光るものを見つけて拾い上げる。キャムの手裏剣だ。
「エディン!!」
 焦ったようなマルタの呼び声に、エディンも焦りを覚えて駆け寄った。
 カードもその後に続く。
「…手裏剣…使ったってことは、モンスターと出くわしたんだな…。」
 カードが言って茂みの中に視線をやったその後ろで、ザイールはかがみこんで落ちていた木の枝を手に取ってしげしげと見ていた。
 森の一部に踏みつぶされた下草と、耕されたような盛り上がった土が見て取れる。モンスターが通った跡かもしれないと、カードはその足跡らしきものをよく調べる。土が掘り起こされているのは、モンスターが地中にいるのか、もしくは植物系のものか。
「エディン、モンスターは向こうに向かっている。行こう。」
 モンスターと戦闘になったとして、キャムはひとりで深追いするような無謀なことはしないだろう。つまり、異動するモンスターは、キャムに追われて森の奥に行ったのではなく、キャムを追って行ったということだ。
「ったく…面倒くせぇな…。」
 手に取った枝に視線を落としたまま、普段よりさらに低い声でザイールが唸った。
「え?」
「パラサイトオーク。寄生するタイプの植物系モンスターだ。切った跡がある。その手裏剣で斬り落としたんだろうな。…憑かれているかもしれん。」
 エディンは血の気が引いた顔をして茂みの中を振り向いた。
「キャム…。」
「寄生…されているということですか?…助ける方法は…。」
 フェリエは両手で杖を握りしめ、踏みつぶされた下草に歩みを向けた。






 パラサイトオークは、普段はただの木のように見えるという。
 しかし、人間の負の感情に反応して動き出し、それをエネルギー源として取り込もうとする。掴まってしまうと、枝でがんじがらめにされて身動きが取れなくなるのだ。
 助けるのは簡単だとザイールは言った。
 捕まえている枝を切り落とし、キャムを引っ張り出せばいい。この人数があれば問題はないということだ。
「…近いぞ。」
 ズズズという引きずるような音が聞こえる。木の陰から様子を窺うと、巨木が枝をうねらせていた。
「…デカいな…。全員でかかって、気を散らせつつ餓鬼んちょを探すぞ。見つけたら、俺と…お前で中に飛び込む。いいな。」
 エディンに睨むような視線を向け、ザイールは指示をする。あくまで名前を呼ぶつもりはないらしい。
「了解。」
 キャムの身を案じて、今回ばかりはザイールに対する反感は浮かんでこない。


 攻撃をかけるとすぐに、甲高い叫び声が聞こえた。
「…キャムの声…?」
「探せ!!」
「キャム!!返事して!!」
「キャム!!」
 枝や根があちこちで待ち受け、突き刺すように向かってくる。
 その間を縫って走り、キャムが囚われている場所を探すが儘ならない。
「どこだ!キャム!!」
 悲鳴は響き渡ってどこから発せられているのか判別できない。
「ねえ、攻撃すると苦しそうな声聞こえない?…キャム、苦しいのかな。」
 マルタが構えていた弓を下ろしてそう言った。
「油断すんな!!」
 バシンと枝がマルタを撃った。
「そりゃ苦しいだろうよ。寄生されると感覚を共有するらしいからな。」
 言ってザイールは容赦なく剣を振るう。
 また悲鳴が聞こえ、ギリッとエディンの歯が鳴った。
 あっとフェリエは声を上げた。
「あそこです!!キャムがいます!!」
 指さした先は、木の幹の高いところにあるウロの中だ。
「よし!ニィちゃん!!足場になれ!!」
 カードの手を借り、ザイールが高く跳ぶ。
「カード!!俺も頼む!!」
 その後を追って、エディンも跳び上がった。



 迫りくる枝をジャキジャキと斬り落としながらウロまでたどり着くと、キャムが太いツタのような枝に巻かれたままぐったりと項垂れている。
「おい!!餓鬼んちょ!!生きてんだろうな!!」
 キャムの体に張り付く枝を切り落とそうとしたとき、彼女は顔を上げてカッと目を見開いた。
『来ないで!!嫌い!!』
「!?」
 嫌い嫌い嫌いと繰り返し、まるでキャムが操っているかのように枝がザイールを打つ。
「キャム!!どうしたんだ!?」
 キャムの様子がおかしいことに愕然としながらも、エディンは手を差し伸べた。
 しかし、その手もあっけなく弾かれてしまった。
『嫌い嫌い…みんな死んじゃえ!』
 攻撃を防ぎながら様子を伺うが、エディンにはキャムの様子が変だということしかわからない。
「オッサン!!どういうことだよ!!」
「知るか!!」
 ザイールがキャムの間近まで突進し、もう一度キャムを捕まえているであろう枝を斬りにかかった。
 スキをついて切っ先を突き立てる。
『キャアアアアアー!!』
 木が体の一部のように痛みに悲鳴を上げるキャム。
「今だ!!引っ張り出すぞ!!」
 剣をそのままにして、ザイールは腰から短剣を出すとキャムのすぐそばに取り付いて、おおもとの枝を探す。
「どっかに直接こいつに繋がってる枝があるはずだ!!それを斬るんだ!」
「どれだよ!!」
「分からねえなら片っ端から斬れ!!」
 ちくしょう、とボヤキながら、二人はうごめく枝を斬る。
 しかしキリがない。
「どういうこった…、攻撃は効いてるだろうに…。」
 何度も復活する枝に辟易しながら、キャムの体の周りをくまなく見ていると、ザイールは見つけてしまった。
「!!…おい!!退くぞ!」
「なんで…!?」
「いったん退く!!やられるぞ!!」
 訳が分からず、エディンは舌打ちしてザイールに従った。





 湧水の場所まで戻ると、ザイールは口を開いた。
「…まずいことになった。」
「何がだよ!簡単に助け出せるって言ったのはあんただぞ!?」
 いきり立つエディンに視線もくれず、答える。
「…あいつは成木に憑かれたんじゃねえ。…種から育てちまったんだ。」
「種から!?」
 カードが嫌な予感に眉を顰めた。
「種から…だと、簡単じゃないってこと?」
 マルタも不安げにそう聞く。
 ザイールは無言で頷いて、村に足を向けた。
「どうすんだよ!!」
「助けたいなら、頭使え。いったん戻るぞ。」
 助ける方法が分からない今、キャムのところに行ってもできることはない。
 呆れたような息を吐いて歩いていくザイールに、エディンはついていくより仕方がなかった。



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